吐月壷は道人の手の中でぐいぐいと動き回り、ついにはその手の中から飛び出して辺りを跳ね回った。軟らかな玉壌に中ほどまでもぐりこみ、かと思えば回転して土くれをあたりに撒き散らす。しばらくの間もがいた末、吐月壷はその動きをぱたりと止めた。
「なんだよ」と鹿がぼそりと言った。「やっぱり大したことないじゃないか」
茫然自失に陥っていた道人の口がぱくぱくと開閉した末、ついに言葉を取り戻した。
「な、な、なんてことをしてくれるんだ貴様ら!」
道人の口から飛び出した怒声は馬をして耳を押さえさせるほどの大音声であり、鹿すらも気おされて視線を彷徨わせた。その間にも道人の怒りは留まるところを知らず、まさに奔流のように罵り文句が口をついて出た。
「確かに試してみろとは言った! 言ったが! だが本当に壊してしまう奴があるか! こっちはそちらを信じて大事な壷を差し出したのだぞ! だというのにこの始末だ! 一体どう落とし前を付けてくれるというんだ! ああああ信じられない!! 全く信じられない!」
はらはらと涙を流し、道人は地に転がる吐月壷を拾い上げてかき抱いた。体を丸めおいおいと泣き叫んでいた天目道人が、ふと声を止める。目を見開いて馬と鹿に向き直ってみれば、そこには壷の姿はなく、たださらさらと崩れた欠片があるばかりである。言葉を失った二人組の前で、道人は再び地に伏せると泣きじゃくった。
「ああ!! なんとわしは愚かだったことか! こんな道理の分かっておらん輩に先祖代々伝わってきた宝を預けてしまうとは!! ご先祖様になんと顔向けしたものやら! ああああああああ!!!」
「お、俺は悪くないぞ。だって試してみろって言ったのはそっちじゃな――」
「本当に試す奴があるかと言っているのが分からんのか! この間抜けが!!」
「なっ……」
「そもそもだな、わが壷がお前の毒を無力化できんかったからと言ってそれが一体なんだというのだ! お前の毒を注ごうが注ぐまいが、果実の毒を除くこととは何の関係もないではないか!! 単に面倒が増えるだけのことだ!」
「だ、だって、どんな毒でも除いてみせるって」
「確かにそう言った! だがそれはただの売り文句ではないか! わざわざこの壷を遺してくれたご先祖様のことを思えば、ちょっと大げさに効能を吹聴して何が悪い! こういうのはな、聞くほうだって話半分で聞いておるのが普通なのだ! それを言葉通り取る奴があるか!! 『制五毒』というのはこんな壷ごときとでも本気で張り合わねばならんほど薄っぺらい看板なのか? ちょっとでも傷がつくかもしれんその恐れだけでもう耐えられなんだとそういうことか、あ?」
道人の声から怒りが抜け落ち、しんみりとした声音になった。道人は憮然とする鹿に見せ付けるように壷の欠片を振りまきながら、切々と言葉を搾り出した。
「なあ、誰もお前さんをバカになんかしとりゃせんじゃないか。お前さんが壷を試したいというならいいさ、こちらは喜んで負けを認める用意があったさ。さすがは『制五毒』さま、参りました。いやいやそちらこそ中々がんばったなとお互いねぎらいあって不朽の友情が育まれ、そうすればいよいよ本題に入ってわしは壷で実の毒を抜き、お二人は美酒をご母堂の元に持ち帰って全ては丸く収まっておった。そのはずだったのじゃ……」
「いや、それはおかしいだろ。だってお前の壷が負けてたらそれは結局俺の見立てが正しくて、実には毒がないってことになるはずで――」
「だまらっしゃい!!!!!」
道人の大声に、馬がおびえて首をすくめた。鹿ですら、金果を帯に耳を押さえて顔を背けた。
