【汗衫公主 三】

 詰め所へはセイラン一人で行く運びとなった。「マオが行ったら引き取らされて放り出されて終わりじゃないかなあ」というシュウの指摘を受けての事である。
 放り出されればよいのではないか――そんな言葉をセイランは寸前で飲み込んでいた。Tシャツがどれほどかさばる荷物であるにせよ、無理やり衛視に預けるからにはそれなりに預ける先に困る分量であるに違いない。そんな荷物を抱えたマオが次に泣きつける先が通関司ぐらいしかないことはセイランもうすうす察していて、だから『衛視に個人の荷物を預けるのははなはだ迷惑なことだ』というセイランの主張も、だんだん尻すぼみになっていったのである。
 とは言え、こんなひどいことを見過ごすわけにも行かない。衛視の隊長はセイランの知り合いである。こんなひどい横車のせいで衛視が迷惑するのを見逃したとあっては、セイランの面目丸つぶれである。まずは様子見、善後策はそれから。
 ところで、他の面々もまた、隊長には合わせる顔がないものであるらしい。
「いや、本当なら僕も行った方がいいんだろうし、ぜひとも行きたいんだけどね」
 シュウはそう言って頬をかいた。
「でもさ、僕が衛視さんのところにいくと、なぜか尋問がはじまっちゃんだよね。隊長さんにも会わせてもらえないし。この間は地下牢を見学させてもらうことになってさ。じめじめしてるんだねえ、地下牢って。中にも入れてもらったんだけど閉口したよ」
 無理もない、とセイランは納得した。シュウはこちらに来た直後、妖書にとらわれたことで衛視の隊長とかかわり、そのせいで衛視と揉め事を起こしたことがあるのである。シュウの無反省ぶりから察して、衛視側の感情が軟化した様子はないらしい。
 では不本意ながらカンペイを頼るか、と考えたところで、セイランはふと卓の上に唾が飛んできていないことに気が付いた。呆然としながらシュウを振り返ると、シュウは何でもなさそうに肩をすくめる。
「カンペイさん? ああ、彼ならマオを連れてお出かけだよ。なんでも石切り場の労働環境に関する勉強会だってさ」
 そんなわけで、誰一人頼れなくなったセイランは独り、菜果大路沿いに市城を横断し、界門のそばにある衛視の詰め所に向かっていた。
 衛視の詰め所は他にもいくつかある。北と南に開いている城門に一つずつ、市内を見回るための拠点が一つ。セイランが訪れているのは、特に異世界の門を通じて行き来する人々を見張るための詰め所である。
 大路を行きかう人々の頭越しに界門の輝く縁が見えてくると、セイランは足を早めた。
 異世界につながる門、すなわち界門は市城の中心部に設けられている。というより、この門を中心として街が出来上がったのである。大延国の主神たる金羅様がこの地に門を開いたとき、この辺りは街道からも微妙に外れた何にもない土地であったらしい。十年の間に人が集まり、家が建ち、城壁がめぐらされて街が出来上がった。この街は異人たちの訪れる玄関口として生まれ、育ってきたのである。
 界門のそばを訪れるとき、セイランは必ず門を見に立ち寄る事にしている。
 所狭しと乱立する屋台に群がる人ごみ――異人とこちらの人とが半々――を掻き分けると、急に目の前が開ける。界門のそばには建物や屋台を建ててはいけないことになっているのだ。
 そんな広場の真ん中には、異世界に通じる門が鎮座している。
 門が金色に輝いているのは、全体が金炎で作られているためだ。燃え盛る火口のように辺りを照らし出していながら、発する熱は穏やかで暖かな範囲に留まっている。波打つ表面からは時々炎が飛び出しては戻り、かと思えば突然澄んだ水面のように凪いでしまうこともある。どれほど眺めていても決して同じ様子になることはない。輝く炎でありながら、側面に回り込んでしまうと全く厚みがないこともまた、セイランには不思議で仕方ないことである。大都の南大門ほどもある全体をどうやって支えているのか、そもそも支えが必要なのか。南大門みたいに天辺には登れないだろうか。そんなことを考えながら、セイランは門を眺めて一日を費やした事もある。
 今もまた、魅入られたようにセイランが門を観察していると、不意にその表面が揺らいだ。
 かき回されたとろ火が火勢を上げるように、界門を形作る金炎が大きく噴出する。人の体ほどもある火柱が次々と飛び出しては戻り、門が輝きを強めていく。門そばの屋台で飲み食いしている人々がどよめくが、店主達はほんのわずかに視線を向けるだけで見向きもしない。慣れているのだ。
 そうしてひときわ大きな火柱が上がり、戻ると、そこには二つの人影が姿を現し始めている。
