朝もや立ち込める静かな水面を、一艘の小船が滑っていく。
乗り手は二人と見える。一人はへさきに立ち、もう一人は糸を垂れる。まるで絵のような光景ながら、よくよく見れば違和感が立つ。兎人の垂れる糸は真紅に染まり、指から直に生えている。へさきに立つ熊人は大兵肥満、目方は並の男三人分はあると見える。正しく乗ったところで小船を転覆せしめるに充分な重量がへさきという一点に集中していながら、船は小揺るぎもしていない。
小船の奇矯さはそれだけに留まらない。
水面にさざなみを立てながら、船はうめき声を上げていた。
地の底から這い出した死者か、はたまた飲み過ぎて潰れたオヤジか、なんともいえぬ苦しみが限界まで湛えられた声であった。へさきの熊人が振り返り、また正面に向き直って道服の襟を正した。朝のさわやかな大気に似合わぬ軋み声はひとしきり響き渡り、不意に止んだ。
船中からばっと飛び出した手が船端を掴み、ついで血の引いた顔が現れた。燃え立つように鮮やかな金毛に包まれた狐面は、常になくげっそりとやつれていた。二、三度空えずきをすると、狐人は再び船底に突っ伏した。へさきに立つ熊の道士が、小さく咳払いをした。
「畏れながら、一体何がそんなに苦しいのかお伺いしても構いませんか、金羅様」
「見てわかんないの。船酔いよ」
船底に長々と寝そべりながら、狐の女人――化身した大延国の守護神は再びうめき声を上げた。
「わかりませんな。こんな揺れない船も中々ないと思うのですが」
「揺れるか揺れないかはどうでもいいの。とにかく気持ち悪いんだってば」
「畏れながら、それは先日の鯨飲馬食が原因では」
「絶対違うわ。普段と同じものしか食べてないもの」
熊人がため息をつくと、糸を垂れていた女道士が瞳を水面に据えたまま、もう片方の手を上げた。その指から赤い糸がするすると伸びだし、糸は宙を這って文章を描き出した。
『師父、私も違うと思います』と糸が再び踊り『普段はもっとお召し上がりです』
熊人が眉間をもんだ。
「ばかげている……私ですらもてあますような量を毎日とは。もっとご自愛くださらないと」
「ご自愛してるわよ。だから好きなものをたくさん食べてるんじゃない。うっぷ」
顔面蒼白になった金羅の手が船を探り、小さな壷を探し当てた。蓋を開けて吐こうとしたその瞬間、小さな悲鳴が中からあがった。
「いや、別に構いませんけどね、別に構いませんけどね!」
「ああ、吐月壷ちゃんね。ごめんごめん間違えた」
金羅はあわてて壷を放り出すと大きく息をついた。
「水の中にでも戻されたらよろしいのでは」
「人んちの庭先でゲロ吐くようなまねは出来ないわ」
「俺んちの庭先だったらいいですよ別に! いいですよ別に!」
「そうね、また今度ね」
壷のふたが持ち上がり、なかから甲高い声が立つ。金羅はひらひらと手を振って答えると、再び船底に寝そべった。
「この天目道人の何を賭けてもよろしゅうございますが、原因は乱れた食生活でしょうな。普段からあんなに飲み食いしておられるとなれば」
その言葉を聴くと、金羅はやつれた顔にニヤニヤ笑いをうかべた
「相変わらず天目は賭け事好きね。そのせいでこんな朝も早くからこき使われてるのに」
天目道人は答えず、ただ目をそらした。
朝日が昇り、もやが薄れつつあった。差し込んで来た光に目を細めながら、金羅は再びうめき声を漏らした。
事の起こりは、前夜の席に魚が出なかったことである。
傍目には普段と変わらぬ料理を前にして金羅はうろたえ騒ぎ、例の魚がないと言い立てて料理人を問い詰めた。金膳厨師たちがどのような魚かと探るも金羅の説明は要領を得ず、ただ歓州産の淡水魚であるということが分かったのみ。金羅の気まぐれは珍しくないことであったが、何かにこだわることはその限りではない。見かねた金侍三仙は天目道人なる仙人を呼び寄せ、金羅様のために件の魚を探索するよう申し付けた。
渋っていた天目道人であったが、その宴席で行われたサイコロ賭博で大負けに負けてやむなく引き受けた。弟子の紅索子と吐月壷を引きつれ、とりあえず歓州でも最大の湖である天明湖へ行き先を定めると、金羅が突然同行すると言い張った。聖母の仰せに逆らえる仙人などいないということで、一行は天明湖へと向かったのである。
