【眇眇公主】

 朝のさわやかな光が窓から差し込んでくる。ふわりと流れ込んできた風が、宙に漂う埃を揺らめかす。
 吉風公主セイランは、その有様をただ眺めていた。
 脇に控えるテンコウもまた、埃の動きを目で追いかけていた。ぼんやりと視線を泳がせるセイランとは対照的に、こちらは目を血走らせて必死の形相である。小さな糸くずがあちらに流されては低くうなり、こちらに戻ってきては顔を輝かせ、埃がひょいと昇ろうものなら舌を突き出し、顔を膨らませて全身で驚きを表す。そうしてときおりセイランのほうに目をやっては、何もかも心得ているといわんばかりの顔でうなずいてみせる。世の中にどれほど面白いものがあるかは知らないが、こんなにも興味深いものはない。そうですそうに決まっているとテンコウはしたり顔をする。そして今度は、だからあれで遊びたい、どうして遊んではいけないのか、お座りにはもう飽き飽きだとばかりに鼻息を荒くして腰を浮かしてみせる。そうこうしている間にも埃は宙を漂い渡り、やがてセイランの目の前に座っている人の頭に着地する。頭に乗っている冠の美しさや仰々しさをセイランが心穏やかに鑑賞していると、冠の下ではこれでもかとばかりに尖らされた唇がものすごい勢いで唾を吐き散らしているのが目に入る。
「もしもし公主さま! ちょっと! 大事な話なのですぞ! ちゃんと聞いておられますか!」
 ――聞いていません。
 でかかった言葉を危ういところで飲み込み、セイランは精一杯愛想笑いを作った。





 セイランが界門通関司としてこの町にやってきたのは、今からひと月ほど前のことである。
 町の名は門市城と言う。そのまま、門の町という意味である。
 そもそも、地球への門が開かれたのは今をさかのぼること二十年前。当時門市城は町の影も形もなく、ただ野原が広がるばかりだった。耕作にも適さず街道からも外れたこの地が門を開く場所として選ばれた理由には諸説あるが、一つには、はるか昔にこの地を訪れた異界人の記録が残されていたことが理由としてあるという。いずれにせよ門は開かれ、はじめのうちこそ多少の混乱が起きたものの、やがては地球とこの世界との間で人が往来するようになった。役所の出張所が置かれ、彼らの用をまかなうために商人が通い、やがては住み着く人も増え、壁がめぐらされて門市城が生じた。
 門をくぐり、二十年ほどしか経たない新しい街に入った時、セイランは大きく息を吸い、満足して笑んだものだった。初めて仕事らしいものを授かり、心は自負と希望に満ちていた。大きく壮麗な役所の建物の一番上に陣取り、勤勉に働く部下たちを激励しながら、自らもどんどん功績を挙げて、異邦人と街の人たち両方に感謝され、尊敬される。そんな想像に胸を膨らませていたのである。帝都から馬で歩んだ道すがらも、連れてきたレイレイや大師や相手に、その手の抱負を事あるごとに語ったものだった。
 ところが、いざ到着してみれば、大師がセイランを案内したのは、街の隅にある傾きかかったボロ屋だった。
 何かの間違いではないか、と無邪気に聞き返すセイランに向かって、大師は表情を消した顔でここに間違いございませんと断言した。黙々と荷物を運び入れる大師と、気遣わしげに困り顔を作るレイレイとを眺めていると、道々語ってきた抱負が思い出された。悔しさと恥ずかしさが押し寄せ、セイランは思わず涙を流した。
「大師! 話が違うじゃないですか!」
「違いません。残念ながら」
 涙を袖でぬぐいながら食って掛かるセイランとは裏腹に、大師は静かに言った。
「これが、今の我らに与えられた範囲で用意できる最良の環境なのです。最初に思っていたよりはるかによい場所ですよ」
「で、でもおかしいです! 一杯部下がいるんでしょう? ちゃんとあれだけ全員の名前を覚えました。あの人たちはどうするんですか。こんな狭いボロ屋のどこで仕事をするんですか」
「確かに我々には部下がたくさんいます。いますが、ここでは仕事をしません。なぜなら、彼らが此処にいても何もできることがないからです」
