今、目の前に一軒の空き家がある。
長い間誰も手入れしていない事が一目で分かる、荒れ果てた庭と建物。
何があ訳でもないこの廃屋を、俺は見に来るのだ。子供の頃の思い出を求めて……
子供の頃、
ラ・ムールに住んでいた事がある。
その時暮らしていた村には、大人から「近付いてはいけないよ」と言われている家が一軒あって、僕達の間では「 の家」と言われていた。
の家には頭のおかしな女の人が一人住んでいて、その人の事を僕達は と呼んでいたのだ。
立ち入り禁止の所と言うのは、子供達にとって大変興味をそそられる物で、僕達はわざと の家の近くで遊んだりしていた。
だが の家には誰も入りたがらなかった。それは僕らの間で妙な噂が流れていたからだ。
の家には薬や注射がいっぱいあって、怪しげな研究をしていたり、子供をさらって標本にしている。
あの家に入った事があると言う近所のガキ大将は、本当に薬や注射器がいっぱいあったと言っていた。そしてそのガキ大将は、その後 の家に決して近付きたがらない。
僕達の間で の家の近くで遊ぶ事は好奇心を満たす為でもあり、半分度胸試しでもあったのだ。
そんなある日、僕らが遊んでいたボールが の家の敷地に入ってしまった事があった。
「おい○○、お前取って来いよ」
「え~、やだよ。 の家危ないじゃん」
「最後蹴ったのお前だろ? 責任もって行けよ」
「もー……」
その時、僕は嫌々ながらも の家の門をそっと開けて、中に入ったのだ。友達は門の外で僕がボールを取って来る所を見張っている。
見渡すとボールは庭の片隅、木陰においてあるテーブルとイスの近くに転がっていた。僕は辺りを見回し誰もいない事を確認して、そうっとボールに近付いていった。
だが僕がボールの近くまで来た時、その向こうの建物の影から声が聞こえたのだ。
「あら、可愛いお客さん」
「うわぁ出た!! ――痛っ!」
「逃げろー!」
「待って! 置いてかないで! 待ってよー!!」
建物の陰にいたのは女の人だった。 だ。僕は死角になっていたそこに が居たと気付かず近付いてしまったのだ。
僕は踵を返し全速力で逃げようとした。だがあまりに慌て過ぎていた為に、僕はその場で転んで足を挫いてしまったのだ。
門の所に居た友達は、僕を置いてみんな逃げ去ってしまった。
そんな絶望的光景を見ながら、僕は痛めた足のまま立ち上がろうとしてまた躓き、足を抱えながら誰も居なくなった門の方を眺めていた。
「ちょうど良かった。今お茶にする所だったのよ」
「ご、ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
僕を心配して近寄ってきた に向かって、僕は全力で謝り続けた。
黙った家に進入した事もあるが、それより何より が恐かったからだ。もし噂通りなら僕はこれから注射器で薬を打たれて標本にされてしまう。
子供の必死の、命乞いの謝罪だった。
「さ、あなたの分もあるわ。そこに座って? 一緒に飲んで」
その女の人――地球人?のお姉さんは、僕の話など聞いていないのかイスに座る事を要求した。
僕は痛めた足を引きずりながら立ち上がる。そしてイスを引き席に着くのだ。
僕はお姉さんの言葉に従うしかなかった。
「さ、召し上がれ」
テーブルについた僕の前に出されたのは、赤い色をした液体だった。
(トマトジュース?)
僕は最初そんな感想を持った。透明度の低い濁った赤色は、まさにトマトジュースを連想させたからだ。
そのジュースはコップ一つ分しか用意されておらず、その一つのコップにストローが二本さされていて、まるでカップルが飲む物のようで僕は嫌だった。
だけど に出された物である以上、ここで断る訳にはいかない。もしここで断れば僕は……
そうして僕はその紅く濁った飲み物を一気に飲み始めた。
「っ!? んぅ!?」
「それ、一月に一度しか作れないのよ。おいしい?」
僕はその飲み物――赤い謎の液体を飲んだ瞬間、ある物を思い出した。
それは血。
この鉄臭い味は、怪我した時に舐めた傷口の血と同じ、いや、それを薄くしたような味だ。
僕は本能的に起こる嘔吐感を堪えながら の方を見た。微笑んでいる。僕が喜ぶのを期待している笑顔だ。
だけどその笑顔は……笑顔なのに恐くて堪らなかった。
(飲め! 飲み込め!)
