【清霞追風録・真君偽匪 下】

 翌朝、スイメイは真っ先にガクシュウの元に向かい、事情を明らかにした。シキョウが皇位継承者であるという一点のみを伏せ、他の全てを語り終えると、ガクシュウは驚きを隠そうとはしなかった。
「――そのような、事情が」
「面目ない。だが、明日には片がつく。それも、リュウエン殿には危害の及ばぬ形で」
「そうですね、そういうことになりましょうね」
 ようやく理解が及んだのか、ガクシュウの顔が晴れた。心労から解き放たれ、十ほども若返ったように見える老秘書の喜色は、しかしスイメイの表情を目にするや引っ込められた。
「喜ぶのは、本当はいけないのでしょうね」
「私の知り合いが余計な事をしでかしたことを、お詫び申し上げる」
「余計な事……そうですね、確かに余計な事であったかもしれません。しかし」
 老秘書は目を眇め、小さなため息をついた。座する椅子の上で、ガクシュウの体は見る見る小さくなった。
「実は、お恥ずかしい話ながら、この私も、そのような自作自演を考えた事があるのです。貴方のご友人のご指摘の通り、リュウエン様は自分を納得させるための武勲を欲しておられました。そんなものがなくとも、我々のリュウエン様をお慕いする気持ちには何のかわりもございません。ただただ、ご本人だけが悩んでおられたのです。見るに忍びなく、小ざかしい策を弄しようとした事もありました。それも何度も」
「しかし、そうはされなかった」
 スイメイの言葉に、ガクシュウは力なく笑った。
「なにぶん、私はこの通り根っからの文官でございますから。どう準備したものかどうか、皆目見当がつかなかったのです」
「それだけが理由ではありますまい」
「なに、小心者の年寄りが行動しかねたというだけでございます。もしばれてしまえば、リュウエン様の心は今よりもっと悪いところへ落ち込んでしまわれたでしょう。私はそれが怖かったのです。だからただ座して、何か問題を解決してくれる都合のよい何かが降ってくるのをぼんやりと待ってしまっていたのです。とても、歯がゆいものでした。ですから、今、スイメイ師のご友人がしてくださっていることは、我々にとって待ちに待った救いであるかもしれないのです。たとえ根っこにあるのが嘘であるにしても。」
 老秘書はスイメイをはっきりと見返した。その目に宿る安堵が後ろめたさに縁取られているのをスイメイは見逃さなかったが、さりとて指摘することははばかられた。
「きっとリュウエン殿には、そのような自作自演など必要ないだろう。言うまでもないことだろうが」
「左様でございます。ただただ、年寄りが勝手な気を回して、勝手に胃を痛めていただけのことでございます」
「しかしそれも、明日で終わる」
「ええ」
 ぎこちない沈黙を埋めるように、スイメイは微笑んだ。ガクシュウもまた、萎んだ笑みを返した。
「では、スイメイ師、今日もまた、兵士達の相手を願えますでしょうか」
「喜んで」
 そうして、二人が腰を上げたそのときである。
 スイメイが耳を逆立てた。打ち鳴らされる鐘の音が、二人の耳を打った。鐘の音を数えていたガクシュウが、指を四本折って血相を変えた。
「ガクシュウ殿、これは」
「分かりません、何らかの緊急事態のはずなのですが……」
 うろたえていたガクシュウが、はじかれたように部屋を飛び出した。スイメイもまた、その後を追いかけた。再び鳴り始めた鐘の音は、奇妙に不吉な響きを帯びていた。




 練兵場には人だかりが出来ていた。その輪の中心に分け入ったスイメイたちが目にしたのは、鎧兜に身を固めたリュウエンの姿だった。内心にたぎる憤りを隠そうともせず、リュウエンは駆け寄ってきた二人に嶮しい視線を向けた。
「呼びにやろうと思っていたところだ」
「何事ですか、リュウエン様」
「ゴウエンが現れた。台から出ようとしていたトウエンなる農民を斬ったのだ。偵察に行った斥候が連れ帰ってきた」
「なんと……しかしゴウエンは」
 もの言いたげなガクシュウを目顔で制し、スイメイが進み出てひざを突いた。リュウエンがスイメイに目をとめ、片方の眉をあげた。
「リュウエン様、その農民はいずこに? 私の知合いかも知れません」
「おお、そうか。知合いか。なんとも残念なことになったな」
「亡くなったのですか」
「いや、傷は深かったが、幸い息はあるようだ。向こうの兵舎にいるから看病してやれ」
「ありがとうございます」
 スイメイが一歩下がると、入れ替わるように完全武装の兵長が走り込んできて拱手し、リュウエンに何事かささやいた。リュウエンはうなずいてこれを下がらせると、老秘書を呼び寄せた。
「一日早まったが、これより出陣する。ガクシュウ、留守を頼んだぞ」
「しかし、まだ準備ができていないのでは……それに、敵が罠を張っている可能性もあります! このような露骨な挑発に乗るなど、相手の思うつぼです」
「露骨だろうとなんだろうと見逃すわけにはいかん。我が民が斬られ、うち捨てられたのだ。捨ておくことなどできるものか。今すぐ制裁を加えてやるのだ」
「しかし」
「案ずるな。どれだけ虚勢をはろうが所詮は匪賊共だ。我らに敵うわけがない。今日中に終わらせてみせる」
 泡を食った老秘書とは対照的に、リュウエンはあくまで冷静である。周囲に集まる兵たちを眺め回すと、リュウエンは腰から白刃『屠白』を抜いて高く掲げた。ざわめいていた兵士たちが、一斉に口を閉じた。沈黙を味わうように舌を這わせて唇を湿らせると、リュウエンは高く声を張り上げた。
「一日早いが、ついにこの日がやってきた。我らはこれより、匪賊の頭領ゴウエンの征伐へと向かう!」