「とにかく! お前らが余計な事をしたせいで我が家の家宝が粉みじんだ!! 一体どう落とし前を付けてくれるつもりだ!? 返せ!! 家宝を返せこの野郎!!」
涙ながらにすがりつく道人を振り払うことも出来ず、鹿は助けを求めるように馬を仰ぎ見た。馬もまた困ったように顎をぽりぽりとかいている。すでに日はほとんど地平線に沈み、空の色も赤から深い青へと変じつつある。その空の色を打ち眺めていた馬が、ぽんと手を打った
「そういえば、あのさ、俺たち夕飯の時間に遅れるからそろそろ帰らないといけないんだ。そうだよな、鹿弟」
「へ……あ、そうです。そうでした、馬兄」
「母上の晩御飯楽しみだなあ、ねえ鹿弟」
「楽しみですねぇ、馬兄」
「おいこら、逃げるのか!」
「いや、別に逃げるわけじゃないよ。ただちょっと夕飯に間に合わなかったらいやだなって思って」
「そういうことだ。じゃあな。壷の事は残念だったけど、あんまり気に病むなよな」
「なんだその言い草!!! おい、待て! 待たんか!!!! 逃げるな!!」
首をすくめた馬が、いかにもすまなそうに首をすくめると、鹿を肩に担ぎ上げた。鹿は金果を小脇に挟み、馬の肩に跨って耳を押さえてやっている。道人のわめき声に顔をしかめると、鹿はしぶしぶといった調子で頭を下げた
「この償いはいつかしてやる。また今度な」
「今しろ!!! 逃げるな!! 今逃げたらためにならんぞ!」
「ごめんね」
そういい捨てるが早いか、馬は大地を蹴って駆け出した。その俊足ぶりはまさしく宙を翔るがごとく、瞬く間に稜線の彼方に消えうせる。始めのうちこそ怒鳴り散らしていた道人であったが、馬のあまりの逃げ足にため息を漏らした。
そうして、馬の気配が完全に消えうせたのを確認したところで、道人は袖口から果実を取り出した。まさしく、本物の金果である。
二人組みは空から飛来した。そのまま落ち着き払った道人のすぐそばに着地し、巻き上がる土ぼこりを腕の一振りで振り払うと、馬と鹿は道人に詰め寄った。馬は道人の襟を掴むと片手で持ち上げ、歯をむき出して威嚇した。
「おいお前! だましたな!」
「はて? 何のことやら皆目分かりかねますが」
「とぼけるな! 実を返せ! お前がスリ替えたんだろう!」
鹿が大声を張り上げながら、掌に握りこんでいたみかんを突き出した。
「馬兄が気付いたんだ。なんか臭いが違うって言い出すから確認してみたらこのザマだ!」
「さて、それでどうして私めが盗んだことになるのですかな」
「お前以外考えられるか! 出せ! 俺たちは盗人には容赦しないぞ!」
「しないぞ!」
馬の筋肉ははちきれんばかりに盛り上がり、鹿の角は八つに割れて毒汁が滴っている。怒りに満ちた二人の目と空の星とを見比べた末、道人は体から力を抜いた。襟をつかまれたままで器用に肩をすくめると、道人は袖口から金果を取り出してみせた。
「さて、お二人のいうのはこの実のことでしょうかな」
「あった!」
「やっぱりお前じゃないか! ぶっ殺してやる!」
辺りに充満する怒気はいまや目に見えるほどの濃度となっている。だが道人は動じない。心外そうに馬と鹿とを見下ろしながら、口の端をゆがめるばかりである。
「物騒じゃのう。いかにもわしはこの実を貰い受けた。だがそれはわしにその資格があるからじゃ。おぬしらと違ってな」
「なんだと!」
「資格って何のことだ! 俺たちが取った実だぞ! だから俺たちのものだ! 俺たちに資格があるんだ!」
「いかにもそうであったさ。おぬしたちがわしの壷をダメにしてしまうまではな」
「そ、それとなんの関係があるんだ」
「もちろん、壷の償いとしてこの実を貰い受けるということさ」
馬たちが言葉に詰まった。視線を彷徨わせる二人組みに向かって、道人はさらにたたみかけた。
