イストモスのある屋敷、
ケンタウロスの老騎士が死病の床に就いていた。
物憂げに取り囲む狗人の従者一族に混じって、一匹の黒い犬が老騎士を見つめていた。
「そうか…迎えにきおったか」
もう光を感じるのがやっとの目で、老騎士は犬の視線を感じとると手をわずかに動かし
黒い犬を招いた。黒い犬はそれに答え、小走りに老騎士に駆け寄る。
駆け寄った黒い犬の頭を撫で、老騎士は己の経てきた長い道に思いを馳せる。
「一片の悔いなし」
わずかな微笑みとともに老騎士は目を閉じ、二度と開くことはなかった。
すすり泣く従者一族を残し、黒い犬はそっと屋敷を去った。
エリスタリアの外れの森、一本の古木が朽ちて倒れた。
黒い犬はその根元で一部始終を見届けると、朽ち落ちた大ぶりの枝を咥えて横にどけた。
枝がどき、日を遮るもののなくなった小さな新芽は嬉しそうに朝露を弾いて揺れた。
どこかの街の人気のない路地裏、鴉人の間諜がダークエルフの毒矢に倒れ、最期の空を
見上げていた。
「俺のしてきたことは、祖国のためになっただろうか」
男の呟きに、彼の顔を覗き込む黒い犬はただ一声「わふっ」と答えた。
男はその声に残り僅かな息で苦笑をこぼすと、「違いない」と返して息を引き取った。
黒い犬が立ち去った路地裏に、彼の屍は残っていなかった。
私の友人に霊感の強い子がいるんですが、彼女が異世界旅行に行った時とても恐ろしい
経験をされたそうなのでお便りします。
その友人がエリスタリアでホームステイしていた時、ホームステイ先の家の
ホビットの
お婆さんが天寿をまっとうして亡くなられたそうなのですが、そのときお婆さんの枕元に
真っ黒な長毛種の大型犬のようなものがじっと座っていたということなのです。他の人は
その存在に気づいておらず、この世のものではないと経験で察した友人は慎重に観察して
いたのですが、不意にその犬が友人の方を振り向いたのです。
流れていく血のような燃える夕焼けのような、どこか“終わり”を連想させる真っ赤な
瞳だったそうです。思い出すたび背筋が凍るその目に射竦められて、友人はその場で気を
失ったそうです。
一体この黒い犬はなんだったのでしょうか。今のところ友人は健康に生活していますが、
直接目撃した友人の今後が心配でなりません。
(月刊アトランティス 読者コーナーの投稿より抜粋)
蜥蜴人の男は、目の前の簡素な墓を見下ろしため息をつく。
男に用意できたのはこの程度だった。果たして満足してもらえるだろうかと、辛気臭い
鉄兜の顔を思い浮かべつつ形見分けされた篭手をさする。まるであつらえた様に男の手に
添う感触が答えのようで、男はわずかに苦笑いする。
「護衛の報酬としては破格すぎやぁせんか、なあ」
墓碑は答えない。男はぼりぼりと頭をかき、次の旅の道行きを決めるべく背を向けた。
「くそったれの“ヘアリージャック(けむくじゃら)”め、あの鉄面皮を宜しく頼むぞ」
空を見上げ呟く男に、墓碑の傍らにいた黒い犬は「ばうっ」と答えたが、男は振り向く
ことなく墓所を立ち去った。
「まだこんなことをやってるのかい、懲りないね君も」
佇む黒い犬の傍らに、まるで最初からいたように黒い少女が現れて嘲るように言った。
黒い犬は振り向かない。
「渇く者にとっての一杓の水、飢えた者にとっての一欠けらのパン、溺れる者にとっての
一呼吸。限りあるものと知らなければヒトはその価値を理解しない……そんな話をラーに
入れ知恵したのもどうせ君なんだろ?」
黒い犬は答えない。黒い少女は気にする様子もなく続ける。
「なるほどたしかにその通りだ、一面では『ボクのおもちゃ達』こそがその真理を雄弁に
証明しているともいえる。無限の猶予は時に精神を腐らせる…それこそ、旧世界で繁栄を
謳歌したドラゴンどもがいまや怠惰と無気力に堕しているようにね」
黒い少女の口元が亀裂のような笑みを形作る。
「だけどね、それでもヒトは……生きるモノは永久不変を求めるよ。彼らの渇望は無限だ。
死を超え、果てを越え、己の存在が摩りきれようと進み続けることを欲するその無邪気な
渇愛は、時にボクらの予測すらやすやすと超える。本当、面白いじゃないか」
黒い犬は答えるかわりに、つまらなそうに一度ぱたりと尾を振った。その対応に少女の
目の端がぴくりと引きつり、こころなしかその語気がわずかに荒くなった。
「君はいい加減、自分がどうしてボクに取って代わられたのか理解すべきだよ。明らかな
不自然と本能では理解しながらも、ボクという存在が彼らに受け容れられている理由もね。
彼らは迷いたがってるんだ、わざわざゴールテープなんて用意してやる必要はないよ」
無言の対峙が続いた後、黒い犬は聞くだけ聞いたというように腰をあげ、遂に最後まで
黒い少女を振り向くことなく立ち去った。いまや不機嫌顔を隠そうともしない黒い少女は、
遠ざかる黒い犬の背中を見送りながら誰に聞かせるでもなく呟いた。
「ほんと、かわいくないね……じゃあ好きにすればいいさ」
「せいぜい好い終末を、“兄さん”」
黒い犬は今日もどこかで、だれかの終幕を静かに見つめている。
- 黒犬がやってくるのに条件とかがあるのだろうか?他の逝去と何かが違うのか?と色々と考えさせられる。 しかしちょっとキメても「でも働かないんでしょう? お兄さん頑張りすぎて過労で窶れDOGですよ」と突っ込みたくなるラスト -- (名無しさん) 2012-04-04 00:38:22
- もっさんが動くと悪いことばかり起こるからニーサンが代わりに働いているんだよ -- (名無しさん) 2012-04-04 01:11:26
- 立派な死神ですねオニーサン。 でも異世界の全域をカバーするとなると分身でもしないと無理っぽい? -- (名無しさん) 2012-06-02 21:14:18
- 命の終わりに等しくやってくる黒い犬に高潔さや優しさを感じたのは最後に出会う者がそうであって欲しいという願望からでしょうか。逆に他者と関わり続けるモルテは真逆ですね -- (名無しさん) 2013-08-30 18:44:28
- 死の訪れそのものなのに情緒のある黒犬なのにモルテとの関係を思い浮かべるとちょっと泣く -- (名無しさん) 2014-02-27 23:42:16
最終更新:2013年08月05日 00:22