「ねぇ紅索子ちゃん、まだー?」
『もう少々お時間をいただきたく』
「できるだけ急いでねぇ。死んじゃうかも知れないから。うっぷ」
「何を大げさな」
「助けて紅索子ちゃん、天目がいじめる」
「私の弟子を弄るのは止めてください。こんなにたくさん釣っておるではないですか。まだ当たらんのですか」
天目道人がそういう間にも、紅索子がぱっと糸を引き上げた。釣り上げた魚を金羅に差し出すと金羅は首をふり、紅索子は吐月壷の中に魚を投げ込むと再び糸を垂れた。
「吐月壷、どれほどになった」
「二十三ですね。二十三」
「なのにまだ引っかからないのか。金羅様、そんなに珍しい魚なのですか」
「うぅ~、分からない」
「もう少し手がかりがあればさっさと終わるのですよ。この船から脱出できるのですよ」
「そんなこと言ったってわからないものはわかりませんよーだ」
「こんなことにいつまでもお付き合いしてはいられません」
『私は構いませんよ』と糸が踊った。
『釣りは久しぶりです。楽しいです』
「あっしも構いませんよ、全然構いませんよ」
「お前らな……」
「ありがとうね、二人とも。御覧なさい天目、持つべきものは孝子よ。面倒見てくれるかわいい子供たちなのよ」
天目道人はあきれたように首を振ると、へさきにどっかと座り込んだ。金羅はからからと笑うと船底で寝返りを打つ。
と、船が大きく揺れた。
鏡のように住んでいた水面に、いくつも白波が立ち始めた。波はたちまちのうちに大きさを増すと、小船に向かって押し寄せ、打ち付けた。枯葉のように揺さぶられる船の中で、金羅がこの世の終わりを思わせるうめき声を上げた。
「――どうしよう天目、なんか揺れてるような気がしてきたわ。うぇええ」
「ご存じないようなのでお教えしておきますが、実際揺れております」
「どうにかしてよー」
「そんなことをおっしゃられましても」
紅索子が糸をめぐらして金羅の体を固定し、金羅は船中でごろごろ転がる吐月壷を抱きかかえて悲鳴を上げる。そうこうする間にも船は大きく揺さぶられ、あわや転覆というところまで行くことも幾度か。へさきにどっかと座り込んだ天目道人は顎を掻いて頭上を見上げた。天候は晴朗そのもの、風もなく、ただ水面だけが暴れ狂っている。奇妙である。
「これはもしや、妖異の類では」
「なんと失礼な! 身の程を弁えろこの盗人が!」
雷声が響き渡った。湖面がごうごうと音を立てて断ち割れ、飛び出した銀影が船の周りでとぐろを巻いた。
「ついに捕まえたぞ! よくも勝手に獲りまくってくれたな! だが今日という今日こそはただではおかんぞ! その身体引き裂いて魚の餌にしてくれるわ!」
竜王は剣ほどもある牙をカチカチと打ち合わせながら、目に怒りをたぎらせて吼えた。
「あー、その、この地を治める竜王どのとお見受けするが」
「いかにも! そういう貴様は仙人か? 何の故あって我が領地を侵害するか!」
「確かに失礼を致した。ご挨拶が遅れてしまって誠に申し訳ない。私は名を――」
「盗人の名なぞ聞きとうないわ! それにいまさら挨拶だと! 挨拶すればこれまでの所業をなかったことにできるとでも思っているのか! 以後は遠慮せずにすむとでも言うつもりか! 絶対に許さん!」
天目道人はあっけに取られて顎を掻いた。
「どうやら行き違いがあるようですな。我々は」
「問答無用!」
竜王がうなりを上げた。伸び上がった身体が宙を滑り、開かれた顎が小船に迫った。船が一口に飲み込まれようとしたその時、ふらふらと伸び上がった影があった。
「久しぶりね、天明公」
「そのお声は……よもや金羅様」
いぶかしげな声を上げた竜王が、吹き上がった金炎を目にして体を引いた。
「金羅様がおいでだったとは。いやはや、さっぱり気が付きませんで。誠に申し訳ない」
水面でとぐろを巻いた竜王はそう言って笑った。すでに日は高く、銀色の鱗が光を照り返して輝いていた。
「いいのよ、大した用事じゃないんだから」
「国を横断しておいて大した用事でないとはこれ如何に」
天目道人がぼそりとつぶやいた。竜王のほうはなにやら心得顔でうなずいた。
「そうですな。これは失礼しました。それにしても、此度は共のものをお連れになったのですね」
