はじめに鋏が現れた。
長さ、幅ともにシーヴの体ほどもある巨大な鋏が、水面から飛び出してきて打ち合わされた。びっしりと苔や海草の絡みついた腕が、シーヴの立っている桟橋に突き立てられる。土で出来た桟橋が自ら変形し、鋏を包みこんでしっかりと固定した。
続いて、眼ぺいがちょこんと顔を出した。先端についた握りこぶしほどもある球体の眼はあたりをうろうろと見回し、シーヴを探し当てるとそのままシーヴに視線をすえた。シーヴが親しげに眼ぺいをさすると、眼球がちょっとびっくりしたようにぷるぷると震えた。
「おいおい」
グレッグが呆れたように言った。
「バブルヘッドじゃねえか」
「そうですよ。さあバブルヘッドさん、ちょっとうちの上司がケチつけてくれちゃって雰囲気最悪かもしれませんけど、ご挨拶をお願いします」
バブルヘッドの頭が水中に姿を消した。ぷく、ぷくと上がる泡の数が、徐々にその数を増し始める。水面を覆った泡はだんだんと盛り上がり、あっという間に真っ白な小山となった。シーヴが手を振り、洞窟内に飛び回っている蛍たちを呼び集める。知能を持たない蛍たちは吸い寄せられるように次々と泡の中に飛び込み、泡の小山は内側から虹色に輝いてまるで真珠のように見える。
と、不意に泡の中で、光が曲がった。
ぼんやりと発されていた蛍たちの光が不意に黒く不透明化した泡の粒に取り込まれて消え去り、かと思うと表面に開いた小さな穴に絞られて細い光線になった。光線は泡の中を進み、あるいは反射されて、光のペンによる複雑な三次元構造が表れた。黄色に輝くジャングルジムを引っ張り、あるいは押しつぶしたような形状は、こうして見る間にもわずかずつ変形している。
「はい、ありがとうございます! ご覧になりましたか皆さん、この言語に尽くしがたい芸術作品がこの方の名前だそうです。拍手!」
わーぱちぱちと手を打ち合わせるシーヴの映像につられて、私も思わず拍手した。泡はだんだんと崩れて構造を失い、開放された蛍たちがふらふらと逃げ出していく。水面に留まって無言でシーヴを見つめているカニの姿は、私にはなんとも満足げに見えた。
「違う。あれは名前ではない」
私の感情を読んだのか、ボビーがそんなタグを送ってきた。
「《軌道》という暗黒世界の中で生きるカニが、視覚に頼った形で自分のアイデンティティを表現するはずはない。あれはおそらく地上の民に対する好意の表明だ。このバブルヘッドの一族が知能を捨て去る以前に発達させていた外交プロトコルがそのまま残っているのだろう。だからあれは名乗っているわけではない。単なる本能的な動作だ」
「まあ、バブルヘッドに名前はないわな」
「えー、なんですかその言い方。この分かり合えたような感じに全力で水を差しに来てくれちゃうんですか。ディスコミュニケーションの権化みたいな人が旅行ガイドを務めているという事実が明るみに出てきたショックで風も泣いています」
シーヴが頬を膨らませた。バブルヘッドの眼ぺいはぴくりとも動かず、なんとも哀愁が漂って見える。こちらの話が聞こえているのだろうかと気になり、私はバブルヘッドに向けてメッセージタグを送った。だが、メッセージは目的のアドレスを見つけられずに戻ってきた。
「バブルヘッドに地球人と会話可能なアイデンティティはない。言うなれば家畜のようなものだ」
瓶の中のボビーが私を見上げて言った。ボビーは私の自我殻と表層思考の間に割り込むと小さなチャンネルを作り、私の心に浮かんだ疑問が群がる実況者たちに届くようにしてくれた。たちまちバブルヘッドについての説明が実況者たちから寄せられ、それらのメッセージタグは光り輝く仮想スプライトの形を取って私の周囲に漂った。私は手近な一つを手に取り、その内包するメッセージを開放した。