 その瞬間をつぶさに眺めていれば、まるで炎が人を燃やし尽くす様をさかさまにしたような光景が見える。ある意味でそれは正しい。世界の境界を越えるとき、渡航者の身は神の力に包まれる。そして大延国の主神たる金羅は火の神でもある。神力の発効には金炎の輝きがつき物であることは、大延国の人間なら誰でも知っている。
 よろよろと門から歩み出た人影が、手をかざして眩しそうに目を細める。かと思うと一歩踏み出して後ろを振り返り、後から出てきた人影に手を貸して引っ張り寄せる。差し出された手も、それを握る手もしわくちゃだ。よろめきそうになる老夫人を支えながら、細長い顔立ちの老紳士は尚も目を丸くしている。目に入るもの全てが珍しいのだ。小さくて丸っこい老婦人もまた、老紳士にしがみついて不安げである。細身の紳士と丸っこい体と体つきは対照的ながら、その顔立ちは驚くほど似ている。夫婦だと、セイランは確信した。
 門の前に広がる空き地を横切って、犬人の衛視が二人に近づいていく。衛視が掲げる槍の閃きと物々しい鎧に目を留めたのか、異人の二人がますます身を縮こまらせた。
 セイランは我慢ができなくなった。人の輪から飛び出すと、口に手を当てて、所在無げな異人の二人に向かって声を張り上げた。
「ようこそ、大延国へ!」
 異人の二人がびっくりしたようにセイランを見た。セイランは両手をぶんぶん打ち振り、満面に笑顔を作った。固まっていた老婦人の顔にしわが深くなった。思わずこぼれた微笑だ。
 柔らかなどよめきが、ゲートを取り囲む人ごみに満ちた。
 セイランの横から、一人の豚人が飛び出すと拳をうち振った。
「ようこそ! 今日のお食事は是非当『大福飯店』へお越しください! 市城どころか大延国一のから揚げがたったの一糧! ほっぺた落ちること請け合いだよ! 他の店で何の肉だか分からない料理を食べて腹を壊すなんて、真っ当な頭があるならやっちゃいけないよ!」
「騙されんなよお客人!」
 さっと投げかけられた声の主は、前垂れをした壮年の犬人だ。紙に包まれて湯気を上げる饅頭を掲げ、犬人は声を張り上げる。
「チョウの店は飯店なんて上等なもんじゃねえから! 油だって使い古しだかんな! それよりうちの饅頭はどうだい」
「営業妨害止めろ!」
「お前が先にやったんじゃないか!」
「お客人! 宿まだ決まってないんだろ! よかったらうちに来てくれよ、飯も出すよ」
「あー、大福飯店では部屋も貸し出しております! 良心的なお値段で快適なお部屋をご提供しております!」
「あのボロ屋が快適とは恐れ入ったねー。埃に雨漏り、南京虫、一式とりそろえてお出迎えってかー」
「黙れ飲んだくれ! 営業妨害止めろっつってんだろ!」
「きーんと冷えた銀果の絞り汁はいかがかなー。あまいよー冷たいよー」
「ばっかお前、まずは酒だろ酒。大延国に来たからにゃ、ぜひとも紅尾酒のいいのを味わってもらわんことにゃ」
「いいですなあ。右手に銘酒、左手につまみ。くいっといいのを味わった後には、この香辛料たっぷり利かせた肉が合うとこういうわけですよ。どうですかお客人、いっちょ味わっておいきなさいな」
「ふざけんな! 舌がしびれるだけじゃないか! 紅尾酒の繊細な味わいはどうなる!」
「あなたこそ馬鹿舌のくせにいっちょ前に味を語ってくれますなあ」
「あー、大福飯店の料理は紅尾酒にも合うこと請け合いでしてー」
「引込め!」
「なんだと!」
 豚人、虎人、狐人、狸人、犬人。雑多な種族が勝手な事を言い立てる。呆れたように腰に手を当てていた衛視が、決まり悪げに異人の夫婦に話しかけている。受け答えする二人にはもう緊張の色はない。時折人の輪に向けられるその視線に宿っているのは、純粋な好奇心だ。
 丸っこい老婦人の方が、セイランに小さく手を振った。セイランもまた手を振ると、表情を改めて背筋を伸ばし、セイランに披露出来る最上のお辞儀をしてみせた。なんと言っても、セイランは界門通関司の長、異人を歓迎するのは間違いなくセイランの公務なのだ。
 異人の老夫婦が、衛視に連れられて詰め所に入っていく。セイランはそれを見送ると、詰め所の横手にある通用口へと回った。異人の夫婦をもてなすことも仕事であるが、より面倒くさい用件もまた大事である。




 界門そばの衛視詰め所には、事務所や保管庫、専用の食堂が併設されている。食堂があれば水場もあり、調理場もある。
 セイランはそこで、目的の人物を見出した。衛視の隊長、『金黙星』ことヒョウセイである。
