私は私たちに迎えられた。
さまざまな私がいた。私たちはお互いの記憶を交換し、その輝きに目を瞠った。私という存在の連続は大樹のように天高く聳え立ち、その幹に刻まれたフラクタル年輪は私たちの一体一体に照応している。私は美しかった。私たちはいかにも美しかった。
『そうね、とても美しいと思うわ』
そんな声が、私の耳に届いた。
『《守護者》たちったら、ずいぶん面白いことを考えたのね』
声は私の中から生じていた。私たちではない何かが、私の中に潜んでいた。
地下の港湾は思っていたよりも広く、シーヴのところまで行くのには少し歩かなければならなかった。
グレッグは途中で近くにいた蟻人の一体を呼びとめ、小エビの調達を頼んだ。バブルヘッドに払う給料だ。一掴みで足りるとのことだったが、グレッグは他にも魚やエビを注文していた。結構な量である。
「俺達の飯だよ」
グレッグはこともなげに言う。
「《パイプライン》には昼前に着くし、そこなら加熱調理も出来るからな。道中どうしても腹が減ったらサシミでもいいぜ。日本にいたときはよく食ったもんだよ。スシもテンプラもな」
『スシってなんだ?』『異世界における禽獣の一種と推測』『否定。気象に関する抽象的概念』『理解しない』『適当なこと言うな』『理解しない』
私はため息をつき、最後に寿司を食べた記憶を引っ張り出して実況フィードに流した。驚きと歓喜の波紋が広がり、転載許可を求めるメッセージが何件も届いた。ふと思い出して、同じ記憶をシーヴにも送る。ちょっとしたチップの代わりだ。
「そうそう、あんたもわかってきたみたいだな。ここじゃ地球の記憶はそれなりに売れるんだよ。あんまりばら撒きすぎるのもよくないがね。お、あれか?」
先を歩いていたグレッグが、埠頭の一角を指差した。シーヴと思しき姿が、桟橋のそばでぶんぶんと両手を振って飛び跳ねていた。
「どうもー。あ、さっきはどうもありがとうございました。とってもおいしかったです。家宝にします」
たどり着くと、シーヴは私に輝くような笑みを向けてお辞儀をした。一方でグレッグに対しては目をそらし、背中を丸めて言葉にならないタグをぽつぽつと発するばかりだった。プランBは用意できなかったらしい。言いつけられた調査が出来ていないことはグレッグのほうも充分承知していて、自分で調べたバブルヘッドの記憶スナップショットをシーヴに送付すると、その背中をどやしつけた。
「ま、問題なさそうだから今回はこのバブルヘッドでいいことにしてやろう。こいつに任せるんじゃなくて、マニュアルでしっかり運転しろよ」
自信なさげに垂らされていた触角をピンと伸ばし、シーヴはそっくり返った。
「ほ、ほーらね、僕だってちゃんと給料ぶんは働きますよ! 無茶言う上司なんかに負けたりしないんです!」
「はいはい。じゃあ乗るぞ。シーヴ、始めろ」
「はーい。じゃあ皆さん、名無しのバブルヘッド改め『ルミナス号』にご搭乗いただきまーす」
シーヴは脇の水面から飛び出しているバブルヘッドの眼ぺいにひらひらと手を振った。くいっと曲げられた眼ぺいが水中に沈み、湧き出してきた泡が水面に盛り上がって高さ1メートルほどの小山になった。
「はいどうも! それでは搭乗方法をご説明いたしまーす。この泡にですねー、ぴょーんと勢いよく飛び込んで頂くと、バブルヘッドが泡で捕まえてくれてですねー」
説明を始めたシーヴの体が、水中から飛び出してきた鋏にがっしとつかまれた。
目を白黒させる暇も有らばこそ、鋏は引き戻されてシーヴの体は水中に消えた。悲鳴すら上がらなかった。私はあわててシーヴにメッセージを送ろうとしたが、返信はなかった。私はグレッグを見やったが、グレッグは顎をかくばかりだった。
『問題ない。シーヴの生体信号は正常だ』
「まあ、悪気はないみたいだな」
ボビーもグレッグも、呆れこそすれ、あわてる様子は一切ない。私はなおもシーヴと連絡を取ろうとしたが果たせず、なんともいえない居心地悪さを味わった。水中に沈んでいるバブルヘッドの様子は分からず、これからバブルヘッドに頼って旅をするということがあまりにもばかげたことに思われ始めた。
