富士宮江哲(ふじのみやこうてつ、1802年6月-1858年8月8日)は、日本の
洋学者、
宮中官僚。
来歴
系譜
生い立ち
富士宮江哲は、家中が平穏を取り戻した1802年に京都
宇治南地の富士宮別邸(現在の
富士宮侯爵旧邸)で生を受ける。祖父の
富士宮鳴竹から漢詩や和歌を学んで教養を身に着け、幼くして当世一流の文化人と呼ばれた国文学者の
大竹華彦に和歌を師事。若くして文化人としての才能を開花させる。1809年の
歌会始では、当時6歳という幼年でありながら召人として披講を務める。この経験から、宮中にその名を知られる。1813年より、
大学寮の
修学徒として翻訳方に入り、
森部久興(
正四位・翻訳方
主教授)から洋学を学ぶ。この時期には、
ロシア語や
ポルトガル語の言語機能に関心を向け、宮中の書陵部翻訳方書官としてに出仕していた
但見博篤(
従五位上)の知遇を得る。
1818年の末に
大学寮翻訳方
講究官に就く。在勤中、
中務寮の求めに応じて洋書の翻訳を担当。内容や分野は、数学や哲学、医学などにも及んだ。その一方で、急速に
アジアへ進行する欧米各国の動向を観察し、国内の近代化を積極的に行うべきだと進言する一幕もあった。1823年、
従六位上大学寮翻訳方
助教を与えられる、朝廷の勅使として
ロシア帝国にわたる。
ロシア皇帝センチェーリ二世に拝謁が叶うと、
ロシア帝国との国交関係を確認。その後、
ロシア帝国の
モストヴィーネ法科学校で法律学を聴講。半年ほど学生として学んだ後、帰国の途に就く。帰国の折、ロシア帝国を横断する幹線軌道の存在を確認し、レールを走る馬車の存在に関心を寄せる。1925年の春に先住民族がすむ、
アムール地方・
樺太を経由して
松前藩に入る。松前藩では、
松前城城代家老の
伊東治左衛門と対面し、日本北部の政治情勢などを確認。以降、半年かけて諸藩を巡り、大学寮助教として諸藩の
藩校で講義を行うなど活躍した。
1825年の末、大学寮を離れて宮中へ迎えられる。
従五位下を賜り、
書陵部外務方主官となる。この役職は、急接近する外国との交渉を
宮中官僚として
天皇の命を受けて直接的に行うものである。欧米各国が
アジアへ支配の触手を伸ばすこの時期になっても、
中務寮では、対外政策を行うことを極端に忌避していたという証左でもある。
最終更新:2025年08月23日 10:48