How do you justify your existence?
(あなたは何をもって自身の存在を正当としますか?)
◆
洗浄と着替えを終えて、コインランドリーをばかりの出たところ。
自動販売機で、ペットボトル式のココアをふたりぶん買った。
購入ボタンがいくつも『売切れ』の点灯に変わっているのは、先ほどから往来にうろうろと見える帰宅難民たちが買って行ったのだろう。
櫻木真乃と
星奈ひかるは、夜空を見上げながらアイスココアの甘さを少しずつ飲み込んだ。
(ここでは自動販売機が使えるのに……)
『それなのに隣の区では』という事実を思い出して、ココアの甘さが苦さに転じる。
どちらも同じ世界であるはずなのに、新宿区と渋谷区の境界を、生きている人達といなくなった人達の境界であるように感じてしまった。
そんな風に思ってしまったことが悲しかった。
人ならざる姿をした災厄のサーヴァント達にかき乱された東京上空は、星があるのに、くすんでよく見えない。
いまだ暗雲に覆われているのか、あるいは新宿周辺の各所で立ち上る黒煙に空気を汚されたのか、
はくちょう座のデネブは、見えなくてもそこにある。ずっと輝いてる。
環境が変わってもキラめいている。
さっき髪を結ってあげた女の子が、そんな風に励ましてくれたのがずいぶん大昔に思えた。
(いけない。そろそろホテルを探さないとね)
(はい……私だと予約を入れられないので、真乃さんにお任せしますっ)
(うん。街中はこんなだし……帰宅できませんっていえば高校生の名前で予約しても怪しまれないよ、ね?)
ココアをカバンの中にしまうため、そして急な宿泊にも対応しているホテルを探すためにスマートフォンを取り上げた時だった。
そこで、チェインにいくつもの通知が届いていたことに気付いた。
家族へと電話するためにスマートフォンを使った時はかける事しか意識しておらず、『かかってきた通知』を見とがめる余裕さえなかった。
そこまで色々なものが見えなくなるほど、疲れと涙は目を曇らせていたらしい。
(ちょっと待って、ひかるちゃん。摩美々ちゃんからかかってきてた)
(えぇ!? アサシンさんのマスターさんの人、ですよね?)
ですよね、とひかるが確認を付けたのは、今しばらく世界で二人きりだったことで麻痺していたのだろう。
まだ陽も明るかったうちから遣り取りしていたのと同じ、摩美々の登録名からの着信。
それも、283の全体トークルームでも、摩美々との個別トークルームによるメッセージでもなく、通話によるものだった。
用心のために電話はできるだけ少なくしようと打ち合わせしたことも遠くに放り投げたかのような、緊急連絡ぶりだった。
こんなに必死に連絡してくるなんて、何かあったのかな。
そんな風に摩美々のことが心配になりかけたけれど。
未応答の着信一件目は、新宿での地震とバス事故からそう時間が経っていない時点でのものだと気付いてはっとする。
これはきっと、心配されていたのは真乃たちの方だった。
今日はもう家に帰りますと遣り取りした後に、明らかに聖杯戦争が関係している災害が起こったのだから。
ちゃんと帰宅できたかどうか、巻き込まれていないかどうかが心配にもなる。
「たぶん不安にさせちゃったと思う。謝って、伝えないとね」
「そうですね。もしかしたらホテルより、お友達のお家の方が近いかもしれませんし!」
ひかるを促し、人目を避ける為にまたランドリーの中へと入り込んだ。
チェインアプリの画面を滑らせ、とにかく無事を伝えなきゃという申し訳なさに動かされる。
そんな風に慌てて動いてしまった後で、『その後に何を言わねばならないか』に直面した。
(心配させてごめんって言ってから…………事情を、説明する。灯織ちゃんと、めぐるちゃんの、ことも……)
よく灯織をいたずらの標的にしていた彼女にも、顛末を伝えることになるのが悲しく。
それを伝えて悲しみを広げることで、ひかるがまた己を責めてしまうだろう理不尽が、やはり許せないままだった。
◆
松坂さとうより今後の指針と連絡先を告げられた際に、
鬼舞辻無惨はその後の予定をぼかした。
人を待っていたが、なかなか迎えが来ないので焦れていると。
それも間違いではない。
しかし、童磨たちの来訪によって、新たな予定が生まれたというのが正確なところだった。
(童磨があのような叛意を見せた以上、もはや『他の鬼も待っていれば馳せ参じる』などとは期待しない)
元より予選期間の段階から、上弦の鬼たちの現界は感じ取っていた。
そして不愉快な来訪によって、童磨がいることは確かめられた。
そして、不当な弱体化を背負わされてしまった支配力の範囲についても、把握させられた。