の言った意味は分からない。けれど、とても貴重な物らしい事は分かった。それを僕に分け与えているのだ。もしこの行為を裏切ったら……
僕は込み上げる嘔吐感を堪えながら、無理やり血の味のする赤い液体を飲み込んだ。
「フフッ、美味し」
はそんな僕の顔を見て、満足げに自分もストローに口を運んだ。
この時僕は自分がどんな顔をしていたのか分からなかったけれど、多分美味しそうな顔はしていなかっただろう。
それなのに は満足したのだろうか? の考えが分からなかった。
「今度は君のも飲みたいな」
「あ、あの、やめ――んぅ!?」
僕は必死に我慢しつつ、 と一緒に赤い液体を飲み干した。
飲み干したと思った途端、落ち着く暇も無く僕は にキスをされてしまった。それは僕が想像していたのと全く違う、考えた事もない全く知らないキスだった。
「う……うぅ……ぁ……んっ!? んぅー!? ぅーーー!!」
これが大人のキスなのかな、朦朧と薄れ行く意識の中、そんな事を思っていると、僕の意識は突然の痛みによって現実に引き戻された。
舌を噛んだ。いや、噛まれたのか。
僕はこのまま舌を食べられてしまうのではないかと言う恐怖と痛みに、 から離れようと試みたが、ガッチリ体を掴まれていて離れる事が出来ない。
そうして僕がもがいている内にも、 は僕口内に広がる血を啜り、吸い、舐め尽そうと激しく動いてくる。
こんなもの我慢なんて出来る筈がなかった。僕は再び恍惚の夢の中に落ちていった。
「ぁ……んぁ……プハッ」
ようやく のキスから開放された僕に、それ以上何も抵抗する力は残ってはいなかった。
「美味し」
「あ……あぁ……」
僕は呆けたまま、定まらない焦点の目で の顔を見た。
その時も は笑顔で、その暗く深い瞳は僕の事をジッと見つめてくるのだ。僕のどこまでも見透かそうとするように、ジッと……
「ねぇ、みんな私の事除け者にするのよ? 私の事おかしいって」
はそう言った。この時初めて笑顔が曇ったのを見て、何故か僕は酷く悲しい気持ちになった。
「君もそう思う? 私、おかしい?」
「おかしく……ないです」
「ホント? 良かったっ」
まだボウっとしたまま僕はそう答えた。
その僕の答えで笑顔が戻った を見て、僕は心から嬉しかった。
僕の中で、僕も理解できない感情が沸き起こり始めていた。
「明日もまた来てね。約束よ」
今日の事を決して誰にも話すまいと心に誓った僕は、次の日も一人で の家を尋ねた。
だが……
俺は今、旅行会社に勤めラ・ムールツアーのインストラクターをしている。
そして時間が空いた時、必ずここを尋ねるのだ。あの日果せなかった約束……センチメンタルな想いの為に。
いつまでも忘れられないあの時の記憶に俺の生活は、いや、人生は狂わされているのだろうか。
人はそんな俺の行動をおかしいと言うが、俺はそんな事ないと信じている。
俺はただ、あの日の約束を覚えていて、大切にしているだけなのだから。
「やっぱり居ない……か」
廃墟の周りを回り、俺はその空き家に誰も居ない事を確認するとツアーの宿舎への帰路に着く。
もしかしたら、ここに来ればもう一度 に逢えるかも知れない。そんな思いが今も俺の中にあるから。
「あれ? えっと……あの人の名前、なんて言ったっけな? えっと……あれ? ……まぁ、いいか。いつかまた逢えるから」
「おーい兄ちゃん。今夜は『合いの夜』だから早く建物に隠れなぁ」
「大丈夫ですよ。あの日の夜も平気でしたから」
異世界の月は三つあり、満ち欠けと共にそれらの位置関係も変わる。そして三つの月が夜空に揃い重なる夜、その月光を浴びると気が触れると言う言い伝えがある。
だが俺はそんな迷信は信じない。月の夜空を見る時だけ、あの日の事をハッキリと思い出せるのだから。
「月の女神が居たら、きっとあの人みたいな美人なんだろうなぁ……」
そうして俺は、月神の家を後にしたのだった。
- 月一しか作れない赤い液体・・・ってオイ!ちょっとまてオイ! -- (名無しさん) 2013-02-25 04:52:27
- 月のモノって言うくらいだから…恐いよこのおねーさん!? -- (名無しさん) 2013-02-25 05:47:08
- 何でこんな神がいるんだよ!って疑問に思うけどそれが異世界なんだよねって事で納得させられる。 神の存在理由など人の身では理解出来ないんだろう -- (名無しさん) 2013-03-02 22:08:25
- 空白演出とかいかにもアレじゃないですかーというモノが上手い使い方だなーと -- (とっしー) 2013-03-06 12:43:39
- 空白演出の説得力の強さに背筋がぞくりとしました。恐怖と淫靡の狭間でどうすればいいか分からない子供ですがだからこそ生きて家から出れたのかなとも思いました -- (名無しさん) 2016-03-13 18:43:34
- 恐怖と興味は紙一重かトラウマ転じて憧れになるとかやはり月神の魔力は危険 -- (名無しさん) 2018-09-06 22:39:32
最終更新:2013年02月25日 00:54