 声を掛けようとして、セイランはふとヒョウセイの前で燃え盛る火に目を留めた。火に掛けられているのは小さななべだ。そのなべを、ヒョウセイは何やら難しい表情で見つめている。もうもうと上がる湯気が、なんとも場違いな雰囲気である。
 たじろぐセイランの前で、ヒョウセイはやおらなべに箸を突っ込み、何かを引き上げた。
 Tシャツである。
 引き上げたTシャツに、ヒョウセイは注意を払わない。水気を切ってそばに置かれたかごに落とし、脇に押しやる。薪をくべ、火かき棒を突っ込んで火勢を上げる間、ヒョウセイの目はなべの中で沸き立つお湯に油断なく注がれている。
 ひょっとすると、何か衛視に伝わるしきたりかもしれない。Tシャツに似た何かを煮込み、捨てる。しきたりのご多聞にもれず、その意味するところを知るものはほとんどいないが、とにかく代々の隊長に千年も前から引き継がれてきた大事な儀式なのである。
 そんなばかげた考えがセイランの脳裏をよぎり、一時も経たず蒸発した。セイランは決して大延国に伝わる儀式の全てを知り尽くしているわけではないし、ヒョウセイの真剣な目つきを見れば何か大事なことであるのは明らかではあるのだが、それにしてもなにかしらばかげた光景だということだけはセイランにもはっきりと見て取れた。
 と、ヒョウセイの瞳がくるりと動き、セイランの姿を捉えた。おや、とでも言いたげに片眉を上げたヒョウセイに、セイランはお辞儀をした。
「あの、ヒョウセイさん、こんにちわ」
「こんにちわ」
 拱手して頭を下げ、なべを火から下ろしてセイランに向き直る。そのまま何事もなかったかのように、ヒョウセイは直立したままセイランを見下ろしている。用件を切り出しかねて、セイランは目を泳がせた。察したように、ヒョウセイの方が口を開いた。
「わざわざお越しになるとは、いかがされましたか」
「ええと、そのですね」
 この度は異人さんが迷惑をおかけしたみたいでごめんなさい――と言いかけた言葉は、何故セイランが謝らねばならないのかという感覚にさえぎられて消える。頭を下げるべきはマオ本人であって、セイランが責任を感じる必要などないはずである。
 代わりにセイランは事実だけをいう事にした。
「あの、異人さんがここにたくさん荷物を預けたって聞いたんですけど」
 ヒョウセイは表情を動かさない。なんかこう、こういうのをしたマオって名前の人で――とセイランが顔に指で作った円を当てはじめたところで、ほんのわずかに口を開く。
「確かに預かっています」
「そうですか。あの、それで」
「あれに何か、問題でも」
「問題って、ええと」
 思わぬ言葉である。セイランにしてみれば、知りもしない他人の荷物を自分のところに勝手に置いていかれることは問題以外の何者でもない。そうでなくても、セイランたちの住んでいる通関司の建物は狭いのである。
「じゃまじゃないんですか。だって、勝手に置いていったんですよ? 衛視さんは荷物預かってもらうところじゃないと思います」
「おっしゃるとおりです」
 ヒョウセイは涼しい顔である。調子が狂いつつあったセイランの思考は、ここに来て完全に停止した。
 ――ひょっとして、わざわざ来る必要もなかったんですか。
 マオの勝手極まる振る舞いにどれだけ迷惑を被っているかと思えばこの肩透かしである。怒ってもいない相手はなだめようもない。どうしたものかと考えて、セイランはそもそもここへ赴いた目的からして曖昧であった事に気が付いた。荷物を引き取るのは御免だし、セイランが謝るのもおかしい。なんとも宙ぶらりんである。強いて言うなら、預かった荷物を捨てられるとマオの生命線も絶たれかねないのでそのままにして置いてください、と頼むことだっただろうか。嘘とは言え密輸品だと言い張って預けたそうだから、むやみに捨てられるようなことはないはず――
 密輸品。
「あの、ヒョウセイさん」
「はい」
「その預かり品って、なんかすごい密輸品なんですよね」
「当人から聞いたのですね」
「そうです。あの、押収したから預かってるって扱いなんですか」
 ヒョウセイは顔色一つ変えず、空焚きになっていたなべを火から下ろしてわきに置いた。わずかになべを覗き込み、すぐに視線をセイランに戻す。セイランも釣られてなべを覗き込んだが、そこには何も残ってはいない。かごの中にぞんざいに置かれたTシャツとなべとを見比べて、セイランは首を捻った。Tシャツは確かにマオが持ちこんだもののようである。
「確かに押収しました」
「そうなんですか」
「しかし、どうもその必要はなかったようです」
「へ?」
「マオという異人から押収したこの服には、何も含まれていなかったということです」