同じ街(行政区)ほどの距離であれば、上弦の鬼たちの気配を捕らえ、無惨の存在を示すことも可能である。
また、鬼の血筋による感応は、霊体化を果たしていても関係が無い。
それが証拠に、童磨は霊体化したまま移動していても無惨の気配を察知したし、無惨も松坂家に姿を消した童磨が入ってきたことを見抜いた。
つまり、もし『いる』ならば向こうが気配を消していようとも、『近づく』だけで捕捉するに足りるのだ。
現在地にさえ目途がついていれば。
さて、この地において無惨が居所を掴みたい麾下の鬼は二体いた。
上弦の壱・
黒死牟および上弦の参・
猗窩座。
上弦の鬼であれど、童磨をのぞいて英霊となりえるほどの力を持った鬼ならば、まずこの二体に相当する鬼であろうと無惨は読んでいた。
上弦の鬼は下弦よりはるかに入れ替わることが少なく、候補として思い当たる鬼の候補は多くない。
その上で、童磨と遜色ないほどの活動歴、武勇、戦闘力を買って選ぶならば、無惨でもこの二体であろうと見た。
実のところ、英霊としての上弦の参は散り際に鬼舞辻の支配を打ち破ったことを逸話由来の反骨体質として取り込んでいる。
それにより、生前のわずかな例外であった竈門禰豆子や珠代のような者と同等の奇跡を体現したまま現界していたのだが、それを無惨は知りようもなかった。
そしてこの二体は、無惨が数多生み出した十二鬼月の中でも長く存命し、とりわけ“強者との戦い”に対する渇望を持った鬼である。
彼奴らならば、新宿でひと波乱あったと聞けば、中央区で
松坂さとう達がやろうとしていた事を、より鉄火場に近づいた上でやろうとしてもおかしくない。
すなわち、残党狩りも兼ねた強者との立ち会いだ。
強烈な力をこれでもかと誇示するような異常者どもの戦場跡で、自らの足を使った探しものに奔走するなど、平素の無惨であれば愚行だと断じていた。
だが、新宿区に近づくだけで残りの上弦たちの所在が分かるやもしれぬとなれば、無惨の中で損益計算の収支がやや黒字として出た。
際どい所まで近づいて、気配が無いことを検められたらその時点で引き返せばよいではないか、と。
こうして、単独で出発しようとした矢先に。
「鬼舞辻くん、どこに行くの?」
いつもの壊れた笑みで、その女はひたひたと玄関まで付いて来た。
仮にMの使いが邸宅を訪れた場合、この女に対応を任せるのは心もとない。
この女が無惨の意を汲んで、口裏を合わせるかどうかに無惨は信をおけない。
麾下の鬼たちは、いざM一派の寝首をかこうという段に備えて伏せておきたい駒だ。
幸いにも童磨については、その要石である松阪さとうがM一派には会わないと叔母に言ったことから漏洩の恐れはないだろう。
だが、他の鬼たちについても、『バーサーカー君は、お友達を探しに行ったみたいよ』とは告げ口されては不都合だ。
麾下の前に姿を現した際に、己の要石(マスター)はこいつだと明らかにすることは羞恥の極みではあったことも事実だが。
黒死牟や
猗窩座にこの女を見られた時のことを想像して苛立ちながらも、無惨は女を小脇に担いで家を出た。
元より新宿区との区境を越えてすぐの地点で気配探知を行い、当たりがなければすぐに引き返す公算であったために、『マスターという要石を敵性サーヴァントの前に立たせることにやるやもしれない』という危機意識は、彼にしては珍しく薄かった。
何故なら、上弦の壱と参は童磨よりもよほど聞き分けが良く、無惨への臣従が強い。
彼らにも要石たるマスターがいたところで、麾下に加えることはずっとたやすいだろうと見込んでいたし、反抗される想定など無かった。
中央区ならばまだしも被災地の中心である新宿区に進路を向けられるタクシーを捕まえることは容易ではなかったが。
運転手があからさまに女の方に困惑していることや、幾度も迂回をして時間を取られたこともまた不快ではあったが。
新宿区と隣接区の境でタクシーを降りた時点では、すぐに確かめられることだと踏んでいた。
そして、そこで真性の『国すら威する』と言っていい暴と凶の波動に遭遇した。
◆
奈落の帳の下。
役割を持たぬ
NPCたちが仮初に信じている役割のままに、インフラを動しているのだろうか。
枯れ木と枯れた芝生だけが残された新宿御苑の広場を、灯りを就けて右往左往する人影があった。
(本当に、避難所になるのかもしれませんね)
(うん……少しでもあったかくなる人が、増えてくれたらいいな)
ふたたび新宿区に立ち入ることになる、という足労と感傷に対して申し訳ないと謝罪された上で。
田中摩美々に返信をしたところ、直接の電話をしてきた彼女の代理者からは、そこを合流地点に選んだ。
