無数の階層を渡り、多くの結節点を渡って、目的地へと到着する。
旅とはそういうものだ。だが、旅にはもう一つの側面もある。
旅を通じて人は変化する。人とふれあい、見慣れない世界に揉まれて、旅人の心は変わっていく。流水に現れる岩が砕け、角が取れ、削り取られて砂へと移るように、旅は人間を加工する。
そんな旅人が終点に至り、出発地点を振り返るとき、どんな感情を抱くものだろう。
変わり果てた自分の姿を見下ろして、どんな感慨を覚えるものだろう。
二つの地点をつなぐ道のりには、一体どんな意味が宿るものなのだろう。
「ボビー、紹介するよ。うちのクライアントだ」
ボビーと呼ばれたアリの蟲人は、私たちのテーブルを無言で見下ろしていた。快活そのもののグレッグとは対照的に、ぴくりとも動かない。タグもフェロモンも発せず無言だが、同時にどこか途方にくれているようにも感じられる。私はひそかにシーヴに囁きかけて、彼はどういう人なのかと聞いた。
シーヴから帰ってきたのは当惑のタグだった。
「よく見えないんですけど、その辺に誰か来てるんです?」
私は自我殻に命じてシーヴに視界を送ったが、全く解決の助けにはならないようだった。シーヴが送り返してきた視界には、そこにいるはずのボビーの姿がなかった。シーヴにとって、このボビーという蟲人は透明なのだ。
私は説明を求めてグレッグを見返した。だがグレッグは自分の仕事は済んだとばかりにふんぞり返っている。かと思うと、グレッグは突然怪訝な顔をしてボビーを見やった。
「おいボビー、黙りこくってちゃ分からないだろ。何とか言えよ」
ボビーはまるで彫像のように動かない。一生懸命目を眇めているシーヴと顔を見合わせ、何か手違いが起きているのではないかと疑い始めたとき、ボビーの首がぐらりと傾いた。
「あああ ああああああああ あああああ」
ボビーの顔はアリそのものだ。だが、口吻に当たる部分は全く動いていない。声がどこから出ているのかも分からない。顔の部品は凝固したように動かず、ただ首だけが傾いていく。固唾を呑んでいるうちに、笑いの発作が喉元まで競りあがってきた。こらえている間にもボビーの顔はだんだん傾き続け、遂に逆さになった。断続的に発される言葉は全て「あああああ」である。
どうしていいか分からず、あまりにシュールな光景に笑いを堪えきれなりはじめて、私はグレッグに目をやった。
グレッグは声もなく爆笑していた。バンバンとテーブルをたたき、顔をそばめて腹を抱えている。そのまま椅子から転落しても笑い続けているのは、アルコールが回っていることによるものらしい。シーヴはシーヴで状況が把握できていない様子で、所在なげに木の実にかぶりつき、うろうろと視線を彷徨わせている。
誰も頼れなくなった席で、ボビーだけが異様な圧力を放射している。傾いた首を元の方向にゆっくりと戻し、今度は反対側に傾ける。ボビーの発する「ああああああ」はいつの間にか「いいいいいい」に代わり、気がつくと「うううううえええええパパパパパパパパソピソピソピソピソピ」になっていた。私は声もなく笑った。笑うしかない有様だった。
そうしてしばらく場を満たしていた乾いた笑い声が、ほんの一瞬途切れた。
「つかつかつかつかつーかつかつーか――つーか予定領域における通行パーミッションの取得に伴う問題の集合」
そんな言葉が、一瞬生じた会話の隙間にするっと滑り込んできた。
私は笑うのをやめて、まじまじとボビーを見返した。
ボビーがくい、っと首をかしげた。それまでの動きとは異なる、奇妙に人間的なしぐさだった。初めてボビーの腕が上がり、その手首が返された。
「この地球人がこれから行くところは一種の緊張状態にある地域となる恐れがある。通過に当たっては現地有力者の協力が必要不可欠だと予想される。理解可能か? これはペンか?」
「――ボビー、このお客さんは俺と同じ種族だよ。翻訳も概念接合も必要ないんだ」
這い上がってきたグレッグが座りなおし、私の肩をぽんぽんと叩いた。ボビーは再び首を傾け、初めて口吻を動かした。