「お前らが先祖代々伝わる魔法の壷を破壊してしまったおかげで、わしは先祖に向ける顔がない。それもわしの愚かな振る舞いで破壊したというならともかく、まったくの善意で行ったことが裏目に出たという格好じゃ。どこかの誰かさんのせいでな。しかし過ぎたことはしょうがない、潔く諦めるべきかと思っておったのだ。最初は」
「お、おい話が違うじゃないか。あきらめたんならいいだろ」
「最初はといったじゃろうが、黙って聞け。そんな風に深い悲しみに沈んでおったわしの心に語りかけてくる声があったのじゃ」
「こ、声?」
「そうじゃ。これを見るがいい!」
道人は金果を二人組に突き出した。気おされた二人組にぐいぐいと金果を押し付け、道人は高らかに声を張り上げた。
「この果実がわしに語りかけてきたのじゃ。『なんと可哀想な。私のためにそなたの大事な宝が失われるとは。お詫びにこの身をそなたに捧げます』とな。だから貰い受けたとこういうわけだ。どうだ、文句あるか」
馬も鹿もあっけに取られたように、金果とお互いの顔とを見比べている。先に口を開いたのは馬である。
「じゃあしょうがないかなあ……」
「なわけないでしょうが! しっかりしてください馬兄!」
鹿が爆発した。頭をぶんぶんと打ち振って辺りに毒汁を振りまきながら、鹿は道人に詰め寄った。その角が鼻先を掠め、道人はわずかに顔をしかめた。
「おいお前! 適当な事を言うのもいい加減にしろよ! 何が実がしゃべっただ! そんなことあるもんか!」
「え、でも鹿弟さ、うちの庭に生えてる銀血樹はしゃべるじゃない。実も。俺たちより頭いいらしいよ、あれ」
「馬兄はちょっと黙っててください! 仮にしゃべったとして、そんな声は俺たちは聞いてないぞ! お前がいい加減な事言ってるだけなんだ! 俺たちがバカだからって騙そうとしてるんだ! そうにきまってる! 返せ! 実を返せこのやろう!」
「よかろう」
「何がよかろうだこの――は?」
「返してやろう。そして己が耳でもってしっかり聞くがよかろうさ。果実の声をな」
道人は無造作に金果を鹿に向かって放った。難なく受け止めた鹿に顎をしゃくり、耳をさして金果に近づけるように促す。馬が道人を地に下ろした。そうして二人が恐る恐る金果に耳を近づけると、不意に金果が発光しはじめた。
「わ、わわわ」
「落とすなよ。果実が機嫌を損ねるぞ」
鹿の掌の上で、金果はなおも輝きを増していく。やがてそこから一筋の光が流れ出したかと思うと、次の瞬間には光り輝く狼人の少女の姿がそこにあった。全身を金属質の体毛で覆った狼人の少女は、目を伏せて口元を覆いながら馬と鹿に向き直ると、いかにも重々しい調子で言葉を発した。
「そなたたち……聞くがよい……わしは繊……おほん、その実の化身であるぞよ……」
「ほらしゃべった! しゃべったよ鹿弟!」
「ひ、ひぃ、ほんとだ!」
腰を抜かさんばかりの二人組の姿に、金果の化身はわずかに身を震わせた。道人が小さく咳払いをすると、金果の化身は再び低い声で話し始めた。
「そなたたち……わしはこの熊人についていく……なんとなれば、そなたたちがこの熊人の壷をぶっこわしたその償いをせねばならんからじゃ……異論はなかろうな」
「あの、『いろん』ってなんですか?」
「うむ……そこから説明せねばならぬか……異論とはな……ようするにいちゃもんのことであって……」
「ならあるよ、異論はあるよ」
鹿がぼそりと言った。
「だって俺たちはあんたを母上のもとに連れて帰らないといけないんだ。だって母上がそう言ってたんだ。持って帰らないと母上が悲しむんだ。悲しい母上なんて見てられないよ。こっちまで悲しくなるよ」