 ヒョウセイはカゴからTシャツを取り出すと絞り、ぱんぱんとはたいて折りたたむとまたカゴに入れた。火を消し、かごと鍋とを持ち、セイランを一目見やるとそのまま歩き出して調理場を出ていく。あわてて付いていくセイランに時折振り向きながら、ヒョウセイは説明し始めた。
 一口で言えば、マオはTシャツを用いて麻薬を密輸していると主張したそうである。
「まやく?」
「人々をたぶらかす悪い薬です。こちらでは腐蝋散や鹿角、赤土芭などが代表的ですね。彼が持ち込んだと主張したのは、コカインという異界の麻薬です」
「こかいん、ですか」
「ええ。薬を水に溶き、件のTシャツなる衣類にしみこませて持ち込んだら、洗って薬を溶かしだしてから煮詰めて取り出すのです」
 謎の儀式などではなかったのである。
「あ、でもそしたら、鍋に残るんじゃ」
「残りませんでした」
 ヒョウセイの差し出した鍋をセイランは覗き込んだ。鍋は完全に乾ききり、底には何も残っていない。
「彼の主張するとおりなら、粉が残るはずです」
 残るはずもない。マオはただ単に荷物を預けたいが為だけに嘘をついたのだから。それにしても、麻薬というのはとんでもない問題である。普通は荷物だけではなく本人の身柄も捕まえられてしまいかねないのではないだろうか。つくならもっと他の嘘をつけばよかったのにと考えて、セイランはマオの憔悴しきった顔を思い浮かべた。うつろな目にゆがんだ口元、大延国でも異世界でも同じ、頭から脳みそが残らず流れ出た人間の顔であった。
「マオさん、そこまでして荷物を預かってほしかったんですかね」
「だとすれば、変わった嘘をついたものですね」
 ヒョウセイは足を止めた。通廊の突き当たりの扉を押し開け、外に向かって歩みだす。日の光に目を細めながらセイランも続いた。木剣や槍で組み手を行っていた衛視たちが、ヒョウセイの姿を目にして敬礼する。自分にも向けられる敬礼に答えながら、セイランはヒョウセイの行く先に目を見張った。
 訓練場の一角にいくつも渡された物干し竿には、無数の衣類が翻っている。胴着に袴、手ぬぐいなどの雑多な洗濯物がぶら下がっている。無造作にまきつけられた男物の褌を目にすると、セイランはどぎまぎして視線をそらした。物干し竿に下げられた陶器の風鈴はずいぶんな年季ものであり、それゆえに風精の興味を引くことも出来ていないようである。
 袖をまくった狐人の若い男が、足元の籠から取り出した洗濯物を竿に通しては乾していく。狐人はヒョウセイを認めると拱手して破顔した。
「それで最後ですか」
「頼む」
「賭けは俺の勝ちですね」
 答える代わりに、ヒョウセイは鍋の中身を示した。狐人の笑みが深まった。
「勝った後で言うのは何ですが、隊長には分の悪い勝負でしたね。じゃあ、いずれよろしくお願いしますよ」
 ヒョウセイは答えず、籠を男の足元に置くと、セイランに向き直った。
「公主様」
「はい」
「件の異人をご存知でしたら、こうお伝えください。『準備が整うまでこちらで預かっておくが、取りに来なければ処分する』と」
 来るべきものが遂にきた。セイランでも分かる当たり前の結論である。
 用事は済んだとばかりに頭を下げ、ヒョウセイはセイランを置いて歩み去っていく。取り残されたセイランは洗濯物にぼんやりと目をやった。洗濯物の中には衛視たちの服に混じって、Tシャツが何枚もぶら下がっている。いずれも煮込んで調べたのだろうと知れた。
「公主様」
 セイランが振り返ると、狐人の男が拱手している。ヒョウセイが持ってきたばかりのTシャツをかごから取り出し、竿に通す。結構な高さのある支えに苦もなく手を伸ばしてあっさりと引っ掛ける。顔つきや物腰は柔和ながら、体躯は堂々たるものである。男はセイランに微笑みかけた。
「こんなむさくるしいところにわざわざお越しとは、どういったご用件で?」
「あの、失礼ですがあなたは」
「コウカとお呼びください。ここの副隊長を務めております」
「副隊長、ですか」
 見覚えがない。セイランの心にまず浮かんだのはそのことである。衛視とくれば、市中の警邏が主な仕事とみなしてほぼ間違いない。セイランも全員の顔と名前が一致しているとは言わないが、顔程度ならほとんどの衛視を知っている。
 そんなセイランの心を読んだように、コウカが笑みを深めた。
「見覚えのないのも無理はございません。私はほとんど門の向こう側ですごしておりますので」
「向こう側って」
「異界への門ですよ。その地球側です」
 異なる二つが触れ合えば境が生じる。境に通り穴が開き、人が出入りするようになれば、それは門と呼ばれるようになる。必然的に、門は二つの顔を持つようになる。こちら側に見せている顔と、あちら側に向けている顔だ。