 兵士たちが足をただ一度ふみならした。じっくりと間をおき、リュウエンは言葉を継いだ。
「やつらは卑怯者だ。無力な農民を斬り、我らの前に投げ出してきた。歯向かうならばお前たちもこうなるという脅しだ。征伐するつもりなら、多大な犠牲を払うことになるだろうということだ。恐れよ、たじろげ、ひざを抱えたまま黙ってみていろということだ」
 リュウエンは『屠白』をふり降ろした。すっぽ抜けた刃が地に転がるが、リュウエンも誰も頓着しない。その握りこまれた拳から、一滴の血筋がこぼれた。全身から放射される怒りが、この人の良さげな狸人を常より大きく見せていた。丸く大きな人の良い目つきは、いまや限界まで見開かれていた。
「そんな風に行くものか」
 ぼそり、とつぶやくように発された言葉は、まるで爆発音のようにあたりに拡散した。
「そんな風に行くものか! 我々がおとなしく引っ込んでいるとでも思ったか? ありえん! 断じてありえん! 我らは匪賊の脅しに屈したりなどしない! やつらは卑怯者だ! 卑怯者だから我らを恐れ、虚勢を張っているのだ! やつらは既に負けている! この我々を敵に回したことが、やつらの運の尽きなのだ!」
 兵士たちが拳を突き上げた。さりげなく刀を拾い上げたリュウエンが、再び刃をふりあげた。
「行くぞ、お前達! やつらの目に物見せてやれ!」
 爆発した喚声はいつまでもなりやむことはなかった。次々と指示を下し始めたリュウエンの元を追い出されるようにして離れると、ガクシュウは声を潜めてスイメイにささやきかけた。
「スイメイ師、これはどうしたことなのです? お話の通りなら、ゴウエンに扮されたという方はこちらを傷つける意志などないはずでは……」
 スイメイもまた、困惑を隠すことはできなかった。昨夜のできごとがシキョウになんらかの影響を及ぼしたのだとしても、このような事をしでかすとは考えられないはずである。
「ひとまず、襲われたという男の元へ」
 二人はうなずきあうと、兵舎へと足を向けた。


 トウエンは台に横たえられていた。介抱していた犬人の医者は、スイメイたちの姿を目にすると頭を下げた。
「容態は」
「ひとまず、峠は越えたでしょう」
「傷を見せてはもらえませんか」
 怪訝そうに眉をひそめた医者は、ガクシュウがうなずくとスイメイに場所を譲った。スイメイは寝台の傍らに立つと、トウエンの傷口を検分した。
 トウエンはうつぶせに横たえられていた。深い傷口が、背中を斜めに切り裂いている。当てられた薬布には血がじくじくと滲んでいた。ゆっくりと上下する胸郭は、時々苦しげに調子を狂わせる。スイメイは眉をしかめた。傷口を眺め回すほどに、眉間に刻まれた皺は深くなっていく。一通り視線を動かすと、スイメイは首をかしげた。
 そうして、スイメイが傷口に顔を近づけようとした、そのときである。
 痙攣したトウエンの腕が持ち上がり、かがみこむスイメイの腕をがっしとつかんだ。首がぐるりと回り、まぶたがぱっと開かれ、熱を帯びた視線がスイメイを射抜いた。
「スイメイ……様」
 いやいやをするように振られた首が、不意に引きつったように動きを止めた。懸命に息を整え、スイメイの腕をぎりぎりと締め付けながら、トウエンは首を曲げ、スイメイに目を向けた。スイメイは寝台の頭に回ってしゃがみこみ、トウエンの顔を正面から捉えた。トウエンは涙を流していた。涙を流しながら、困惑していた。理解不能な何物かがトウエンの視界にちらつき、責め苛んでいるのをスイメイは見て取った。
「あれは……ゴウエンではありません……スイメイ様が追い払ったあいつでは……なかった……」
「まて、どういうことだ」
「恐ろしい……あれは……化け物です……あの音、あの泣き声!」
 トウエンは耳を押さえ、体を震わせると意識を失った。ガクシュウはうろたえることすら叶わず、ただスイメイをぼんやりと見つめ返すばかりである。
「スイメイ師……」
「おそらくは本人だろう」
「本人?」
「リュウテイ殿もゴウエンの首を取ってはいないのだろう?」
「はい、それがいったいーーまさか!」
「そのまさかだろうな」
 スイメイは深いため息を吐いた。
「おそらく、まだ生きていたのだ。息を潜めて再起の機会を伺っていた。それが偽者が跋扈している噂を聞きつけて、戻ってきて名乗りを上げたということだ。『ゴウエンここにあり』とな。おそらく今頃は、偽者の長も退けてしまっているだろう。迎え撃つ準備とてしているはずだろうな」
 特に昨日は頭領が留守にしていたはずだからな、とスイメイは内心つぶやいた。
「そんな……それではリュウエン様の身が!」
 スイメイはうなずいた。最後に曰くありげな視線をトウエンに投げると、スイメイは剣の柄を叩いた。きん、という鋭い音が、宙に一本の糸を張った。
「私が何とかしよう。では失礼する」
 そうして、スイメイはその場を後にした。



 スイメイは翔けた。乾いた大地に流れ込む雪解け水のようにひたむきに、一切の障害をすり抜けるがごとく駆け抜けた。城門を飛び出して瞬く間に竹林へと至り、一時も足を止めずにある一点を目指す。その足取りは低きに流れ込む水のように迷いがない。
 やがて、スイメイはあるくぼ地へとたどり着いていた。力ない日差しの中、くぼ地には小さな口が開けている。スイメイは耳を澄まして満足げにうなずくと、穴の中へと歩み入った。入り口からは想像できないほど奥行きのある洞窟の中には、腐りかけた食物やぼろぼろになった衣、さびた剣などが無造作にうち捨てられている。中心には大きな穀物袋が転がり、袋はもぞもぞと動いてなにやら低い音を漏らしている。うめき声である。
 スイメイは袋を見下ろし、ため息をつくと剣を一閃した。