どうしてなんですかと聞き返せば、おそらく避難民キャンプが近く設置されるだろうとのこと。
大量の死傷者、帰宅難民が発生した災害現場の間近に、焼けてはいても面積だけは広い公園があるという現状。
行政から峰津院財閥に開放の要請があるか、峰津院が自発的に門戸を開放するか、どちらかの措置が取られるだろうと。
そうしたら真乃さんもここで泊めてもらえばいいんですね、とひかるは喜んだ。
残念ながら、峰津院のマスターはこの災害を越した首謀者の一人なのでと、にわかに信じられないことをそのサーヴァントは答えた。
二人のいたランドリーからはそう離れていない距離にあり。
曲りなりにもアイドルとして知名度のある
櫻木真乃が来訪して衆人に気付かれてしまえば、峰津院財閥の手の者に狙われるリスクが高いので、キャンプ地が完成しても近づくことはできないが。
全焼したことで、防犯カメラを始めとするセキュリティも潰されており、広場から距離をとった森林地帯の跡に潜めば隠れることは可能。
なおかつ、合流するならば、急ぎ新宿区にも立ち寄る要件ができたという相手方のばくぜんとした要望。
干からびた湖底をサーヴァントの脚で駆ければ、すぐさま『集まってきた帰宅難民に紛れ込む』という一手だけは打てそうな位置取り。
『自らの領地に他主従が紛れ込んだことが発覚したら、峰津院も手を打つ』というリスク込みでも、他の主従から『ここにすぐ火種を放り込むのはリスクが高い』と現時点では警戒されるべき座標。
なおかつ通行人や調査隊を避けられることは計算したポイント。
そういう予測だけは、彼は昔から得意だったという。
摩美々は今いる場所をどうしても離れられない用事があるので、彼だけが迎えに来ると言っていた。
そんな隠れ場所に潜んで、
櫻木真乃は朽ちた木陰で瞳を閉じていた。
疲れてない、と言ったりしたら大嘘だ。
だけど、気が遠くなるというよりは、むしろ色々なことが頭に浮かぶ。
これから悪だと断じられる時がくると予言するように言われた、
古手梨花とセイバーのこと。
あの頃は街のどこも壊れてなかった、
神戸あさひの騒動と
光月おでんのこと。
事務所が狙われているという話から、ずっと移動していたこと。
連絡が来たと思ったら、変わり果てた灯織とめぐるのこと。
屍鬼のようになった人々と、ひかるの心の傷のこと。
次は敵になると、
星野アイとの決別のこと。
それから283プロダクションの事務所で、何があっても信じると言われたこと。
最後に皆に会った時から、
プロデューサーとお別れした事務所の休業日から、真乃はずいぶん変わってしまったこと。
――P.Sまみみ達にできないことは、よろしく。
今の私達は、笑えない私は。
あの人から、摩美々ちゃんから、他のアイドルの皆から顔を見られたら、どんな顔をされるだろう。
「――お待たせしました」
事務所で出迎えられた時と同じ、男性にしては高音すぎるほど透き通った、沁みわたるように静謐な声。
ひかるはほっとして、真乃は半ばどきりとして、それぞれに顔をあげる。
そこにいたのは、陽が明るかった時とはまるでうって変わった男だった。
明るい事務所で和やかに立ち会った紳士の姿とは、すっかり裏表を異なった姿をしていた。
漆黒を纏った男だった。
漆黒で身を固めた男だった。
黒くて丈の長い外套に、黒い紳士服、黒い靴に、黒い錫杖。
眩しいほどに美しかった金の髪さえ、黒いケープに縫い付けられた黒いフードによって覆われ、隠されている。
闇から自然発生したかのように夜と同化する立ち姿で、彫像のように怜悧な顔立ちにある肌の色は体温も無いがごとくに白い。
まるで、太陽の下を歩けない暗躍者のそれだ。
昼間に一度出会ってさえいなければあまりの『影』としての印象に怯えてしまったかもしれない。
むしろ昼の装いこそが、仮の姿だったのだと主張するかのような切なさがあった。
まだ明るいうちに出会ったその人は、穏やかな紳士で、ほっとするような笑顔で。
きっと英霊になる前は多くの人から好かれたんだろうなぁと、そう思わせる人だった。
暗殺者(アサシン)だと名乗った意味を、まったく深く考えないで済むような人だった。
それに何より、瞳が違っていた。
絶望の影をその奥に塗りこめて塗りこめて曇らせたような、深い緋色だった。
悲しみと、労りと、憐憫と、ままならない情動をその奥におしこめている暗い輝きがあった。
いったい何があったんですか。
こっちだって大変な思いをした事さえ脇にどけて、思わずそう聞きたくなる。
「アサシンさん……」
真乃は、どう再会の挨拶をしたらいいのか悩んで。
ぐっと意を決して口を開いた。
「あ、暑くない、ですか……?」
言ってしまったことで、その瞬間だけ空気のぬるさがぐっと増したように思う。
