アットウィキロゴ

【清霞追風録・三者望風】

「そうですか、兄上はまた逃げましたか」
 寝台の上で渦を巻く闇の向こうから、重々しい声がそう告げた。
「これで何度目でしたかな」
「面目次第もありません」
 膝をついていた狐人の女が、足を払ってこうべを垂れる。氷河のように透き通る美貌でありながら、身にまとう装束は簡素な男物である。そのまま手のひらをついて叩頭しようとした女の顔を、ひょいと黒いものが撫でた。影は蔓のような形を成して寝台の上にわだかまる闇から伸び、女の顎を弄うように撫でまわすと、すいと引き戻されて闇の中に消えた。
「おや、妙に声の出る位置が低いように思うのですが、転びでもしましたか、スイメイ師」
 そんな慌てたような言葉が、闇の中から投げかけられた。
 再び闇から蔓が何本も伸びだしたが、今度は触れるでもなく、女の周りを恐る恐るといった調子で探るばかりである。スイメイと呼ばれた女は顔色一つ変えるでもなく、床に頭を打ち付けてこつんという音を立てた。それが合図になったかのように、すべての影蔓がひっこめられた。落ち着き払ったスイメイは傍らに置いていた剣を取り上げ、立ち上がって埃を払った。
「たびたびシキョウを逃がしてしまったことに対するお詫びを申し上げようかと思い、叩頭しておりました」
「あなたも人が悪いですね。私は本当に何回目だかが気になって聞いたのですよ」
「存じております。五回目です」
「そんなになりますか。では最初の時に謝罪の類はやめてくれと申し上げたことをお忘れになってもしょうがないかもしれませんね」
「それも覚えております」
「ならその通りにしてください。責任はすべて兄上にあるわけですし。敬語もよしてください。白話で結構」
 闇が震え、かと思うと拭ったように消え失せた。
 あらわになった寝台の上で、真っ白な毛並みの狐人が体を起こし、うろうろと頭をさまよわせた。
 その両目は完全に盲いている。夜着を手探りして羽織った盲目の狐人はわずかに咳き込むと、愉快でたまらないとでもいったように顔を輝かせた。
「それにどうせ叩頭していただくなら、それこそ兄上にしていただきたいものですね! 『迷惑かけてすまなかった』とでも言ってもらって。地面にはいつくばる皇帝となるとすごい見ものですから、客を大勢呼んでお祭りにしましょう。その時の様子は宮殿の目立つところに壁画でも描いて記録に残してもらったらいいですね。後世の人も喜びますよ。私は見れませんけど」
「申し訳ない。はいつくばらせるところまでは簡単なのですが、そこから先があいにく」
「そんなことができるのもあなたぐらいのものですけどね、スイメイ師。あなたがいなければ、それこそ私たちは兄上が転んで、頭でも打って、突然権力欲や名誉欲に満ちた人間に生まれ変わって、おとなしく帝位についてくれるのを待つしかないわけですから」
 あまり手荒に扱われるのも困りますしね、と笑いながら、盲目の狐人は再び激しく咳き込み始めた。
 薄暗い部屋の隅から、疾風のように闇が走り出た。闇は狐人をやさしく寝かせると布団をかけ、寝台全体をくるみこんだ。ほとばしる闇の一滴が零れ、スイメイの足元にしたたり落ちた。その居住まいは奇妙にあたたかく、まるで繭を思わせた。
 盲目の狐人を案じ、手足となってかいがいしく仕えるこの闇精霊が、かつて甘州で滴抗として知られた不帰の大洞穴を総べ、現在でも大延国で五指に入る強大な闇の主であることをスイメイは知っている。
 狐人が双子の片割れとして生まれたその時、兄とは比べ物にならないほど病弱な体を授かった。足が萎え、目がつぶれ、息も絶え絶えなこの赤子は三日と生きられまいと目された。絶望した母親は自らの手で赤子をくびり殺そうとしたが、この時精霊宮に呼び寄せられていた滴抗の闇精霊が進み出て後見を引き受けた。滴抗はいわゆる間引きのために使われていた歴史があり、洞穴の奥からは母を探す子の泣き声や、一度は捨てた子を案じ、自らも迷い込み死に至る母の哭声が響いて止まないとされていた。闇精霊は赤子をあやし、息を吹き込み、自らの体で包み込んですべての害から守り通し、長じた後は伴侶として寄りそうに至った。
 誰もが彼女の名を知らず、ゆえに誰もが主人である盲目の狐人の名を呼ぶ。狐人あるところ、彼女もまたあるからである。
 主人の名はサイヒョウ。大延国六王が一角、暗闇に伏せる渾王にして、不在である兄・白王シキョウの代理として宰相を務める男である。