「私はその門の、あちら側での警備を担当しているのです。と言っても、ほとんど何にもしてないんですがね」
「そうなんですか」
「そりゃまあ。中国側の出国手続きを済ませたお客さんが、辺りに張り巡らされている鉄条網をうっかり乗り越えたりしないようにするのが主な仕事、といえばお分かりいただけるでしょうかね」
「てつじょうもう……」
「柵の親戚ですよ。鉄で出来てて棘が生えてます。あれはいいですね。泥棒避けには最適ですよ」
 棘だらけの柵。なんとも物々しい。そんなものをわざわざ乗り越えようとする人なんかいるのだろうか。
「いいえ全然。向こうに出ると高原の砂漠みたいなところで、門の周りには何にもないんです。それこそ、警備しないといけないようなものも、ね。だからまあ、副隊長つっても、実質的には島流しですね」
 あっけらかんとコウカはいう。洗濯物を乾し終わった後には特に何をするでもなく座り込み、時折訓練場の向こうにぼんやりと目をやる。なんとも手持ち無沙汰な様子である。
「あの、門の向こう側に戻らなくていいんですか」
「どうせ仕事なんかありませんよ。かといってこっちに戻って警邏に出ると、事情を知らない下っ端に『副隊長が脱走した』なんて騒がれます。しょうがないからこうして洗濯の手伝いをしてるわけです」
「脱走って、そんな。副隊長さんなんでしょう?」
「まあ、半分方懲罰人事みたいなもんですから」
 なんとも物騒な物言いである。
「なんか悪い事したんですか」
 目を丸くしたセイランを見て、コウカの笑みが深まった。
「いえ、別に。強いて言うなら、ちょっとしつこく口説きすぎたというだけのことですよ」
 誰を口説いたのか、とはセイランも問わない。思い返せば、さっきのヒョウセイはコウカに対して少しよそよそしかったような気がしなくもない。シュウといい、このコウカといい、ヒョウセイは角を曲がるごとに言い寄られているに違いない。自分も男達にまとわりつかれる鬱陶しさを想像して、セイランは一丁前にため息をついた。
「おっと、長々と益体もないお話をしてしまって申し訳ない。公主様、そろそろご用件をお聞かせ願えますでしょうか」
 そうだった。危うく忘れるところだった。セイランがマオの嘘や窮状について話をしている間、コウカは黙って耳を傾けていた。ようやく話が終わると、コウカはこらえきれないように笑った。
「なるほど。そのマオとかいう異人も、とっぴなことを考えたもんですね」
「そうですよ。たかが預けたいってだけで迷惑かけて」
「まあでも、面白いといえば面白いですよ。どうせ失うものはないってんで、ちょっとした賭けに出たんでしょう」
「どういう意味ですか?」
「一つには、中国側から追ってくるくるかもしれない借金取りに差し押さえられないようにって事があります。それともう一つ、押収されたという事実があれば、この詰まらん衣装にも多少は売りが出来るって事ですよ」
 コウカが干されたTシャツを指して微笑み、セイランはといえば首を捻った。理解不能である。そうですねえ、とコウカは顎に手を当てた。
「例の異人は、この何の変哲もない服をものすごい高値で売りたい。そう望んでいるそうですね」
「そうです。馬鹿みたいな値段です」
「じゃあ、馬鹿みたいなものに、馬鹿みたいな値段を付けて買わせるにはどうしたらいいでしょうね?」
 そんなことは不可能である。そういいかけたセイランの脳裏に、先ほどの金栄館でのやり取りがよみがえった。

『ゴミにしか見えませんけど』
『それはそうだねぇ。でも、これに逸話が付いてたらどうかな?』

 不可能ではなかった。カンペイの家に眠るゴミが、異世界では高値で売れる。シュウとカンペイによって入念に塗りたくられた逸話の化粧が、ほこりとくずとを宝に変える。
「――これに、なにか逸話をつければいいんです。なにかすごい謂れがあるってことにすればいいんです」
 コウカのにやにや笑いが深まった。
「お見事です。でもまだ答えは半分ですね。具体的にはどうします? これにはどんな謂れがあることにしましょうか?」
「それは――」
「すこし助けを出しましょうか。我々衛視は特に理由もなく物品は押収しません。実のところ、界門を通じて往来する旅行者の物品が取り調べられるというのは、とても珍しいことなんです。門神が自ら検査を行うので、人間の仕事なんか残ってないんですよ」
 門神とは、界門をつかさどる神霊のことである。
「まあ仮に、万が一ですが、自分で危ないものがあると申し出れば検査はすることになってます。誰もそんなこと知りませんがね。やばいものを運んでいるのに、わざわざ自分で申告するやつなんかいませんから」
