第7話「天秤の量り手《アストライアー》」
11月2日 午前中
テキストと
イルミナティ対策チームが拠点とする高級ホテルの最上階フロア。
そこで持蒲とイルミナティ対策チームのハーティはそれぞれが持ち寄った情報を提供し合い、イルミナティと
尼乃昂焚の目的について考察する。他のメンバーは死人部隊の監視の元、学園都市各所に探索術式を展開する準備に出た。持蒲との会議は本来、チームリーダーであるクライヴの仕事なのだが「話し合い系の仕事はお前の方が得意だろ。適材適所ってやつだ。」とのこと。
ハーティの主な役割は尋問と拷問であり、会話と言うより一方的な情報搾取である。この人選は「学園都市はまだ何か隠しているかもしれない。お前の話術でさり気なく情報を手に入れろ。」というクライヴの意思が汲み込まれているのかもしれない。
テキスト側も超城は新たな死人部隊の補充のために組濱のところに向かっている。星嶋は休んでおり、岬原は現在、使い物にならない。全崩は死人部隊と共に尼乃昂焚の尾行を行っている。
「さて、イルミナティが何を目的に動いているか。ここは最新技術の宝庫である学園都市だ。彼らが狙うものが“多過ぎて”逆に目的が分からない。同じ魔術師として、心当たりは?」
持蒲の問いかけに答えたのはハーティだ。
「学園都市に侵入する“一般的な”魔術師の目的はだいたい2つね。『
科学サイドの総本山である学園都市の崩壊』と『禁書目録《インデックス》』。」
――――禁書目録(Index-Librorum-Prohibitorum)
10万3千冊の魔道書をその身に宿した“魔神”
必要悪の教会に所属する魔術師にして、完全記憶能力で10万3千冊の魔道書を記憶したシスター。イギリス清教と学園都市の友好の証として学園都市に身を置いていると言われているが、その実、禁書目録の護衛を学園都市と保護者である幻想殺し《イマジンブレイカー》上条当麻《カミジョウ トウマ》に丸投げしたのではないかと囁かれている。実際のところ、禁書目録を狙う魔術師たちの矛先は学園都市に向かい、そしてそれらを打ち破って来たのは“幻想殺し”上条当麻だった。
「第三次世界大戦の終戦と同時に幻想殺しこと上条当麻が行方不明になっている。タイミングを考えれば、幹部の中には禁書目録を狙う奴もいるだろうな。」
「けど、相手は“異端”のイルミナティ。自らの欲望のためなら科学技術も容易に手を出す。だから、相手の目的が分からないのでしょう。」
「そうそう。ハーティちゃんの言う通りなんだよね。一応、禁書目録には護衛を付けているよ。蚊ぐらいの大きさの超小型の自立飛行監視ユニット。それを彼女の周囲をうろつかせている。勿論、本人には伝えていないよ。」
「けど、薄々、感じていているとは思う。歩く教会があるとはいえ、ステイル=マグヌスと神裂火織《カンザキ カオリ》から1年も逃げ続けた彼女ですから、その辺りの勘は鋭いでしょう。」
「まぁ、見た限り気付いたからどうこうしようと思うほどの気力も無いようだけど・・・。あまりにも可哀想で、見ているこっちがどうにかなりそうだよ。仕事とはいえ、他人のプライベートを監視するのは良い気分じゃないね。」
「意外と甘い性格なのね。学園都市の“暗部”なんていうものだから、もっと割り切っているのかと思ってました。」
「暗部には身を落としたけど、悪党になったつもりは無いよ。確かに、甘ちゃんとはよく言われるけどね。」
突如、持蒲のスマホに連絡が入る。
「ちょっと失礼。」
持蒲はスマホを手に取り、誰かからの電話に応対する。
「俺だ。・・・・・おい。それはどういうことだ。そんな話は聞いていないぞ。・・・・・・・分かった。・・・・・・・・・・・・・・・いや、それはこっちの指示じゃない。あいつの独断行動だ。・・・・・ああ、俺からもきつく言っておく。」
怒ったり、困ったり、頭を抱えたり、そしてまた怒って、何度も表情をコロコロと変えながら持蒲は会話し、電話を切った。
「どうかしたのかしら?かなり焦っているようですね。」