と、再び現れた鋏がグレッグの体を掴み、水中へと投げ入れた。グレッグは声もあげることなく水中に沈み、私とボビーだけが残された。
『問題ない。グレッグの生体信号は正常だ』
ボビーはいわずもがなのことを言った。私は呆然と立ち尽くし、いつ何時次の鋏が飛び出すかもしれないと気づいて身構えた。膨らんだ泡の小山がぷつぷつと音を立てて弾けるほかには、水面は静まり返ってしまった。鋏に攫われるより先に水中に飛び込むべきだとは思ったが、なかなか決心がつかなかった。こんなところで旅は終わるのであったというふざけた考えが心に浮かび、すぐさま消えていった。
「あの」
突然背後から声を掛けられて私は飛び上がった。そこにいたのは蟻人だった。手になにやら粘液の塊をもち、所在なげにたたずんでいる。蟻人は粘液の塊を私に差し出すと、添付されていたグレッグの所有権タグを示した。そこでようやく、グレッグが先ほどエビを注文していた蟻人だと言うことに気がついた。
「これ、獲ってきました。受け取りお願いします」
粘液の塊からはエビや魚の頭が突き出しており、どうやら魚篭として用いられているようだった。魚を沈み込ませ、あるいは表面に貼り付けて保持する仕組みのようだ。私はおっかなびっくり手を伸ばし、べとべとが出来るだけ少ない場所を探そうとした。
あるいは、そうやって受け渡しに時間を掛けていたのがよくなかったのかもしれない。蟻人は水中から飛び出してきた鋏に掴まれて真っ黒な水面の向こうに引きずり込まれていった。後には静寂だけが残された。
『問題ない。彼の名前は分からないが、生体信号は正常だ』
私はボビーからの発言をしばらくシャットアウトするように自我殻に命じた。そうして、ゆらゆらと揺れる泡の小山に目を凝らした。惨劇の痕跡は見受けられない。あるいは、これも荷物を取り込むバブルヘッド流のやり方なのかもしれない。
私は頭を振って、息を思い切り吸い込むと、荷物を抱え、泡の小山に向かって身を投げた。
体を包み込んでいく泡は奇妙に暖かく、それでいて手ごたえはほとんどなかった。
私は目を瞑って息を止め、おっかなびっくり手を伸ばして掴まるものを探そうとした。腕の動きを邪魔するものは何もなく、もがいても何の感覚もない。空気のない場所でスカイダイビングをすれば、こんな感じになるのだろうか。
息が苦しくなり始めた。私は恐る恐る薄目を開けた。何も見えなかった。《放浪者の軌道》は地下水脈だということがぼんやりと思い出された。光が差す理由はない。何も見えず、何も聞こえない。恐怖が私の心臓を鷲掴みにし、私は思わず息を吐き出した。
そうして開いた口の中に流れ込んできたのは、水ではなくて泡だった。
泡が喉に触れ、気管にまで入るのが分かった。泡は鼻腔にも侵入したが不思議とくしゃみは出なかった。胸元に下げていたボビーと粘菌の入ったケースが熱を帯びはじめ、自我殻に接続リクエストが寄せられた。発信者は『ルミナス号船長代理・シーヴ』。一も二もなく、私は接続許可を出し、流れ込んでくる熱い奔流に心をゆだねた。
途端に、世界が明るくなった。
まず見えたのは、周囲に渦巻く水の流れと、それを切り裂いて泳ぐバブルヘッドの姿だった。
バブルヘッドは二本の長い腕の先端にヒレを開き、水をかいてすさまじいスピードで進んでいく。他の足は私たちが入った泡の球を抱え込む役割だ。先にシーヴたちを水中に引きずり込んだ鋏もこの補助肢だった。バブルヘッドの全体像は10メートルほどもあることを除けばタカアシガニにも似ていたし、泳いでいるときの姿はひし形の胴体と細長い翼をもった不思議な飛行機のようにも見える。眼ぺいは収納され、代わりに突き出した感覚肢は数百メートルほどにも伸び、体の後方に向かってなびいていた。その主な役割は水精霊との接続だ。水精霊は感覚肢にまとわりつき、周囲の情報をバブルヘッドに知らせるとともに、表面に密集した繊毛の振動を通してバブルヘッドとコミュニケーションを取る。協力の見返りにバブルヘッドが渡すのは小さな泡の構造物で、水精霊たちはそれを弄んでは後方へと投げ捨てていく。バブルヘッドが残す泡の航跡はかなりの長さに及んでいる。
