ニシューネンには絢爛豪華な一流宿から不衛生極まりない木賃宿までピンからキリまで様々な宿があるが、その中で一番はどこかと問えば皆が口を揃えるのが黄金の旅路だろう。
高級宝飾品などを商う大店などが軒を連ねる、ニシューネンでも特に羽振りの良い者が集う場所にあるその宿は名実ともにこの街一番の宿、中には
新天地一と評する者もいるほどだ。
しかし、この宿がそう言われるようになったのはそう昔のことではない、それ以前からもこの店はこの場所にあったが評判はあまりよくはなかった。
「高いだけ」「見てくれだけ立派なハリボテ」そんなことを公然と言う者も多かった。
それらの悪評の多くは、この店の前の主人の商才は無いくせに金にだけは汚いという、なんともひどい有様から来ていた。
それが店の経営者が変わったことで一変する。ふつうは客の目の届かないようなところにまで気を配り、従業員は徹底して泊り客の要望に応えるようにと教育され、一度泊まればその接客の良さから評判は評判を呼び、一時は手垢で汚れ輝きを失った黄金は今や眩い光を放っている。
そんな黄金の旅路に今日の泊り客は一人もいない。
幾度目かの神々の戯れで世界中の門が解き放たれ、こちらの世界とあちらの世界、二つの世界からの訪問者で賑わう最中、この宿はある特別な客をもてなすためだけに出迎えの準備をしていた。
ニシューネンで最も評判高い宿が上客の宿泊を断ってまで貸切にした一向が到着したのは夕刻を過ぎた頃だった。
「ネモチーいらっしゃい♪」
直々に出迎えた黄金の旅路の女主人クルーレはそう言って翼を広げて嬉しそうに彼に飛びつく。
「元気そうだなクルーレ、今日は俺のために宿を貸切にしてくれたんだって?」
翼人であるクルーレの真っ白で柔らかく花の香りのする翼に包まれながらドニー七大海賊団のひとつ「栄光の杯」のボス、エレーカ・ネモチーは彼女の細い腰に腕を回しながら応える。
「当たり前でしょ?私にとって、そしてこの宿にとっての大恩人のあなたが来るんですもの♪」
クルーレは見るからに上機嫌だ。
「それじゃいつかの約束通り、最上級のおもてなしをしてもらうか」
「えぇ、最上級の部屋に案内するわ」
クルーレとエレーカはまるで恋人のように連れだってロビーの階段を上がっていく。
その様子を黄金の旅路の従業員とエレーカが伴って来た者たちがしばし視線で追い、二人がロビーから見えなくなるとそれぞれの仕事に再び意識を切り替えた。
クルーレは前の主人の妾の子であった。
前の主人は女遊びが激しく、宿の従業員も何人もお手付きにし、クルーレの母親も元々はこの宿で給仕をしていたのを前の主人の目に留まり半ば無理やり関係を迫られ、結果彼女はクルーレを身籠った。
クルーレの母親は彼女を産んだことで体を壊し、クルーレがようやく物心ついた頃にこの世を去った。
血のつながった父親である前の主人は、母親を亡くし一人となった幼いクルーレを手元に置くかわりに彼女に宿の雑用をやらせ、うまく出来なければ容赦なく暴力を振るった。
そんな彼女を何かと手助けしてくれたのが宿のほかの従業員達だった。
クルーレは血のつながった父親である前の主人は反吐が出るほど嫌っていたが、この宿のことは誰より愛するようになったのは彼らのおかげだろう。
「なんなら俺と組んで店を乗っ取っちまうか?」
その出会いは偶然か、それとも巧妙に仕組まれた必然だったのか。
長年の杜撰な経営と悪評からそれまでの客が離れ、クルーレを支えてくれた従業員も彼女の成長と主人の金遣いの荒さで宿が傾いていくに従い好む好まざる関係なく宿を後にしていった。
それまで従業員の努力でなんとかある一線を守っていた宿は坂道を転がる岩のように経験豊富な従業員が抜けていく度に立ち行かなくなっていった。
そんな中でも金遣いの荒い主人によって日に日に荒れていく愛すべき場所の惨状に、それをなんとかしようと奔走するクルーレだったが、結局どうにもできず、最後には見続けることにも耐え切れなくなり彼女は酒に逃げた。
元々彼女は酒が苦手だった。フラリと中央十字路から少し入った裏通りの酒場に入り、そこでとにかく簡単に酔える酒はないかと店主に注文し、出てきたタチの悪い安酒を浴びるように煽っていたクルーレの席に、いつの間にか相席で彼女の呂律が回らず要領を得ない愚痴を聞いていた男が言った言葉に彼女は初めて反応した。
「あぁ?そんなことできるあけねぇだろ!腐ってもあそこはこの街いちばんの宿らぞ!?」
「そうか、じゃあそこを乗っ取っちまえば俺はこの街一番の宿を手に入れられるんだな。悪くない」