 セイランは言葉をなくした。わけが分からず大師を見つめ返す間にも、大師は自分の手で馬から荷物を下ろしていく。同じ荷物を、帝都では兵士を呼びつけて載せさせていた。あまりの落差にセイランの目にはまた涙がこみ上げ、そうする間にも大師はてきぱきと荷物を土間に並べ、息をついた。そうして、大師は立ち尽くしているセイランのほうに向き直った。
「公主さまのお気持ちはお察しします。道すがら、公主さまの意気込みを伺ってまいりました。公主さまはまれに見る熱意と誠意を持って公務に当たられるおつもりなのだということを知りますほどに、私もうかうかしておれぬと気を引き締めたものでございます。きちんと全員の名簿をごらんになりましたね。中々難しいことを成し遂げられました。ご立派でございます」
 優しい言葉で面と向かってほめられ、セイランは面映くなった。さきほど感じた恥がすっと熱を失っていくのが分かった。だがそれも、次の一言で台無しとなった。
「しかし、だから意義ある仕事を任せてもらえるのかといえば、それはまた別の話でございます。公主さまには大変残念な事ながら、これから我らに与えられる仕事は、はっきり申し上げて面倒ばかりかかり、それでいて成し遂げても実入りが少ないようなことどもばかりになるでしょう。そういうお仕事を、公主さまはお引き受けになったのです。ご理解くださいますよう」
「出来ないです! どういうことですか、どうでもいい仕事って! だって、父上は」
「皇上とおよびするべきです」
「ええと、じゃあ皇上が大事な仕事だって」
「大事な仕事ですよ。便所の掃除と同じ程度には」
「べ、便所、掃除、ですか……」
 憤りに容赦なく冷や水をかけられて、セイランは気が遠くなった。大師の目が薄暗い屋内を探り、先に中にあがって掃除をしていたレイレイを捉えた。椅子を抱えて運んできたレイレイに、掃除を後回しにしてお茶を用意するよう命じながら、大師はセイランを椅子に座らせてその前にしゃがみこんだ。鋭い虎目が、セイランを正面から覗き込んだ。
「落ち着いてからと思っておりましたが、そう言うわけにもいかないようですから少しお話をしましょう。これから、我らがここで何をなすべきかについて」


 権力を要素に分かてば、その数は三となる。すなわち人事権、財政権、権威である。
 人を自在に地位に着け、あるいは罷免する。行うべき事業を選び、予算をつけて遂行させ、出来なければ金を取り上げる。これらはまさしく権力に違いない。
 だが金があってもそれを正しく使えるひとがいなければ無意味であり、どれだけ熱意があろうとタダ働きに甘んじる人材もいないものであるから、人事と金は権力の両輪であるといえる。片方だけでは役に立たず、両者の均衡を欠いてもそれはおなじという意味である。
 そして、この両輪をつなぐ車軸となるのが権威である。どれほど強く金と人を握っていても、権威という正統性がなければ、両者を自在に使うことは出来ない。権力は車軸が折れた車のようにむなしいものとなる。車軸を中心として両輪を回転させる事で、初めて権力という車は前へと進んでいく。
「さて、これを踏まえて、我々の置かれた状況を少し考えて見ましょう。公主様、我々は三つの要素のうち、どれを持っていますか?」
「ええと……」
 セイランは周りを見回して答えた。
「財政権はないです。でも、権威と人事はあるとおもいます」
「少し違います。人事権はほとんどないのです。我々には多くの部下がいるように見えますが、彼らは実質的には部下ではないのです」
「え? でもいっぱい名簿見ましたよ。あれは部下じゃないんですか」
「彼らはくさびなのです。これから我々が相手取らなくてはならない敵へ打ち込んだくさびです」
「くさび、ですか」
「そうです」
 大師は座りなおした。レイレイが入れてきたお茶を受け取り、すすって顔をほころばせる。気難しげな顔が一瞬緩み、セイランも釣り込まれてお茶に口を付けた。苦味が舌を上り、セイランは目を白黒させた。
「公主様、我々の仕事はなんですか」