 かつて、延国全土から集めた武芸者を師としてありとあらゆる武術を身につけた男がいた。名はシキョウ、後の大延国七十五代皇帝である。
 その天稟をもって武芸百般を窮めたシキョウであったが、ただ一人、どうしても打ち破れぬ相手がいた。名はスイメイ、後に永代剣聖の一人としてたたえられる剣の達人である。
 これを不服としたシキョウは、皇位継承権を放棄して出奔、全国に散らばったかつての師のもとをめぐり、スイメイを打ち倒す技を見出そうとした。対するスイメイもまた、宰相から任を受けてシキョウを連れ戻す旅に乗り出した。
 追いつ追われつの追跡行が実を結ぶには一年の月日を要し、その間、スイメイは大都に戻ることも幾たびかあった。依頼者たる宰相に、シキョウを逃した旨、報告を行うためである。



 しばらくすると咳は止まり、サイヒョウは枯れ木をこするような笑い声を漏らした。
「みっともないところを見せてしまいまして」
「ご自愛ください、サイヒョウどの。あなたがいなければ、大延国は一日も立ち行かないのですから」
「まったくそんなことはないですよ」
 サイヒョウが筋ばった手をひらひらと打ち振った。
「宰相が一人か二人いなくなったところで、官僚機構が何もかもやってくれます。現に兄上がいなくても何の問題もなく回っているでしょう? ああ、だからこそ帰ってこないのかな。私が問題を起こしたら、兄上は帰ってきてくれますかね? 心配して」
「――おそらくは、見透かされて終わりかと」
「ですよねえ」
 サイヒョウの声音は満足げである。
「私が死にそうだといえば、兄上は帰ってきてくださるでしょうけどね」
「おやめください」
「二度とやりませんよ。それこそ兄上に殺されてしまいますからね。それに、死にそうなのはいつものことです。騒ぐほどじゃない」
 くつくつとサイヒョウは笑う。闇が再び払われると、寝台の上には作業用の台が出現していた。寝台の傍らに置かれた書類入れにサイヒョウが手を伸ばすと、闇がすぐさま目指す文書を取り上げてサイヒョウの前に広げる。サイヒョウが広げられた書簡を撫でると躍字たちが次々と飛び出し、サイヒョウの手のひらにまとわりついた。指で弾くと躍字は飛び散って黒い飛沫となり、にじむように消え失せてその意味するところを放射した。躍字を読むにあたり、視力は必ずしも必要ではない。
 つまらなそうにひとつうなずいたサイヒョウの指先に闇が滴り、墨となって書簡のあるべき位置に宰相の印を穿った。よどみない動作で次々と決裁を片付け、瞬く間に処理された書類の山を闇精霊が運び去った。その様を眺めていたスイメイが、感に堪えないとばかりに首を振った。
「仮にシキョウでなく、あなたが皇帝であったとしても、困るものは誰もいないでしょう。知に優れ、偉大な精霊を従える徳もあるのですから」
「そして明日にも死にそうな上に、臣下の顔一つ覚えられないという特技もあります。皇帝向きとは言いかねる。冗談も下手糞ですしね」
「その点に異論はありません」
「まあ、その下手な冗談は置いておくにしても、私は精霊宮の支持を受けていません。第三候補ですらなかったのです。もっとも支持されたのは兄上だ。ところでご存知ですか? 私の妻が、精霊宮の闇精霊たちをとりまとめて、兄上を皇帝にと強く推挙したというのは」
「あなたの差し金でしょう」
「いやいや。妻が言うには、私が皇帝なんかになったら翌日倒れるだろうとのことでした。別に倒れるのはいつものことですが、機会が少ないに越したことはありませんからね。何より兄上のほうが皇帝としての見栄えもよろしい。金羅さまも半死半生の病人より、むくつけき丈夫のほうがお好みでしょう。どう思われます、スイメイ師?」
「――その点については、私の口からはお答えしかねる」
「そうですか」
 サイヒョウがくつくつと喉を鳴らした。寝台の上で体をずらし、スイメイのほうに向きなおる。
「それで、兄上のご様子はいかがですか。曲げたへそがどうにかなりそうな兆しはありましたか」
 スイメイがサイヒョウに会うときに発される、いつもの問いである。そしていつもの通り、スイメイには答えかねた。
 スイメイはシキョウを追う。そしてシキョウは逃げる。スイメイに勝つまでは逃げ続けるというのがシキョウの言であり、シキョウが納得するまでは無理強いしても仕方がないというのがスイメイにとっての真実でもある。
 ではいつ何時シキョウが自分に勝てるのかといえば、それがスイメイにはわからない。
 どれほどシキョウが鍛えようとも、スイメイはそれを打ち破る自信がある。だが、そんな完璧なはずの自信に、シキョウという男は度々ほころびを見つけ出してくる。それが何とも言えず居心地の悪い――と、スイメイは思っている。苛立たしくもあり、なにやら歯がゆくもあり、かと思えば時に新鮮な驚きや喜びすら覚えて、いずれにせよ目が離せない。
 それがいかなる名の感情であるのか、スイメイはいまだ知ることがない。いかなる先行きが待っているのかもわからない。まさしく霧の中にいるように、茫漠たる見通しのみがそこにある。
 だからスイメイは無言でもってサイヒョウに応え、サイヒョウは苦笑いしてため息をつく。
「――まあ、そのうち帰ってくるでしょう」
 いつもの通り、サイヒョウのそんな言葉で会見は打ち切られた。