「敵に動きがあったようだ。第七学区でリーリヤ・ブィストリャンツェヴァが
神道系の魔術師と交戦、それとウチの下っ端が独断で尼乃昂焚に襲撃を仕掛けた。」
「神道系?それで、結果は・・・」
「リーリヤの方は引き分け。神道系が取り逃がしてしまったそうだ。尼乃の方は・・・ウチの部下が喫茶店のメイド相手に全滅した・・・らしい。」
「は?」
ハーティは唖然とした。尼乃昂焚に全滅させられたのなら分かる。だが、喫茶店のメイド相手に全滅・・・訳が分からない。祖国イギリスのメイドにそのような戦闘能力は求められていないし、戦闘は彼女たちの役割に含まれていない。
その時、ハーティはジャパニーズメイドのバイオレンスさを知った(勘違いした。)
(ヴィクトリアへの土産話が増えたようね・・・)
「ところで、神道系の魔術師が何故、学園都市に?」
「おそらくと言うか、ほぼ確実に皇室派の奴だろうな。あそこには外交上手な女狐が一人いるんでね。統括理事会のオッサン共でも丸めこんで、正規ルートで魔術師を入れたようだ。」
「でもイルミナティの幹部と交戦したってことは・・・」
「少なくとも、俺たちの敵ではないわけだ。しかし、神薙は学園都市の利益を皇室派に還元させることに腐心しているし、それを実現する外交手腕がある。敵ではないが、手放しに信用できる相手じゃない。」
科学サイドの総本山があり、同時に太古の昔から続く魔術結社が数多く存在する日本、表向きは科学サイドでありながら国家の根底には古から続く魔術が深く根付いている勢力の均衡は魔術一色の英国育ちのハーティには複雑に思えた。
* * *
かつて、恵みの大地というお洒落な喫茶店が“あった”場所。爆撃跡地の如く、壁は吹き飛び、窓ガラスも屋根も消え去っていた。そして、数多くの死人部隊が本当の死人の如く倒れ、全崩も鋼加を前に完全にひれ伏していた。その中で店長の芽功美は乾いた笑みを見せ、万桜は気絶した状態で鋼加に担がれていた。
そして、その光景を前に4人の女子中学生が唖然としていた。
ブルーと紺のチェックの入った短めのスカート、ベージュのブレザーに大きな赤いリボンが特徴の制服、名門お嬢様学校で有名な
常盤台中学の冬服だ。しかし、その4人からはお嬢様オーラが全く出ておらず、その出で立ちはお転婆娘のものだ。
「恵みの大地がオープンカフェに改装されちょるばい!」
そう叫ぶのは
銅街世津《アカマチ セツ》。常盤台の野生児と呼ばれる少女だ。小麦色の肌に茶髪のベリーショートヘアー。中性的な顔立ちであり、服装次第では少年に間違われそうだ。胸は中学生にしてはかなり豊かであり、制服を着崩している。
「学園都市の建設技術って凄いね~。晴ちゃん。」
そうのんびりとした口調で喋るのは
銀鈴希雨《ギンレイ キサメ》。身は158cm。胸あたりまでの黒髪で前髪は切り揃えている。胸も銅街ほどではないが、そこそこある。微笑んでいるような目をしており、それ以外の表情が読みにくい。ごく普通に常盤台の冬服を着こなしている。
「いやいや!違うでしょ!どう見ても爆撃跡でしょ!これ!」
常識的なツッコミを入れるのは
金束晴天《コヅカ セイテン》。金髪のショートカットに茶色の瞳。肌は色白で身長は一六〇センチ弱。銅街とはまた別の方向でボーイッシュな印象を受け、スカートの下にスパッツを穿いている。
「ア、警備員!警備員を呼ぶですー!」
おもむろに携帯電話を取り出そうとして慌てる
鉄鞘月代《テツサヤ ツキヨ》。低い身長に灰色がかった黒髪を後ろで三つ編みにしており、フレームのない眼鏡をかけている。色白の肌をしており、インドア派な印象を受ける。制服にキッチリ着ており、模範生の鑑の様な少女だ。
「警備員です。危ないのでさがって下さい。」
恵みの大地(の跡地)付近に着いた警備員のトラックから、完全防護の特殊部隊のような格好をした大人たちが姿を現す。この街の教師によって構成される治安維持組織、警備員《アンチスキル》である。
「犯人確保!」
「全員、トラックに積み込め!」