 断ち切られた袋が破れ、中から腕が飛び出して空を掴んだ。握りこまれた拳は伸び上がる蛇のように屹立していたが、やがて息絶えてぱたりと倒れる。下に回った手が尻をぼりぼりとかき、体に絡みついていた縄や袋の残骸を払い捨てる。伸ばされた足が袋を剥ぎ去り、仰向けに寝転がったシキョウが濁りきった目でスイメイを見返した。
「起きろ、シキョウ」
 シキョウは応えない。目をすがめ、手を伸ばし、パタパタと払うと顔を背ける。まるで不愉快な幻を見たかのようである。
「起きろ。それとも薬でも盛られたか」
「夢の中でまで説教止めろ……」
「夢ではない。現実だ」
「ハイハイ分かってますよ、スイメイ様のいうとおり、ってな」
 傍らにスイメイが膝をつくも、シキョウは体をそむけてうめくばかりである。漂う酒気を嗅ぎ取り、スイメイは呆れたように息をついた。
「酒か」
「これが飲まずにいられるかって」
「珍しいな、お前が潰れるほど飲むなど」
「うるせえ。誰のせいだと思ってるんだ」
「私のせいか? 別に飲ませた覚えなどないが」
「言ってろ」
「こんなものが見れるなら、無理やり飲ませてみるのも面白いな。今度からは酌でもしてやろうか」
「冗談じゃねぇ」
「そうだな、冗談を言っている場合ではないぞ。起きろ」
 言いながら、スイメイはシキョウの首根っこを掴んだ。特に力をこめるでもなくやすやすと持ち上げては引きずり、そのまま洞窟の外めがけて放り投げる。宙に投げ出されたシキョウは悲鳴を上げるでもなく、宙でトンボを切って着地するとスイメイをにらみつけた。口を開こうとして顔をしかめ、懐に手をやって縄の残骸を抜き出す。シキョウは素っ頓狂な声を上げた。
「おい、なんだこの縄」
「お前が縛られていた縄だな。それと、頭にかぶっているのはお前が押し込められていた袋だ」
 頭に手をやり、袋の成れの果てを掴んで投げ捨てると、シキョウは信じられないものを見るような目でスイメイを眺めた。
「お前がやったのか! まさかこれが狙いか! 俺を怒らせて酔っ払わせて、寝ぼけてる間に袋につめて拉致するつもりだったのか!」
 スイメイはあっけに取られたように目をしばたいたが、すぐにこらえきれぬように笑い出した。
「今日はお前の新たな面によく出会える日のようだな」
「どうなんだ!」
「生憎、縛るのは趣味ではない。どうしてもというなら試してやるが」
「くそったれ! じゃあこれはなんだ! そこまでして大都に連れ帰る気か!」
「やったのは私ではない。ほどいてやったのだ。ほどいてやったのは、お前に知らせたいことがあったからだ。あのままでは話を聞くどころではなかっただろうからな」
 気勢を削がれたように、シキョウが言葉を飲み込んだ。
「なんだよ、知らせたい事って」
「本物のゴウエンが帰ってきた」
「……何?」
「ゴウエンは死んではいなかった。単に息を潜めていただけだ。そこにお前がやってきた。自分の名前を借りて好き放題するやつが出てきた。だから本物が偽者を罰する事にした。そういうわけだ。お前を縛って捨てたのは、お前を裏切ってかつての親分に付いた部下だ。殺されなくてよかったな。まあ、殺そうとしたならさすがのお前でもすぐ気づいただろうから、かえってこの方がうまくいったのかもしれないが」
「本物って」
「その本物のゴウエンが挑発行為をしでかしたおかげで、もうすぐ兵士どもがここにやってくる。明日ではなくて今日にな。リュウエン殿はきっと先頭に立ち、ゴウエンを自らの手で征伐しようとするのだろうな」
 瞬き一つする間に、シキョウの顔から酔いが抜け落ちた。顔を上げて耳を澄まし、かと思えばさっと地に耳をつけ、遥か遠くから響く行軍の足音を聞き取る。立ち上がって埃を払うシキョウの顔つきはいかにも硬い。
「冗談じゃねえ」
 一息に踏み込み、シキョウは高く飛び上がった。否、飛び上がろうとした。だがその跳躍は果たせない。瞬く間に近接していたスイメイによって足元を払われ、逃げ去った系力の名残がシキョウを大地に叩きつける。舞い上がった土をつらぬいて、スイメイの視線が横たわるシキョウを射抜いた。
「おっと、助けに行く事は許さんぞ」
 血走った目を見開いて、シキョウは言葉もなく歯を食いしばった。這い後ずさって距離をとり、油断なくスイメイを見つめて息を整える。一切の予備動作なしにシキョウはまたも飛び上がったが、今度は足首をつかまれて地に落とされる。仰向けの状態から蹴り足を振り回して間合いを確保して跳ね起き、今度はきびすを返して後方に走り出す。薄暗い竹林を駆け抜け、後方を振り向いて得たりとばかりに笑ったシキョウが、不意に前方に視線を戻して足を止めれば、そこにたたずんでいるのは余裕綽々のスイメイの姿だ。
「走って酔いと頭とを冷やしたいというのなら、遠ざかるぶんには見逃してやろう」
「何故だ、何故邪魔をする!」
「何故って?」
「今殿様が相手にしてるのは本物のゴウエンなんだろう? あの殿様に敵う相手なもんか! 殺されちまう!」
「確かに、お前が自作自演で倒されてやるよりは苦戦するかもしれないな。まあ、多少は」
「冗談言ってる場合か。そこをどけ、スイメイ! 殿様がかち合うより先に、俺が本物を倒す!」
「『そして差し出がましい横槍でリュウエン殿の顔は潰れる』というわけか。これはお前が言っていたことではなかったかな」
「顔がどうのなんて言ってる場合か! 一体どうしたんだスイメイ! 気でも狂ったのか?」
「私は正気だ。お前をさえぎるのは、これがリュウエン殿のためになると思うからだ」
「分かるように言え!」
 シキョウは体を震わせ、地団太を踏んで叫んだ。応ずるスイメイのたたずまいはあくまで軽い。