 しかしマオは申告した。衛視に預かってもらうために。あるいは、検査されたという実績を作るために。
「検査が終われば請け出すことができます。詰まらん服が、衛視がわざわざ取り調べた謎の物品に早変わりです。興味を引かれてよってきた客に言うわけですよ。『これこそは、異界においても類を見ない珍品です。大変珍しいものなので、わざわざ衛視が取り調べたのです』とね。どういう秘密が? と客が聞いてくればしめたもの、曰くありげに微笑んで『買えば分かります』と答えれば十人に一人は騙せます。後はそいつに十倍の値段で売りつければいいんです」
「えー……」
「当然客はそのうち騙されたことに気が付くでしょうが、逃げるのも異世界に帰ればいいんで簡単ですね。こっちで金さえつかめれば向こうにも大手を振って戻れるでしょうから」
 セイランは空を仰いだ。またしても詐欺のような話である。今日は朝から、真っ当な商売をしようと言う気持ちをないがしろにして初めて浮かんでくるような考えばかり聞かされているような気がする。セイランは顔をしかめた。
「そんなの、良くないと思います」
「まああくまで、これは自分ならそうしますってだけの事ですがね。例の異人も、本当は気が動転してるだけかもしれませんよ。そんな姑息なものの考えするような人間じゃなくてね」
 セイランはマオの顔を思い浮かべた。なりふりかまわず友達の金に手を付けて逃げてきた異人の、追い立てられた野良犬のように情けなくゆがんだ相貌。『マオは信用できる人間だ』という考えにはだんだん足に『かもしれない』が付き、頭に『ひょっとすると』が生え、遂にはセイランの中で萎んで消えた。もし今のマオが屋台で飲み食いしたなら、店主が目を外した隙に皿ごと掴んで逃げ出しているかもしれない。皿を抱えて逃げるマオの眼鏡顔が鮮明に思い描けてしまったところで、セイランは首を振っていやな想像を追い払った。
 マオにも事情はあるのだろう。それはそれとして、同情できる気もしない。
「どうするんですか? マオさんのそういう姑息な考えにわざわざ乗ってあげるんですか」
「それは、我らが隊長殿が判断することです」
 セイランはコウカのニヤニヤ笑いを一にらみすると、憤然と腰に手を当てて首をめぐらせた。
 異世界につながる門はここからでも見える。金色に輝く炎が弧を描き、ゆっくりと揺らめいている。あの門の向こうからやってくる人たちの多くは、こちら側の人々と姿かたちこそ違えど、同じようにものを考えている。そうに違いないとセイランは信じている。だからこちら側と同じように、いい人もいれば、悪い人も当然いるのだろう。悪い人がいれば、騙したり騙されたりだって当然ある。セイランたちが取り組んでいるヤミ潜書屋だって、異人を騙して苦しめる商売だ。
 そしてそういう事が起こらないようにするために、セイランの通関司がある。誰もが避けて通る面倒ごとを解決して、皆に笑顔でいて貰う。それこそがセイランの役割のはずである。
 セイランは先ほど門を抜けて現れた老夫婦を思い浮かべた。あの笑顔こそ、セイランの守るべきものである。
「私、本当はここにお願いしに来たんです。マオさんの商品をもうちょっとだけでいいから預かっておいてほしいって」
「お預かりしますとも。乾くまではね」
「でも止めました。このTシャツ全部、通関司で預かります」
「そうですか。こちらとしては別に構いませんが、例の異人はなんといいますかね」
「とにかく預かるったら預かります。詐欺に使われるの見過ごすなんて我慢できません。マオさんにお願いして、きちんと商売するって約束してもらってから返すことにします。どうせ、預かり場所の当てなんてないはずです」
「詐欺かどうかは知りませんが、まあ預かり先には困ってるでしょうね」
「だから預かります。乾いたら知らせてください。取りに来ますから」
「いいんですか、結構な量になりますが」
「いいんです。やります」
「そうですか」
 コウカはどこまでもニヤニヤ笑いである。セイランは眉をひそめたが、文句を言うには至らない。失望するのは一日一人相手でで十分である。と、コウカが手を打ち合わせた。
「おっと、一着だけは残しておいて貰いたいですね」
「どうしてですか」
「自分が買いますから」
「着るんですか?」
「ええまあ、そんなところです」
「はあ」
 珍しい。高値と知ってなお、コウカはこれを買いたいのだ。この人は変わり者だという評価が、セイランの中でしっかりと根を張った。
「じゃあ伝えときます」