 スイメイがサイヒョウの部屋を辞した、その帰路のことである。
 外は雨が降り、スイメイは後宮の軒下を歩んでいた。そんなスイメイの頬を、一陣の風が撫でた。
『またしくじったそうだな』
 そんな声とともに、降り注ぐ雨水が吹き散らされた。
 雨滴から顔をかばったスイメイの前で、真っ白な雲が虚空から沸き上がり、むくむくと膨らんで偉丈夫の形をとった。白く凝った純白の鎧は雨粒にぬれることもなく、びっしりと植えられた和毛は身中から湧き出す微風に揺れている。仁王立ちになった犬人の足は地についておらず、スイメイを見下ろす高さに浮かんでいた。その体から吹き上がる風は雨を散らし、木々を揺らし、スイメイをも押しのけんばかりに荒れている。
「テンコウ様」
 スイメイは一も二もなく叩頭した。
 テンコウと呼ばれた風精霊は身をそばめてこれを受けず、スイメイが立ち上がって礼をしても答えない。この偉大な精霊に嫌われていることはスイメイも重々承知しており、理由もまた明らかであった。
「どうなんだ。まだシキョウを連れ帰ってこれんのか」
 テンコウはいらだちを隠そうともしない。刃のように長く鋭い牙をむき出し、肩を怒らせて目に見えそうな圧力を放射している。いつもカリカリしてばっかりだ、とはシキョウの評である。義理堅く、名誉と権威を重んじ、強大な力を意のままに振るって日に千里を駆ける気高い風の精霊という評判も、被後見人たるシキョウにかかればこの言われようである。
 シキョウが帝位から逃げ出してこの方、テンコウの怒りが収まったことはない。怒りの矛先から、スイメイが逃れえたこともない。望めば急流を逆巻く水のように迅く飛ぶことのできるスイメイだが、嵐を振り切ることなどできはしないのである。
「あの愚か者が戻らないせいで天地にどれほどの混乱が生じているかわからないのか? 選ばれた皇帝が出奔など前代未聞の不祥事なのだぞ! 連れ戻す手段など選んでいる場合ではないというのに、現実にはお前のような女一人に任されておる。しかもその女ときたら、何度となくしくじった挙句にのほほんとしておる有様だ! シキョウが帝国一の愚か者であることは疑いようもないが、お前とて誹りを免れるわけではないと知れ!」
 テンコウはなおもスイメイを怒鳴りつける。全員を覆う真っ白な縮れ毛がテンコウの荒い息遣いに合わせて膨らみ、また縮む。そこだけ見れば、ずいぶんのどかな眺めである。
「だいたい武術を極めているというが、その割にはあんな愚か者の風来坊一匹すら叩きのめして連れ帰ってくることもできんではないか。私がその気になれば今この時にでもシキョウを連れ戻すことができる。あやつが帝国のどこにいようとも、お前のような女に頼らずともだ!」
「――では、そうされればよろしいでしょう。今すぐにでも」
 スイメイは静かにそう言った。テンコウが息を呑み、目を血走らせて黙り込んだ。
 シキョウは皇帝であり、同時に風を統べる白王でもある。白王が意をもって命じれば、権威を重んじるテンコウは従うしかない。そうでなくても、このテンコウという風精霊は被後見人であるシキョウに甘いのである。そのことがわかっているからこそ、テンコウはいらだっている。裏切られたがゆえにいらだち、だが信じているがゆえに、シキョウの意志を踏みにじることができない。
 立場は同じ。そうスイメイは感じている。結局はテンコウもまた、シキョウに振り回される存在なのである。初めのほうこそ怒りをぶつけられて戸惑ったものの、今ではそのいらだちを受け止めることができるようになっていた。
 ――それに、連れ戻せずにいることも間違いない。
「シキョウは言っていました。『束縛されて喜ぶ風などいない』と。シキョウという男を追いかけ、力ずくで捕えることはできても、それは彼を苦しめることになるでしょう。ですから」
「――シキョウの言葉を言い訳に使うな。さっさと行け。苦しめてでもなんでも捕まえてしまえ」
 吐き出すように言って、テンコウはスイメイに背を向け、そのまま一陣の風となって消え失せた。スイメイは体にまとわりついた水滴を払うと、空を見上げて拱手した。
「次こそは、連れ帰ってごらんにいれます」
 独り言ではない。風精であるテンコウはあたりで交わされる言葉のすべてを拾っている。そうと知って発した言葉である。