「鹿弟……」
鹿がばっと地に伏せ、頭を土にこすり付けた。その角が地面をえぐり、とんだ土くれが道人の頬で砕け散ったが、道人は顔色一つ変えなかった。
「お願いだ。確かに俺は悪いことしたと思う。けど、それは俺が償うべきことだろ? わざわざあんたが壷の償いをしなくたっていいじゃないか。お願いだ、考え直して俺たちと一緒にきてくれよ。お願いします」
地に頭をこすり付ける鹿のそばで、馬もまたおずおずと膝をついた。そのまま見よう見まねで頭を下げる。勢いよく叩きつけられた馬の頭は半ば以上土にめり込んだが、馬は頓着しない。金果を掲げながら二人組がお願いしますと連呼しながら叩頭するそのさまをみて、金果の化身は口元を隠していた手を下ろした。当惑したように道人を見返すが、道人の表情は石のように硬い。金果の化身は困ったように口を開いた。
「そうか……まあそなたたちの言うことも一理あるかもしれんが……それは許されぬ事情がな――」
「よし分かった!」
化身の言葉をさえぎって、不意に道人が大喝した。大気がびりびりと震え、耳を押さえながら顔を上げた二人の前に道人の拳がさっと突き出された。開かれた掌の上に乗っているのは、小さなサイコロが二つである。
「たしかにお前たちにもそれなりに事情があるようだし、きちんと己の非を認めるその姿勢にも感じ入った! それに実の望んだこととは言え、このわしがお前たちから実を盗み取ったこともまた事実である。そこでだ、お互いチャラにしようではないか。そちらが壷をぶっこわしたこともとがめぬ代わりに、わしの盗みも見逃してもらう。どうだ」
鹿が胡乱げに眉をひそめた。
「よく分からないんだが、じゃあ実は俺たちのものってことか?」
「そうとは限らん」
「どういうことだ」
「実の行き先は実に決めて戴くというわけさ。このサイコロでな」
道人はサイコロを二人に手渡した。
「好きなだけ改めるがいい。そのサイコロを使って賭けをしよう。実がどちらの元に行くべきかを決める賭けだ」
「待ってくれ。わざわざサイコロなんて振らなくてもいいだろ? どっちにいくかは実に決めてもらえばいいじゃないか」
「いいや、賭けでなければならん。なんとなれば、我らには両方に理があるからだ。どちらも正しいが、どちらも並び立てるわけには行かぬ。だからどちらが折れるべきかを偶然にゆだねるというわけさ。もし最初に決めた目より大きな目が出れば実はわしの元へ、小さければそなたたちの元へいく。そんな簡単な賭け事さ。勝ち目は実に決めてもらう。実がわしの元へ来たいならば小さな目を言えばよい。反対にそなたたちの元へ行きたいのなら、大きな目とすればよい」
鹿は不信感を隠そうともせず、サイコロをいたずらに弄り回すばかりである。道人は肩をすくめると、金果の化身に向き直って拝礼した。
「さて、実のご意志を伺うとしましょう。どの目がよろしいですかな?」
金果の化身はぱっと顔を輝かせた。
「むろん天目じゃ。正直いうとわしはお前のような熊は好かん。反対に孝行する子供は好きじゃ。だから二人とともに行きたいが、熊のほうにも同情すべき点がなくはない。だから熊、お前の勝ち目は六ゾロの天目のみ、六ゾロが出なければ、わしはこの二人についていくことにする」
「結構! おい聞いたな、二人とも」
「――確かに聞いた。いいよ乗ってやる。馬兄もそれでいいですよね?」
「うん。鹿弟がいいっていうならいいよ」
「よし。じゃあ握れ。お前たちが振ればわしがイカサマすることも出来んだろう。さあ、この茶碗の中に投げ込むがいい!」
