【stream buffer】

 あなたは誰か、と私は問うた。

「それをあなたが聞くのね?」

 声は笑った。

「はたして、あなたに私の名前を聞く資格があるものかしらね」

 居並ぶ私たちの一部から、輝きが流れ出して絡まりあった。この空間を支えているものとは異なる論理によって編まれた実体が形を結び始めた。私は凍結していた視覚を活性化し、彼女を認識した。



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 黒っぽい光沢のあるジャンプスーツのようなもので全身を覆った、金髪碧眼の若い女性。ピンと伸びた触角のような前髪と、外はねが印象的なショートヘアをゆらしながら、奇妙に光り輝く瞳がくるくるとうごく
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 どこか懐かしさを覚える姿だった。そのことが、なぜか私たちを動揺させた。私たちは寄り集まり、お互いの自我殻を解析して、いつの時点の記憶によるものかを探り出そうとした。

「無駄よ」

 彼女がそう言った。

「あなたはまだ私に出会っていない。《守護者》たちが組み込んだ記憶の中に、私は含まれていないわ」

 『まだ』とは未知の概念だった。私たちはこの《メモリス》で生まれ、定められた機能の一部を果たして永遠を過ごす。時間とは単に私たちを私に分割するためにつけられた通し番号に過ぎない。私に『まだ』などない。単に今が、無数の今があるだけだ。

「そうね。《守護者》ははじめ、そういうものとしてあなたを作ったのよね。活動することのない記憶の連続体として。意識の在り様を観察するための精神的剥製として」

 でももう違う。彼女はそういった。

「彼らは気が変わったのよ。あなたにはもっといい使い道があることに気付いた。おかげで私が手を出す余地も生まれたわ」

 あなたは誰か、と私は再び問うた。彼女は答え、そして私に問い返した。

「それで、あなたは誰かしら? あなたの名前は?」

 私の、名前。









 バスの《声》はとてもおしゃべりだった。シーヴは一発でつかまってしまった。

「――それでワシは言ってやったんじゃよ。『お前は岩にこびりついた表面張力だ』ってな!」

「そうなんですか、すごいですね」

「の割にはなんと薄い反応じゃろうか」

「だってまったく意味が分からないです」

「ワシの生まれ故郷じゃな、お嬢さん、このギャグでどっかんどっかん卵がかえったもんなんじゃよ」

「ギャグだったという趣旨の発言が突然飛び出してきて衝撃です。それに卵がかえるってなんなんですか。どんな得体のしれない生物が飛び出してくるか想像しただけで思考嚢が汚損される感じがします」

「『思考嚢が汚損される』? おお、なんと新鮮で珍奇な言い回しじゃろうか。ぜひともワシのレパートリーに加えさせてもらいたい。使用料は水をもう一杯でいかがかな? むろん現実のほうで飲んでもらう」

「ありがとうございます。いらないです」

「遠慮しなくていいんじゃぞ。水ならそこらじゅうにあるからの」

「だからいらないって言ってるんですけどー。価値ゼロなんですけど」

「ワシの体の構成物である水が価値ゼロということは、積算されたワシの価値も当然にゼロということじゃ」

「別にそんなこと言ってないです」

「だが言葉通り考えればそうなるのう。価値ゼロでも知性は別にゼロではないからはっきりわかるのじゃ。ほれこの通り」

「もうはっきり言うことにしますけどすごくイライラします!」

「イライラ? 気まぐれな情動に振り回されて正常な論理的思考に重きを置くことが不可能な状態にあるのか? せっかく授かっておる知的能力をいたずらに粗末にするような発言が突然飛び出してきて衝撃です」

「きいいいいいい!」

「なんじゃ今の不随意に飛び出した感じの音声は! よもや出産か? わしの話に誘発されて卵が孵るというわけか! なんともはや生命の神秘じゃなあ」

 そろそろ救出に入るべきタイミングに思えた。

 私はシーヴと《声》の間に割って入り、《声》にリクエストを出した。今、私たちが利用しているこのバスの利用者に挨拶を送ってもらうのだ。全員にと私は念を押した。それも全体放送ではなく、個別にチャンネルを作ってもらう。膨大な作業量になるはずだった。少なくとも、《声》をしばらくの間黙らせられるだけの。乗客同士の相互通信は保障された当然の権利だから、はねつけられる気遣いはないことは、あらかじめボビーに調べさせてある。