「本物の匪賊を、本物の覚悟を持って倒す。リュウエン殿が本当に満たされる方法はそれだけだ。お前のつまらぬ自作自演も、余計な手助けも、何一つ必要ない。もしお前が助けたいと願うのであれば、それはリュウエン殿を殺すも同然の行為になるだろう。虚ろなまま、中身を満たす手段を奪い去られたまま余生を過ごすことになるというわけだ。お前はそれでもいいのだろうな? それで救ったつもりになれるのだから」
「つもりもなにもあるか! 本当に死んじまったら意味ないだろうが!」
「やはりお前はどこまでもリュウエン殿を愚弄したいようだな。本当に死ぬかどうかなど、やってみなければわからんではないか」
「んなもん死ぬに決まってるだろうが! 何でも分かる無敵のスイメイ様のくせして寝ぼけたこと言うんじゃねえ! それとも何か? 自分が何でも出来るから、他のやつだって何でも出来て当たり前だと思ってやがるのか! 出来る奴の理屈で綺麗事ばっかり言いやがって! そこをどけ!」
「どかん。どくものか。どこまでも立ちふさがってやるぞ。お前がどれだけ翔けようが、飛ぼうが、駄々を捏ねようがついて行ってやる。それでももし、リュウエン殿のことを見過ごせないと思うのならば、私を押しのけていくがいい」
 そうしてスイメイは笑った。小川のように朗らかに、清い酒精のように艶やかに、無色透明の猛毒のように微笑んだ。
「まあ、出来るものなら、な」
 シキョウの応えは、全身からほとばしる怒りの雄たけびだった。




 矢のように一直線に飛んできたシキョウを、スイメイはあえてかわそうとはしなかった。裂帛の気合と共に打ち込まれた拳を、ついとあわせた指先一つでそらす。後方に吹っ飛ばされながらも空を踏んで体勢を立て直し、再び高く飛び上がって襲い来るシキョウを片手で受け止め、力の流れを操って地に落とす。泥に塗れながらも立ち上がり、がむしゃらに撃ちかかるシキョウに、スイメイはあざけるような笑みを向けた。
「どこまでも力押しか、お前らしくないな。本当にそれでどうにかなるとでも思っているのか?」
 幾度目かのシキョウ渾身の一撃に、スイメイがあわせたのは脚の爪先だった。『氷河千斤功』の一手。草鞋を振り上げ、衣を翻し、片足で全てを支える不安定極まりない体勢ながら、スイメイはいともたやすくシキョウの勢いを受け止めている。腕組みをしたまま、スイメイは脚をふと戻した。無音の雪崩に巻き込まれるように、シキョウはひとたまりもなく頭から地にめり込んでいた。
 落ちてきた草履を脚で受け止め、スイメイは足元のシキョウを見下ろした。
「さてさて? 指に、脚に、その次はどこがいいかな? なんなら腹でも打ってみるか? お前の好きなところで相手してやるぞ。どうせそよ風になでられるようなものだからな。かえって気持ちがいいかもしれん――」
 だん! とシキョウが大地を叩いた。
 四肢を通して全身の系力を大地に打ちつけ、うつぶせたまま直上に飛び上がる。駄賃のように蹴りつけられた脚はあくまでただの牽制であり、狙いは風を蹴って体勢を変える事にある。手がかりもない空中を瞬く間に登りあがると、シキョウは竹林の上部に取り付いてスイメイを見下ろした。見上げるスイメイは苦笑を隠そうともしない。
「なるほど、地に這いつくばるのは飽きたということか」
「真っ正直にお前の相手する必要もねえからな」
 血を含んだ唾を吐き捨てて、ぶすりとシキョウがもらした。
「俺としたことが、妙な挑発に載せられちまうところだった。俺の目的はゴウエンを先に倒すことだ。お前の相手なんか後回しでいいんだよ」
「私としては、お前に相手してもらうつもりでいたのだが?」
「言ってろ。確かに打ちかかればお前が有利だろうよ。だがここならどうだ? お前が俺に空中戦で勝てるとでも――」
 肩をすくめたスイメイが、とん、と地を蹴るとその身はすでにして竹の梢に掴まり、シキョウの眼前にたどり着いている。驚愕したシキョウが大気を握りこみ、気合と共に撃ち放った。不可視の風弾がスイメイに襲い掛かったが、スイメイは全く頓着しない。掴まる竹からひょいと身を乗り出し、跳躍。向けられた風弾を踏み台とし、後方に飛びずさりつつあったシキョウに迫った。泡を食ったシキョウの拳が風を切るも、スイメイはまるでさえぎられた流水のように勢いを殺さぬまま拳を滑りぬけた。スイメイの姿はそのまま虚空に飛び込み、蒸発する水のように存在感を失っていく。
 固唾を呑んだシキョウの元に、どこからとも鳴くスイメイの声が投げかけられた。
「確かに、私もお前を見下ろすのは飽きてきた。ここからは趣向を変えるとしよう。シキョウ、お前の好きなように動いていいぞ」
「……なんだと」
「どこへなりとも進んでよいということさ。追いかけっこだ。お前が逃げ切れればお前の勝ち、追いつければ私の勝ち。どうだ、目的にも合っていて分かりやすいだろう? まあ、要は逃げられるものなら逃げてみろということさ」
「言いやがって!」
 瞬き一つ、シキョウは竹を蹴り、空を飛んで四つもの枝を渡り歩いていた。牽制と誤導を織りまぜながら、荒れ狂う嵐のように枝々の間を渡っていく。時おりすとんと地に身を落し、土を巻き上げてはまた宙へとかけあがる。場所を移して動きを止め、耳をすましてリュウエンたちの居場所を探ろうとするシキョウが、不意に目を見開いた。躍起になって空を蹴り、旋風のように暴れ回ってあたり一面のものを跳ねあげ、再び地にかがみこんで耳をすます。油汗が、シキョウの顔面を伝った。
「そらそら、鬼さんこちら、だ。この場合は私が鬼なのかな?」
 勢いよく振り返るシキョウの前で手を叩くのは、にやにやと笑うスイメイの姿である。
