詰め所へはセイラン一人で行く運びとなった。「マオが行ったら引き取らされて放り出されて終わりじゃないかなあ」というシュウの指摘を受けての事である。
放り出されればよいのではないか――そんな言葉をセイランは寸前で飲み込んでいた。Tシャツがどれほどかさばる荷物であるにせよ、無理やり衛視に預けるからにはそれなりに預ける先に困る分量であるに違いない。そんな荷物を抱えたマオが次に泣きつける先が通関司ぐらいしかないことはセイランもうすうす察していて、だから『衛視に個人の荷物を預けるのははなはだ迷惑なことだ』というセイランの主張も、だんだん尻すぼみになっていったのである。
とは言え、こんなひどいことを見過ごすわけにも行かない。衛視の隊長はセイランの知り合いである。こんなひどい横車のせいで衛視が迷惑するのを見逃したとあっては、セイランの面目丸つぶれである。まずは様子見、善後策はそれから。
ところで、他の面々もまた、隊長には合わせる顔がないものであるらしい。
「いや、本当なら僕も行った方がいいんだろうし、ぜひとも行きたいんだけどね」
シュウはそう言って頬をかいた。
「でもさ、僕が衛視さんのところにいくと、なぜか尋問がはじまっちゃんだよね。隊長さんにも会わせてもらえないし。この間は地下牢を見学させてもらうことになってさ。じめじめしてるんだねえ、地下牢って。中にも入れてもらったんだけど閉口したよ」
無理もない、とセイランは納得した。シュウはこちらに来た直後、妖書にとらわれたことで衛視の隊長とかかわり、そのせいで衛視と揉め事を起こしたことがあるのである。シュウの無反省ぶりから察して、衛視側の感情が軟化した様子はないらしい。
では不本意ながらカンペイを頼るか、と考えたところで、セイランはふと卓の上に唾が飛んできていないことに気が付いた。呆然としながらシュウを振り返ると、シュウは何でもなさそうに肩をすくめる。
「カンペイさん? ああ、彼ならマオを連れてお出かけだよ。なんでも石切り場の労働環境に関する勉強会だってさ」
そんなわけで、誰一人頼れなくなったセイランは独り、菜果大路沿いに市城を横断し、界門のそばにある衛視の詰め所に向かっていた。
衛視の詰め所は他にもいくつかある。北と南に開いている城門に一つずつ、市内を見回るための拠点が一つ。セイランが訪れているのは、特に異世界の門を通じて行き来する人々を見張るための詰め所である。
大路を行きかう人々の頭越しに界門の輝く縁が見えてくると、セイランは足を早めた。
異世界につながる門、すなわち界門は市城の中心部に設けられている。というより、この門を中心として街が出来上がったのである。大延国の主神たる金羅様がこの地に門を開いたとき、この辺りは街道からも微妙に外れた何にもない土地であったらしい。十年の間に人が集まり、家が建ち、城壁がめぐらされて街が出来上がった。この街は異人たちの訪れる玄関口として生まれ、育ってきたのである。
界門のそばを訪れるとき、セイランは必ず門を見に立ち寄る事にしている。
所狭しと乱立する屋台に群がる人ごみ――異人とこちらの人とが半々――を掻き分けると、急に目の前が開ける。界門のそばには建物や屋台を建ててはいけないことになっているのだ。
そんな広場の真ん中には、異世界に通じる門が鎮座している。
門が金色に輝いているのは、全体が金炎で作られているためだ。燃え盛る火口のように辺りを照らし出していながら、発する熱は穏やかで暖かな範囲に留まっている。波打つ表面からは時々炎が飛び出しては戻り、かと思えば突然澄んだ水面のように凪いでしまうこともある。どれほど眺めていても決して同じ様子になることはない。輝く炎でありながら、側面に回り込んでしまうと全く厚みがないこともまた、セイランには不思議で仕方ないことである。大都の南大門ほどもある全体をどうやって支えているのか、そもそも支えが必要なのか。南大門みたいに天辺には登れないだろうか。そんなことを考えながら、セイランは門を眺めて一日を費やした事もある。
今もまた、魅入られたようにセイランが門を観察していると、不意にその表面が揺らいだ。
かき回されたとろ火が火勢を上げるように、界門を形作る金炎が大きく噴出する。人の体ほどもある火柱が次々と飛び出しては戻り、門が輝きを強めていく。門そばの屋台で飲み食いしている人々がどよめくが、店主達はほんのわずかに視線を向けるだけで見向きもしない。慣れているのだ。
そうしてひときわ大きな火柱が上がり、戻ると、そこには二つの人影が姿を現し始めている。
その瞬間をつぶさに眺めていれば、まるで炎が人を燃やし尽くす様をさかさまにしたような光景が見える。ある意味でそれは正しい。世界の境界を越えるとき、渡航者の身は神の力に包まれる。そして大延国の主神たる金羅は火の神でもある。神力の発効には金炎の輝きがつき物であることは、大延国の人間なら誰でも知っている。