「――異世界からやってきた人たちの面倒を見る、ですか」
「そうです。しかし、異世界への門が開いてすでに二十年が経っています。人が訪れるようになってからは十年と言ったところでしょうね。ではその間、異界人たちの面倒は誰が見ていたと思いますか?」
「へ……ええと、界門通関司、は最近出来たばかりだから……どこかの誰かだと思います」
「その通りです。異界人たちの世話をし、あるいは起きた問題に対処してきたのは、我々でないほかのものたちなのです。具体的には、ここの州長官をはじめとする統治組織であったり、六部がそれぞれ直裁のための出先機関をおいたりですね。地元の幇会をはじめとする在野の人間たちが乗り出してきたりもしています」
「そんなにいるんですか。なんかぐちゃぐちゃですね」
「異世界につながる門を開くということはこれまでにない珍しいことですから、だれもが寄ってきた訳です。最初は物珍しさから、次には利益を得ようとしてね。その結果何が起こったかは、公主さまのおっしゃるとおりです。ぐちゃぐちゃになりました」
 大師がフラフラと宙を漂ってきた埃を払い、茶碗を床に下ろした。
「誰もが異界人に取り入ろうとしました。こうして街ができたのも、異界人をもてなすためとみてもらって構いません。しかしその一方で、異界からは面倒ごとも流れ込んできました。界門神さまのおかげでめったなものは通さないのですが、それでも人が往来しているのですから、なべて事もなしというわけには参りません。物を知らぬ異界人が無礼を働き、あるいは騙されてひどい目に会っています。もっとひどいのは、異界人にかこつけて己の利を追求しようとする輩です。異界人狙いの詐欺師などはまだいいほうで、人身を売買しようとしたり、貴金属を密輸しようとしたりといった例もあります。
 そしてそれらを取り締まるべき役所は、お互いに縄張り争いに必死です。界門を押さえれば、そこからあがる旨みも一気に吸うことができるだろうという目論見を抱えているものもいますし、ただ自分の職掌にある事柄を確保しようというだけのものもおりますが、とにかく、どの部署が何を手がけるべきかという合意が未だに出来ておりません。たとえば関税にしても、少なくとも三箇所の部署が自分たちの仕事だと主張しています。結果として仕事は進まず、何かしら問題が生じてもだれも手を付けないのです。公主様、お分かりいただけたでしょうか?」
「分かりますわ」
 セイランの茶碗を受け取りに来たレイレイが口を挟んだ。
「宮殿の掃除も同じでした。面倒なことは誰も引き受けたがらないものですもの」
「そうです。そして一度このようになりますと、物事はどんどん面倒になっていくのです。面倒なものは面倒なまま捨て置かれて大きさだけを増していきます。しかも、延国の抱える面倒ごとは異界の門だけではありませんでした、この十年は特にね。そうしてなんとも嘆かわしいことですが、長い月日があっという間に過ぎ去ってしまったのです」
「あの、信じられないんですけど、本当にそんな事で十年たってしまったんですか。お役所なのにいいんですか」
「一応、それぞれかかわった人たちはそれなりに自分の仕事をしていたのです。頭のないままバラバラに動いていても、投じられた人力が大きいものでしたから。そのおかげで、これまでは何とか大事にならずに済んできたのですよ」
「これまでは、ですか」
「ええ。これまでは。しかしもう限界が来ています。ですので、これまでバラバラに対応されてきた問題を一手に引き受ける部署が設立されたというわけです。すなわち、我々です」
「おー」
 セイランはのんきに手を叩いたが、大師の左眉が釣りあがったので手を止めた。大師は咳払いをすると、再びゆっくりと話し始めた。
「さて公主様、そろそろ我々の抱える問題の根がどこにあるのかもお分かりいただけたのではないかと思います」
 セイランは重々しくうなずいた。大師もうなずき、互いに口をつくんだ二人の間に白々しい沈黙が流れた。ややあって、セイランのほうが目をそらした。