「おおっと、捕まってしまったな。さてどうするシキョウ。もう少し逃げてみるか?」
「ーーくそったれが」
 横に跳ねようとしたシキョウの肩を、とびこんできたスイメイの腕が押さえつけた。折紙を握りつぶすように、シキョウの体勢をぎりぎりと崩していく。悲鳴をあげるシキョウを眺めるスイメイの横顔は、まるで氷河のように冷たく鋭い。
「あるいは、お前も動きまわって疲れたのではないか? 今度は私が動くとしよう」
 ぱっと手を離したスイメイの懐に、反撃の拳が打ち込まれる。それをやすやすとさばき、反撃し、再び打ち込まれたシキョウの掌底を撃ち落としながら、スイメイは眼前で歯をくいしばるシキョウに鼻を突き出した。
「無様だな、シキョウ」
 言いざま繰り出すのは『衝河推岩』の一手。大岩をやすやすと転がす威力を孕んだ一撃がシキョウの腹に吸い込まれ、しかしシキョウは吹き飛ばされることすら許されない。追随したスイメイがシキョウの首根っこを掴んで引き止め、再び繰り出されるはうねる拳が鞭のように降り注ぐ『大水輻奔』の絶技である。全身を打ちのめされたシキョウが、それでも繰り出すよろよろとした拳を、スイメイはあえてかわさない。懐に突き立てられたシキョウの拳を鼻で笑いとばして、スイメイはシキョウの体を投げ捨てた。シキョウの有様は、すでにしてボロ雑巾のそれである。
「お前はがむしゃらに走り回り、飛び回り、大気をむやみにかき回しただけだ。それで立ちこめる霧がはらせるとでも思ったか?」
 呻くシキョウを片腕でやすやすと拾い上げ、棒を指の上に立てるようにそっと立たせる。屈辱と痛みにものも言えない有様のシキョウに、スイメイは殊更にゆっくりと呼びかけた。
「どちらを向いても霧に覆われている。そういう事もあろう。だれにでも迷うことぐらいある。だが立ちこめる霧から本当に抜け出したくば、方法はたった一つだ。どこでもいい。一心不乱に進んでみせろ。目をそらすな。視線を動かすな。打ち破るべきものがどこにあろうと、ただ一点めがけて進み続けてみせろ。そうすれば、いつかは霧を抜け出せる。この世の全てが霧に覆われているわけでもないのだからな」
 シキョウの目に光が宿った。
 ふらふらと揺れる体に、一本の芯が通った。ゆっくりと体を落し、鋭い視線でスイメイを射貫く。全身から放射された系力が、シキョウの周囲に渦を巻いた。スイメイは満足げに笑い、腰を落としてシキョウを迎え入れる体勢を整えた。
「さあ、やってみるがいい」 
 シキョウは一歩を踏み出した。その動きは、いっそ緩やかなほどである。スイメイに据えた視線をわずかも動かすことなく、シキョウはただスイメイに歩み寄った。
 そうして、シキョウはスイメイを軽く一にらみすると、その脇をすり抜けた。
 間髪いれず繰り出された手刀はシキョウの体の芯を捉えていたが、シキョウはこれに頓着しない。わずかに体を逸して一撃を寸毫の差でかわすと、なにごともないように手刀を掴み、ひょいと引き抜く。力の向きを変えられた一撃は落としどころをくるわされて宙に泳ぎ、スイメイの体を矢のように打ち出して運びさる。遠くでとんぼを切って着地したスイメイを、シキョウはあいかわらず射貫くような視線で見つめている。と、その手が緩くもちあがり、あかんべえの形を作った。
 シキョウは土を蹴った。スイメイもまた、薄く笑うとシキョウの後を追いかけた。やすやすと追い付いてうちかかるスイメイに、シキョウはあえて反撃しようとはしなかった。体をそらし、力を逃し、あるいはわざと一撃を受けてその反動で距離をとる。段々と余裕の失われていくスイメイとは裏腹に、シキョウはどこまでも静かに、ひたむきに、スイメイの事を見つめている。
 そうして、何度めかの一撃をスイメイが打ち込んだとき、シキョウは初めて反撃に転じた。拳を払い、引き込み、己が系力を流し込んでさらに勢いを強める。まるでつむじ風が水面を巻き上げるように、完成された力の流れがスイメイを引きずり込み、覆いつくし、内奥に至る強力な一撃を形作る。
 これこそは『天雲段雨』の絶技である。
 しかし、最後の一瞬、シキョウの技にはわずかなためらいが生じていた。他の人間ならば、気づくことすらなかっただろう。気づいたところでひとたまりもなかったことだろう。だがしかし、相手はスイメイであった。後の世に名を刻む永代剣聖の一人にして、シキョウが唯一人その実力を認める達人であったのだ。
 スイメイは機を逃すことはなかった。逃れるには至らない。しかし、力の向きを変ずることは可能であった。スイメイの手によって制御不能となった系力はいともやすやすとシキョウを揺さぶり、そこにスイメイの拳が腹に突き刺さった。わずかに遅れて、シキョウの拳もまた、スイメイをはっきりと捉えていた。双方の系力が、二人の間で爆発した。
 そうして、二人はもろともに地に崩れ落ちた。

 先に声を発したのはシキョウであった。息も絶え絶えになりながら、地を転がって仰向けになる。何度か失敗した末、シキョウはようやく言葉を絞り出した。
「俺の……勝ちだ!」
「そんな減らず口を聞く余力が残っていたとはな。あまり遠慮しすぎるのも考え物だな」
「うるさい! 間に合ったぞ。お前のせいでボロボロにされたが、まあ賊共を蹴散らす手伝いぐらいはしてやれるだろう。悪いが、ゴウエンはお前がなんとかーー」
 シキョウは言葉を切った。スイメイが笑い始めたためである。
「何がおかしい」
「いや、お前の勝ちとは言えんだろうと思ってな」
「どういう意味だ」
「勝負に意味がなくなったということさ。ちょうど今しがたな」