「そうなのですか、金羅様? 以前はお一人でこちらに? いったい何用ですか?」
「その話は後でするわ。吐月壷ちゃん、魚を返してあげなさい。ごめんね天明公、勝手に獲っちゃって」
「とんでもない。我らが聖母がお望みなら、好きなだけお持ちいただいてけっこうです」
「いいのよ。どれもほしいのじゃなかったから」
金羅は手ずから吐月壷を持ち上げると、蓋をとってひっくり返した。流れ出した水流には大小さまざまの魚が泳ぎ、水面に勢いよく飛び込んでいく。こぼれた魚が船底に落ちると、紅索子が糸でひょいと拾い上げて水中にやさしく下ろした。その様子を見ながら、金羅は竜王に問いかけた。
「ところで、さっき言ってたことなんだけど、密漁ってどういうこと?」
「ああ、その事でございますか」
天明公が眉を曇らせてため息をついた。
「面目ない話でございますが、このところ、取り決めをはるかに超えて魚を獲るものが出ているですよ」
天明公は竜王であり、天明湖の全てを統べる。禽獣や水棲族を従え、精霊たちを操り、その権威は周辺の集落にも及んでいる。俗界の権力とも時には折り合いながら上手くやってきた。漁師たちがどこでどれほど魚を獲ってよいかについての取り決めも、そうした折り合いの一つである。竜王自らがよい漁が出来るよう取り計らい、代わりに祭りを執り行わせるという契約だ。
「ところが、最近それが守られていないのですよ」
竜王が尻尾を水面に打ち付けた。
「何者かが、こちらが定めた限度をはるかに超えて魚を獲っています。こちらで殖やそうと考えているものや稚魚にまで手を出す始末。獲りすぎをやめるよう申し入れましたが、彼らは身に覚えがないことだというのです。こちらとしても困りました。獲るなとは言えませんから、やむなく怪しい船を見張るぐらいのことしか対策が取れないのです。それも効果がほとんどありません。相変わらず魚は盗まれ、盗人の尻尾は見えてもいないという状況なのです」
「そういうところに我々が飛び込んできたというわけか」
「そうなのです。いや全く面目ない。見慣れぬ船が大量に釣っているという報告を受けたものですから、ついいきり立ってしまいまして」
金羅は鷹揚に手を振った。船端に寄りかかり、水面に手を浸して水を掬い取る。手のひらから零れ落ちていく水を見ながら、金羅はぼそりとつぶやいた。
「要するに、誰かが勝手に魚を獲っているのが問題なのね」
「左様でございます」
「それじゃあ、妾が何とかするわ」
「は?」
天目道人がうろたえて顔をばっと上げた。竜王もまた、いぶかしげに眉をひそめた。
「滅相もない事でございます。此度の問題は私の不手際によるもの、金羅様のお手を煩わせるわけには参りません」
「天明公どのの言うとおりでございます金羅様。そもそもこの地に来たのは魚を取るためでございましょう」
「いいのよ。どうせ同じことだから。とりあえず妾に任せておいてちょうだい」
竜王は喜色をあらわにした。
「金羅様がそうおっしゃるのでしたら、我は伏して受け入れるのみでございます」
「いい子ね。誰かさんもあなたぐらい聞き分けがよかったらいいのにね」
天目道人が咳払いをした。
「それと、あまり大騒ぎにしたくないからあなたは大人しくしていてちょうだい。こういうのはこっそりやるに限るわ」
「心得ました。他に何か、我に出来ることがございましょうか?」
「特にないわ」
「そういえば魚を取りにいらしたとか? 用意させましょうか」
天目道人がしきりと金羅に目配せしたが、金羅はそれを無視した。
「それはいいわ。妾が欲しいのは用意できないでしょうから」
「かしこまりました。それでは」
竜王は頭を垂れて一礼すると、するすると水中へ滑るように身を沈めていった。波一つ立てずに竜王が姿を消すと、金羅は立ち上がり、意気揚々と指を指した。
「そういうわけだから、よろしくね天目ちゃん」
「どういうわけなのかお伺いしてもよろしいでしょうか」
「飲み込み悪い子ね。弟子の二人はちゃんと分かったわよね?」
『頑張ります』「捕まえますぜ、捕まえますぜ」
「よしよし。ほら、天目ちゃんもへそ曲げてないで」
「さっぱり分かりませんな。竜王殿に魚を用意させてそれでおしまいという訳にはいかなかったのですか」