「ええと、まだよくわかりません」
「けっこうです。ご説明します。ところで公主さま、分かるふりをなさるのだけはおやめください。あなた様はこれから人の上に立たれるのです。上に立つものが半端な理解でうなずいたり、妙な指示をだされたりしますと、部下は苦しみ混乱します。分からぬと素直に認めれば、かえって人はあなたを評価するでしょう。とても大事な事でございます」
「でも、部下の人って今はいないです……」
「公主さま」
「はい、分かりました」
「けっこうです。何、簡単な事でございますよ。我々がやりたい仕事の多くは、すでに他の誰かが権利を主張しているということなのです。ですから」
 今度はセイランにも理解できた。手を上げて大師を制し、セイランは
「ですから、私たちの仕事だって言って、奪い取らないといけないですよね」
 大師が笑みを深めた。
「その通りです。ただひとつ違うのは、奪い取るのではないということです。もともと正当な権利は我々にあるのですよ。何しろ、皇帝陛下からじきじきに承った仕事ですからね」
 セイランも大きく頷いた。大師の問いに答えることが出来て気分がよく、また分かりやすい邪魔者の存在が知れたことで、セイランが今まで感じていた不安も消えていた。確かに今は思うような有様ではないが、解決しようと思えばできることなのだ。セイランの心で負けん気が立ち上がった。
「だったら、いろんな役所へ行って、仕事を返せって言えばいいんですよね。あ、じゃあ、今まで私が名前を覚えてきた部下の人たちにやらせたらいいです」
「ご理解が早い。先ほど私が申し上げました楔というのは、まさしくそういった任務を帯びた人たちのことなのですよ、公主さま」
「簡単じゃないですか。それだけのためにあんなに人を集めたんですか?」
「もちろん違います。ただ手放せといって済めばよいのですが、そんな簡単な話ではありません。もともと、向こうのほうにだって言い分があります。これまで仕事をしてきたところに、後からやってきて全てをよこせというのはいかにも乱暴な話でございますからね。それに、仕事を貰い受けてきたところで、経験を積んでいない我々には処理する能力が欠けているかもしれません。任せてもらったにもかかわらず実行が伴わぬとなれば、我々の立場もなくなるでしょう。
 そこで、各部署からこっそり人を引き抜いているのです。能力も熱意もあり、しかも元の居場所では冷遇されているようなもの達うばかりです。集めるのに大変苦労しました。彼らを間に立ててじっくりと交渉を進め、少しずつ我々の力が及ぶ範囲を確保していく。それが、今後の戦略となります。
 セイランはため息をついた。自分が思いつくような事は、大師にはもう手を回しているのだ。出迎えがなかったとか、建物がボロだとか、そういったどうでもいい事で大騒ぎしていた自分が恥ずかしくなり、セイランは小さくうつむいた。
「公主さま、お顔をお上げください」
 セイランは顔を上げた。大師は微笑んでいた。歯をむき出し、口の端を吊り上げて、珍しく挑発するような顔を作っていた。
「確かに難しいことではございますが、理は我らにあります。先も申し上げましたとおり、権力は権威を車軸とし、人と金とを車輪とする車です。我らには権威があります。彼らにはありませんし、求めても手に入りません。我らは辛抱強く、小さくてもよいから両輪を手に入れ、まわしておればよいのです。そうすればおのずと道が開けてまいります。立派な建物も、大勢の部下も、必ず手に入ります」
「はい、大師」
 セイランもまた笑った。大師は満足そうにうなずくと、やおら威儀を正して立ち上がった。
「さて、公主さま。我々のものには、奪い返すまでもなく我々がやらねばならぬ仕事もあります。いわば押し付けられた仕事です。こちらもきちんとやっておかねばなりません。さもないと、『こんな半端仕事も出来ぬ相手に権利を譲れるか』という言い分を相手に与えることになりますからね」
「はい、大師」
「きっと大変ですよ。なんといっても、他の人たちがやりたがらない面倒ごとですから」