「よろしくお願いします」
 用は済んだ。セイランはコウカに頭を下げるときびすを返して歩き出し、そして壁にぶつかった。



 セイランがぶつかったものを正確に言えば、壁のようにそそり立っていた何者かである。
 鼻を押さえて見上げるセイランを、暑苦しい顔が見下ろしている。
 髭もじゃの顎に、禿げ上がった頭部。半透明の毛玉のような顔には何の表情も浮かんでいない。風精である。市城の中でも、人型を取りたがる風精の数は多くはない。ほとんどは風に解けたままなのだ。そして、セイランにはこの髭もじゃ顔に見覚えがあった。
「お久しぶりです、風精さま」
「久しぶりです」
 風精の髭がうぞうぞと動いた。
 この風精の名前をセイランは知らない。本人も知らないらしいということは、初めてあったときに聞かされた。生まれたばかりのこの風精はこちらに来たばかりのシュウを屋根の上に投げ上げ、それをセイランが間に入って助けたのである。
 風精がすっとその指を持ち上げ、物干し竿に下がるTシャツを指した。
「これがほしいです」
 いかにも唐突な物言いである。だがセイランはあわてない。六大の中でも特に気まぐれ者の多い風精の相手も、セイランには慣れたものである。
「風精さま、これは異人のものですし、今は私が預かってるものですよ」
「知っています」
「じゃあ、持って行っちゃだめですよ」
「でもほしいのです」
 珍しい。セイランは目を丸くした。
 大延国では、風精が洗濯物に興味を示すのは比較的よく見られる光景である。人々は物干し竿に風車や鈴を取り付け、風精の注意を引きよせる。そうして洗濯物を風で乾かしてもらおうとするのである。そうして集まってくる風精がふざけているうちに、洗濯物が遠くに運び去られてしまうことも多く、これを盗布という。こうしてなくなった洗濯物は風精への贈り物にしたつもりですっぱり諦めるのが、大延国では普通のことである。
 しかし、直接服をほしがる風精となると、これはなかなか珍しい。
「気に入られたんですか?」
 風精はこくこくとうなずき、筋肉で膨らんだ腕を一振りした。生じた強風に洗濯物ははためき、セイランは思わず目をつぶった。恐る恐る目を開けると、風精は相変わらずの無表情でTシャツを見つめている。くるりとセイランに振り向いて、風精はもう一度「ほしいです」とつぶやいた。
「……正直、弱ってんですよね」
 セイランが振り向くと、そこにはコウカの笑顔がある。といっても、その笑みにはずいぶんひびが入ってしまっている。ひびから覗いているのは苦茎を噛み潰したような顔だ。
「そいつね、前からここに来ちゃ、いろいろ吹き飛ばしていくんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。埃を吹き散らしたり、古い箒を持っていったりね。それでもまあ、洗濯の手伝いぐらいはしてくれてるみたいでしたが」
「お手伝いです」と風精が重々しくうなずく。コウカの笑顔から、また一枚破片がはがれた。
「まあいいんですけど、そいつ、今朝からはその服をくれってのの一点張りでね。断ったらそよ風も吹かないし、おかげで洗濯物が乾きゃしない。困りましたよ」
「へぇ」
 コウカはいまや完全に苦りきっている。セイランは風精を見上げた。
「なんで欲しいんですか」
「着飾ります」
 またしても思いもかけない返答である。セイランの知るところ、この風精は裸でいることを気にした様子はなかった。風精の中には人のように己を飾ろうとするものもいるが、大抵は直接自分の姿を変える事で目的を遂げるものである。人の服や装飾品の真似をする事はあっても、本物を用いて体を飾ろうとするのは稀だ。
 風精はなおも魅入られたようにTシャツを注視している。思い出したようにセイランに目をやり、また戻す。全身の筋肉を怒らせ、時折こらえかねたように鼻息を漏らす。この上なく真剣な表情である。セイランは思わず笑った。それに――とセイランは思った。
 ――この服をこんなに真剣に欲しがったのは、この風精様が初めてです。
 セイランは嬉しくなった。出来ることならば買ってあげたい。もちろん五十糧なんて金額はセイランにも風精にも用意できっこないだろうけれども、マオに頼んでみる事は出来る。風精がTシャツを着て飛び回っていれば、きっと人の目にも止まるだろう。そのうちに誰かが興味を示すかもしれない。思わせぶりな嘘で騙すのではなく、ちゃんと品物自体の価値で勝負が出来るのだ。
「風精さま」
「はい」
 セイランは恭しく風精を見上げると、晴れやかな笑顔を浮かべて見せた。