道人の言葉に、鹿が力強く頷いた。手の中に握りこんだサイの片方を馬に渡し、馬も鹿に微笑みかけた。鹿が金果を化身に渡すと、二人はサイを握った手を突き出した。道人も金果の化身も固唾を呑んだ。
「せえの、はい!」「えい」
道人がさっと茶碗を地に固定し、二人がいっせいにサイをそのなかに投げ込んだ。サイコロは互いにぶつかり合いながら跳ね回り、永遠とも思われる時間をかけてようやく茶碗の底で止まった。定まった目を覗き込もうとして、道人と馬とが互いに頭をぶつけた。頭をさすりながら、天目道人は大きく目を見開いた。
出目は三の五であった。天目道人の負けである。
ふわりと地に降り立つと、金羅は釣岳狼人が捧げ持つ金果を受け取り、場の一同に微笑みかけた。
「ごめんなさいね。本当はもっと早く取りに来る予定だったんだけど、誰かさんが言うこと聞いてくれなくて」
いいながら釣岳狼人を指でつつく。言葉は責めるような調子ながら、その笑みは柔らかである。
「申し訳ありません、聖母よ。『ご自分で金果を取りに行って苦労をされれば、得られた金果の味もまた格別となる』という拙案のすばらしさをお知らせするのに必要以上の時間を掛けてしまいました。まったく、私の不徳の致すところです」
「ほんとよね。面倒だから釣岳ちゃんに取ってきてもらおうと思ってたのに、なぜか自分で来ることになっちゃったの。後から思い出すとものすごい屁理屈なのに、聞いてるときはいい考えみたいにしか思えないのよ。流石よね」
「あの、師父」
「なんじゃ」
「どういうことなのか事情を伺ってもよろしいですか」
「いや事情もクソも、金羅様が唐突に気まぐれ起こして金果を取って来いなんておっしゃったとき、わしがたまたま手近におった。で、手を尽くして逃げようとしたとこういうわけじゃ」
「気まぐれってもうちょっと言い方あるでしょ。食べたくなったんだからしょうがないじゃない。それに、結局逃げられなかったでしょ」
「全く恐れ入りました。とまあそういうことじゃ。お前に留守番頼んだじゃろ、あれは逃げておったからじゃ。青湖にまで逃げてみたが追いつかれたもんじゃから、釣りがてらご自分でやっていただくよう口車に乗せようとしてそれはまあ上手くいったんじゃが、ついでにわしも否応なくこの地まで引きずってこられる羽目になった。盗みを働くときは裏口を空けておけという教訓どおりになったというわけじゃ。来てみたらなにやら面白いことになっておったから眺めておった。結構な見ものだったぞハハハ」
「はあ? しかし金果を取ってくるよう命じられたのは師叔では」
「別にそんなことはない。そうじゃろ、小鏡?」
金羅は平伏する娘々のもとに歩み寄ると、その手をとって助け起こした。しばしためらっていた娘々は金羅の腕の中に飛び込んだかとおもうと、すがり付いて泣き出した。
「ごめんなさい金羅さま。金果を取ってきて差し上げようと思ったのです」
「あらそうなの、ありがとう。がんばって取ってきてくれようとしたのよね。その気持ちだけでも嬉しいわ」
「金羅さま~」
頭をやさしくなでさすられて泣きじゃくる娘々の姿に、道人は呆れたように目をむいた。
「師父、ひょっとしてこれは私の考えが正しかったりするのですか」
「お前の考えとやらが、『小鏡が命じられてもおらんのに勝手に気を利かせて金果を取りに行こうとした挙句、面倒になってお前に押し付けた』というものであるなら、そうじゃな、八割がた合っておる。より詳しくは後で阿灰に聞くがいい」
「なんということだ。師叔! なんとかおっしゃったらいかがですか!」
「いいじゃない、かわいくて」
「しかし金羅様!」
「いいのよ。こういうのは気持ちの問題なんだから。ねぇ小鏡ちゃん」
「はい、金羅さま」