大前提だが、東京の夏である。
ヒートアイランド現象顕在である。
つまり、熱帯夜である。
真っ黒い外套を着て歩き回る男など、金属バットを持ち歩く青少年の比ではないぐらいに珍しい。
「そう言えばそうですね!?」と同じくサーヴァントであるために外気には左右されない
星奈ひかるがはっとした声をあげた。
「これは、ですね。暑苦しく見えてしまったのは、申し訳ありません」
その困ったように口元だけを緩めた笑みだけが、昼間の穏やかさのわずか唯一の面影だった。
「別に変身だの霊基の再臨だのではありませんよ? 生前の仕事着のようなもので。
サーヴァントの中には、最低限の魔力で生前の鎧を編むことができる者もいる、それに類するものだと思っていただければ」
ここは瓦礫の撤去と救助活動にさえ行き会わなければ、人眼などあって無きがごとしの奈落の新宿。
なるほど、冬服の厚着という奇妙さはあれど、それでも闇に埋没する現在の恰好の方が人目を忍んで会うにはより適しているだろう。
「こんな寂しい場所にお呼びたてして、まずは謝罪をしないといけません。
そして、夕食を終えていなければ、こちらをどうぞ」
恰好のことばかりに注目がいって気付かなかったが、そこにはコンビニサンドイッチと、飲料ふたり分で膨らんだ袋を提げられていた。
そんなに目立つ格好で、どうやって手に入れてきたのか。
さっぱり分からなかったし窃盗におよんだとは思いたくなかったけど、誰かに見られるリスクを重く説かれたばかりであることを思えば、少なくとも露見する心配については要らないのかもしれない。
そしてここまで気遣われているという現状に、こちらで起こったことにどこまで察しが届いてるんだろうと思い立って。
「あの、摩美々ちゃんは私達に起こったこと、どのぐらい聞いてますか?」
「貴女が返電した以上のことは何も。地震によってバスが止まり、新宿付近で足止めされているとだけ。
ただ、折り返し私がかけた時に『灯織ちゃんとめぐるちゃんが』と言いさしたことについては、述語がついていなかったのでまだ伝えていません」
そうなんですかと袋を受け取り、後半の言葉が伝わるにつれて心臓がどきどきし始めた。
この人は、真乃がふたりを失ったことをすでに察知している。
それなら何か言わなきゃ、それについて伝えなきゃと思うのに。
あまりに酷いことをされてしまった二人のことを、どこから口にしていいのか分からなくて。
――ひどいことを、するんですか。
先刻、つたなく問いかけたことを、思い出す。
ひどくてもずるくても構わないと、言い返されたことも。
アサシンの闇に合わせたような恰好に、この人の仕事も、もしかして『悪い事』が関わっていたのかな、と考えがぶれて。
「……汚れてもステージに立つって、言われました」
脈絡のない言葉が、口から出ていた。
アイドルではない、ここに来たばかりのアサシンに発するのは、あまりに不親切な語りだったとしても。
「アサシンさん達にかけるよりも前に、電話がかかってきて。
私はその時、みんな酷いことをするんだって思ったから」
星野アイのことは他の主従に言わない。
その約束が、砕けた。
もとより電話で、もう許し合わないと言質はとっている。
「人を傷つけても、ステージに立つ時の気持ちが分からなくて。
それが、傷つけても、傷ついても、隠してステージに立つのが、アイドルの誠意だって」
それでもずるい、と言い返した。
けれど、そんなのアイドルとしていけないだとか、ファンに不誠実だとは言い返せなかった。
アイドルは、ステージで笑顔を届けるのがお仕事だと思っていた。
だから笑顔を奪ってステージに立つのは、できない、と。
それでも、彼女の言葉は詭弁には聞こえなかった。
「誰かのための笑顔って、簡単じゃないです。笑顔を奪われた人だって、軽くないのに……」
ずるい、と思っている。
許せないところまで、来てしまっている。
ひかるには最後までできなかった『病気になった人達殺し』を、その
星野アイのライダーは完遂したという。
それでひかるの心が少しでも慰められたのは、感謝したいことではあって。
けど、それに対して『ありがとうございました』ということは、『あの人達を代わりに殺してもらえてよかった』と認めている事にもなる気がする。
だから、ままならない現実に胸が苦しくなる。
「ちゃんとアイドルの仕事ができたら、許されることになるんでしょうか」
「――いいえ。それだけは、有り得ない」
座り込んだ真乃と、腰を落として目線を合わせて。
緋色の乾いた瞳は言い切った。
ともすれば、真乃とひかるにも刺さってしまうかもしれない言葉を。