 そうして、スイメイは再び旅路についている。
 大都から伸びる街道を歩み、晴れ上がった始めた空を見上げながら、スイメイはふと、シキョウのことを思う。帝位を投げ出し、スイメイを倒す方策を求める男が、今どのあたりを彷徨っているのかなどと考える。次はどんな手を使ってくるだろうと考える。秘策をスイメイに一たまりもなく破られてどんな言い訳をするのか、それでシキョウの中にわだかっている何かが少し解けることがありはしないかなどと考える。
 あるいは、次こそがスイメイの敗れるときかもしれない。
 そうしたことを、スイメイはちらりと考えて苦笑する。敗北を心待ちにしていることを、スイメイはもう否定しない。まさにそれこそが任務の終わりなのだとだけ考えて、その先にあるものを探ろうとはしない。子供が好物を最後まで取っておくように、スイメイは考えを途中で止める。
 スイメイは顔を引き締め、先を急ぐ。すぐ訪れるかもしれない旅の終わりを思うほどに、スイメイの足は軽くなった。 

(了)

 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
 独自設定についてはこちらからご覧ください。
 また、以下のSSの記述を参考としました。
 【続・その風斯く語りけり】


  • 触れなば落ちんまでに熟れきったクーデレの果実の芳醇な香り! 「いつもカリカリ」呼ばわりされてるってことは、にゃーんとか言ってる子守モード?を昔は使ってなかったのかな -- (名無しさん) 2013-12-14 15:14:20
  • 「スイメイは顔を引き締め、先を急ぐ。」つまり直前までルンルン気分でニヤけてたって事ですかねスイメイ師 -- (名無しさん) 2013-12-14 15:39:50
  • サイヒョウさん伴侶は闇精霊だけど霊王位は光を司る麒王なのか -- (名無しさん) 2013-12-14 19:20:12
  • 闇の霊王の名前を勘違いしていたので修正しました ご指摘ありがとうございます -- (名無しさん) 2013-12-14 21:07:00
  • スイメイは新話が出るたびに人物像が頭の中で変化する面白いキャラだ。しかしテンコウとはテンコウそのものなのかテンコウと呼ばれた精霊がテンコウになるのか謎だ -- (とっしー) 2013-12-15 00:31:02
  • この時点で何歳か分からないけど大人の落ち着き、風格と若者の瑞々しい感性を併せ持つスイメイがとても魅力的です。大好きなキャラクターです -- (名無しさん) 2013-12-15 13:40:28
  • 文章が落ち着いているのと庭園のような美しさを感じさせるのは毎度のことだが、端々で見せるスイメイの可愛らしさがより印象に残った -- (名無しさん) 2013-12-20 01:39:26
  • シキョウを取り巻く環境がまた一つ見えた。皆の信頼を実現できるのか?と言われると今のシキョウでは半々なのかなとも。テンコウは付く人によってその姿も魂も変わるのでしょうか? -- (名無しさん) 2014-12-31 03:52:04
  • 形は違えどシキョウは皆から愛されてるなあ。この徳こそが皇帝たる資格なのかも知れない -- (名無しさん) 2015-01-14 19:23:47
  • 人と人の関係が一文ごとに広がっていくのと、優しさが見えるのが良いですね。幸福と不幸が互いに立つような世でシキョウとその周りの人生がどうなっていくのか。そして今とのギャップが凄いテンコウに和む -- (名無しさん) 2018-11-11 20:06:17
名前:
コメント:

すべてのコメントを見る
-

タグ:

h
+ タグ編集
  • タグ:
  • h
最終更新:2013年12月14日 21:06