「そういうわけには行かなかったの」
「解せません」
「いいからさっさと行動しなさい。とりあえず、近くの村まで行くわよ」
不満げにため息をついた天目道人が、やおら手のひらをぱっと広げた。指の間にサイコロが現れ、道人はそれを船底に転がした。出目は三の四。並である。金羅は出目を見て歓声を上げた。
「やったわ、私の勝ちね!」
「どの目に賭けるかおっしゃってないでしょうが!」
天目道人はサイコロをしまいこむと、へさきにどっかと座り込んだ。櫂のひとつもない船が、水面を静かに滑り出した。
「素直じゃない子ね。育て方間違えたかしら」
「聞こえておりますぞ」
不機嫌もあらわに咳払いをすると、天目道人は腕を道服の袖に差し入れた。船の進む先には、小さな村落が姿を現していた。
船が岸に着くと、金羅は我先にとばかりに陸地へ降り立った。
そしてそのまま服を脱ぎだした。
「金羅様? 一体何をなされるのですか?」
道人が悲鳴をあげるのも聞かず、まとっていた薄衣を手際よく脱いで投げ捨てる。衣を地面に落とさぬよう右往左往する道人を尻目に金羅は大きく伸びをすると、九尾がぱっと扇のように広がった。そんな尻尾を体に巻きつけると、金羅は紅索子に向かって腕を差し出した。
「それじゃ、お願いね」
紅索子はうなずき、その指先から糸を発した。するすると伸びる糸は金羅の腕にまとわりつき、枝分かれして自ら織りあがった。見る見るうちに、金羅の裸体は紅くあでやかな衣に覆われていた。吐月壷が取り出した髪飾りと紅を手に取り、水鏡で化粧を整える。立ち上がったときには、金羅の姿は商家の婦人と言ったおもむきを帯びていた。
「これでどう?」
「何がですか」
「変装よ。中々のものでしょ」
道人は答えず、ただ弟子二人をにらみつけた。
「お前たち、なんだ今の手際は。どうしてそんなに慣れておるのか」
にらまれた二人が身を縮めたが、金羅が割って入って庇った。
「いいでしょ別に。私が無理言ってこき使ってるんだから、いじめちゃかわいそうよ。それより、あなたも脱ぎなさいな」
「は?」
「だから、脱ぎなさいってば」
道人はガクガクとうなずいた。金羅はそれを見て満面の笑みを浮かべた。
「よしよし、素直でよろしい」
「よろしくありません! 何故脱がねばならんのですか!」
「だから変装よ」
金羅はこともなげに言った。
「その道服じゃ目立ちすぎるでしょ。『仙人です。仙人が乗り出すような異常事態発生中です』って言ってまわってるようなものじゃないの。相手は密漁者よ、こっそり嗅ぎまわらないと捕まえられないわ。だから変装が必要なの。分かるでしょ」
「それはおっしゃるとおりですが……」
「分かったならさっさと着替えなさい。別に恥ずかしがることないじゃない」
「それにしたって脱ぐ必要などないではありませんか」
「図体でかいくせに小さいことにこだわるのね。とにかく、早く着替えなさい。私の旦那様役にしてあげるから」
「旦那様って」
「とりあえずあなたと私は夫婦よ。体を悪くした奥方様の療養のために鄙びた漁村に逗留しに来たわけ。あなたはお大尽で、京師では魚の仲買人にも伝があることにしておきましょう。これならいろいろ聞いてまわっても商売のためってことで不思議じゃないでしょう? 紅索子ちゃんは私の付き人ね」
「あっしは? あっしは?」
吐月壷が飛び跳ねた。
「そうね、吐月壷ちゃんは荷物役がいいかしら」
「ぴったりだ! ぴったりでさあ!」
「黙れ吐月壷。荷物なら荷物らしく大人しくしておれ!」
吐月壷が黙り、天目道人は長い長いため息をついた。
「――金羅様の仰せにも一理あるようですから、そのように致しましょう」
「決まりね。じゃあ脱いで」
「必要ありません!」
天目道人はどんっ、と音を立てて地面を踏み鳴らした。舞い上がった砂埃が道人の周囲で渦巻いてその姿を隠し、しばらくして中から腕が突き出されると砂埃は消えうせた。再び現れた道人の装いは、でっぷりと太った大商人のそれであった。
「我らが聖母はお忘れのようですが、仙人ならばこの程度の変化は朝飯前です。脱ぐ必要などありません」
「知ってるわ。ちょっとからかっただけよ」