こうした情報は、バブルヘッドが説明してくれたのではなかった。バブルヘッドとの間に入ったシーヴが、私に送付したものだ。また周囲の光景を目に見えるようにしてくれているのもシーヴだった。本来ならバブルヘッドは、輸送泡の内部の状況は接触によってしか捉えていない。手ごたえや手探りという形の触覚にあたるものなのだ。それを私が分かりやすいように視覚情報へと変換して、拡張現実という形で示してくれているのだ。
私は首を回して、上にシーヴの姿を見つけた。シーヴはカニの腹に張り付くようにして、こちらに正面を向けていた。表皮の一部がほどけ、背中から伸びだした何本もの接続肢がバブルヘッドの体に侵入している。バブルヘッドの輸送泡は半径が5メートルほどもあり、かなり余裕がある。運転に集中しているらしく、シーヴの眼はこちらに焦点を結んでいなかったが、それでも私が賞賛のタグを送ると手を振って応えてくれた。
『乗ってしまえば、まあまあの乗り心地だろ』
ふと振り向くと、そこにはグレッグが埋まっていた。私たちは満遍なく透明な泡の中に埋まっているのだが、それにしてもグレッグは頭から泡にめり込んでいた。どうも乗り込むときに泡の中に乱暴に突っ込まれたようだった。グレッグは声の代わりにメッセージタグでしゃべっていた。
『バブルヘッドに載るのは久しぶりだが、どうも慣れない。悪いがこりゃ貨物向けだな』
『ルミナス号にご搭乗の皆様ー、しゃべれない船長のバブルヘッドに代わってアナウンスを務めますアーマイトのシーヴでございまーす。本船は乗り心地も一級ならスピードも一流、ここらじゃだってグンカンザリガニだって裸足で逃げ出す性能の持ち主でございます。ほんの一掴みの小エビで動いて燃費も抜群! 乗り心地が悪い人がいるのはあれですね、多分前世で犯した悪行の報いだと思います。因果は巡り、悪は滅びる。それがこの世の習いだぜフフフ。ごめんなさい、決め台詞でちゃいましたのでどうぞ拍手でお迎えください」
『もうちょっとちゃんと制御しろよ。乗り込むときは死ぬかと思ったぞ』
『あ、それは僕も思いました。乗せてって頼んでみたら飛び出したのがあの対応ですよ。いやーとんだサプライズエントリーでしたね。ほら、あれはきっとこの子なりのユーモアって奴じゃないですかね。変な笑いが出ましたし』
『そんなユーモアは要らん』
『このバブルヘッドに知性はない。したがって、ユーモアもない』
シーヴとの接続を経由してボビーが割り込んできた。発言には私がボビーをブロックした履歴も添付されていて、私はあわててボビーのNG指定を解除した。ボビーは私の胸元で身じろぎすると、私の謝罪タグを受け取って体を丸めた。
それにしても、素晴らしい光景だった。私はバブルヘッドのセンサーを借りて、周囲の様子を観察した。
《放浪者の軌道》の実体は水中洞窟だが、その広さは海ほどあるに違いなかった。光のない世界は代わりに音やフェロモン、拡張感覚入力に満ち溢れ、大勢の水棲蟲人たちが行き来していた。小魚の集団を追い立てているシェパードクラゲは牧羊犬のように群れを成しているが無知性で、水棲蟲人に飼いならされて道具と化している。そのクラゲの周りを回って獲物を奪おうとしているのは幼虫期に入ったばかりの蜻蛉人だ。水を噴射して水中を素早く飛び回る姿は狼を思わせる。ふと目を上げると、はるか上方を巨大な何かが悠々と渡っていくのが見えた。クジラにも似ているが、表面はうろこ状の鉱石に覆われている。クジラの形を取った土精霊の集合体だとグレッグが教えてくれた。鉱石クジラが体をゆするたびに錆びたオルゴールのような轟音が水中に響き渡り、皆がさっと進む道をあける。はるか遠くから、三位一体ゾウムシのコロニーが撒き散らす賛美フェロモンが流れてくるのが分かる。
なにより圧巻なのは絡まりあう水流だ。ここでは水は常に動き回り、意図を持って流れて複雑な道を作り出していた。シーヴの操るバブルヘッドは時に水流を選び取り、時には自ら水流を操って流れに乗って進んでいく。まるでハイウェイのようだった。