 スイメイは先に立ち上がり、手を伸ばしてシキョウを引っぱり起こした。シキョウの埃を払ってやりながら、ふとなんでもないように一点を指し示してみせる。スイメイの顔からにじみ出たにやにや笑いに、シキョウは怪訝そうに眉をひそめた。
 そうして、シキョウはスイメイが指差しているものを目にした。

 兵士と賊が、輪を作っている。
 陣営を二つに分ち、半円を組み合わせて円をなす。ぴりぴりとした緊張感が張りつめ、誰もが固唾をのんでいる。眼前に広がる光景から目を離すことができないのだ。これは紛れもなく、大延国史に残りかねない勝負であった。
 中心で、またも二人の男が激突した。
 否、激突し損なった。
 両側から相手めがけて駆け寄った二人は、かたや足下の石につまずいて盛大に転倒、もう一方は得たりとばかりに打ちかかるも、振り下ろした黒刀『墜黒』はあさっての方向にすっぽ抜けている。黒白の鎧をまとう男――リュウエンが、息も絶え絶えになりながら己が得物の行方を探っていると、足をつかまれて引きずり倒される。足下で黄ばんだ乱杭歯を剥き出しているのは、これでもかとばかりに染みと皺に覆われた、貧相な狐人の年寄りだ。
「どうした、その程度かこわっぱああああ!」
 つばとともに折れた歯を吐き捨て、狐人はくみしいた若い男をめった打ちにした。否、振り下ろそうとした腕はやすやすとつかまれ、そのままひねりあげられて瞬く間に形勢逆転と成る。悲鳴を上げた狐人ががむしゃらに振り回した手はたまたま平手打ちの形をとり、若いほうの頬をはたいて乾いた音を立てる。のけぞった黒白の鎧は逆上してやたらめったらに老人を打ち据えようとして失敗する。まるでだだっ子同士が腕を振り回すように、二人は大声で喚き立てながらヨロヨロと立ち上がった。
 そのまま二人は動かない。動けないのだ。言葉を発することも不可能なほどに疲れ果て、互いの存在以外は目に入らないほどに逆上しているが故に、ただにらみ合い息をつくという行為だけが可能となってしまっているのだ。
 だがそれでも、リュウエンはついに言葉を発した。
「とうこう、しろ。ゴウエン、おまえはもう、おしまいだ」
 ゴウエンはここに来て偉大な事柄を成し遂げた。笑ったのだ。土と汗にまみれ、立っているだけで精一杯の年寄りに可能なだけの威厳をかき集めて、ゴウエンはかすれた高笑いらしきものを響かせてみせた。
「おしまいなのはお前だ。ここでお前は死ぬ。お前の父のようにな」
「父は、べつに、お前にやられた訳ではない」
「しったことか。そんなこと知ったことか!」
 ゴウエンは顔を紅潮させて白目を剥いた。狂人だけに可能な熱意で、ゴウエンは雄叫びをあげた。皺の刻まれた麻袋のような喉からかすれきった声が流れ出した。
「この俺をみろ! 俺は強い! 信じられないぐらいに強いのだ! 音に聞け、岩をも切り裂く大鳴剣! この俺が本気を出せば、お前など、お前など一太刀でまっぷたつだ!」
 叫びながら、ゴウエンは実にさりげなく地に転がる剣を拾いあげた。身動きすらままならぬリュウエンの脛を蹴りつけ、ひとたまりもなく転倒したリュウエンにまたがり、怒りと狂気に目をぎらつかせて、ゴウエンは刃を振り下ろした。
 だが目を剥いたのはゴウエンのほうだった。刃はへし折れていた。大黒白の皮で作られた兜の前には、盗賊たちの粗末な刃などひとたまりもなかったのだ。
 舌打ちして剣を振り捨てようとしたゴウエンが、つとその動きを止めた。
 地に組み伏せられていたリュウエンが、刃を突き出していた。地に転がっていた『墜黒』を拾い上げ、渾身の力をこめて叩き込んだのだ。刃はゆっくりとゴウエンの身を刺し貫き、血を滴らせた。誰もが固唾を呑み、深い沈黙が場を支配した。
 永遠にも思える長い間、ゴウエンは目を見開いていた。その目がゆっくりとすべり、自分の腹に突き立った漆黒の刃を目にすると、匪賊の長は口をわななかせ、そのままゆっくりと倒れこんだ。
 兵たちの歓声が爆発するまでには、しばらくの時間を要した。



「なんだ、ありゃ」
 全ての成り行きを見届けた末、シキョウは呆然と言葉を発した。スイメイが堪えかねたように笑い声をあげた。
「見たままだが?」
「みたままって、そんな事ないだろ、なんだ今の」
「大延国史上最も冴えない比武だろうな。酔っぱらい同士のけんかの方がまだ見応えがあるだろう」
「そんなわけないだろ。だってゴウエンは――」
「見掛け倒しの老いぼれたボンクラだ。やつがつけた太刀傷を見たときすぐに分かった。剣を握るだけで精一杯の凡人以外の何物でもない。リュウエン殿も多少はてこずったようだが、そこはそれ、大黒白の鎧に救われたな。あれは中々上等な鎧だ」
 シキョウはぽかんと口を空けたが、次の瞬間には歯をむき出して食って掛かっていた。
「冗談じゃねえぜ。アレのどこが大鳴剣だ? 『剣風泣き叫ぶがごとく』だろうが!」
「泣き叫んでいたではないか。それこそやっこさんの膝関節の軋む音など、ここまで聞こえた気がするぞ」
「だからそうじゃなくて」
「ある意味では、ゴウエンはお前の師父と言ってもよいかもしれないな。お前と同じことを考え、首尾よく実行してのけたのだから」
「何が師父だ、あんなやつから習うことなんざ――ごまかしってことか?」
「いかにも」
 スイメイは涼しい顔である。思案げなシキョウに指を振ってみせながら、リュウエンを囲んで讃える兵隊達に視線を向ける。その横顔はいかにも楽しげである。
