堺雅之

堺雅之(さかいまさゆき)〈1935年8月ー1982年9月〉は、日本の投資家、投資顧問、経営者。

来歴

1935年8月、新潟県出身。地元柏崎では名の知れた豪商で、柏崎地域の10世帯に1世帯は、堺家の土地に住むと呼ばれるほどの土地持ちだった。戦時下の小学校時代を送り、将来は軍人になって国家に奉公すると決めていた。しかし、1945年8月に終戦、1947年6月には農地法制定に伴って、国家的な地主制度解体の影響を大きく受けた。それでも、医薬品販売業の売上があって新潟県下でトップ10に入るほどの高額納税者だった。

上京

中学校3年時に兄の上京に付いて自らも東京の中学校に転校。旧制一高である東京大学附属高等学校へ進学。高校在学中に、先輩の誘いで街金の東洋産業金融に出入り。紹介営業などでキックバックを得ていた。小遣い稼ぎ程度であったが、1953年に発覚する「東洋クラブ事件」で警察からの事情聴取などが行われる。最終的に、少年法により釈放されるが、高校を放校処分になる。

学生時代

同年、早稲田高等学校に進学して、こちらを3年で卒業。早稲田大学政治経済学部へ進学する。早稲田大学でも、学びを得るとまでいかず、根っから国際情勢などに関心を持ち6年かけて中退。大学中退後、永田町に影響力を持っていた永田勤王党大島弥子八郎に付いて右翼活動に熱中。仕手株の取引などで党の資金獲得を支え、個人名義でも株資産を複数保有。1970年に永田勤王党が倒れると、政治への関心を失ったため、個人の投資家として活動。

投資家

暴力団などをバックに持たない中で、株情報について発信。株式情報誌として有名だった「投資月報」へも連載を持つなど投資作家で有名となった。ある時期を境に、「兜町の仕手王」という異名がつく。この時期、暴力団の後ろ盾を持たなかったことから、多くの団体から迷惑をかけられるなど身の危険を感じたため、投資組合ワンワールドを設立して組織化。多くのタレントやスポーツ選手、文化人などの著名人を顧客に持ち注目を浴びた。

企業投資家

1975年には、投資情報誌の「株のお告げ」を発行してポジションを取る。出版業などを法人化していたが、1979年に、投資顧問会社のワンワールドアライアンスを創業。国内外に顧客を得て順当に成長。同年、愛知自工のホワイトナイトとしてその活躍が世間でも認められる。これまで、従業員数は自身を含めて全法人で10名にすら届かず小規模体制のままであった。1980年に、コンピュータゲーム開発会社のホライズンを設立し、同社の代表を兼任。東大工学部卒の新卒社員を破格の給与で20人雇い入れたが、事業が軌道に乗らず失敗。のちに、「社会実験のようなものだった」と語っている。

順調に成長していたが、1982年に新宿で飲んでいた帰り道、路地裏で暴漢に襲われて生死の境を彷徨う。集中治療が試みられて話せる状態になったものの、2週間と持たずに絶命。

後世

社長命令で、オクラホマ州立大学に留学していたホライズン大川さえ戸畑四郎オックスフォード大学に留学していた疋田礼司がそれぞれ帰国。遺言の通りに、それぞれが経営幹部の役職に就いた。堺の長男である堺屋彦が投資組合を含めた関連事業の株式を全て扱う、「堺財団」理事長に就任。次男は、名前を伏せられていたが「堺かねひこ」の名前で、堺財団専務理事、ホライズン代表執行役員に就いた。長女の堺さやかも、投資月報社代表取締役社主兼会長に就任。堺は、隠し子が多かったとされ、堺の姓ではないものの、若い経営幹部が多かったことなどが言われている。
堺の正統後継者と言われていたのが、大川さえと戸畑四郎の2名である。大川は、コンピュータ発展の基礎となるとして自社検索エンジンのワンワールド開設に技術部門・営業部門ともに力を注いだ。戸畑は、金融や資金運用事業に力を注ぎ、投資組合のワンワールドを組合理事長として継承した。疋田は、堺財団常務理事を経て、ホライズン代表取締役社長に就任。後々の事業精算まで担当した。
最終更新:2025年09月22日 11:07