「お怪我は無いですか?」
「スキルアウトに襲撃されるとは、災難でしたね。」
「後続の部隊が被害報告などの手続きを行いますので、このままお待ちください。」
一切の無駄が無い迅速な動きで倒れている死人部隊と全崩を回収すると、そそくさとその場から撤退していった。
「な・・・・何?そのまま放置!?あんたらそれで警備員か!」
「ありゃあ、お役所仕事じゃ。」
あまりにもあっさりとした警備員たちに金束たち常盤台バカルテットは唖然としていた。
「でもあの人たち、何か薬品臭かったです。」
「きっと理科の先生なんだよ~。」
「そうそう。こういうのはあんまり気にしない方が良いよ。」
(そう・・・ですよねぇ。)
鉄鞘の能力“絶対嗅覚《スメルサーチ》”が捉えた臭いはただただ違和感を残すだけだった。
全崩と死人部隊を入れたトラックの中、助手席にいる警備員は携帯電話を取り出した。
「こちら、デッドマン1。全崩零と死人部隊を全員回収しました。」
ヘルメットの下から見える無機質な表情。それはまさしく、テキストの死人部隊のものだった。彼らは超城によって指示された死人部隊だ。全崩と彼の死人部隊を回収した迅速な行動も、芽功美にケガが無いか聞いた気遣いのある行動も、その全てが超城によって“命令されて”やった行動だった。
* * *
第七学区の人通りの少ない路地裏。そこで食欲を促す香りが漂い、足を踏み入れた者たちを次々と誘う幻のラーメン屋。
「
百来軒《ひゃくらいけん》」
福百紀長《フクモモ キナガ》という女子高生が単独で経営する屋台のラーメン屋だ。学業の関係上、土日・祝日のみ営業している。ラーメンの味は絶品だが周一で営業場所を移動しているため、見つけようと思ってもなかなか見つからない。巷では幻のラーメン屋として半ば都市伝説のような存在になってしまっている。そのため彼女のラーメン屋台に通いたければ、インターネットの掲示板の目撃情報を頼りにしたり、紀長自身から次の営業場所を聞く必要がある。
店長の福百紀長は黒髪のショートヘア、前髪はオールバックにしてカチューシャで止めている快活な少女だ。屋台にいるときは、上下のつながった黒いジャージを着て、エプロンと三角巾をしている。
その向かいの席に座る客は2人だけだ。小動物のような容姿をした智暁、そしてラテン系美女のユマである。智暁はしょうゆラーメン、ユマは紀長の薦めでとんこつラーメンを頼んだ。中南米で生まれ育ったなら、やはり南の方のラーメンが口に合うだろうという予測でチョイスした。
紀長は智暁と和気あいあいなガールズトークを繰り広げ、ユマはラーメンを食べていた。
「いやぁ~、まさか外国の人にウチのラーメンを食べさせる日が来るなんて思わなかったよ。」
「いやいや、私もまさか偶然、あの百来軒に出会えるとは思いませんでしたよ。」
「ところで、智暁さんとそこのユマさんだっけ?どういう関係なの?」
「濃厚とんこつスープのようにドロドロに爛れた禁断の―――――――「んなわけないだろ。」
妄想を爆発させる智暁の頭にユマの制裁が下される。
「ちょっと助けて、助けられての関係だ。」
「そして、互いに愛―――――――痛い!まだ何も言ってないですよ!」
再び、智暁の頭にユマからの制裁が下った。
「で、お前の言ってた・・・え~っと、
姫野七色だったか?そいつの曲が昂焚のプレイヤーに入ってただけで、昂焚の行先が分かるのか?」
「はい。姫野七色のファンで、このタイミングで学園都市に来たのなら、多分これに行くと思うんですよ。」
そう言って、智暁はスマホを取り出し、それを操作してあるウェブサイトを開く。それは姫野七色が所属する事務所のホームページであり、堂々と大きく姫野のトークショー&ライブの告知があった。
「今日の夜、彼女のトークショーとライブがあるんですよ。もしかしたら、ここに姿を現すんじゃないかなぁーと・・・まぁ、絶対とは言えませんけどね。」
「なるほど、よくやった小動物。」
「じゃあ、お礼にユマさんのおっぱ―――――――ヴェプォ!!