「念のために実行した。それに、この地球人は意思疎通に困難を覚えているように見えるが」
「普通の地球人はな、ボビー、首をぐるぐる回されながら『ああああああああああ』なんて言われたらショックを受けるもんなんだよ。俺にぶん殴られたときのことを思い出して、いい加減学習してくれ」
「『ああああああああああ』ではなく『あああ ああああああああ あああああ』だ。両者の間には厳然たる違いがある」
「その辺にしとけよ。お客さん気絶しそうだからな。それと、うちの従業員にもパーミッション発行してやってくれよ。一応こいつも旅についてくる予定だ。話を聞く権利ぐらいある」
「この個体の素行に関しては複数の勢力から懸念が表明されているため、プライバシー隔離を実行している」
「まあそりゃシーヴだって身に覚えがいくつあるか数え始めりゃきりがないだろうが、悪評出してんのはどうせ《雲渡り》の連中だろ。もしくはアーマイト全体に喧嘩売りたい奴らか。陰口だ陰口」
「対象の持つ洞察力に評価を投じる」
「はいそりゃどうも。お客さん、改めてボビーを紹介させてもらうよ。今回の旅に欠かせない協力をしてくれるんだ」
グレッグの言葉に合わせて、ボビーが小さくお辞儀をした。
ボビーはこのホテル《ハッシュ》のオーナーであり、管理者でもあり、非常に有能な架橋者でもあるという。
「架橋者というのは通訳兼外交官みたいなもんだ。ここは元々異種族同士の交流サロンみたいなもんでな。お互いの利害調整に当たる立場が必須だ。そのあたりの説明はシーヴあたりから聞いただろ。おいシーヴ、おいどうなんだ。固まってちゃわかんないだろうが」
私はシーヴを見やった。シーヴはボビーに視線を据えて硬直していた。その顔がじりじりとこちらを向き、口がみしみしと音を立てて開いた。口の端から何も含まれていないタグがこぼれおち、床に触れる前に消えた。
「すみません、あの、なんか言いました?」
「この個体に対するパーミッションの発行にプロセスを占有されているため、この個体とのコミュニケーションには困難が伴う」
「そんなおおごとでもないだろ、別に」
「パーミッションの発行によってこの個体に対する複数の休眠訴訟が復活した。この個体はその対応に追われている」
「……シーヴ、お前は後でちょっと話聞かせろ」
「何の話か分からないですけどひょっとして僕の話してます? 大丈夫ですよ? いろいろいちゃもんつけられてますけど、こんなの女王にすがればちょちょいのちょいでもみ消し完了即出所OKですよ? 正直予想もしない方面からの指摘も出てきてちょっと新鮮――あれ、この件知らないな……すみません、ガチ捏造の案件が出てきてるんで後にしてください。あと弁護士呼んでください。助けてお母さん!」
「訴訟のほとんどはこの個体に対する攻撃だが、その背後にはアーマイト氏族全体、およびこの個体に対する意図が存在するものと推測される」
「相変わらずそういうのには詳しいね、頼りにしてるぜ」
「政治勢力に関する知識がこの個体の領域横断に際し有効だと推測される」
「まあな」
架橋者とは、文字通り橋を掛ける存在なのだという。
「何度も言ってるように、ここにはお互いに理解不能な種族がうようよしてるんだよ。あちこちから人が来てるからな。こうなるともうコミュニケーションどころじゃない。すり合わせようにもそもそも接触してない程度には離れてるようなもんだ。そんな時に架橋者の出番ってわけだ」
架橋者はコミュニケーションを必要とするお互いの間に入り、両者に同化する。その際、いわば二つの勢力を親とする子として生まれ落ちるのだという。かけ離れた二つをつなぐかすがいだとグレッグは言う。
「その比喩には不適切な表現が含まれている」
「気にするな、大体あってるから」
「対象に抗議の悪評を投入する」
「はいはい」
「すみません、ひょっとして今僕のこと呼びました? あいにく今はちょっとバタバタしてましてねー?」
「呼んでないからお前の問題にカタつけろ」