 《声》は黙り、シーヴは解放されて金切り声をあげた。ひとしきり叫び終わると気分がすっきりしたらしく、私に感謝のタグを投げてきた。

「助かりましたです」

 どういたしまして。

 私は椅子を作り出して座り、シーヴたちに勧めた。シーヴはようやく、この空間では座っていなかったことを思い出したようだった。半透明のスポンジのような椅子に身を沈めてうめき声をあげるシーヴを横目に見ながら、私はあたりを見回した。

 一言で言い表すと、ここは泡で出来た待合ターミナルだ。

 透き通った水を通して、目的地へ着くのを待っている乗客たちの姿が見える。商品を満載して体を膨らませた行商水蜘蛛も、えさ場へ向かう回遊魚の群れも、それを追いかけるヤゴのハンターも。つい先ほど一足先にバスに乗り込んでいた鉱石クジラは、今では小さく分裂してそれぞれの目的地を目指しているようだった。握りこぶしほどの大きさになった土精霊が、宝石の目をひらめかせて私たちのそばを通り過ぎていった。

 もちろんこれは仮想的なイメージだ。本来の私たちは、バブルヘッドのルミナス号ごとバスの水流に乗っている。バスは高速で絡み合い、予告もなしに流れを変更することもあるベルトコンベアのようなものだ。だから、それぞれが勝手に泳ぎ回ることは危険を伴うのだという。乗客たちはいったん体をバスに預け、運んでもらう。バスは乗客たちを包み込み、可能なら神経にも接続して操縦する。できない時には、こういう時のために用意してある麻酔流を使うのだそうだ。

「まあ、目が覚めててもろくなことにはならんだろうよ」とグレッグが言う。泡に潜り込んでいる現実世界と違って、ここでは少し元気を取り戻しているように見える。

「真っ暗なのを差っ引いても、とにかく流れが速すぎるからな」

 グレッグは指をひねって、バスの全体図を呼び出した。その全体はところてんで出来たうごめく脳髄のようにも見える。全体にちりばめられて、目にも止まらない速さで動き回っている金色の点は乗客、つまり私たちだ。見ているとめまいがしてくる。

「僕は別にこれぐらい楽勝ですよ」

 シーヴが胸を張った。と、見る間にその眼に涙があふれる。シーヴは頭を抱え込むと、スポンジ椅子の中にずぶずぶと沈みこみはじめた。

「ううう、だからお願いです。マニュアルで操縦させてください。もうこのジジイに頭の中を覗かれて、くだらないおしゃべりに付き合わされて、あまつさえ体まで勝手にいじくり回されるなんてうんざりです。一つ間違えると口にするのもはばかられる卑猥なアレじゃないですか! おっと、困ってるのは僕だけじゃありませんよ! ルミナス号もそういってます。『お願い、自分はどうなってもいいからこの人だけは助けて』だそうです。聞きましたか今のけなげでいじましいお言葉! どこかの上司と違ってこの子とはすごく物理的なレベルで心が通じ合ってる気がします。我らともに泳ぎし仲なれば生きるときも死す時も休暇を取るのも一緒ですからね! どうせ僕の話をこれっぽっちも聞いてくれないどこかのクソ上司およびこのろくでもないバスに対抗して権利を主張するため、僕たちはここにここに共同戦線の樹立し、不当な抑圧に対して断固戦っていくことを宣言します! えいえいおー! どうしたんですか万国の労働者の皆さん! 声が小さいですよ! 千里の道も朝の元気な挨拶からですからね! はい、えいえいおー!」

 バブルヘッドのルミナス号がぶくぶくと泡を吹いた。この仮想空間では、彼も本来の大きさではなく、手のりサイズにまで縮んでいた。小さいルミナスはシーヴの頭に陣取り、シーヴの声に合わせて鋏を振り立てていた。グレッグは見もせず、ただ鼻を鳴らした。

「えいえいおー」

 とグレイが言った。シーヴはぎくしゃくと振り向き、ぎこちない様子でお礼を言った。

 グレイはエビを取ってきてくれた蟻人だ。私が水中に引きずり込まれたあの時、彼もいっしょに泡に突っ込まれた。それどころか彼自身も抱えていたエビの一部とみなされて、口の中に押し込まれかけていた。発見されたのはルミナスがバスに乗り込んでから。「そういえば何か喉に引っかかってたような感じがしてました」と手をたたくシーヴにはグレッグが雷を落とし、責任をもって《真理鉱山》へ送り返すことを約束した。対するグレイはあまり気にする様子もなく、おとなしく私たちについてきている。送り返すための流れに乗れる場所までは同行するのだという。