しかし、『アサシン』と言われるだけの仕事をしてきたのかもしれない、その人は。
友達がいれば償えるといった、同じ人が。
「苦しいことですが、許せる心が強いのと同じぐらいに、許せない思いだって消えない。
この世界が消えても、己が為したことを覚えている限り、追いかけてくる」
歴史の教科書で見た、西洋の彫刻を思い出した。
その美しい顔に、表情はなかった。
ただ、感情だけはあった。
温度の無い白い相貌から悲し気に伏せがちにされた両の目が、それでも慈しみをたたえていた。
聖女や聖人さんは、こういう顔で皆と向き合うのかもしれない。
そう思わせるような、私情に蓋をして他者を想うときの顔だった。
「だから、それでもその人が笑えるのだとしたら、それは正しい正しくないではない、『強さ』の一つなのだと思います」
意外な言葉だった。
償いについて説かれた時には、この人はなんとなく、ズルい事を続けること自体を認めない人のように思っていたから。
「私が生前に出会った一番の大女優(プリマドンナ)は、己の手を汚す手段を使っても、舞台を降りても、輝いている人でした。
女優だった姿を見たことはありませんが、生きざまがそのまま己の証明になる、そういう女性(The woman)でした」
手を汚しても美しい。
人から笑顔を奪っても誇りだけは持ち続ける。
そういう人がいることだけは、認めざるを得ないとしたうえで。
だからまず、貴女たちにも言わせてくださいと、涙を拭うためのハンカチを手渡される。
「生きていてくれて、ありがとう。まだ手を取り合おうとしてくれて、ありがとう」
「あ……」
彼女たちが互いを支え合いながらかろうじて歩いてきたことだって、罪を背負った重たい脚でも、歩いてきた結果だから。
緋色の双眸を閉ざし、懺悔のように顔を俯かせて。感謝を礼によって表す。
真乃とひかるを送り出してこうなったという結果までも、抱え込もうとするかのように。
自分よりよほど背の高いその人の背中に大きな十字架が見えた気がして。
真乃もひかるも、感傷より驚きがまさって、心持ちが不思議と静かになった。
「そして、もう一つ謝らないといけない。本当なら貴女は心を休めていいのに、私は辛いことを尋ねないといけません」
瞼を開けて瞳をふたたび見せれば、そこには事務所でも垣間見せた怜悧さが灯っていた。
相手の傷を思いやる慈愛と、相手にいくらか無遠慮でも踏み込まねばならない打算が、そのひと時で交錯したかのように。
「汚れてもステージに立つ、その人の名前は、『
星野アイ』ですか?」
どうしてこの人は分かっちゃうんだろう。
夜食を受け取った両手が、じわじわと熱を持った。
◆
計画(プラン)を組むための素材(ピース)は、集まりつつあった。
意図して集めさせたものから、不意に舞い込んできた未知の因子まで、さまざまに。
切り札を切ろうとしたところで、舞い込んできた一報は、後者だ。
仕掛ける一手に繋がるための通話(アポイントメント)を、こちらから仕掛ける。
ジェームズ・モリアーティの手をしばし止めたのは、捜索させていた対象からの着信(レスポンス)であった。
こちらは数コールで応答したにもかかわらず、着信相手は神経質そうな「遅い。何故すぐさま出ない」という一声を放った。
松坂家のバーサーカーとの連絡が繋がった。
それも、バーサーカー自らが携帯端末によってかけてきた。
先に移り住む予定を無視したのはバーサーカーであるにも関わらず、車はどうなっていると詰められる理不尽さをなだめなければ、情報は引き出せない。
その一連をまぁまぁと受け流して、どこにいると確かめれば、それは意外な行先だった。
「……つまり、新宿でただならぬ殺気を放つ『巨大な女性の手』を観測したと?」
手首から先は、硝子張りの高層建築の影に隠れて姿は見えなかったが、あたかも存在を誇示するようだったとのこと。
付近で停車していた報道関係者の車の乗員などは、皆一様に泡を吹いて倒れていた。
こちらには要石の女が呑まれて気絶した程度の被害しかなかったが、やがて唐突に暴力的な圧力が消失し、続いて存在の気配も消えたのを不審に思い立ち戻ったところ、気配の主の姿はなかったとのこと。
『貴様、私が現場の検分もせず落ち延びた腑抜けだと言いたいのか?』
「いや、全くそんなことは無いが」
思わず、モリアーティ教授は社長席から腰を浮かし、摩天楼から眼下の景色を見下ろしていた。
そこには、ただ変わらず奈落の色をした闇深い地盤陥没があるばかり。
そんな暗闇のうちに身をひそめながら、今も破滅を振り撒いた者たちに対応せんとする余波が幾つも蠢いているのだ。
そんな何者かがいるやもしれない暗渠に主従そろって赴いていた理由を、バーサーカーは濁した。