「何ですって? よく聞こえないんですけど? 給料上げる話ならもうちょっと危機じゃないときにしてもらえます?」
架橋者は架橋する両者の情報を集め、自らの精神の上でそれらを融合させる。いわば架橋者が皿となり、両者から提供されたソースをその上で混ぜ合わせるようなものなのかもしれない。私がそういうと、ボビーは首をかしげた。
「あああああああああああ」
「『いいね。その表現はどこかで使わせてもらう』だとさ」
「その比喩には不適切な表現が含まれている」
「それで、こいつは中でも特に優秀なんだ。地球人との架橋にそれなりに実績があって、今回の件でも意欲を示してる。俺達の心強い味方ってわけだ」
「その通りだ。この架橋を実現する事で、私は極めて多くの社会的評価を獲得することができるだろう」
「儲かる事業だって言ってる」
「その比喩には――」
「不適切です! そこにはまだ侵入してません! とんでもない嘘八百なので撤回してください!――ああすみません、こっちの話です」
突然立ち上がったシーヴが腕を振り上げ、ボビーの胸板に拳を打ち込んだ。中々腰の入った一撃をボビーは苦もなく受け止め、シーヴも何事もなかったように座り込むと、頭を抱えて唸り始めた。感心したようにグレッグがうなずいている。どうしてよいものやら分からず、私は曖昧な笑みを浮かべた。
「――地球人が行う架橋行為に対し、我々は強い興味を示している」
不意に、ボビーがぐいと私のほうを向いた。
「我々としても、《メモリスの守護者》との間に架橋を確立した経験は極めて稀であり、故に貴重だ。だからこそアーマイトの女王を通じての協力要請に応じた」
《メモリスの守護者》。
それがあの絵を描いた存在の名だと気づくまでに少し時間を要した。あのどことも知れぬ場所で、巨大なオベリスクに取り付いてすごしているもの達の名前。その名を告げるボビーの言葉には、それまでの話しぶりとは違う何かが宿っていた。畏れというのが、私の受けた印象だった。
「本来、《守護者》が外部に働きかけることは珍しい。まして客人を、それも異世界から呼び寄せるとなればなおさらだ。他の種族の中にもその事実に気づき、地球人たちの動向に大きな関心を寄せる勢力が複数存在している。彼らは力となることもあるし、障害となることもあるだろう。これからたどる経路を選択し、安全に《メモリス》に到達するためには、そうした勢力との利害調整が不可欠になる」
「そこで俺とボビーの出番ってわけだ」
グレッグが身を乗り出した。
「俺はあんたにぴったりくっついて、目的地まで送り届ける。ボビーは先行して、通過する地域の有力者に根回ししたり、必要物資の確保を済ませておいたりしてもらう。二人三脚の態勢でいこうと思ってるんだ。これから向かう領域には、おれ自身苦手にしてる相手も結構いるからな。それに、ボビーの協力にはもう一つ利点がある。スポンサーだよ」
「先にも述べたとおり、地球人のこの架橋には多くの勢力が興味を示している。彼らは情報を欲している。情報と引き換えに対価を払う用意がある」
「要するに、旅の様子を中継してくれるなら便宜を図るってことだ。あんたの用意した資金が足りないってわけじゃ全然ないんだが、誰かに援助してもらえるのならそれに越したことはないだろ。もちろんプライバシーには配慮させる。俺は悪い話じゃないと思うね。アルバム代わりにもなるしな。うちでも観光客向けに似たようなのを作ってるんだ。旅行の終わりに受け取ってもらうのさ。そういうアルバムを作りながら、ついでにライブ配信もやるみたいなものだと思ってくれればいいと思うね」
グレッグはいくつかサンプルを取り出して見せてくれた。団体観光客向けに撮られた写真やミニムービーはどれも明るい雰囲気で、旅のよすがとしては悪くないものだった。こうした行き届いているサービスが、グレッグのガイドとしての評判に寄与していることは疑いようもない。
私はライブ配信を承諾した。ボビーが小さくうなずいた。