天目道人の顔が真っ赤になり、紅索子が口元を隠して顔をそらした。そのままぷいときびすを返してのしのしと歩みさった天目道人に追いすがると、金羅はその腕にすがりついた。天目道人は泡を食った。
「な、何をなさるのですか!」
「夫婦なんだから、これぐらい普通でしょ? ほら、もっとちゃんと支えてよ。気分が悪いんだから」
「いい加減になさってください!」
「余裕ないわねぇ。大延国一のいい女を娶った気分をもう少し味わったらどうなの? 本来なら皇帝にしか許されないことなのよ?」
「金羅様!」
「妻なんだから呼び捨てでいいわよ、ア・ナ・タ」
「かあああああ~~~!」
やいのやいのといい交わしながら進む二人を眺めて、紅索子は肩をすくめた。地面に転がる吐月壷を拾い上げると、紅索子は自らも姿を変じ、主人の後を追いかけた。
探索は酒場を見つけるところから始まる。
そもそも、情報とは人が運ぶものである。となれば、酒場こそは情報が集まる地点に他ならない。日々の疲れを休める働き手から日がな飲んだくれる酔っ払いまで、皆等しく酒精に喉を鳴らして酔いに身をゆだねる。もやの掛かった頭からは隠しておいた秘密がこぼれだし、よいどれの戯言の間に転がって、目ざとい誰かが拾い上げるのを待っている。拾い上げられた秘密は手に手を渡り、然るべき者の手に落ちて千金をもたらす。だから聡い密偵は酒を振舞い自らも飲み、狂宴の中に身を浸して求めるものを待ち受ける。漁師がよどみに足を踏み入れ、銛を構えて魚を狙うのと同じである。
「というわけで飲むわ」
「まだ飲まれるのですか」
金羅が一席ぶつ間に干した杯の数は三つ。早くも四杯目を注文する上機嫌の金羅とは対照的に、天目道人の顔色は優れない。
「あなたも飲まなきゃ駄目でしょ。お大尽なのよ? お金をばら撒いてみんなになじまなきゃ。ほら、向こうの人たちにもどんどんおごるのよ。どうせお金はあるんだから。あ、肴もくださいな。それと、私たちと同じものをあちらの席にも」
酒場に席を得るに当たって、金羅たち一行は真ん中の席を確保していた。見せびらかすように給仕に多額の金子を与え、驚きあきれる周囲の客にも酒を振舞う。田舎の狭い酒家のこと、客の数も少なく、しかも皆よそ者を警戒してか、奢られた料理にも中々手を付けない。勢い一人金羅だけが明るさを振りまき、残る面々はどんどん気詰まりになっていく。
緊張が高まる中、ついに動きが生じた。店の片隅に固まっていた漁師と思しき一団の中から、一人の豚人の男が立ち上がった。豚人は意を決したような顔つきで金羅たちの卓に歩み寄った。いかつい体は日焼けして浅黒く、背筋はぴんと張っていた。
「おい、あんたら」
天目道人たちは緊張に身を引き締めた。ひとり金羅だけが、陽気な調子でなんですかというように首を傾げて見せた。
「あのな」
天目道人が唾を飲み込んだ。豚人は道人の皿を取り上げると、道人と料理とを交互に見比べてため息をついた。
「もっと旨いのがあるからそっち出してもらえよ。そりゃよそ者用だからよ」
あらそう、と金羅が輝くような笑みを浮かべた。豚人も答えて微笑み、道人は卓に突っ伏した。
「だははははははは」
「あははははははは」
「姐さん、あんた飲むねえ。いいとこの奥さんにしとくにゃもったいないぜ」
「ほほほ、ありがと。でもしょうがないの。旦那にぞっこんなんだから」
「こんなこというとアレだけどよ、姐さん男の趣味だけはアレだな、アレ」
「あら、こう見えてけっこうすごいのよこの人」
「へへえ、まじかよ」
「そうなのよ。この間なんかね、一晩中ずーっと――」
「ずーっと?」
「ずーっと休まず――」
「休まず?」
金羅は言葉を切った。つんと澄ました顔つきで周りの下卑た男たちを見返し、次の瞬間ぱっと呆れ顔を作ってみせる。
「一晩中ずーっと休まずサイコロ転がしてたのよ。その間女房はほったらかし。翌朝枕を絞ったら庭に池ができたわ。帰ってきたこの人が池を見て言うの。『おや、昨日は雨なんか降ったかな』。冗談じゃないわよ。『雲もなければ雨もなし。アナタもよくご存知でしょ』って言ってやったわよ」
一呼吸置いて、酒場が爆笑に揺れた。なお、『雲雨』といえば、大延国では性行為のことをあらわしている。地球における中国の言い回しとは奇妙に一致して、直球の下ネタである。