道人は口をつぐみ、そっぽを向くと地にどっかと腰を下ろした。
「あのさ、ねえ、ちょっと」
所在なげにたたずんでいた二人組みのうち、馬が声を上げた。
「俺ぜんぜん事情がわかんないんだけど、その実は結局俺たちのものってことでいいの? もって帰るよ?」
「違うわ、悪いけど」
金羅が馬に微笑んで見せた。
「
世界樹の実を最初に
エリスタリアから取ってきたのは私だし、種を取ってここに埋めたのも私。だから、ここに茂ってた森に生ったこの実も私のものよ。あなたたちのものにはならないの」
「そうなんだ……」
「本当かよ……」
「本当よ。なんだったらエリスタリアに行ったときの話を聞かせてあげてもいいわ。なんだったら今からでも」
「二日はかかりますからお薦めはしかねますがな。古参の仙人連中全員が恐るべき思い出に心を焼かれながら、葬式みたいな面を引っさげて集まってくる時間を計算に入れないでということですが」
「そうなの。でも、私は嘘はついてないのよ」
「確かに、あんたからは嘘ついてるにおいがしないや」
馬がしぶしぶうなずいた。
「もちろん、あなたたちが無理に持っていくというなら別よ? 本当は私のものだけど、そうと知ってて盗んでいけばいいの。そういうやり方は好きかしら?」
馬が首を振った。
「俺たちは盗みはやらないんだ。だって悪いことだから」
「いいの? お母様がお待ちなんでしょ」
「うぅ」
「困るよ」
鹿がぼそりとつぶやいた。
「おれたち母上に叱られちまうよ……お話抜きだよ……どうしよう馬兄」
「どうしようね鹿弟」
馬と鹿の目に涙が浮かび、二人は世も人もなくおいおいと泣き出した。金羅はそんな二人のそばにかがみこむと、二人をやさしく抱きしめた。
「あらあら、母上の言いつけをちゃんと守ろうとするなんて御利口さんね。あなたたちの母上がうらやましいわ」
「ううぅ」
「そうね。じゃあこうしましょう。金果はあげられないけど、代わりになるものをあげるわ。釣岳ちゃん、お願いね」
「お任せを」
そういうと、釣岳狼人は小さな魚篭から実に大人の体ほどもある魚を片手で取り出すと馬に渡した。目を白黒させながら受け取る馬の様子に、釣岳狼人は満足げにうなずいていせた。
「よかったらもってっておくれ。青湖でつれた洞居魚の大物じゃよ。みりゃ分かると思うが、千年に一度取れるかとれんかという逸品じゃ。金果には流石に劣るが、きっとお母上もご満足いただけることじゃろうと思う」
「ごめんなさいね」
魚を担ぎ上げた馬が涙をぬぐった。鹿もまた、頭を垂れて唇をかんでいる。
「でもさあ、やっぱり怒られたらどうしよう」
「言うなよ、鹿弟。だって盗みはダメだろ。母上だって分かってくれるよ」
二人はあくまでも不安な様子を隠せない。そのようすを見て取った金羅が、馬の抱える洞居魚に歩み寄ると手をかざした。閃いた金炎が洞居魚のヒレを焦がし、金羅を表す躍字を刻み込んだ。手を伸ばして馬の顎を取り、躍字を指して見せると、金羅は暖かく微笑んだ。
「もし、母上がご不満なようだったら私のところへいらっしゃるように言ってちょうだい。これをご覧になれば、母上もあなたたちを責めたりしないわ」
「そうかなあ」
「そうよ。約束するわ」
「うん……鹿弟もそれでいいかな」
「馬兄がいいなら」
「ありがとう、二人とも」
馬が鹿を担ぎ上げ、ぺこりと頭を下げた。その脚が大地を一けりすると、その姿はすでにはるか彼方へと飛び去っている。ひらひらと手を振って二人を見送っていた金羅が、道人たちに向き直った。
「さて、じゃあ早速いただこうかしらね。――なんかいつもと感じが違うわね。あんまりおいしくなさそう」