「決まりだ。これで旅の選択肢が広がったよ。ボビー、早速だが明日までに手配しておいて欲しいものがある」
「移動手段か」
「ああ。とりあえずここを離れて、手近なハブまで移動したい。一番近いサイトは《パケットキャリア》だよな」
「《パケットキャリア》は30キロサイクル前にバースター氏族の急襲および敵対的買収によって56パーセントの支配権が奪われた。バースターは《雲渡り》との関係を強化しているため、安全が確保できない可能性がある」
「耳が早くて助かるよ。となると、どこが一番近い?」
「バースターの影響を懸念した《ネスト》が《パケットキャリア》の代替となるサイトを作成した。名前は《パイプライン》だ。バスの通行権を確保しておこう」
「いいね。バスに乗るなんて久しぶりだ。お客さんも結構気に入ってくれるはずだよ。バス旅行はうちのプランでも人気なんでね」
「追加情報だが、グレッグが手配した地球人の団体バス旅行客について、その所在が短期間追跡不能になっていたことが判明した。露見すれば問題になりかねない」
「――その話は後にしてもらうよ。それより、お客さんを部屋へ案内してやってくれ。シーヴ、いつまで寝てるんだ。早く現実に戻って来い」
「すみません、全然聞こえません。いま法廷です。僕がひき殺したことになってる人の証言が佳境に入ってきたところなんですよ。ものすごい大スペクタクルで涙止まりません……僕の体が幼生のパレードに突っ込んでくるところの映像までお届けされて死にそうです。この事故ってほんの三分前に起きた出来事だそうです。知らないうちに罪を犯すってあるんですかね……」
私はシーヴを助け起こそうとしたが、グレッグに制された。あさっての方向をにらんで虚ろな声でつぶやき続けるシーヴには後ろ髪を引かれる想いだったが、シーヴが夢の世界から帰ってくる様子はなく、仕方なくシーヴは放置せざるをえなかった。
そうして私はボビーに先導されて、小さな巣房の一つに落ち着いた。床に命じて一段高くさせてベッドとし、自生していた灰色の茂みのような素材を布団代わりにした。
眠りはすぐに訪れた。
但し書き
文中における誤り等は全て筆者に責任があります。
- シーヴの愉快な訴訟地獄吹いた -- (名無しさん) 2013-09-18 22:04:39
- 今回シーヴさんずっと出廷ですか何やってきたんですか今まで -- (名無しさん) 2013-09-18 23:09:59
- マセバというか蟲人に鎖国っぽい印象あったけど動きが見えない分かり辛いだけど物凄く知識や世界に貪欲だった楽しい。グレッグはシーヴにまず反省するということを覚えさせないといけない -- (名無しさん) 2013-09-19 23:56:51
- ずっと対応に追われていたシーヴでもう一つ作品できるんじゃないか -- (名無しさん) 2013-09-20 20:53:00
- まとめページを見て気がつきました。 主人公がいたということに! キャラの濃さで掻き消されていた。 シーヴさんのちょっと壊れた会話はオルニトSSを思い起こさせる -- (名無しさん) 2013-09-21 00:47:11
- 橋を渡す蟲人が大々的に活動したらマセバズークの活動範囲が世界中にひろがりそうだ -- (としあき) 2013-09-27 22:00:46
- 話の本筋に絡む余裕全くなしのシーヴさん。なのにこの無駄な存在感と愉快さはなんなのか -- (名無しさん) 2013-10-09 00:54:23
- 毎回独特な色を持ったキャラが登場するシリーズですが今回も強烈な色でした。見えていないというだけで様々な予想が頭の中で生まれてきます。ボビーですがディルカカが種の関係を滑らかにするために生み出した架橋者というよりも架橋存在という印象を受けました -- (名無しさん) 2017-05-21 18:43:46
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最終更新:2013年10月14日 23:36