動ける時間のうちに巡回をしては不味いのかと。
松阪邸には既に迎えが着いていると告げれば、なら早く合流させろと現在地を告げてくる。
松阪邸にも電子機器や財産入りの金庫、人間を装うための衣服など私有財産はあるだろうに、それらを移すのはこの際、後でいいと。
粗暴ではあってもいっそ臆病なまでに慎重であるはず、というのが対面したことで見えたバーサーカーの輪郭(プロファイル)である。
よほど手ごたえのある情報でも掴まない限り手間ひまをかけて今の新宿に向かうような性格ではなかったが、『理由を濁した』時点で何らかの伏せ札があることは察せられた。
「ともかく、君が遭遇したという座標(ポイント)については調べさせよう。それこそ居を構える建造物の持ち主も含めてね」
『もし要石(マスター)が保有する拠点での所業であれば、即座にマスターを狙って潰せ。
生前の我が配下であれば即座にそのぐらいの判断を利かせるところだ』
後半の言葉がどれほど的を得ていたものかには敢えて言及しない。
「ああ、君の危機察知能力は鋭敏だ。でなければ規格外の妖異としての生態を持ちながら、討伐者たちの思惑を超えた生存戦略を練ることなどできなかっただろうネ」
『言われるまでもない』
バーサーカーの感覚を侮るどころか信用していることは、事実だ。
あれの生前はおそらく、ひとたび里に下りれば街を奈落ではなく血の海にたやすく変えてしまう類の妖物だ。
そんな生態系の頂点がそれでも『臆病であれている』ということは、それだけの脅威に面してきた経験があるに違いない。
また、バーサーカーの感覚にかなりの信を置いていいというモリアーティの判断は、実際の上でも正しい。
始まりの鬼は、他の鬼たちへの支配力が特に鋭敏ではあったが、鬼以外の気配に対して鈍いわけではない。
配下にあった第三の鬼ほど正確無比の精度ではないにせよ。
襲撃をかけた屋敷の周囲に鬼狩りの柱7人分が接近していることを即座に知れる程度には、相手の闘気を推し量ることができる体質を持っている。
故に、覇気を放った者が、他より頭ひとつ抜けているとか二つ抜けているとか、そういう次元の強さですらないことは嫌が応にも伝わっている。
だが、威圧者の脅威そのものよりも、その地点で『強者である何者かが存在を誇示するかのように、正体不明の威圧行為を行った』という特異性が肝心だった。
新たな数値。新たな証拠。新たな判断材料(ピース)。
不確定要素という変数を塗り替える、たしかな定数。
それが手に入るごとに連合の頭脳は歓喜をもって、盤面の塗り替えを行う。
バーサーカーに送迎者との合流地点をナビゲートしたところで、通話は断ち切られた。
予定外のイベントを挟むことにはなったが、おおまかな対応については変わらない。
デトラネット本社ビルの別室で、急遽日光を遮断できるよう改装したレストルームを作り、受け入れる。
バーサーカーが『こちらは日中動けないのに拠点を同じくできるか』と喚かないよう、並行して新宿区付近以外ですぐに入居できる仮住まいも見繕わせる。
同伴でやってきた松坂女史は、
神戸しおが起きられるようだったら面会させる。
だが、バーサーカーがこちらの不在時に新たな出会いを持ったのやもしれないという違和感をそのままにするつもりもない。
それを確かめるために、複雑な手順や強引な脅迫はどこにも必要ないのだから。
田中一がデトラネット本社ビルに到着したとして、そこで対面させればいい。
『サーヴァントと決別し、替えのサーヴァント候補がマスター不在になるのを待っている』という説明付きで。
もちろん、その男はバーサーカーともそのマスター松坂ともまったくの初対面となる。
しかし
田中一の凡庸さは、モリアーティ自身が解いて聞かせた通りだ。
つまり田中とは、バーサーカーにしてみれば『今のマスターよりはマシ』と断ずることだけはできる男であり。
それでいて、バーサーカーが他に替えのマスター候補と出会っているのならば、ほぼ食指を動かさないだろうマスターでもある。
つまり、
田中一を見て眼の色を変えるかどうかでバーサーカーのマスターがすげ替わる可能性を判断できる。
(その上で、追及するかどうかはしお君の成長経過も踏まえて決めればいい。
彼のマスターが替わってもいいかどうかということは、『レディ松坂が
神戸しおの成長に必要かどうか』ということでもあるのだから)
悪の教授役は、枝葉末節を見誤らない。
切り捨てることも見放すこともするが、明白に『こちらが手を噛まれる展開』だけは回避する。
そもそも
田中一についても、成長性への期待と歓待の意思は示しているが、踏み込みすぎてはいない。