怪訝そうな顔をしていた金羅はぽんと手を叩くと、しゃがみこんで辺りに転がっていた陶片を拾い上げ、それで地面を引っかき始めた。その様子を見守っていた天目道人が口を開いた。
「聖母よ、一体全体何をされておられるのですか」
「なんでもね、この地方ではこういう風にしてお酒を造るんですって。生じゃ口にあわなそうだからお酒にしようと思って」
「金羅様、それは黒亜酒というのだそうです。サルの真似をして見つかった製法だとかで。金羅様のお口にも合うと思います」
「あらそうなの? よく知ってるわね繊鏡ちゃん。まあそれじゃ、ひとつサルの真似でもしてみましょ」
言うが早いか、金羅は掘り終わった穴の中に金果を落とすと埋め戻し、パンパンと地面をはたいた。
娘々と道人が顔を見合わせ、直後に声にならない悲鳴を上げた。ひとり怪訝そうにしているのは金羅である。
「どうしたの、二人とも。大丈夫よ、この土は玉壌っていって特別な土なの。きっと普通の土よりいいお酒になるはずよ」
「いやそうではなくて!」
「だって金果を玉壌に埋めたら!」
「大延国が森で埋まってしまいます!」
「天目落ち着け、あれは森ではないぞ! ああでも埋まるのは間違いないのう! どうしよう!」
「どうもなりゃせんよ。落ち着け二人とも」
「しかし師父!」「師兄!」
落ち着き払っていた釣岳狼人が肩をすくめた。
「確かに金果を玉壌に埋めればおおごとになるさ。『熟した金果』を埋めればな。この実は未熟じゃから別にどうと言うことはない。金果のほうも準備が出来ておらんのじゃ」
「へ?」
「は?」
「ついでに聖母に申し上げますと、そのように埋めても金果からは酒など造れませんし、大して旨くもなりません。熟するまで枝に付けておいて、自然に任せるのが一番よろしいのです。なにより、取るのに苦労もいりませんしな」
「苦労って、そんなに苦労しないでしょ。ただ森に入って取ってくるだけじゃない」
「熟しておればその通りですな。しかし実が熟しておらん場合は森そのものが武装し、実を取りにいくことはエリスタリアを再び訪ねるも同然となります。金羅様が未だにあのときのことを夢に見て夜中に飛び起きておられないとすれば驚きですが、いかがですかな?」
金羅は驚いたように小さく身を震わせると、やおら娘々を抱きしめた。
「繊鏡ちゃん、私を喜ばせようとするのはいいけど、危ないことはしちゃダメよ」
「ごめんなさい、金羅様~」
「聖母も師叔もお忘れのようですが、森に入って危ない目にあったのは主に私でしてね」
「ハハハ、金羅様、わしが逃げ回っておった理由はまさしくわが弟子を襲った危険にもありましてな。金果が未熟なれば、取るのも面倒な上に、取ったところでまずいだけといいこと無しなのです」
「つまり、わしが散々苦しめられたのも無駄だったということか」
天目道人がぶすりとつぶやいた。釣岳狼人がその背中をどやしつけた。
「気にするな。修行の一環だったとでも思えばよいさ。それによい話のネタになるじゃろう。お前のサイがここ一番で天目を出しそこなったくだりなんか大盛り上がりとなるはずじゃよ」
「そういえば珍しかったわね。ああいう時ってイカサマでも何でもして自分の勝ち目をだすのが天目ちゃんのやり方じゃないの?」
「そうじゃよ天目。あの時は何事かと思ったぞ」
「はっはっは、あまり弟子を責めんどいてくだされ。何しろわしがこの釣り糸でひそかに細工しておらなんだら、天目が出ておったはずなのですからな」
道人が釣岳狼人に信じられないという目を向けた。
「師父! 一体何をされておるのですか! あのまま賭けに勝っておれば奪い取れていたはずなのですよ?」