最初クルーレは泥酔した中でも冷静な部分で「あぁ、こいつも酔っぱらっているのだ」と思った。それも自分のようにタチの悪い安酒を煽った結果、これからを悲観する自分とは真逆で誇大な妄想と楽しく踊っているのだ。と
「・・・いいね、じゃあおにいさん!あらしと一緒に組んであの店乗っ取っちまおう!そうすりゃ私はあの店の女主人さ!そいたらおにいさんは最上級のおもてなしをしれあげる!」
クルーレは酔いに酔っていた。そして、どうせ酔っぱらうならと、この相席客の楽しい妄想に乗っかるのがいつのまにかも楽しくなっていた。
翌日、安酒特有のひどい二日酔いが一瞬で吹き飛ぶような出来事が起きる。
前日、酔いつぶれるまで相席の男と安酒を煽ったせいで頭はクラクラして体調は最悪だったが、それまでふさぎ込んでいた気持ちは多少はマシになっていた。
「宿代はもらってるから調子が良くなるまでゆっくりしていきな」
そう言って水桶と布巾をもってきた酒場の女将の厚意に甘え、ベッドで休んでいるといろいろなことが頭を過り、そして宿のことが心配になってきた。
「もう少しゆっくりしてけばいいのに」
そう言ってくれた女将さんにお礼を言い、宿代を払ってくれたのは誰かと尋ねる。
「あぁ、気にしなくていいよ」
なんとも微妙な顔をしてそう言う彼女に、それではこちらの気が済まないと言うと、やっと昨晩相席した男が酔いつぶれた自分を休ませてやってほしいと金を払って出ていったということがわかった。
二日酔いで痛む頭と心配を抱えて黄金の旅路へと戻ったクルーレが見たのは驚くべき光景だった。
「その薄汚い手を離せッ!ここは!この宿は俺のもんだぞッ!」
彼女が見たのは宿のロビーで
オーガの丸太のような太い腕の先にぶら下がって喚き散らす醜く太った男の姿
「残念だが違う。ここはもうお前の所有物ではない。栄光の杯の管理物件だ」
巨漢のオーガの傍らに立って淡々とそう告げる差黒い肌に黒髪のダークエルフの女。
「ふざけるなッ!誰がお前らなんかに!離せ!この手を離せッ!」
唾を吐きちらし、手足をジタバタを振り回して喚き散らす男
「まったくうるせぇ・・・コイツどうしやすか姐さん?」
喚き散らす男にうんざりと言った表情で、巨漢オーガが隣に立つダークエルフに視線を向けて問う、その表情と言葉にはいろいろと物騒なものが混ざっているように思える。
「私たちの仕事は穏便に所有者を交代させることだ。後々面倒にならないようにだけしておけ」
「了解しやした」
「お、おい!?俺をどこへ連れていくつもりだ!離せ!離せぇッ!!」
クルーレとは血のつながりがあるというだけの元黄金の旅路の店主は巨漢オーガに吊り上げられたまま、どこかへと連れて行かれる。
クルーレはその一部始終を見届けることしかできずその場に立ちすくむ。
「よぉ、昨日の安酒で頭が痛くねぇか?」
不意にどこかで聞いた声が背後で聞こえ、クルーレはハッとなって背後を振り返る。
「昨日言ったよな?俺と組んでこの宿乗っ取ったら、お前が女主人で俺をもてなしてくれるって」
そこには紙束を手にした
ゴブリンの男が立っていた。昨晩相席だった男だ。
「あ・・・・え・・・」
まずは宿の代金を払ってくれたお礼を、それから・・・・彼に会ったら言おうと思っていたことがあったが直前の出来事で頭が混乱して言葉が出てこない。
「ほらよ」
言葉が出てこず口を魚のようにパクパクさせるだけのクルーレに、男は手に持っていた紙束を無造作に彼女のほうへと投げる。
男の放った紙束は数回空中でクルクルと弧を描くと、慌てて広げられたクルーレの翼の中に納まる。
「宿の権利書だ。これでこの宿はお前のもんさ」
彼の言葉がクルーレには理解できなかった。
理解できないまま手の中にある紙束を広げてみる、それは紛れもなくこの黄金の旅路の諸々の権利書だった。
「何が俺の宿だ。そんな大事な宿の権利書をとっくの昔に高利貸しに借金のカタに渡してた野郎がよく言うぜ・・・」
彼はそう言って遠ざかっていく影と声のほうに少しだけ汚物を見るような視線を向ける。
「あの・・・・」
言葉に窮していたクルーレの口からやっと声が出た。
「あなた一体・・・それに私の物って・・・・?」
「おいおい、昨日のこと忘れちまったのか?やっぱり安酒はダメだな、どうでもいいことも大事なことも全部パァにしちまう、シメイの奴にはちゃんとした酒だけ置くように言っておくか」
「あの・・・そうじゃなくて・・・・」
昨日の酒場での会話はすべてではないが大半は憶えている。しかし、それらはすべて酒の席での放言妄言だったはずだ。
「あの宿はこのままあの糞野郎に台無しにされるのはもったいないと思ってたんだ。この街はこれからもっとデカくなる。そして金がジャンジャン動く。そんな街で評判の宿があればいろいろと商売がしやすくなると思わないか?」