「よく言うだろう、クズ肉の味は皿と香りで誤魔化せと。ひとたび悪名が響き渡ってしまえば、いろんな物事が現実以上に大きく見えてしまうものだ。演出も重要だな。大げさな噂を流し、度を越した残虐さを見せ付けて偽者の実力に裏を打つ。作り物の死体を転がし、あるいはわざと怪我させた獲物を逃がすのはそういうことだ。大勢部下が集まってくれば、あとは皆して勝手に実力の程を誤解してくれる。そして遂には自分で自分の事が分からなくなる。誇大妄想で膨らんだ自我の仮面が張り付いて、気が狂ってしまうのさ。お前が見たのはその末路だ」
 シキョウは憮然として、スイメイとリュウエンとを見比べていた。怒らせたその肩から、ふっと力が抜けた。
「じゃあ何だ、さっきまで俺達がやってたことはなんだったんだ」
「どうしたシキョウ、急に妙な事を言い出して。大丈夫か」
「妙な事じゃないだろうが! 別にほっといても大丈夫だったんじゃねえか! それをお前ときたらむやみに煽ってくれたな! え? 答えろスイメイ! さっきのありゃ一体なんだったんだ!」
「もちろん比武だが? お前と私が出会うたびにいつもやってきた事ではないか。分からなくなるようなことでもあるまいに」
 シキョウは目を剥き、何事か言いかけて口を閉じ、また口を開いて閉じた。涼しい顔で微笑むスイメイは、あくまで肩をすくめるばかりである。
「どうした? 過呼吸か? 熱でも出たか」
「うるせえ黙れ。ああそうだよ、お前に叩かれすぎて頭ん中ぐちゃぐちゃだ。見ろよこのこぶ」
「おお、大変だな。腫れているぞ。私に何かしてやれることはあるか?」
「ほっといてくれ」
「なんならさすってやろうか。今の私は気分がいいんだ」
「おかしいのはお前のほうなんじゃないのか、スイメイ。何はしゃいでんだ」
「なに、久々にお前の相手が出来てよかったと思ってな」
「糞食らえだ。こんな思いをさせられるなら、お前の相手なんか当分御免だ」
「そうか? お前もずいぶん楽しんでいたようだと思ったのだがな」
 ご機嫌そのものというスイメイとは対照的に、シキョウはぶすりと黙り込んだまま顔をそらす。
「これからどうする、俺を大都へ連れて帰るのか」
「さて、どうしたものかな。ひとまず、ガクシュウ殿が心配で胃に穴を開ける前に報告でもすませてこようかとおもうが」
 物言いたげに開かれたシキョウの口を、スイメイの指がさっと押さえた。見開かれた瞳を正面から覗き込みながら、スイメイは笑みを浮かべた。人肌のような温もりを宿した、聖母のような笑みであった。
「お前の事はひとまず後回しにして置いてやる。何でもいい、言いたい事があるなら会いに来い。私はしばらくこの地に逗留させてもらうつもりだからな」
 そうして、スイメイはシキョウの返事を待たずに踵を返した。
 スイメイはあえて振り返る事はしなかった。スイメイの背後で巻き起こった一陣の風を背に受け、ちらりと首をかしげると、スイメイは地を蹴った。


 凱旋に先んじて街に到着すると、スイメイは老秘書に事の成り行きを報告した。安堵のあまり気絶しそうになったガクシュウを支え、トウエンを見舞って道すがら拾った薬草を医師に渡し、老秘書と共にリュウエン一行を迎えた。泥と汗にまみれながらも、喜びと興奮に目を輝かせるリュウエンの姿はひとまわり以上も大きく見えるとガクシュウは感嘆し、スイメイもまたうなずいた。
 そうして、その夜の事である。祝賀会に参加していたスイメイは、ようやく開放されて居室に戻っていた。
 客人なのだからと申し訳なさげにする老秘書を押さえ、スイメイはあくまで歓待する側に回っていた。せめてもの配慮という事で用意された華装をまとい、兵士たちをねぎらって酌をする。宴は世を徹して続く様相を呈していたが、スイメイは途中で席を抜け出していた。考えあっての事である。
 いましも窓に体を預け、外を眺めるスイメイは、視線を動かさぬまま声を投げた。
「そろそろくるかと思っていた」
 窓から一歩引き、腕を組んで待ち受ける。だが、待ち受ける相手はとびこんでこようとはしない。代わりに入ってきたのは、投声術によって届けられたシキョウの声である。
「一つわかんねえ事がある」
「なんだ」
「先代のリュウテイの事だ。ゴウエンが見掛け倒しだったなら、何で征伐にてこずったんだ? 先代はそれなりに腕は立ったんだろうが」
「ああ、なんだ、そのことか」
 スイメイはくつくつと笑った。
「簡単なことだ。リュウテイ殿は、紛れもなくリュウエン殿の親御だということさ」
 シキョウが無言で先を促した。
「あの『墜黒』と『屠白』の双刀で大黒白を狩り、あまつさえ皮すらはいでのけたと言うのであれば、この私とて弟子入りを考えたくなるような達人と言うことになるだろう。なにしろあれは大根の皮すら剥けるか怪しい鈍らだからな。お前も現物は見なかったのか?」
「ーーまあ、見かけ倒しのヘボなつくりだとは思ってたけどよ」
「どちらもそうだな。刀を飾り、武勲を語る。おそらくリュウテイ殿も、大黒白を直接狩ったわけではないだろう。なんらかの形で皮を手に入れたリュウテイ殿が、それを宣伝の糧にしたということだ。塞王帰りというだけでは、領地を賜わるには少し弱いからな」
「誤魔化しから実を得ましたってか。ゴウエンと同じ穴のムジナだな」
「それは違う。盗賊を撃ち滅ぼすことは出来なくても、被害を抑える事はできていたわけだからな。この地に根を張るにはその方がよかっただろう。脅威をあっという間に払うよりも、細く長く戦い続けた方がいいこともあるのだ。見掛け倒しの匪賊が為す害など、せいぜい恫喝が鬱陶しい程度のものだろうし、年月がたてば匪賊も勝手にくたばって解決というわけだ。今回の事は、あくまで予想外の付け足しだな」
 シキョウは答えず、二人の間に沈黙が流れた。忍耐強く待っていたスイメイが、機を見て声を発した。
「さて、用も済んだだろう。お前はこれからどうする?」
「――大都には帰らん」