「そういうわけで、朴念仁の旦那を持っちゃって大変な奥方様は気鬱の病を患いまして、家を離れて愉快な漁師たちのところにやってきたのでした。ちゃんちゃん」
肩をすくめた金羅が微笑み、給仕に更なる料理を注文した。金羅の杯が尽きると、漁師たちは侍っていた紅索子を押しのけて我先に注ごうとする。たちまちのうちに、金羅は酒場に溶け込んでいた。
他方、死にそうなのは天目道人である。漁師たちは互いに言葉を交わしながら天目道人の背中をバシバシと叩き、天目道人がにらみつけても気にも留めない。「もっと嫁さんを構ってやれよ」などと下卑た言葉をかけながらしきりと酒を勧める。と、ひとりの猫人が天目道人の前に陣取り、卓に杯を伏せて意味ありげに目配せした。
「旦那、どうだい一勝負。好きなんだろ、え?」
「ちょっと、うちの旦那に賭け事勧めないでちょうだいよ。すっからかんにされちゃうわ」
「姐さん、旦那はそんなに強いのかい?」
「だったら一晩中張ってたりなんかしないわ。うちの旦那ときたら負けが込んでも『次があるさ』って考えちゃうのよ。ね?」
「はあ」
「そいつぁほっとけないねえ。俺も同じだから気持ちは分かるぜ旦那。最後に勝ちゃいいんだよな、勝ちゃさ。そいつが分かってない連中が多すぎるんだ」
仏頂面の道人に向かって、猫人は舌なめずりをして見せた。その手にサイコロが現れ、瞬く間に杯の中に振り入れられた。
「まあ旦那、俺たちゃ見りゃ分かるとおり田舎の貧乏漁師、大した金は持っちゃいねえ。ちょいと小銭でお楽しみと思って付き合っとくれよ。俺らが旦那みてえなお大尽とお近づきになるには賭け事がもってこいなんだ」
巌のような道人の熊面は、意味ありげに微笑む金羅を目にするとわずかに緩んだ。
「……少しだけなら、まあ」
「決まりだ。他に乗る奴はいるか?」
漁師たちが我も我もと手を挙げた。天目道人はしぶしぶ吐月壷に手を突っ込み、中から金子をつかみ出して卓に投げた。
ご開帳からいくらもたたぬうちに、天目道人は並み居る漁師たちを次から次へとなぎ倒していた。
「ええい、次だ次、次でこそ勝ってみせる! さあ、誰か乗るものはいないのか!」
「旦那、もうその辺にしておいたほうが」
たじたじとなっている猫人の胴元の言葉に、周りも申し訳なさそうにうなずく。一人怪気炎が止まらないのは道人である。
「だめだ! こんなところで引いたら負けっぱなしではないか! 一度くらい勝ったぐらいではやめんぞ! お前ら全員素寒貧にしてくれるから覚悟しておけ! さあ、張った張った! どうした! 度胸のある奴はいないのか!」
吐月壷の中から金貨をつかみ出し、卓に積み上げて道人は吠えた。対する面々は困ったように顔を見合わせ、それぞれの手の中で輝く金子に目を落としてまた顔を見合わせた。
天目道人は負けに負けていた。負ければ倍の賭け金を積み上げ、たまに勝てば上がりをすべて次の勝負に注ぎ込む。お手本のようなヘタの賭け方である。はじめのうちこそ好機と見て金を巻き上げていた漁師たちも、さすがに気がとがめたのか一人、また一人と勝負から退きはじめた。料理や酒で懐柔を試みても道人は見向きもせず、仕方なく乗った者たちはさらに大利を手にする。なんともいえぬ雰囲気が酒場に立ち上がりつつあった。
「旦那、もうこの辺にしておこうや。な、賭け事に入れ込んだら嫁さんが悲しむだろう」
「やかましい! お前たちの説教など聞かぬぞ。昼間っから酒場にたむろしておるような連中が道理を語ろうなどと片腹痛いわ」
沈黙が降りた。やにわに殺気立ち始めた空気の中、猫人が口を開いた。
「――俺たちだって好きで昼間っから酒飲んでるわけじゃねえ。漁に出たくても出られねえんだよ」
「どういうこと?」
金羅が割って入った。
「どうもこうもねえ。俺たちゃ正直に漁をしてただけなのに、お役人から『獲りすぎだ』だって文句言われて漁は禁止だ。冗談じゃねえ。今年はすくねえぐらいなんだぜ。だのに船を出そうもんならとっ捕まえるから覚悟しろだとよ。俺たちゃ根っからの漁師だ。船を出せなきゃ陸でこうやって管巻くぐらいのことしかできやしねえ。畜生、お役人は無茶言いやがる」