『バブルヘッド=なんだかカニ。泡とか吹きます。すごいです。こんな情報で充分だと思いますが?』
「まあなんだ、その説明は間違っちゃいないな。基本は泡を吹くだけのカニだ。まあ、その泡がすごいんだが」
絶句して他のスプライトを開けてみようとしたところで、横から覗き込んだグレッグが鼻を鳴らして私の疑問に答えてくれた。
「粘着性の泡をコントロールして色々やってくれるんだ。制御能力は今見せてくれた通りだ。泡に包んで貨物を輸送したりすることもある。こう見えて水中じゃそれなりにスピードも出せるんだ。移動手段としちゃ悪くないな」
悪くないと言う割りに、グレッグは何やら複雑そうな顔つきだ。指摘すると、グレッグは露骨に顔をしかめた。
「あれに乗ると服がべとつくのさ。何しろ泡だからな。それに、呼吸もちょっと苦しいぜ。何しろ泡だ」
「ぜんぜんそんなことないってこの子が言ってますけどー。居住性は抜群ですってー。ねー」
「いやそいつは言えないだろ。誰から聞いた。それに以前の所有者はどうした」
「この子の脳を覗きました。なんでも、この子は前は《放浪者》に使われて公共事業に奉仕してたんですって。でも事業が終わって仕事がなくなって、しばらくふらふらしてたみたいなんです。丁度手近にいたんで声掛けてみました。何でも運べて、生体の輸送経験も結構あるみたいですよ。なんならこれまでの輸送実績も拾えた範囲で送りましょうか」
「じゃあその《放浪者》と、従事してたっていう公共事業についても調べておけ。命を預けるんだ、出来れば出所がはっきりしてるのを使いたいからな。それと、運転はどうするんだ。お前が操縦できるんだろうな」
「そうですね。二人三脚で行こうかなって思ってます。僕が命令して、この子がそれを自由な発想で実現する。なんだかすごく上手くやっていけそうな気がしてるんです。僕も遂にあなたみたいに人に指示出して上司の仲間入りですね。でもご心配なく! 僕はあなたみたいなクソ上司になんかなったりしませんから! 負の循環をここで断ち切るんです!」
「おいおい、大丈夫なんだろうな」
「絶対大丈夫ですよ。この子聞き分けいいですもん」
「じゃあお前の運転手としての給料は今回はなしだ。そのバブルヘッドに払う」
「なんですかその理屈! 僕の貢献無視されすぎじゃないですか! たゆまぬ努力で減俸を達成しようとしないでください!
分かりました、じゃあ僕がこのカニの代理人になって上前をはねます」
「そうしてくれ。ところでバブルヘッドって何をほしがるもんなんだ? シーヴ、どうなんだ」
「えーとちょっと待ってくださいね――ええと、小エビが食べたいそうです。小エビをたった一掴みぐらいで当分幸せなんですって。なんなんでしょうねこの図体にしてこの無欲さ。もう少しガツガツしてもいいと思うんですけど」
「じゃあ小エビを調達しておこう。シーヴ、お前にもやるぞ。好きなだけ上前をはねるといい」
「ムキャアアアアア!!!」
「もちろん、このバブルヘッドに正当な所有者がいて、そいつから借りる形にするなら話は別だ。小エビだけじゃなくてちゃんとした金を払うし、お前にも少しぐらい分け前をくれてやろう。だから俺達がそっちに着くまでに頑張って探しておけよ。10分やる」
「えー生きのいいのが拾えたってだけでいいじゃないですかー。居もしない持ち主にレンタル料を払ったつもり貯金でいいじゃないですかー」
「よくねえよ。でっち上げで誤魔化そうとするなよ。タダじゃおかないぞ」
「でも本当に今の所有者がいなかったらどうするんですかー」
「その時はそのときだ。そいつの記憶を精査しておけ。それと、こっちでも少し調べるからスナップショットを俺に送れ。瑕疵があったら他の乗り物にさせてもらうからそのつもりでプランBも用意しとけよ。ほら、後8分だぞ」