「そうか?」
 シキョウの姿は見えない。しかし、スイメイにはシキョウが背筋を正すのが手に取るようにわかっていた。
「今日本気で戦ってみて分かった。やはり、お前を倒すことが俺の目標だ。俺が俺として完成するためには、俺自身の力でお前を倒すことが必要なんだ。リュウエンがやってのけたように」
「そうか」
「だから大都には帰らない。お前を倒すその時まで、俺が大都に帰る事はない。これは誓いだ」
 スイメイは笑った。満足げに笑った。安堵したように、覚悟を決めた戦士のように笑った。
「いいだろう。その誓いに付き合ってやろう。お前をどこまでも追いかけ、お前の前に立ちふさがり、お前の力を試してやろう。これからもずっと、お前の気が済むまで」
「そんなにずっとでもねえよ。すぐ終わる」
「そうだな。今日も勝っていたものな」
「ありゃダメだ。相打ちだっただろうが。『勝った』と言ったのはあれだ、勢いだ」
「そうか」
 ふたたび間が開いた。そそくさと姿勢を直していたシキョウが、ぶすりと声を投げた。
「それじゃ俺は行く。ここらをうろうろしてて捕まるのもごめんだからな」
「それもそうだな」
「言うまでもないことだが、逃げる訳じゃない。単に場所を変えるだけだ。今日は譲ったが、次は別だ。首を洗って待ってろよ」
「おっと、待て。まだ用事は終わっていない」
「なんだよ」
「姿を現せ。見てもらいたいものがある」
 一瞬間が空き、シキョウが首を逆さまに突き出した。スイメイは苦笑しながら、腕を広げて胸を張った。黒と白が印象的に配され、刺繍と宝石で飾られた輝くような長衣を翻して星光をその表面に踊らせながら、スイメイは努めて済ましてみせた。
「似合うか?」
「――なんだよ薮から棒に」
「お前の審美眼が少し怪しく思われてきたのでな。意見を聞きたい。似合うか? ちなみに皆には好評だった」
 シキョウが顔をしかめた。
「わかんねえ。審美眼ってなんの話だ」
「こういう格好を見せるのは初めてかもしれんと思ってな。どうだ、似合うか?」
「あ? お前、ひょっとしてあれか。こないだのしかめっつらがどうのってまだ気にしてーー」
「似合うかと聞いている」
 シキョウは目をそらし、固唾を飲んだ。何事か考えた末、決心したようにシキョウはスイメイの瞳を捉えた。スイメイは内心固唾を飲んだ。
 シキョウは鼻を鳴らし、あかんべえをしながらぱんぱんと尻を叩いた。張り出した屋根から逆さにぶら下がったまま掴まっていた両手を離したシキョウは当然の帰結として落下し、そのまま闇の中に音もなく消えうせた。
 呆気にとられたスイメイは、堪えかねたように笑い声をあげた。
「まあ、そんなに単純だとは思っていなかったとも」
 そうして、スイメイは窓に背を向けると、部屋を辞した。宴会に戻るためである。


 光袁台に置ける比武を記録した史料はほぼ存在しないと言ってよい。当地に残されたゴウエン征伐の記録にわずかにスイメイらしき女性の記述が見られるばかりである。皇帝となった男が盗賊を率いていたという事実は紛れもない醜聞であり、記録に残すのは困難であったろうから、これは驚くには当たらないことかもしれない。
 だが一方で、手がかりとなる情報も残されていないわけではない。たとえば比武の様々な技法を記した『百家武伝』には、俊敏さを競う勝負の形態として、「奪黒白」というものが紹介されている。黒と白に塗わけられた板を山林に隠し、先にたどり着いた方が勝ちという簡単な勝負である。なぜ黒と白の板を用いるようになったのかという点については専門家の間でも意見のわかれるところであるので、ここではあえて私見を語ることはしない。







 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
 独自設定についてはこちらからご覧ください。
 また、以下のSSの記述を参考としました。
 【続・その風斯く語りけり】


  • 構成を読んでいるといくつかの連続したエピソードが一まとめになっているような大ボリューム。毎話何かと逸話を残すスイメイの次にも思わず期待が膨らむ -- (名無しさん) 2013-05-23 15:15:44
  • キャラの動向と性格がはっきりと読んで分かるくらいできあがっているのは毎度読み惚れる。エピソードというか連続大河ドラマを1シーズンまとめて見た感じかな -- (名無しさん) 2013-05-24 03:07:01
  • シキョウのギャップがたまらない萌えてしまう -- (とっしー) 2013-05-26 18:32:15
  • シキョウと会話してる時のスイメイがとても楽しそう。スイメイが自覚してるか分からないけどシキョウのこと好きで堪らないって感じがする -- (名無しさん) 2013-07-20 17:09:15
  • じわじわと緊張感を増していく -- (名無しさん) 2016-10-16 19:39:04
  • (↑より)展開は流石の書き味ですね。スイメイの行動に任務とシキョウへの対処という根幹がありますが無感情に見えてシキョウに対しての理解は自分に対するそれよりも深いように思いました。しっかり異世界の特色を使いシキョウとスイメイが関わる話話の登場人物を掘り下げ見せていく構成は大延国がどんどん広がっていきます。締めのしっとりした雰囲気で後読感が気持ちよくなりました -- (名無しさん) 2016-10-16 19:45:10
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最終更新:2013年05月22日 19:39