「獲りすぎって、毎年獲っていい量が決まってるの?」
「ああ、お役人さまが検査するのさ。ちょっとでも過ぎればすぐ罰金だ。おまけに取った魚は全部お買い上げってことになってよ。売りっぱぐれねえのはいいんだが、お役人様ときたらずいぶん買い叩きやがるのよ。獲れねえとお飯の食い上げ、かといって獲りすぎてもいけねえ。カツカツ生きてたところに今度の仕打ちだあ。サイコロでも振るしかやることなくなっちまったわけなのさ」
「ふーん」
「役人がお買い上げとは、要するに税の現物徴収ということか。妙な手間をかけるものだな」
道人がサイコロを弄った。
「普通はそこまでしないと思うが。税金を収めさえしていればどこにどんなやり方で魚を売りさばいていようが詮索しないものだろうがな。それにしても獲るのを止めろとまで言うのは奇妙だな。税金代わりに魚を取り上げておるなら、自分で自分の収入を断っておるようなものだ」
「わかんねえよ。とにかく、魚を収めるのはずいぶん昔からのやり方だ」
「昔からやっているからと言っていいやり方とは限るまい。自分たちで買い手を探したほうが儲かるということもあろう。そら、私には魚介の仲買をやっている知り合いがいる。なんなら紹介しても構わないぞ。ああ、そちらが賭けに勝ったら教えてもよいということにしておくか。どうだ?」
だが漁師たちは一様に首を振る。
「お役人様以外のところに売ったらいけねえんだ。それで船取り上げられちまった奴もいる」
「なんとまあ」
天目道人は金羅と顔を見合わせた。金羅の目配せに道人がうなずきを返し、二人ともに立ち上がって席を辞すると告げようとした、ちょうどその時である。
ぎいと音を立てて酒場の扉が開いた。視線を上げた猫人が、肩をすくめて入ってきた人物を指差した。
「そら、アイツが船を取り上げられちまった奴だよ」
精悍な顔つきの狐人は酒場を見渡すと、眉をひそめて金羅たち一行の席に目をやった。その目に何事かが閃き、狐人はきびすを返して酒場を出て行った。猫人が訳知り顔で肩をすくめた。
「ヒョウエンさ。口下手でな。悪い奴じゃねえんだが報われねえ。船を取り上げられちまって飯の食い上げだ。食わす口が余計になかったのが救いだな」
「ふうん」と金羅が意味ありげにうなずいた。「ヒョウエン、ね」
その声にこめられた微妙な調子に道人が気付くより早く、金羅の手が吐月壷を道人から奪い取った。そこから何枚もの金子をつかみ出し、卓の上に振り落とす。どよめきが上がる中、金羅は嫣然と微笑んだ。
「それじゃ皆様、そろそろ失礼するわ。一緒に飲んでくれてありがとうね。これはお土産と思ってちょうだい」
「――ありがたく貰っとくよ。こっちもあんまり余裕があるわけじゃないんでね」
「いいのよ」
金羅は道人たちを促して外に出た。その足取りはわずかにせわしく、金羅の目は心なしか潤んでいた。
酒場を出ると、冷たい風が一行の顔を冷やした。道人はぱんぱんと顔をはたいて酒気を払った。上機嫌である。
「金羅様、お詫び申し上げます」と一礼し「正直申しまして、酒場に行くと仰せのときはまじめにやるつもりなどないのだと思ってしまいました。ですが蓋を開けてみれば成果は上々でございましたな。かくもあっさり手がかりが得られるとは」
道人はしきりとうなずいた。
「どうも役人が臭い。竜王との取り決めがあるにしてもやり方がおかしい。変わったやり方には必ず理由があるはずでございます。さ、では次の手を打つことに致しましょうか。まずは役所へと赴きまして――あれ?」
道人は視線をめぐらし、傍らに立つ紅索子に問いかけた。
「おい紅索子、金羅様はどちらへ?」
『向こうです』と紅索子は遠くを指した。
『先ほどのヒョウエンなる男を追っていかれました』
「ありゃきっとアレですぜ師父、アレ」
あっけにとられたような道人の顔が、見る見る真っ赤になった。
「まさかこの期に及んで男あさりか? そうなのか!」
「今に始まった話じゃねえですよ師父、今に始まった話じゃねえです」
「にしても何故今なのだ! アレか! 腹がくちくなったら次は男なのか! 簡単すぎるわ! 紅索子!」
地面に絵を描いて遊んでいた紅索子が顔を上げた。
「追っておろうな?」
『はい』