目下離反中であるアサシンとの追いかけっこにおいて、たしかな安全保障まではしていない。
いや、そもそも。
田中の敵連合への穏当な参入を阻むものは、田中のサーヴァントだけではあるまいと半ば断定ぎみに結論づけている。
禪院のマスターは、おそらく
仁科鳥子に入れ込んでいる。
マスターに関してを極力伏せている禪院が、それでも情報が入って来たら教えろというマスターがらみだろう要求を出さざるを得なかったのがその証拠だ。
それが、『新たな同盟者候補は
仁科鳥子を殺そうとしています』などと言われてこのまま動きを見せないとは思えない。
しかし、彼らが水面下で対立を始めた時に、最終的な収拾先として当てにしなければならないのは『敵連合』だ。
- 『仁科鳥子をフォーリナーの眼前で失わせる』ことを前提とするアルターエゴ・リンボの計画に対して、静観すると約束した
- 田中一に対して(リンボの半同席の場であったとはいえ)『リンボのマスター交代』を前提とした経路(チャート)を組むことに同意した。
- 禪院に対して、そのマスターが『仁科鳥子の殺害に反発する』と予想した上で、同盟を持ちかけた。
個々の関係を並べれば、三枚舌どころではなく絡み合っている。
これら三者の要求を全て叶えるなど、こと陣営単位で対立をすることが常態化した界聖杯東京ではもはや絵空事ですらある。
しかし、ただ個々の関係と程よい距離で付き合いながら利益を吸い取ろうという話であれば、さほど労苦は無いことだった。
- リンボには、計画に介入しないと言っただけで、リンボの仲間や協力者に対立しないとまで踏み込んだ約束はしていない。
- 田中一には、切り捨て前提の同盟だと悪魔の契約を交わしている。
- 禪院との同盟関係は、仁科鳥子の保護までを約束したものではない。
そして彼らは一様に、『新宿事変を起こすような者を打倒するには同盟を受けるしかない』という点で連合への期待を捨てきれない。
フリーハンドで『連合にとってもっとも旨味のある』選択肢を出した者を拾えるという主導権を握っているのは、常に敵連合(こちら)だ。
故に、
仁科鳥子たちをめぐる本社ビル周囲の争いには介入しすぎない。
そもそも、いかな知将だったとしても、完璧に確実に嵌め殺そうとしてもなかなか上手くいくものではない。
謀略とは、いつでも軌道修正をかけられるようにしておくもの。
計略(プラン)A、B、Cと用意し、Aが外れたならBに切り替え、Aを再利用する必要が生じたらCの要素を汲み込むと、対応の余地だけは幅広く取る。
成功しようが失敗しようが、結果がどちらに転んでも、それはそれで美味しいように仕込んでおくのが肝要なのだ。
奮起も挫折も自由にやらせ、奇跡が起きてもなお揺るがず。
だが、状況の手綱だけは握っておく。
それが、策士。
――しかし、安全策にばかり気を遣っていては勝てない局面もある。
本当に勝利したいのならば、いつかは賭博(ギャンブル)に身を投じなければいけない。
それは期せずとも、かつて『幻影魔人同盟』の名のもとに二者の魔と人が執念の限りを尽くして『賭け』に踏み切った想いと重なるものがある。
新宿事変を見て『先を越された』と受け取った教え子は、その境地に己を投じると言い放った。
課題(クエスト)。『"割れた子供達(グラス・チルドレン)"殲滅作戦』
死柄木弔の完成を見届けるまで、己もまた死ぬつもりはない。そのはずだった。
だが、そうではないだろうと若者の姿を見て改める。
活を見出すとは、たとえ己の命を懸けることになっても、それの上でなお生き延びようとすることだ。
(それでは、巣を編み上げよう)
携帯ゲーム機で一人遊びに興じる己がマスターを横目に、モリアーティは思い描く。
奈落の中で、最後の一組として立っている深淵の光景を。
いつ、どこで仕掛けるのが最適であるかを。
そしてまた。
『もう一人』もまた、同じ深淵を見つめているか否かを。
「Mさん」
ノックの音がした。
内線も人づてによる取り次ぎも、何もなかった。
入室した闖入者は、『"割れた子供達(グラス・チルドレン)"殲滅』に当たって、標的を知る者としての重要さを増した主従。
「悪いけど、お話はいったん後回しでいいかな?」
星野アイと、そのライダーが入室許可さえ待たずに老教授の眼前まで歩いてきた。
彼女たちには、バーサーカーが連絡を入れるより以前の段階で『課題(クエスト)』が決定したことを内線ごしに伝えてある。
だが、今の彼女が神妙な面持ちを、むしろ、どこかこわばった顔つきを見せているのは、それが原因であるはずがない。
なぜなら策士として敵うべくもないモリアーティのような者を相手にしてでも、態度の上では強気に、したたかな顔を見せ続けるのが彼女であったはず。
