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 初めて吸い込んだ異世界の空気は、奇妙に甘かった。

 その未知の甘い大気は鼻や喉にねっとりと絡み、エアーズロックそばのゲートをくぐる直前まで私が抱いていた意気込みを、いともあっさりと打ち崩した。

 思わず振り返ると、グレッグがゲートをくぐって出現するところだった。異世界の地面に脚を下ろしたグレッグはわずかに顔をしかめると、私を見て口の端を吊り上げた。

「そんなに心細そうな顔しなさんなって。ようこそ、マセ=バズークへ」

 体をゆすり、大量の荷物を詰め込んだリュックを背負いなおしてグレッグは笑う。グレッグは間違いなく経験豊富なガイドだ。シドニーとマセ=バズークの両方に拠点を持ち、ゲートの向こうの異世界に行ってみたいなどという酔狂な人たちを安全に旅させることで生計を立てている。大勢の部下と協力者を持ったガイドの顔役だ。マセ=バズークを訪れるにあたり、彼を捕まえる事ができたのは非常に運がよかった。

 私は改めて辺りを見渡した。

 何もない。

 こちら側のゲートは砂漠の真ん中にぽつんと立った大岩の麓に開いているようだった。大岩と言っても、地球側のエアーズロックとは比べるべくもないほどちっぽけなものだ。苔のようなものがこびりついているその岩以外には何もない。ほとんど利用者がいないという触れ込みの地球側ゲートですら、入国管理事務所があり、軍人も何人か滞在していた。閑散とした砂漠の光景に不釣合いな近代建築物なのが印象的だった。

 それが、こちら側ではほとんど打ち捨てられているようにすら見える。大岩の表面にはびこるねとねとした苔や、砂塵に曇る灰色の空に薄気味悪いものを感じながら、私は当惑していた。

 ここから一体どうすればいいのだろうか。

 私の心配を他所に、グレッグは快活そのものだった。辺りを眺め回してしゃがみこみ、地面の砂をつまみ上げて何事かつぶやく。それが終わると、グレッグは私のそばにやってきて肩をすくめた。

「一応迎えをよこしてもらうことになってる。本当はもう来てるはずなんだが、念のため連絡してみるよ」

 そういうと、グレッグは信じられない行動に出た。大岩にこびりついている苔を摘み取り、そのまま口に運んで食べてしまったのだ。グレッグは顔をしかめはしたがそのほかは特に不愉快そうな様子も見せず、そのまま耳に手を当てて目を閉じる。その唇が小さく動いた。その様子が、わたしにはまるで電話をかけているように思われた。果たして、それは正しかった。

「もうじき着くそうだ。しばらくここで待ってりゃ来るだろう。ちょうどいいから、あんたもここで準備をしておくといい」

 グレッグが岩の表面から苔を掬い取り、私によこした。

「なんなんですか、これ」

「ここの蟲人たちが使ってる通信デバイスってとこか」

 怖気を振るう私に、グレッグは事も無げに言う。

「詳しい仕組みは俺も知らないよ。ただこいつがあれば、ちょっとした通信や翻訳のサービスが受けられるのさ。ここの岩も、本当は地球側につながってるでかいルーターみたいなもんらしいね。まさにここで、異世界人は地球のネットに接続してるってわけさ。前にもちょっと言ったとおり、こちらからインターネットに接続することもできるよ。なにぶん帯域が狭いし、通信料も張るんだが」

 その話は私も既に知っていた。そもそもが、こちらに来るきっかけになったのはマセ=バズークの人間からメールを受け取った事だったのだから。

「言っとくが、別に食べるまでもないよ。単に体のどこかに付着してさえ居ればいい。食べても無害だがね。俺が食べてるのは単にあんたの緊張をほぐそうと思っただけさ。そら、塗るのもダメならこいつに入れときなよ。首からさげとけばいいから」

 グレッグが小さなケースをよこした。ここまで用意されていては仕方ない。苔をこそげとり、付属の紐で首からさげる。何一つ変化が起きたようには思われなかった。グレッグが笑った。

「まあ、ないならないで俺が通訳なり通信なりはするんだがね。それに、効いてくるまでには時間も掛かる。おっと、食えば効きが早いって利点はあるな。味もそんなに悪いもんでもないから、いっちょ食べてみるのはどうだい?」

 私はかぶりを振った。

「まあ、なれないうちは不安になるのもしょうがない――おっと、お出迎えだ」

 グレッグが空を見上げた。雲にさえぎられて弱弱しい太陽の光が、大きな何かの影を地上に落としていた。それが砂を巻き上げながらゆっくりと着地したとき、私が腰を抜かさずにいられたのは、ひとえにそれが大音響で歌っていたからに他ならなかった。

 滝廉太郎の、『荒城の月』だった。

 眼前に着陸したカナブンに似た巨大甲虫は、薄い羽を震わせて畳みながら、サビの部分だけをなんどもループして歌っていた。全体に比べれば不釣合いに小さな頭部がきちきちと動き、触覚をパタパタとうごめかせながら、それでも拳ほどもある複眼に私たちの姿を映している。歌は止まない。大音響で鳴り響く歌声は、お世辞にも上手とは言いかねた。