よろよろと門から歩み出た人影が、手をかざして眩しそうに目を細める。かと思うと一歩踏み出して後ろを振り返り、後から出てきた人影に手を貸して引っ張り寄せる。差し出された手も、それを握る手もしわくちゃだ。よろめきそうになる老夫人を支えながら、細長い顔立ちの老紳士は尚も目を丸くしている。目に入るもの全てが珍しいのだ。小さくて丸っこい老婦人もまた、老紳士にしがみついて不安げである。細身の紳士と丸っこい体と体つきは対照的ながら、その顔立ちは驚くほど似ている。夫婦だと、セイランは確信した。
門の前に広がる空き地を横切って、犬人の衛視が二人に近づいていく。衛視が掲げる槍の閃きと物々しい鎧に目を留めたのか、異人の二人がますます身を縮こまらせた。
セイランは我慢ができなくなった。人の輪から飛び出すと、口に手を当てて、所在無げな異人の二人に向かって声を張り上げた。
「ようこそ、大延国へ!」
異人の二人がびっくりしたようにセイランを見た。セイランは両手をぶんぶん打ち振り、満面に笑顔を作った。固まっていた老婦人の顔にしわが深くなった。思わずこぼれた微笑だ。
柔らかなどよめきが、
ゲートを取り囲む人ごみに満ちた。
セイランの横から、一人の豚人が飛び出すと拳をうち振った。
「ようこそ! 今日のお食事は是非当『大福飯店』へお越しください! 市城どころか大延国一のから揚げがたったの一糧! ほっぺた落ちること請け合いだよ! 他の店で何の肉だか分からない料理を食べて腹を壊すなんて、真っ当な頭があるならやっちゃいけないよ!」
「騙されんなよお客人!」
さっと投げかけられた声の主は、前垂れをした壮年の犬人だ。紙に包まれて湯気を上げる饅頭を掲げ、犬人は声を張り上げる。
「チョウの店は飯店なんて上等なもんじゃねえから! 油だって使い古しだかんな! それよりうちの饅頭はどうだい」
「営業妨害止めろ!」
「お前が先にやったんじゃないか!」
「お客人! 宿まだ決まってないんだろ! よかったらうちに来てくれよ、飯も出すよ」
「あー、大福飯店では部屋も貸し出しております! 良心的なお値段で快適なお部屋をご提供しております!」
「あのボロ屋が快適とは恐れ入ったねー。埃に雨漏り、南京虫、一式とりそろえてお出迎えってかー」
「黙れ飲んだくれ! 営業妨害止めろっつってんだろ!」
「きーんと冷えた銀果の絞り汁はいかがかなー。あまいよー冷たいよー」
「ばっかお前、まずは酒だろ酒。大延国に来たからにゃ、ぜひとも紅尾酒のいいのを味わってもらわんことにゃ」
「いいですなあ。右手に銘酒、左手につまみ。くいっといいのを味わった後には、この香辛料たっぷり利かせた肉が合うとこういうわけですよ。どうですかお客人、いっちょ味わっておいきなさいな」
「ふざけんな! 舌がしびれるだけじゃないか! 紅尾酒の繊細な味わいはどうなる!」
「あなたこそ馬鹿舌のくせにいっちょ前に味を語ってくれますなあ」
「あー、大福飯店の料理は紅尾酒にも合うこと請け合いでしてー」
「引込め!」
「なんだと!」
豚人、虎人、狐人、狸人、犬人。雑多な種族が勝手な事を言い立てる。呆れたように腰に手を当てていた衛視が、決まり悪げに異人の夫婦に話しかけている。受け答えする二人にはもう緊張の色はない。時折人の輪に向けられるその視線に宿っているのは、純粋な好奇心だ。
丸っこい老婦人の方が、セイランに小さく手を振った。セイランもまた手を振ると、表情を改めて背筋を伸ばし、セイランに披露出来る最上のお辞儀をしてみせた。なんと言っても、セイランは界門通関司の長、異人を歓迎するのは間違いなくセイランの公務なのだ。
異人の老夫婦が、衛視に連れられて詰め所に入っていく。セイランはそれを見送ると、詰め所の横手にある通用口へと回った。異人の夫婦をもてなすことも仕事であるが、より面倒くさい用件もまた大事である。
不可能ではなかった。カンペイの家に眠るゴミが、異世界では高値で売れる。シュウとカンペイによって入念に塗りたくられた逸話の化粧が、ほこりとくずとを宝に変える。
「――これに、なにか逸話をつければいいんです。なにかすごい謂れがあるってことにすればいいんです」
コウカのにやにや笑いが深まった。
「お見事です。でもまだ答えは半分ですね。具体的にはどうします? これにはどんな謂れがあることにしましょうか?」
「それは――」
「すこし助けを出しましょうか。我々衛視は特に理由もなく物品は押収しません。実のところ、界門を通じて往来する旅行者の物品が取り調べられるというのは、とても珍しいことなんです。門神が自ら検査を行うので、人間の仕事なんか残ってないんですよ」
門神とは、界門をつかさどる神霊のことである。