「それは大丈夫ですよ」
 セイランはことさらにしかつめらしい顔を作った。
「大師ならきっと、上手い解決方法を教えてくれます。そうですよね?」
「――微力の及ぶ限りお助け申し上げます、公主さま」
 まるで返事をするように、セイランの腹がぐーっとなった。レイレイが食事の用意を整え、その日はそれで終いとなった。ひと月前のことである。





 そうして今日もまた、セイランは大師から言われたとおりに仕事をしていた。具体的には、日参するバカ者の申し立てを聞き流すことである。
「はっ! なんですかその『話は聞いてなかったけどここは笑顔で誤魔化そう』みたいな微笑みは! バカにしているんですか! この小生が部屋住みだからってバカにしていますね? してますよね」
「していません」
「なら聞いてください! かっ! おっと、聞くだけでは終わらせませぬぞグフフフ。今日という今日こそはやるという言質を引き出してからでないと帰りませんからね。このボロ屋にお泊りだって辞しませんぞ! 土間を転げながら苦しみを舐め、埃にまみれて父の元へ帰り、心配して食事も喉を通らずやつれ果てた父上にご報告するのです。『父上、お喜びください、ようやっと請願が聞き入れられましたよ』。フフフ、すると父上は感動のあまりポックリ逝きながら家督を小生に譲り、一方兄は路頭に迷って、後からその辺の溝で死んでいるのを発見されるというわけですよ。どうだ参ったかクソ兄めが。この小生をバカにするからそういう末路になるんだ。か、か、かあぁぁぁ」
 きらびやかな装いの豚人は呵呵大笑し、たんつぼめがけて痰を吐いた。痰は壷をはずれ、床にべちゃりとこぼれおちたが、豚人は顧みることすらしない。脳裏に浮かぶ幸せな妄想に白目をむいてはまり込むその有様は、ちょっと血色のよい溺死体にも似ていた。
 ――大師、お願いだから早く帰ってきてください。
 半ば涙目になりながら、セイランは部屋の入り口に何度も視線を投げていた。
 豚人は名をカンペイという。地元の貴族の次男坊である。セイランたちが屋敷に挨拶したその翌日からセイランたちのもとに通いつめている。その目的は本人曰く、「この地が抱える大問題の数々を解決するに当たってこの小生のあふれ出る知恵を貸してやるため」だが、セイランの見るところ、あふれているのは痰とうぬぼれぐらいのものである。ことあるごとに『問題』なるものを見つけ出しては、大仰な言い回しで上から高説を垂れて自分の言うことを聞くようつめより、邪魔だとして退けようとすると心外きわまりないという面をする。無視すれば声は際限なく高くなり、かといって構えばさらに面倒になり、いずれにせよ部屋は汚される。セイランはこれほどまでに鬱陶しい相手には遭遇したことがなかった。
 今日もまた、カンペイは言葉を尽くして自分の主張をセイランに納得させようとしていた。その内容を一言にまとめると、「界門の前に関所を立てさせろ」となる。
「うちの家計は火の車なのです。関所からの通行料が最近減ってて、おかげで小生の菓子の割り当てが七品も減りました。七品もですぞ! 妓楼通いもせめて一日おきにしろといわれるし! 何故こんなことに……」
 カンペイは涙をぼろぼろ流し、手巾を取り出して盛大に鼻をかんだ。潤んだ目でどこか遠くを見ているかと思えば、とたんに現世に戻ってきて興奮することしきり。投げ捨てられた手巾は床に落ちた痰の上に着地し、それを見たセイランはおもわず目をそらした。
「だいたい、愚民どもがうちの領内を能天気にうろついていられるのは誰のおかげだと思っているのですか! この小生のおかげですよ! 小生が日々心を砕いて領民の安全を確保しているからなのです! それを思えば通行料を払うぐらいがなんだというのですか。高すぎるという不満などもってのほか、むしろ関所に荷物全部置いていってもらってもいいぐらいではありませんか! 聞いていますか公主! もっと通行料をとってもいいですよね?」
「聞いています」