「私の身体を弄んでいいのは昂焚だけだ!」というユマのセリフと共に智暁の頭に制裁が下される。
「う~。一回だけ!先っちょだけでも良いから!」
どこぞの変態オヤジの如く懇願する智暁。そして、それを当然邪見にあしらうユマ。そんな2人のやり取りの中、紀長は新しい客が来たのに気付いた。
「あ、いらっしゃい!」
「塩ラーメン、ネギ多めで頼むぜ。」
「はいよー!」
来店した客は男性だった。智暁は誰が来たのか、何となく気になって客の方を振り向いた。
「「あ!」」
そこにいたのは軍隊蟻のメンバー、逃走路確保の達人である
煙草狼棺《ケブクサ ロウカン》だった。
金髪モヒカンで痩躯の高校生だ。口が悪く、いかにもスキルアウトといった容姿と格好をしている。いつもガムを噛んでいるらしいが、さすがにラーメン屋でガムを噛むような非常識な行動は取らない。
* * *
第七学区 とある病院
診察室で2人の男が向かい合って座っていた。一方は斑孤月、もう一方は彼と
神谷稜の担当医である。2人、特に稜の方は何度も彼のお世話になっており、彼の前では頭が上がらない。
白衣を着た初老の男性で、子供受けの良さそうなカエル顔の医者だ。
冥土返し《ヘヴンキャンセラー》、患者の天国行きをキャンセルさせるとまで言われる彼の医師としての腕前は数多くの荒事に関わる人間達に重宝されている。
冥土返しは電子画面に映された人間の頭がい骨のレントゲン写真、CTスキャン、他にも諸々の素人には理解できない画像を見つめていた。
「ふむ、精密検査の結果、どこにも異常は無いみたいだね?このまま退院しても大丈夫そうだね?」
「ありがとうございます。では、自分はこれで。」
狐月が椅子から立ち上がり、診察室を出ようと冥土返しに背を向けた。
「部屋に着いたら、神谷くんを診察室に呼んでくれないかい?」
「分かりました。」
狐月はそう答えると、診察室を出て行った。
あの戦いが昨日の出来事であるにも関わらず、身体は全快のようだ。階段を使って上の階へと行く。エレベーターを使った方が楽で時間も短縮できるのだが、狐月は考える時間が欲しくてわざわざ階段を使った。
(昨日の戦い・・・結局、私は無力だった。不意打ちとは言え、最初の一撃で倒れ、不意打ち返しに放った風の弾丸も容易く弾かれた。)
稜がエースとして、剣神として、神谷稜個人として、昨日の敗北が屈辱的だったように、エリートを自称する狐月としてもあれは屈辱的だった。応戦出来た稜とは違い、彼は一方的にやられて敗北したのだから、おそらく稜の比ではないだろう。
(最初の一撃、それにいち早く気付いたのは神谷だった。質疑応答をしていたのが私だとはいえ、あれに気付けなかったのは不覚だ。あの時、あいつはあの男の危険性に気付いていたのかもしれない。悔しいが、エリートの称号を返上しなければならないかもな・・・。)
自らのアイデンティティーである“エリート”を手放す。それは自らの否定に等しかった。
狐月が階段を登り終え、自分たちの病室に向かっていたが、病室の前に一人の女性が立っていることに気付く。それは狐月がよく知る人物であった。
身長158cm、胸はやや慎ましやかで、胸のあたりまで伸ばした少し青色混じりの黒髪をポニーテールにしている。ややツリ目で顔立ちは整っており、美人に分類される。
鏡星麗《キョウボシ レイ》。稜と狐月が所属する風紀委員一七六支部の同僚だ。
「何でここにいるんだ?確か、綺羅川先生が面会謝絶にしていた筈だが・・・」
「支部を代表して私が来たのよ。あんたら残念イケメン共が入院したから、パトロールついでにお見舞いに来てやったっていうのに・・・思った以上に大丈夫そうね。」
「私は今日で退院だ。稜の方は分からないが、それほど酷い怪我じゃない。」
「そう・・・・ところで・・・」
麗がずいずいと狐月との距離を縮め、彼の襟元を掴んだ。
「あんた達を倒した男って・・・イケメンだった!?」
麗は生粋の面食いであり、イケメンが犯人であればわざと取り逃がしかねないほどだ。今のところ、それをやったことは無いが・・・。
こんな状況下でもぶれない麗のイケメン好きには狐月も少し呆れ、同時に何も変わらないことが羨ましく思えた。
「もし、イケメンだと言ったらどうする?」
「探して!捕まえて!調教して!私のイケメンパラダイス1号にする!」
「・・・・・」
前言撤回だ。やっぱり羨ましくないし、彼女には是非とも挫折を味わってもらい、変化してもらおうと考えた狐月であった。