「かああああ! クソ上司!」
怒りに満ちたシーヴの発したタグは言語化できる内容ではなく、そのまま通信も断ち切られた。
私は別にバブルヘッドでも問題なさそうだと思った。そのことを伝えると、グレッグは渋い顔をした。
「いや、別に俺もあのバブルヘッドに難癖付けてるわけじゃない。公共事業が終わって開放される家畜なんてごまんといるし、そういう奴らは所有権だってちょっと曖昧なままなんてのもよくある話だ。ただ、出来ることなら安全を確保しておきたいってだけさ。何しろ空気もない水の中に潜るわけだからな。シーヴのふらふら運転でいい空中散歩とはちょっとわけが違うんだ」
そこをあいつは分かってないからなぁ、とグレッグはため息をついた。
私とグレッグは再び事務所インスタンスに移り、《鉱山》の基底部へと下っていた。座席を作り出して座り、体を固定する。《ハッシュ》が入っている塔の表面には高速エレベータレーンがあり、レールに取り付いた事務所は半ば落下するようにして目にも止まらない速さで下を目指す。スパイム蛾の視界を通して、下から上に流れ去っていく外の光景を楽しみながら、私はグレッグがバブルヘッドのデータをチェックするのを眺めていた。
「まあ、見る限りじゃ問題はなさそうだ。ボビー、お前はどう思う」
「標準的なバブルヘッドの個体であり、従事してきた事業の来歴にも不審な点は発見されない」
「健康状態も良好、いたって気のいいバブルヘッドだ。しょうがないな、シーヴには給料くれてやるしかないか」
シーヴが送ってくれたバブルヘッドのスナップショットは、半透明になったカニのミニチュアという形に見えた。それをくるくると丸めて私に投げ渡すと、グレッグはにやりと笑った。
「そら、お土産と言うには少々しゃれてないが、こいつの記憶は中々面白いぜ。暇なときにでも見てみるといい」
私は手の中で脈動するカニのスナップショットを眺めた。知能がある生物ほどではないとは言え、中には膨大な情報が乱雑に詰まっている。わずかに開いて中でひしめく情景を一通り見渡すと、私はスナップショットを自我殻に投げ込んだ。まとわり付いてくる実況者たちにアクセスを開放し、好きにつつかせる。ざわめき声やちらつくタグのいくたりかが消えうせて、少し身軽な気分になれた。
丁度その時、がたんと音を立てて事務所インスタンスが停止した。
「着いたぞ。じゃ、早速バブルヘッドのお世話になってみるとするか」
グレッグが、いかにも気の進まないという表情を作りながら事務所の壁を開放した。ひんやりとした地下の空気が流れ込んできて、私は思わず首をすくめた。
但し書き
文中における誤り等は全て筆者に責任があります。
- 考えたらマセバズークってかなり広い国なんだよな。大掛かりな移動手段もスペクタクルで面白い。「私」が今回作中の前に出ていたのもよかった -- (とっしー) 2013-10-28 22:50:59
- グレッグとシーヴとの関係が豪州か?と言っちゃうほどフランクなのは相変わらず楽しい。カニさん可愛いのと私の感情の機微が増えたような -- (としあき) 2013-10-29 22:19:08
- カワイイモブが上手いよね -- (名無しさん) 2013-10-29 23:14:47
- 異世界センス溢れる小ネタが毎話楽しい。 無邪気と天然で裏がなさそうと思うのは蟲人の特性かも? -- (名無しさん) 2013-11-08 22:25:34
- 変化の果てに今の形になったバブルヘッドの滲み出る愛嬌が大きく目立つ一幕でした -- (名無しさん) 2017-10-15 18:04:10
-
最終更新:2013年10月27日 23:40