「まあ仮に、万が一ですが、自分で危ないものがあると申し出れば検査はすることになってます。誰もそんなこと知りませんがね。やばいものを運んでいるのに、わざわざ自分で申告するやつなんかいませんから」
しかしマオは申告した。衛視に預かってもらうために。あるいは、検査されたという実績を作るために。
「検査が終われば請け出すことができます。詰まらん服が、衛視がわざわざ取り調べた謎の物品に早変わりです。興味を引かれてよってきた客に言うわけですよ。『これこそは、異界においても類を見ない珍品です。大変珍しいものなので、わざわざ衛視が取り調べたのです』とね。どういう秘密が? と客が聞いてくればしめたもの、曰くありげに微笑んで『買えば分かります』と答えれば十人に一人は騙せます。後はそいつに十倍の値段で売りつければいいんです」
「えー……」
「当然客はそのうち騙されたことに気が付くでしょうが、逃げるのも異世界に帰ればいいんで簡単ですね。こっちで金さえつかめれば向こうにも大手を振って戻れるでしょうから」
セイランは空を仰いだ。またしても詐欺のような話である。今日は朝から、真っ当な商売をしようと言う気持ちをないがしろにして初めて浮かんでくるような考えばかり聞かされているような気がする。セイランは顔をしかめた。
「そんなの、良くないと思います」
「まああくまで、これは自分ならそうしますってだけの事ですがね。例の異人も、本当は気が動転してるだけかもしれませんよ。そんな姑息なものの考えするような人間じゃなくてね」
セイランはマオの顔を思い浮かべた。なりふりかまわず友達の金に手を付けて逃げてきた異人の、追い立てられた野良犬のように情けなくゆがんだ相貌。『マオは信用できる人間だ』という考えにはだんだん足に『かもしれない』が付き、頭に『ひょっとすると』が生え、遂にはセイランの中で萎んで消えた。もし今のマオが屋台で飲み食いしたなら、店主が目を外した隙に皿ごと掴んで逃げ出しているかもしれない。皿を抱えて逃げるマオの眼鏡顔が鮮明に思い描けてしまったところで、セイランは首を振っていやな想像を追い払った。
マオにも事情はあるのだろう。それはそれとして、同情できる気もしない。
「どうするんですか? マオさんのそういう姑息な考えにわざわざ乗ってあげるんですか」
「それは、我らが隊長殿が判断することです」
セイランはコウカのニヤニヤ笑いを一にらみすると、憤然と腰に手を当てて首をめぐらせた。
異世界につながる門はここからでも見える。金色に輝く炎が弧を描き、ゆっくりと揺らめいている。あの門の向こうからやってくる人たちの多くは、こちら側の人々と姿かたちこそ違えど、同じようにものを考えている。そうに違いないとセイランは信じている。だからこちら側と同じように、いい人もいれば、悪い人も当然いるのだろう。悪い人がいれば、騙したり騙されたりだって当然ある。セイランたちが取り組んでいるヤミ潜書屋だって、異人を騙して苦しめる商売だ。
そしてそういう事が起こらないようにするために、セイランの通関司がある。誰もが避けて通る面倒ごとを解決して、皆に笑顔でいて貰う。それこそがセイランの役割のはずである。
セイランは先ほど門を抜けて現れた老夫婦を思い浮かべた。あの笑顔こそ、セイランの守るべきものである。
「私、本当はここにお願いしに来たんです。マオさんの商品をもうちょっとだけでいいから預かっておいてほしいって」
「お預かりしますとも。乾くまではね」
「でも止めました。このTシャツ全部、通関司で預かります」
「そうですか。こちらとしては別に構いませんが、例の異人はなんといいますかね」
「とにかく預かるったら預かります。詐欺に使われるの見過ごすなんて我慢できません。マオさんにお願いして、きちんと商売するって約束してもらってから返すことにします。どうせ、預かり場所の当てなんてないはずです」
「詐欺かどうかは知りませんが、まあ預かり先には困ってるでしょうね」
「だから預かります。乾いたら知らせてください。取りに来ますから」
「いいんですか、結構な量になりますが」
「いいんです。やります」
「そうですか」
コウカはどこまでもニヤニヤ笑いである。セイランは眉をひそめたが、文句を言うには至らない。失望するのは一日一人相手でで十分である。と、コウカが手を打ち合わせた。
「おっと、一着だけは残しておいて貰いたいですね」
「どうしてですか」
「自分が買いますから」
「着るんですか?」
「ええまあ、そんなところです」
「はあ」
珍しい。高値と知ってなお、コウカはこれを買いたいのだ。この人は変わり者だという評価が、セイランの中でしっかりと根を張った。
「じゃあ伝えときます」
「よろしくお願いします」
用は済んだ。セイランはコウカに頭を下げるときびすを返して歩き出し、そして壁にぶつかった。