病院の1階の正面玄関。診察待ちの患者やお見舞いに来た人が10人ぐらいロビーにおり、受付の看護師はその応対をしていた。
そんな中、ジーンズに黒いジャケット、フードを深々と被った少年が人目を避けながら病院の外へと出る。誰もその少年のことは気にせず、少年はすんなりと出ることが出来た。
「早くあの男を探さないと・・・」
少年がフードを外して顔を現した。その顔は神谷稜そのものであった。彼は再び尼乃と戦うために病室を抜けだした。冥土返しの治療により、身体は7割から8割近く治っている。
「稜・・・?」
背後から毎日聞き慣れた少女の声がした。誰もいないと思って油断していたため、彼はつい敵かと思って振り向いてしまった。
その先にいたのは中学生の少女だ。年齢は稜と同じくらい。顔立ちは可愛い感じの顔で黒髪のカールが掛かったセミロングヘアーをしている。
「正美・・・。」
「良かった・・・。今回も無事だったのね。」
正美が稜に温かい笑顔を向け、そして強く抱きついた。風紀委員として稜が荒事でケガをするのは何度もある。しかし、何度あってもそれに慣れることは無い。稜と狐月を同時に病院送りにするほどの敵に敗北したのだから、今回の正美に圧し掛かる不安は今までにないほど大きかった。それを一気に発散するかのように彼女は彼の胸の中で泣き、服を涙で濡らしていた。
「ああ・・・。心配してくれて、ありがとう。」
おそらく他の誰にも見せないであろう優男な表情で稜は正美の頭を撫でる。ぶっきらぼうで愛想の無い稜を知る人物が見れば、とても信じられない光景だ。
しかし、稜はすぐにこの場を離れたかった。自分は病室から抜け出した身だ。次に病院に連れ戻されれば、鍵付きの病室に入れられる可能性だってある。そうすれば、失ったものを取り戻す機会を完全に失ってしまうかもしれない。
「正美・・・そろそろ離してくれ。」
「嫌だ。」
稜の意思に反して、正美はより強く、精一杯彼に抱きつく。
「私から離れないで・・・」
「でも・・・・」
「“でも”じゃない!」
「!?」
正美が怒号を挙げた。一昨日の喧嘩とは比じゃない。彼女の渾身の怒りと悲しみが震える全身から伝わってくる。
「稜・・・私がどんな気持ちで風紀委員の仕事を見てたのか分かる?」
「・・・・・・」
「凄いと思ったよ。誇らしいと思ったよ。みんなのために頑張っている姿が輝いて見えた。
だけど、そればかりじゃない。
ブラックウィザードや救済委員の時みたいに危ない目に遭って、稜はケガをして、いつも恐かった。
もしかしたら、風紀委員の仕事で死んじゃうんじゃないかって、不安だった。」
「正美・・・でも俺は――――」
「それでね・・・。綺羅川先生に聞いてみたの。『どうして風紀委員の仕事はこうも危険なのですか?』って。
だったら、先生は少し困り顔で答えてくれたよ。
『危険な目に合う仕事は警備員の管轄で、稜が今までケガする様な事件も風紀委員が抱える仕事としては逸脱している』って・・・。
自分勝手だよね。その“逸脱”のお陰でこうして生きている私が言ってるんだから・・・。
でも怖い・・・いつか稜が居なくなって、二度と戻ってこないんじゃないかって・・・。
だから、お願い。行かないで。」
「正美」
そう言うと、稜は正美の肩を掴み、彼女を自分から引き離した。そして、泣きじゃくる彼女に自分の目線を合わせる。
「どうしても行かなきゃならないんだ。ここで行かないと、俺が守って来たものが、お前が信じてくれたものが、否定されたままになる。」
「稜・・・」
「終わったら、必ずお前のところに戻ってくる。学校と風紀委員をサボってでもお前とデートだってする。約束だ。」
そう一方的に告げると、稜は正美に背を向けて走りだした。背後で正美が自分をどう見ているのかは分からない。納得できずにまだ泣いているのか、納得して見送ってくれているのか、だが、稜は振り向かなかった。
今まで正美に不安と悲しみを抱かせていた事実、そして彼女の心情に気付けなかった自分への怒り、それらに対する悔しさの涙、様々な感情が渦巻いた今の自分はどんな表情をしているのだろうか。
もしそれが怒りと悲しみで歪んでいるのであれば、絶対に正美には見せられなかった。
役者達が交差する舞台上
誰も劇の先を読むことは出来ない。
誰と誰が出会うのか。
そして、新たに誰が舞台上に上がるのか・・・
最終更新:2012年10月10日 21:33