『いや、この辺の水流はローカルなもんだよ。ハイウェイといったらこれからだ』
グレッグが割り込んできて、進行方向上の一点をポイントした。
『そら、そろそろ見えてきた。あれが今回乗るバスだよ』
『皆様、ベルトにお掴まりください。ベルトがない場合はお手数ですが自助努力をお願いします。本船はこれよりバスにダイナミックエントリー致しまーす。ええとこのバスの名前はなんでしたっけね……』
『後にしろ、シーヴ』
グレッグがうめいた。見えているものの意味がわかって、私も声を合わせた。
真っ黒な滝を思わせた。水中に大きく黒い穴が開いているのだ。ブラックホールのようにも見える穴は、まさにそこらじゅうからありとあらゆるものをすさまじい勢いで内部に引きずり込んでいた。これまでは安定していたバブルヘッドの体が、流れに揺さぶられてバランスを崩し始めていた。先行していた鉱石クジラが、穴に飛び込む間際バラバラに砕け散るのが見えた。そこから先はどうなったかは分からない。バブルヘッドのセンサーでは捉えられないのだ。
『準備いいですか? いいですね。よくなくっても今からじゃちょっと間に合わないですけどね。じゃあバスに突入しますよ。フフフ、クライマックスはこれからだぜぃ、お嬢ちゃんたち!』
シーヴが能天気にアナウンスしている間にも、穴はどんどん近づいてくる。
私は目を閉じ、泡の中で体を丸めて突入に備えた。
但し書き
文中における誤り等は全て筆者に責任があります。
- あの・・・巻き込まれた無関係な蟻人さんも同乗したまま出発してるように思えるのは私だけですかね・・・・? -- (名無しさん) 2013-11-22 22:53:17
- 今日あたり新作来てるかなー?ってwiki覗いたら新作があったこの喜びといったら -- (名無しさん) 2013-11-22 22:59:28
- ルミナス神戸トゥ~というCMが脳内再生余裕。アクションひとつ変化ひとつが目に浮かんでくるのが楽しい!ルミナス号の航行の仕組みにうなった -- (名無しさん) 2013-11-22 23:25:41
- バブルヘッドオンステージでした。バスは乗り物じゃなくて風呂のことだったのかーとも思ったり -- (名無しさん) 2013-11-25 14:11:07
- 何でも知っている風を都度見せるグレッグとシーヴにえもいわれぬほのかな怖さを感じるのは自分だけだろうか -- (とっしー) 2013-11-29 22:54:18
- 現実で起こっていることなのか意識の中の特別な世界での出来事なのか、度々境界を曖昧にする不思議な空気が特徴的でした -- (名無しさん) 2013-12-13 22:37:08
- 種族の色が出ているだけで全員まともっていうか会話と意思疎通が成立しているのがグレッグが間にいるおかげ? -- (名無しさん) 2014-05-13 23:18:09
- マセバづくしの至れりつくせりなツアーではあるが読んでる途中で「どういう場所に到着するのか?」という疑問が沸いてくる -- (名無しさん) 2014-06-20 23:30:45
- マセバズークにどれほどの領地があるかはおいといてその領地ごとに特徴あるワールドが形成されてそうだ。はっきりと役目を与えられて生まれたようなマセバズークの生態はとてもシステマティックだ -- (名無しさん) 2015-10-20 22:34:18
- 電脳世界風のやり取りもすっかり自然に普通になったシリーズです。近未来とファンタジーの合わさったバブルヘッド紀行は掻き分け進む《放浪者の軌道》のマセバズークならではな景色が瞼の裏に広がってきました。 -- (名無しさん) 2018-04-08 19:16:31
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最終更新:2013年11月23日 19:44