「思います」
クルーレは思わず即答した。まだ彼女が幼かった頃、今に比べれば多少はマシだった頃、宿には羽振りの良さそうな商人が何日も泊まり、宿のサロンではそうした商人がお国言葉を交えて商売の話をしていたのをよく見かけた。
一流の宿は有力な商人の社交場も兼ねることが多い。クルーレはそれを肌で感じて理解していた。
「だからお前さんに宿を任せてみようと思ったのさ」
「なんで私なんですか・・・?」
「いい目、してたからさ」
そうクルーレに言った彼の目はギラギラしていた。見果てぬ夢を追う目、その夢を実現させるという意思の宿った目をしていた。
その目を見た瞬間、クルーレの中で何かが弾けた。
目の前の男が何者かなんて今はどうでもいい、あの目を、彼のあのギラギラする目を信じてみたい、彼の見つめる先に自分の夢もある気がした。
「やります!私、必ずこの宿をこの街!いえ新天地で誰もが一番だって言う宿にします!」
こうしてクルーレはドニー七大海賊団の一つ「黄金の杯」のボスであるエレーカ・ネモチーと契約を交わした。自分の手で黄金を再び眩く光り輝かせるという契約を。
「懐かしいな。もうあれから十年か」
黄金の旅路の最上級の客室、豪奢なつくりの寝台の縁に腰掛けて葉巻を吸いながらエレーカは昔の記憶を甦らせる。
「あなたが私にどんな宿を切り盛りさせたかったのかはいまだによくわからないけれど、私なりにやってきたつもりよ?」
上半身を露わして彼の背中にしなだれかかるように体を寄せながらクルーレは言う。
「含みがある言い方だな。別に真っ当な宿にはそれなりの使い手がある。お前は本当によくやってるよ」
彼女が彼と契約を交わしてからの十年、順風満帆な時期ばかりではなかった。中央通りに構える宿であるミスルトゥはニシューネンの商店連合の一部を抱き込んで上客をなんとか黄金の旅路から自分のところへと靡かせようとあの手この手、まるで娼館のようなサービスまでしている
それでもクルーレはそうしたことには一切目もくれず、いかに泊り客が寛げるか、まるで我が家のように気兼ねなく旅の疲れを癒せるかということにだけ注力した。
結果、かつては名ばかりの一流宿などと言われた黄金の旅路は多くの馴染みの客を持つ宿として知れ渡るようになった。
クルーレもそのことに一定の満足をしてはいるが油断はしていない、客はいつも飽き性だ。
「ネモチー、そろそろ時間だ」
エレーカとクルーレ、二人が寝台の上で体を寄せ合い言葉を交わしている中、唐突に異質な熱の無い声がそれを遮る。
一体いつからそこに居たのか、まるで影から抜け出してきたかのように浅黒い肌に黒髪のダークエルフが闇の中で僅かに赤く光る眼で寝台の上の二人を見ている。
「エイラ、すぐに着替えるから外で待ってろ」
「わかった」
そのことに別段驚くでもなく彼は吸っていた葉巻の火を消すと体を起こす。
「こんな夜中に仕事?」
「あぁ、こんな時間じゃないと会ってくれない女がいるんでな」
彼の言葉の中にあった「女」という単語にクルーレの表情がわずかに動き、ギュッと彼のお世辞にも大きいとは言えない背中を抱きしめる。
「私、頑張りますから・・・だから、近くに来た時は泊まりに来てください・・・」
「あぁ、こんないい宿だ、泊まりに来るなって言われても骨休めに泊まりに来るさ」
「待たせたな」
そう言って一切着崩れなく仕事着に身を包んだ彼がロビーに姿を現すとピンと糸が張ったように場の空気が引き締まる。
ロビーには大小数人の人影、種族も性別もバラバラ
「半刻前に港に提督の船が着いたと知らせがありました」
「とりあえず迎え酒で機嫌を取っておくようにと部下には伝えてありますんでボスが着く頃は調度良い頃合いだと思います」
次々と彼に部下からの報告が届く。
「ようやく会ってくれると来てくれたイイ女をいつまでも待たせるのは失礼だよな」
そう言って彼は葉巻に火をつける。
「さて、それじゃ行くとするか」
そう言って黄金の杯のボスとその一団は港のほうへと向かう、彼の一団が向かうその方角からは微かに歌声が聞こえてくる。
- 著ネモチーで色々な本が出版できそうだ… 【男なら全部狙え】【中身で勝った男の名言集】【全てと丸く付き合う方法】etcetc -- (名無しさん) 2013-06-26 03:27:59
- 貫禄あるけどネモチーって経験からなのか年の功なのか。鉄板時代劇みたいな展開が気持ちイイ -- (名無しさん) 2016-02-26 23:18:57
最終更新:2013年06月19日 18:09