富士宮江哲

富士宮江哲(ふじのみやこうてつ、1802年6月-1858年8月8日)は、日本の洋学者宮中官僚

来歴

系譜

富士宮家は、当世円応天皇から数えること5代、格行天皇の第6皇子富士宮亨仁親王のために創設された宮家である。1770年の皇籍令公布で8宮家から外されると、翌1771年に臣籍降下、所領である三河天竜藩を返上したため、他家と異なり宮号取上を免れた。そのため、現在に至るまで宮の文字を家名に残している。後、正四位富士宮家として今日に至る。皇籍令の影響で、多くの旧宮家が近衛府の名誉職を務める中、祖父の富士宮鳴竹公は、中務大輔として実務に参加し中央政治に発言力を持っていた。

生い立ち

富士宮江哲は、家中が平穏を取り戻した1802年に京都宇治南地の富士宮別邸(現在の富士宮侯爵旧邸)で生を受ける。祖父の富士宮鳴竹から漢詩や和歌を学んで教養を身に着け、幼くして当世一流の文化人と呼ばれた国文学者の大竹華彦に和歌を師事。若くして文化人としての才能を開花させる。1809年の歌会始では、当時6歳という幼年でありながら召人として披講を務める。この経験から、宮中にその名を知られる。1813年より、大学寮修学徒として翻訳方に入り、森部久興正四位・翻訳方主教授)から洋学を学ぶ。この時期には、ロシア語ポルトガル語の言語機能に関心を向け、宮中の書陵部翻訳方書官としてに出仕していた但見博篤(従五位上)の知遇を得る。

大学寮出仕

1818年の末に大学寮翻訳方講究官に就く。在勤中、中務寮の求めに応じて洋書の翻訳を担当。内容や分野は、数学や哲学、医学などにも及んだ。その一方で、急速にアジアへ進行する欧米各国の動向を観察し、国内の近代化を積極的に行うべきだと進言する一幕もあった。1823年、従六位上大学寮翻訳方助教を与えられる、朝廷の勅使としてロシア帝国にわたる。ロシア皇帝センチェーリ二世に拝謁が叶うと、ロシア帝国との国交関係を確認。その後、ロシア帝国モストヴィーネ法科学校で法律学を聴講。半年ほど学生として学んだ後、帰国の途に就く。帰国の折、ロシア帝国を横断する幹線軌道の存在を確認し、レールを走る馬車の存在に関心を寄せる。1925年の春に先住民族がすむ、アムール地方樺太を経由して松前藩に入る。松前藩では、松前城城代家老の伊東治左衛門と対面し、日本北部の政治情勢などを確認。以降、半年かけて諸藩を巡り、大学寮助教として諸藩の藩校で講義を行うなど活躍した。

書陵部出仕

1825年の末、大学寮を離れて宮中へ迎えられる。従五位下を賜り、書陵部外務方主官となる。この役職は、急接近する外国との交渉を宮中官僚として天皇の命を受けて直接的に行うものである。欧米各国がアジアへ支配の触手を伸ばすこの時期になっても、中務寮では、対外政策を行うことを極端に忌避していたという証左でもある。
最終更新:2025年08月23日 10:48