 セイランは後半の質問を無視した。ひと月の間カンペイの相手をして学んだことである。カンペイは鼻を鳴らした。
「とにかく、正当性は小生たちにあります。だから界門のまん前に関所を設置し、異世界の連中から通行料をバシバシ取り立てたいのです。なぜそれが出来ないのですか! ここは界門に関する役所なんでしょうが!」
「ですから、何度も言っているように、門のそばに新しく建物建てちゃいけないことになってるんです」
「そんな瑣末なことにこだわってどうするのですか! ようするに金が取りたいんだ小生は! 建物なんかどうでもいいわ! そんな簡単なことも分からないんですか!」
 ――分かってますよ、このおばか。
 セイランはもはや腹を立てることもやめていた。やんわりと言って諦めさせようとしても、カンペイには通用しない。とっくに学んでいるのだが、それでも試さずにはいられないのである。はっきり駄目だといったところで聞き入れられないことには代わりがない
「なんなら地面に線を引いて、そこをまたいだら通行料ってことでも構いませんぞ! やや、これってなかなか斬新なやり方では? しかもこれなら線を一度に何本も引くことも出来ますぞ! 一度の通過で通行料二重取り三重取り、さ、最高ではありませんか! フフフ、時に己の才能が恐ろしくてたまらなくなりますよ。こんな才能あふれる小生が家督を継げない部屋住みなんて間違ってる、公主もそう思うでしょ? 思いますよね?」
 カンペイは相変わらず独り悦に入る。テンコウは脇に控えてよだれを垂らし、その関心はすでに埃からカンペイの吐き散らす痰に移っている様だった。床に痰が落ちるたびに目を輝かせるテンコウを眺めているうちに、セイランの中で何かがふっきれた。
「ごめんなさいカンペイさん、ちょっと急用を思い出したので失礼します」
「は? 小生の相手をする以上の大事な用件ですか? そんなものあるのか。ちょっと! どこ行くんですか」
 テンコウを連れて部屋を飛び出し、追いかけてくるカンペイの声から耳をふさぐとセイランは足を速めた。長くもない廊下でレイレイに出くわし、苦笑いを交わして部屋の掃除を頼む。諦めたようにため息をつくレイレイに心から頭を下げると、セイランは建物を飛び出した。薄暗い屋内から一変して、外はとても明るかった。





 ミン爺の屋台で焼き鳥を買い、道端で開演している子供向けの芝居をひとしきり眺め、雄天楼前の占い婆さんに挨拶を終えるころになると、セイランの気持ちはだいぶ上向いていた。空を見上げ、清らかに晴れ渡った空の青さを楽しみながら、異人向けのみやげ物を物色して目を輝かせる。通りかかった異人の旅行者と話し込み、飾り紐でできた髪飾りを買ってもらったときには、セイランの機嫌は最高潮に達していた。路地にしゃがみこみ、ほれぼれしながら戦利品を眺めていると、物言いたげなテンコウが目を留まる。セイランはあわてて表情を引き締めると、これは仕事だからいいんですとテンコウに言い訳した。
「じょうほうしゅうしゅうです。まずいろんな人と仲良くなって、それからお話を聞くんですよ」
 テンコウはふーんとでもいうように首をかしげた。セイランはにわかに後ろめたさを覚えた。
「なんですか、ちゃんと聞き込みしてますよ。全然手がかりがないのは私のせいじゃないです」
 テンコウはニャーと鳴き、人じみた動作で前足を伸ばすと耳の後ろを掻いた。
 ――しょうがないです、本当に手がかりないんですから。
 手を伸ばして掻いてやりながら、セイランはため息をついた。


 ――異人が一人失踪したので探してほしい。
 そんな話がセイランたちのもとに持ち込まれたのは、通関司の開設直後、カンペイの跳梁が始まったのと同じ時期である。甥っ子を探してほしいと泣きついてきたのは品のよさそうな異人の婦人だった。ワンとだけ名乗った婦人の容貌は鋭角が目立って狐を思わせ、狐人のセイランはなんとなく親しみを覚えたが、それも異人が口を開くまでのことだった。