 グレッグもまた言葉を失っていたが、やおら進み出ると甲虫の頭をはたいた。

「うるさい。黙れ」

 甲虫が抗議するように触覚をパタパタと動かす。その触覚を遠慮なく握り締めると、グレッグは歯をむき出して甲虫の頭に顔を近づけた。

「何べん言ったら分かる! 地球人相手のときは音声でしゃべれ。それとなんだその騒音は」

『――騒音だなんてひどいですー』

 妙に甲高い声だった。甲虫の発したものだと分かるまでに、しばらく時間が掛かった。

『なんか緊張してらっしゃるようなんで、緊張ほぐしてもらおうと思っただけなのに。曲だってわざわざ買いましたよ』

「だったら元曲のデータを流せ。お前が歌うな」

『自分で歌う温かみってものがあるんです。今度のお客さんわざわざ日本から来たって言うじゃないですか。日本人ならではのもてなしの心、和の心ですよ』

「ここはマセ=バズークであって日本じゃないんだ」

『気は心って言うじゃないですか。ここを第二の日本と思っていただければ幸いです』

「虫風情が見当違いな事抜かすな。お前は黙って乗り物に徹してればいいんだ」

『すごい! 聞きました今の露骨極まる人権侵害! 今の音声付でfacebookにあげちゃいますからね! 大炎上確定ですよ!』

 グレッグは私に振り返って肩をすくめた。

「気にしないでくれ。こいつは唯の乗り物だから」

「そうは見えませんが」

『ご慧眼です! そう、私はタダの乗り物ではございませんのです! 名前だってちゃんとあります』

 甲虫が触角を閃かせる。グレッグが呆れたように肩をすくめた。

「名乗るのは止めとけよ。こちらのお客人はまだ準備ができてないんだ」

『分かってますよ、それぐらい。あ、そうだ、facebookのアカウント持ってます? フレンド申請したいんですけど』

 持っていないというと、甲虫は目に見えてがっかりした。

『じゃあええと、日本じゃtwitterのほうが流行ってるんでしたっけ。それでいいです』

 こちらは持っていた。教わるままに手元のスマホを操作し、目の前の甲虫が持っているというアカウントを探し当てる。長大な数字が名前代わりにならんでいるアカウントにはツイート数が表示されていた。並んでいた数字は実に30万。1秒おきにコメントがならんでいて、フォローもフォロアーも無数だった。

「お前まだそれやってんのか。お前だけで帯域どれだけ消費してると思ってるんだ」

『はーマジで知らぬ存ぜぬー』

 グレッグは顔をしかめながら説明してくれた。マセ・バズークとオーストラリアの間には、巨大な通信線が通っている。異世界と地球のインターネットを接続するこの通信線には帯域幅と言うものがあって、要するにやり取りする事の出来るデータ量が決まっているものであるらしい。本来必要とされる量に比べて、転送量は不足しがちなのだという。

「んでその貴重な帯域幅を、このアホは寝言並べて消費してるってわけだ」

『寝言じゃないですーコミュニケーションですー』

「好きに言え。お前の氏族がなんでこんな無駄遣いを許してるのか、俺にはさっぱり分からん」

 帯域幅だってタダじゃないのになと、グレッグは私に耳打ちした。甲虫はなにやら得意げだ。マセ=バズークならではの冗談かと思っていたが、二人とも笑い出そうとはしない。なんともいえない空気が流れた後に、グレッグが口を開いた。

「それじゃ、そろそろ行きますかね、お客さん」

 いくとはどこへ、と問い返す暇もなく、グレッグは甲虫の横っ腹を探るとなにやら取り出した。縄であまれ、折りたたまれた籠だった。籠からは紐が伸びていて、音もなく浮かび上がった甲虫がその端を腹部の脚で掴んでいた。

 事情が理解できるまでしばらくかかった。見るからに不安なこの籠で、私たちはこれから空中散歩ということになるらしい。

「大丈夫大丈夫、熱気球みたいなもんですから」

『そんじゃいきますよー』

 私があげた悲鳴は、甲虫ががなりたてる歌にかき消された。



 但し書き
 文中における誤り等は全て筆者に責任があります。

  • アイチューンズで楽曲購入してSNSで交流角さんする蟲人カワイイ!イメージ的にカナブンさんはタチコマだなぁ -- (名無しさん) 2013-07-17 20:48:22
  • 勝手知ったるガイドの頼もしさ。異世界ガイドはいち職業として成り立つな -- (としあき) 2013-07-18 21:16:50
  • 苔デバイスマジ便利アイテム。蟲もフレンドリーだしこれは意外と人間ウケがいいかも -- (名無しさん) 2013-07-18 23:15:43
  • この一話だと結構詳細なマセバズーク側のゲート付近と様子で旅の始まりだなという印象だった -- (名無しさん) 2014-09-25 23:21:17
  • 具体的な情景描写の豪とマセバズークのゲート周辺を思わず頭の中に浮かんできました。ファンタジーの外観をかぶった未来のようなアイテムなどが次々に登場しわくわくします。地球文化の取り込み方のチョイスも変化球などあって面白いです -- (名無しさん) 2016-11-13 17:04:27
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最終更新:2013年08月13日 23:44