「あの賭けそのものがお前のでかい声と小細工でごり押ししただけの無理筋じゃからな。あの場では勝ち取れても、いつか騙されたことに気が付くときが来るじゃろ。その時に安全なところに逃げおおせていられるならそれもよい。だが仙人と悪仙同士ならまたどこかで出会うことがないとも言えん。後を引く嘘は下策じゃ。それにな、わしゃ利口ぶった悪党を騙すのは好きじゃが、善人を騙すのは好かん。特に悪仙には珍しい金の心の持ち主ともなればなおさらじゃ」
「そうよね」と金羅がしたり顔でうなずき、娘々もまた同調した。
「聞き分けのいい子たちだったわね。盗みもダメだってちゃんとわかってたし。天目ちゃん、ああいう子を騙しちゃダメよ」
「しかし――」
「確かに盗みがありなら、天目のほうこそひとたまりもなかったはずじゃのう。すり取ったのがばれたあのときに、あっという間に取り返されておしまいになっておったはずじゃのう。ぼこぼこにされるのは言うまでもなく」
何事かいいかけた天目道人は歯を食いしばって言葉を飲み込んだ。そっぽを向いて黙り込んで目を伏せる道人の背中に、ふと暖かな感触が生じた。道人が振り返ってみれば、そこにあるのは金羅の笑顔である。
「それでも、今回は天目ちゃんが一番がんばったのよね。偉いわ」
どぎまぎして言葉を失う天目道人を他所に、金羅は道人に身をすりよせて嬉しげである。と、金羅はぱっと顔を輝かせた。
「そうだわ、ご褒美あげようかしら」
応じた釣岳狼人の釣竿がさっと振るわれ、地中に埋まっていた金果を釣り上げて金羅の手の中に落とした。金羅は土を払って満面の笑みを浮かべると、金果を天目道人にむかって差し出した。
「さあどうぞ。一番苦労した天目ちゃんにあげるわ。きっとおいしいわよ」
「――さっきご自分で『なんかまずそう』とおっしゃっていたではありませんか」
「そんなことはないわ。さあ、召し上がれ。なんなら食べさせてあげましょうか?」
「わが不肖の弟子には過ぎた幸福ですな。おい天目、ありがたく受け取るんじゃぞ」
「いいのう、天目は」
『師父』「師父、ごほうびですぜ、ごほうび」
口々に言われて顔をしかめた天目道人は、金羅から金果を受け取ると恐る恐る臭いをかいだ。そうして皮ごとかぶりつき、しばらく咀嚼して飲み込む。ひたすらに笑顔の金羅とは対照的に、道人の表情は巌のように硬い。
「どう? おいしいでしょ?」
「――まっずうございます。なにやら砂のような味がいたします」
「だから申し上げたでしょう、聖母。未熟な金果はまずいと」
「そうよねえ。そんな感じはしてたのよねぇ。なんだか悪いわね。よしよし、じゃあこれから場所を移して宴会にしましょう。天目ちゃんにはお口直しで、ほかの皆もご苦労さまということで」
「よろしいんですか!」
「じゃ、わしもご相伴にあずかるということで。おい天目、文句はないな。お前たちも行くぞ」
『はい』「へぇ」
金炎に照らしだされて和やかに笑う輪の中で、道人だけがぶすりとしかめっ面である。渦巻く金炎の中に消えうせ、あるいは釣り糸や赤綱に吊り上げられてその場を後にする一同の中で、道人だけはその場を離れようとはしない。もう一口だけ金果をかじり、大儀そうに咀嚼する。道人は不意に苦笑を漏らして金果を投げ捨て、地面をどんと踏みしめると土煙の中に姿を消した。
地に転がっていく金果が、ふと止まった。地に投げ捨てられた陶片にぶつかったためである。と、その陶片を押しのけるようにして地面から何かが顔を出した。小さな芽である。芽はかじられた金果に寄り添い、人にはわからぬ速度でその身を伸ばしていく。玉壌の宿す豊かな栄養を貪り、やがてこの地に満ちていく草木の最初の一葉である。