「私の電話に知らない男の人から電話がかかってきて、『教授に繋げ』って言ってるんだけど」
彼女はその傍らに、己のサーヴァントを伴っていた。
その眼は、『これはお前経由で転がり込んでいたトラブルなのか』と勘繰るような疑念を孕んでいた。
彼女はその手に、己の携帯端末を持っていた。
その画面は、通話中のそれを表示し、通話相手の電話番号はまるで見覚えのないものだった。
「ほう。そのような場合のはぐらかし方は試したのかね?」
簡単に連合の元締めにたどり着かれないための予防線をモリアーティは引いている。
既にして、
神戸あさひの件で『蜘蛛』という扇動者の影が多くのマスターに認知されたのだから。
当てずっぽうやハッタリで『さては蜘蛛の手の者だろう』と同盟者が問われる懸念はあったし、そのための応答は伝えていた。
だが、その防衛線を通過せざるを得ないと、この主従が判断した根拠とは。
「『貴女達の教授は、貴女が二重同盟を結んでいた
櫻木真乃との連絡先を使うつもりでいる。その手間を省きませんか?』って」
星野アイの先刻までの内情をすでに掴んでいることを示した上での、Mもまた無視できないはずだという正確な推察。
「ほう」
差し出された携帯端末に対して。
老年の犯罪紳士は、意外な驚きに満ちた微笑を浮かべた。
【新宿区付近(中央区へ引き返す途中)/一日目・夜】
【バーサーカー(
鬼舞辻無惨)@鬼滅の刃】
[状態]:肉体的には健康、精神的には不快の絶頂
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:数億円(総資産)
[思考・状況]基本方針:界聖杯を用い、自身の悲願を果たす
0:松坂邸にやって来た迎えと合流し、『M』の本拠へと向かう
1:あの謎の『腕』についてはMを露払いに使わせればいいか。
2:
松坂さとう達を当面利用。
3:『M』もといアーチャー達との停戦に一旦は合意する。ただし用が済めば必ず殺す。
4:マスター(さとうの叔母)への極めて激しい嫌悪と怒り。早く替えを見つけたい。
5:
神戸あさひはもう使えない。何をやっているんだ貴様はふざけるなよ私の都合も考えろ
6:童磨への激しい殺意
7:他の上弦(
黒死牟、
猗窩座)を見つけ次第同じように呼びつける。
※別れ際に
松坂さとうの連絡先を入手しました。さとう達の今後の方針をどの程度聞いているかは任せます。
※ビッグ・マムが新宿区近くの鏡のあるポイントから送った覇王色の覇気を目の当たりにしました。
具体的に何処で行っていたかは後続の書き手にお任せします。
【本名不詳(さとうの叔母)@ハッピーシュガーライフ】
[状態]:健康、気絶
[令呪]:残り3画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]基本方針:いつもの通りに。ただ、愛を。――ああ、でも。
1:さとうちゃん達に会ったことは、内緒にしてあげなきゃね。
【ライダー(
殺島飛露鬼)@忍者と極道】
[状態]:健康、魔力消費(小)
[装備]:大型の回転式拳銃(二丁)&予備拳銃
[道具]:なし
[所持金]:なし
[思考・状況]基本方針:アイを帰るべき家へと送迎(おく)るため、聖杯戦争に勝ち残る。
0:ボスに似たお人ってのは二人もいるもんだな…
1:アイの方針に従う。
2:M達との協力関係を重視。だが油断はしない。厄(ヤバ)くなれば殺す。
3:ガムテたちとは絶対に組めない。アイツは玄人(プロ)だからだ。
4:アヴェンジャー(
デッドプール)についてはアサシンに一任。
[備考]※アサシン(
伏黒甚爾)から、彼がマスターの可能性があると踏んだ芸能関係者達の顔写真を受け取っています。
現在判明しているのは
櫻木真乃のみですが、他にマスターが居るかどうかについては後続の書き手さんにお任せいたします。
【
星野アイ@推しの子】
[状態]:健康
[令呪]:残り三画
[装備]:なし
[道具]:なし
[所持金]:当面、生活できる程度の貯金はあり(アイドルとしての収入)
[思考・状況]基本方針:子どもたちが待っている家に帰る。
0:もしかしてわたし達、何かやらかした?
1:ガムテ君たちについては殺島の判断を信用。
櫻木真乃についてはいったんMに任せる。
2:敵連合の一員として行動。ただし信用はしない。
3:あさひくん達は捨て置く。もう利用するには厄介なことになりすぎている。
[備考]※
櫻木真乃、
紙越空魚、M(
ジェームズ・モリアーティ)と
の連絡先を交換しています。
※グラス・チルドレンの情報をM側に伝えました。
最終更新:2022年01月28日 22:56