「これは私のものではありませんから、差し上げるわけには行きません。でも、持ち主に頼んでみることはできます。きっと風精さまに喜んで贈ってくれると思います」そうさせます、と心中つぶやき「きっとお似合いだと思います」
「本当ですか」
 風精の顔に初めて表情らしきものが浮かんだ。ひげもじゃの顔をくしゃくしゃにして笑っている。こんな表情もできるのだ。
「それじゃあ、一緒にマオさんのところまで行きましょう。どこにいるか知りませんけど、昼時になれば帰ってきます。そしたらすぐにもらえると思いま――」
 セイランは言葉を切った。
 風精は空を見上げていた。輝いていた顔色は見る見る曇り、再び無表情に戻っていった。危急の用件といわんばかりに、風精はセイランの肩を掴むと揺さぶった。痛みより驚きが勝り、セイランはぽかんと口を開けた。
「今すぐもらえませんか」
 いかにも切羽詰っている。なんともいえず固まるセイランの身を、肩に掛けられた手が引っ張って風精の腕からもぎ放した。
「おいおい、どうしたんだ急に。大丈夫ですか、公主さま」
 セイランをいたわりながらにらみつけるコウカには目もくれず、風精は呆然とたたずんでいる。と、不意にその身が色をなくし、途端に宙に解けて消えうせた。コウカが呆れたように鼻を鳴らした。
「なんですかね、ありゃ」
「さあ」
 セイランは首を振った。以前会ったときには、風精らしくいい加減でこだわらない性質だったように思われた風精が、今日は着飾ろうとして目を血走らせていた。朝から逃げ出したテンコウといい、この風精といい、今日は精霊が妙に落ち着かないように感じられる。
 大風でもくるのだろうかと、セイランは風精が見上げていた空に眼をやった。
 不意に、視界を遠く何かがよぎった。
 どう、という重い音が、セイランの腹の底を揺さぶった。
 大気が波打つ。色とりどりの鳥達が飛び立って空を覆う。どこからともなく聞こえる歌声はまるで鈴の音のように軽やかに、しかし控えめに響き渡る。ゆるやかに吹き渡りはじめた風が運んでくるのは、かすかな花の香りだ。
 きっと誰もが空を見上げていることだろう。コウカや訓練中の衛視たちや、セイランもそうしているように。この地でこれが見られたことは、きっとこれまでないはずだ。
 セイランはいまや、今朝方にテンコウが姿を消した理由をはっきりと理解していた。姿を消したのではない。テンコウは逃げたのだ。これがやってくることをどこからともなく察知して。呆れるとともに、感心もする。こと彼女をかぎつけることに関しては、テンコウの嗅覚は大延国随一に違いない。セイランは思わず微笑んだ。大都を出て以来あっていなかった友の事を思うと、セイランの心は弾んだ。
「なんだ、これは」
「副隊長さん」
 うろたえるコウカが、セイランに目を向けた。
「隊長にお伝えください。多分お忍びだと思いますから、挨拶にはこなくてもいいと思います、と」
 胡乱げに眉をひそめるコウカにそう答えると、セイランは駆け出した。
 震気発鳥、六合鈴音、散詞略賦、白威香風。これらはいずれも、ある人物の来訪を告げる時にのみ使うことを許される先触れである。
 ある人物とはすなわち、大延国六大霊王の一人、白王である。

続く

 但し書き
 文中における誤り等は全て筆者に責任があります。

  • 最近作風がいい意味で軽くなってきて俺によし。気になったんだけどキャラの名前はカタカナだけど書くときは漢字でとかではない?ネーミングセンスがいいので当て字とかどんなんかなーと -- (とっしー) 2013-03-11 21:30:32
  • 霊王!マジか! -- (名無しさん) 2013-03-12 15:34:20
  • 早く永遠の17歳ボイスが似合う白王を出すんだ!(俺が)どうなってもしらんぞ!(全裸でガタガタ震えながら -- (名無しさん) 2013-03-13 18:07:14
  • 進行の合間合間に挟まれる大延国の文化や都の様子や風俗の小ネタが面白くてそれだけ集めても一つの作品が作れそうなシリーズですね。ここにきてゲートの成り立ちから門市城の成り立ちや向こう側からやってくる様子やセイランの仕事ぶりなど読みどころの多さに皆に読んで欲しい話です。セイランとヒョウセイのちょっとずれている交錯が幹を作りながらセイランなどしっかり盛り付けるなど完成度の高さに読み惚れました -- (名無しさん) 2016-04-17 19:40:25
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最終更新:2013年03月11日 00:48