「うちの甥っ子が連絡をよこさなくなったので、できるだけ早く探し出してください。最優先で。ところでこのお茶はまずいので換えてください。とにかく、すべてはこちらのかたがたの責任です。うちの甥っ子が今どこでどんな目に会っているかと思うともう涙が止まりませんわ。もしもし、お茶はまだですか?」
 とにかくいいたいことしか言わないその勢いはカンペイの生霊が乗り移ったかのような有様。続く一刻ほどは万事がこの調子で途絶えることなく、応対に当たった十面大師すら気おされて全面的協力を約束させられた。その過程で聞き出せたのは、甥っ子はひと月前にこの地にやってきたこと、定期的に連絡をよこすと約束していたにもかかわらず一度も連絡をよこさなくなったこと、業を煮やして自分で探しに来てみたが右も左も分からず、衛視などに聞いてもなにも対応してもらえずに往生していたこと、すべては地元政府の責任であるので謝罪と補償を要求することなどなど……であった。やっとの思いでワン婦人を追い出し、彼女の残していった『資料』なるものに目を落とす大師の後姿をみるほどに、セイランは自分たちがどういう仕事を引き受ける運命になるのかを完全に理解したのであった。
 翌日から始まった探索は、一向にはかどらなかった。
 ワン婦人から借り受けた『写真』という写し絵をひっさげて、異人が出入りしそうな場所を回ってみるものの、目撃証言はほとんど得られない。たまに当たりかと思えば人違いだったり、門を抜けて帰ってしまっていたりと空振りばかり。ひと月がたってもあいも変わらず梨のつぶてであるらしく、セイランは心中ひそかに、このウェイという名前の甥っ子が本当に延国に来ているのかと疑い始めていた。
 セイランが所在なげにテンコウの耳をぐしゃぐしゃとこね回していると、テンコウは身をするりと滑らせてセイランの手から逃げ出した。セイランの顔を正面から見つめて首をかしげる。首は見る間に角度を増し、完全に一周して再びもとの位置に戻った。セイランは思わず噴出した。
「はいはい、分かりましたよテンコウ、ちゃんと聞き込みします。それでいいでしょ」
 テンコウは答えず、やおら頭を上げて目で何かを追いはじめた。セイランのほうをむいて顎をしゃくり、セイランが首に腕をかけると、テンコウはひょいと飛び上がった。巻き上がる風はセイランとテンコウの体をすくい上げ、瓦の上に軽やかに着地したテンコウはお座りをすると耳を立ててセイランを見上げた。促されて耳を立てたセイランのもとに、風がかすかな異音を運んできた。界門と市場の境目辺り、異人向けの両替商が立ち並ぶ方角、声高に言い争うような騒ぎ、金属の触れ合う音。ひときわ甲高い声にはなんだか聞き覚えがあった。セイランは胸騒ぎを覚えた。
「テンコウ」
 風精はにゃーとうなずいた。セイランは髪飾りを手早く身につけると、風に身をゆだねて屋根の上を走り始めた。


 (続く)




文中における誤りなどは全て作者に責任があります。
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  • セイラン可愛い(開口一番に持ってくるには相応しくない一言かもしれない) 延の官僚側の異世界門へ対応やその他諸々が違和感なく作りこまれていて読んでいて小気味よかったです。ご馳走でした。 【捜魚改租に通ず】の難癖の件で手間を取らせてしまったようで申し訳ないです。 -- (名無しのとしあき) 2011-10-23 01:33:20
  • この段階で大延国のゲートが本格的に登場していたことに驚きました。感情が踊るように出てくるセイランがボロ屋と一緒に大きくなっていくのに期待が膨らみました。政治の授業の様に大延国に合わせての解説は説得力がすごかったですね。テンコウと共に人間と交わっていくことでどんな波が起こるのか楽しみです -- (名無しさん) 2013-06-05 19:26:13
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最終更新:2012年05月02日 14:37