紅索子が片手を上げた。その指先から伸びる糸が宙に解けている。紅索子の作り出す紅糸はどこまでも伸び、結びつければ千里の向こうからでも相手を探し当てることができる。仙術の一つである。
道人は紅糸を吐月壷に巻きつけると耳に当てた。こうする事で、糸の先の物音を聞くこともできるのだ。鼻息も荒い道人だったが、しばらくすると壷を耳から離した。
「おい紅索子、ちゃんとつながっておるのだろうな。何も聞こえんぞ」
紅索子は顔をそらし、宙に不明瞭な文字を描いた。
「分からん。はっきり書け」
『お二人が大分接近しておられるようですので、師父にはお聞かせしかねます』
「そろそろ山場ですかね、山場」
天目道人は目を白黒させた。どうにか威厳を取り戻して言う。
「お前らばかり聞いて、師父には聞かせんつもりか」
『師父に盗み聞きなんてさせるわけにはいきません』
「師父、ここはあっしらにお任せを、お任せを」
「いいからさっさと聞かせろ!」
道人は決然と壷を耳に当てた。漏れ聞こえてきた言葉を記せば、以下のようになる。
『そう、それで船を取り上げられちゃったのね、ひどいお役人ね』
『ちょっと売りにいっただけなんだ。いつもなら金なんかなくても飯が食えるからいいんだけど、金がどうしても要って』
『どうしてお金がいるの?』
『墓を修理してもらうためなんだ。この間の大風で欠けちまったから』
『――立派だわ。ご先祖様をちゃんと祀ってるなんて、感心ね』
『先祖代々の決まりなんだ。墓だけは絶やすなって。でももうおしまいだ。船がなくっちゃ――ってあんた、何してるんだ』
『ふふふ、あなた本当にあの人そっくりだわ。あの人もちゃんと約束を守る人だったのね、家を絶やさずにいてくれたなんて』
『一体何を言ってるんだ、早く服を着てくれ』
『どうしようかしらねえ』
『やめてくれ、そういうのは良くない』
『そんな事言っても説得力ないわよ。ほら、あなたのここはすごく正直――』
「かあああああああ!!!!」
道人が吐月壷を地面に投げつけた。二度三度はねとんだ壷を紅索子が引き戻して埃を払い、その間中、天目道人は地面を踏み鳴らして怒り狂っていた。
「何が悲しくて我らが聖母の睦言なぞ聞かねばならんのか! 金羅様の御用なのに肝心の本人は脱線ばかり! いい加減にしていただきたい! いや、させてみせる! 紅索子!」
紅索子が顔を上げた。
「お前のこれは確か向こうに声を送ることもできたな! ちょっとつなげ! 一言奏上したいことがある!」
『無理です』
紅索子の耳が垂れて悲しそうな顔になった。
『糸を焼ききられました」
「そういうところにだけは知恵が回る」
『それと、切る直前に伝言を頂きました』
「むぅ、なんだ」
『いい子だからお楽しみの邪魔しないでちょうだいね、だそうです』
「があああああああ!!!!」
天目道人は吠えた。吐月壷を抱えた紅索子は首をすくめると、再び文字を宙に描いた。
『それから、そんなに気になるならいっそ覗きにきたらどうか、ともおっしゃっていました』
「誰が!」
道人はぶるぶると震えた。大きく深呼吸をして気息を整えると服の襟を正し、やおらサイコロを取り出して地面に投げつける。はねとんだサイコロは転がって溝に落ち、道人はそれを見ると舌打ちした。
「お前たち、役所へ行くぞ。とにかくさっさとこの問題を片付けてしまうとしよう。金羅様のことはあれだ、後回しだ」
紅索子がうなずき、糸を天に向かって投げた。糸はどこまでも登って雲間に溶け込み、道人が糸を掴むとその身が糸とともに持ち上がった。見る間に高さを増しながら、道人は小さくなっていく眼下の村を見下ろした。
「まったく、世話が焼ける」
登りゆく道人の姿は雲間に消え、紅索子がそれを追った。
- 自然を司るものがいて神が世を戯れ振り回される者がいて人里にかかわるっと大延国を絵に書いたような話。飄々としたやり取りが仙人っぽくていい -- (名無しさん) 2014-04-23 05:25:25
- 金羅と関わる渡り合う者に必要なのは力の強さよりも金羅への思いと揺らがない己の芯なのかなと思ったり -- (名無しさん) 2014-06-22 21:00:44
最終更新:2014年04月23日 05:19