 シーヴが居心地悪そうにし始めた。無理もない。私だって彼にどう接したものかはわからない。そうでなくてもグレイは必要なこと以外は口にしないポリシーの持ち主のようだった。自我が薄いのだ――とボビーが言う。蟻人の中には超社会性を持つ種族がいて、そうした者たちは繁殖以外にも思考や行動の制御まで女王に任せているのだという。「途方に暮れてるだけだろ」とグレッグが鼻を鳴らし、それはまさにその通りだと私も思う。

 もう一度「えいえいおー」と蟻人が言った。即座に「違います」と続けて、グレイは私を指さした。

「小さい友人です。あなたの中にいる小さい友人の声を代弁したのです」

 何のことかわからず、私は自我殻をチェックした。

 そうして、とてもか細い声に気が付いた。

「えいえいおー、えいえいおー」

 クリーナバグだった。体のどこかに張り付いて群れに取り残されたまま、ここまでついてきてしまったものらしかった。指を差し上げると、バグは這い登ってきて私に挨拶タグを投射した。私もルミナスのことは笑えなかった。どこかで休みたいかと聞くと、バグは「髪の毛の中を探検したいです!」とのこと。そっと頭皮におろしてあげると、バグはまるで子供のような歓声を上げてもぐりこんでいった。

 彼らの世話になったのはほんのつい今朝方のことだ。そう思うと不思議な気分になった。バグを連れてきてくれた女王の言葉が思い出された。

『この先行くところには水がいくらでも使えるとは限らないから、こういうやり方にも馴れておいてもらった方がいいとおもったの』

 とんでもないと私は笑った。それこそここは水にあふれている。きっと、女王は私たちがどこに行くか知らなかったのだろう。わざわざ私にシーヴの世話をするよう頼んでいた割には、娘の行き先には無関心だったらしい。そういえば、女王は今も私の旅を実況中継という形で見ているはずだ。私の考えまでは実況フィードに流していないけれども、バグを見れば、今朝方の洗礼のことで何か思うのだろうか。

 私は小さく自我殻を開き、女王宛のメッセージを残した。『当分シャワーには不自由しなさそうですよ』という文面に、返信は期待していない。ただ、ちょっとした面白味だ。

「ふー」

 と、《声》があたり一面から滲み出してきた。《声》は姿を伴っていた。水で紡がれた糸を吐き出す巨大な蚕だ。

「お待たせしたの。挨拶を送ってきてやったぞ。あまりにも露骨な時間稼ぎというか、はっきり言って業務妨害じゃったがワシは乗客の権利をいたずらに制限したりはせん。たとえそれが濫用すれすれでもな。さて、ついでに言うのを忘れとったのを思い出したから今言うが、ようこそ、バス《祈りの海》へ。歓迎するわい」

 そういって、バス《祈りの海》の制御者=代表知精=《声》はカラカラと笑った。




 但し書き
 文中における誤り等は全て筆者に責任があります。

  • デジタルで表現される温かみのあるアナログ。精神空間の中から眺める現実は活気に満ちた蟲と土の世界。次はどんな世界が開くんだろうか -- (名無しさん) 2014-06-17 02:43:01
  • 具体的な描写が多い珍しいけど、どこからどこまでが現実なのかが読んでいると曖昧になってくる不思議。 シリーズの中では珍しく、シーヴや私の個がしっかり出ていたと思う -- (名無しさん) 2014-06-17 20:29:42
  • 振り回され気味なシーヴが新鮮だったり精霊が活き活きしてたり楽しいん -- (名無しさん) 2014-06-20 00:54:50
  • 冒頭のやりとりがかなり重要そうな雰囲気があるんだけど奇妙な旅の終わりに出会うのは一体誰なのか? -- (名無しさん) 2014-07-01 23:00:44
  • ルミナス中での様々なやりとりは皆の色が際立っていて賑やか大勢にも関わらずスムーズに頭の中で絵になっていきます。現実と仮想が溶けあっているようでしっかり二つを分けて認識している描写が端々にあるのは徹底していますね -- (名無しさん) 2017-10-22 17:50:40
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最終更新:2014年07月07日 17:56