「急鼠の亡」という言葉がある。「短気は損気」というほどの意味を持つ、延の故事成語である。
昔々、あるところに鼠人のヤンという農民がいた。およそ気短な気性の多い鼠人の中でもヤンは飛びぬけてせっかちものだった。貧乏暇なしということで休みなく働きながらも、ヤンは周りの人間がのんびり過ぎるといってはどなりちらし、食事の支度に手間取ったといっては妻を殴り、ついには己が育てる雑穀にまで「育つのが遅い、明日には実れ、いや今すぐ実れ」などと怒り狂う始末だった。
困り果てた近所の者たちは伝を頼って仙人に助力を乞い、仙人は快く引き受けてヤンの元を訪れると、小さな巻物を手渡した。さっそく中をのぞこうとするヤンを押さえると、仙人はまず食事をしてからだという。鼻白んだヤンが夕食を用意させたが仙人は手を付けず、ヤンが全てを食べるように促した。怪訝に思いながらもヤンが食事を終えると、次は用を足すように告げられる。言うとおりにしたヤンを、仙人は寝所へ連れて行くと寝かせ、巻物を手に取らせて広げる用意をさせ、こういった。
――もしなにかを待つことに我慢ができなくなったなら、この巻物を開け。
言われるままにヤンは巻物を開き、中に書かれた字を半行ほど読み、そして閉じた。目を上げたヤンが見たのは、窓から差し込む朝日であった。仙人から受け取った書を読んでいたそのいつの間にか、一晩が過ぎ去っていたのである。脇に控えていた仙人はうなずくと、その巻物を読めば時が過ぎると教えて立ち去った。ヤンは大いに喜び、それからしばらくの間、何かを待ちくたびれたヤンが周りに当り散らすことはなくなった。我慢が出来なくなると、ヤンは巻物を取り出してわずかに読むのである。だがあるとき、ヤンは作物の育ち具合に目をつけてしまった。巻物の効能にどっぷりと浸かり、忍耐心が擦り切れ果てていたヤンは程なく、作物が実るまでの時間を巻物を読む事で飛ばしてしまおうと決意する。畑の脇でしばらく読みふけったのち、ヤンがふと辺りを見回すと、なんと周囲は荒れ果てた原野と化していた。驚いて叫んでも声は出ず、体を見下ろせばそこには腐り果てた肉がぼろぼろの骨にしがみついているばかり。ヤンが巻物を読むうちに、周りでは数百年の時が過ぎ去っていたのである。
さて、この時間を飛ばしてしまう巻物に一体何が書かれていたのかについては、延の学者の間でもさまざまな解釈が取りざたされている。単に読むのに時間のかかる難しい文字の列であったという無味乾燥な見解から、やれ万有をつらぬく真理が記されていただの、奇想天外な物語であっただのといった興味本位の意見、ヤンの人生そのものが記されていたという寓話めいた解釈もある。
さて、これらの多様な解釈にもただ二つだけ、全ての意見が一致を見る事柄がある。一つは、巻物に記されていたのは躍字であったということ。そしてもう一つは、ヤンがいわゆる『潜書』を行ったのだということである。
潜書とは何か。
躍字は不思議な文字である。生きているように振る舞い、自らの意味を読むものに向けて投射する。これにより、躍字はだれもが読むことができる。読めぬ躍字というものは存在しないのである。だがこうした作用のうちに、一つ見落とされがちな点がある。すなわち、「躍字を読むのには時間が掛かる」ということである。
いかなる事柄にも、対応する躍字が存在する。どんな複雑な、あるいは些細な物事であっても例外はない。たとえば、存在することが知られている躍字として、次のような意味を持つものがある。
「昔々酸州は角双にある茶屋で店主と客が揉めた折り、ついには店主がかんしゃくを起こして客に向かって茶を投げつけた。その茶のなんと熱かったことか」
これはもはや文章の体をなしてしまっているが、これで一つの躍字である。このほかにも、「易河がこれまでに流した全ての物」や「ある特定の雨滴が地に落ちたとき立てた音」などをあらわす躍字も存在する。実のところ、躍字で書かれた文章の一節一節ごとに、その一節そのものを意味する躍字が存在するほどである。あるいはここまで特殊な事例に走らずとも、延人ならだれもが持っている真名を取り上げてもよい。真名には、その人の人生全てが一切の省略なく記録されている。膨大な情報量をもつこうした真名が星の数ほども存在することは言うまでもない。ましてこうした躍字で文章を記したならば、巨大な情報がいともたやすく蓄えられてしまう。
さて、そうした膨大な情報を読み取るためには、多くの時間が必要となる。躍字においてもそれは同じである。
躍字の持つ情報伝達能力は恐ろしいほどに優れ、無用な情報を伝えぬ選別機能も備えているが、それにも限度がある。読み手が要求すれば躍字は応え、自らの蓄える全てを相手の心に流し込もうとする。その作用は読者の五感に殺到して周囲のことどもから切り離し、心象に莫大な負担を強いて読解に掛かりきりにさせてしまう。上の逸話でヤンが時を忘れたのはまさしくこれによるものである。
躍書を読むことにはこうした手間や、時には危険が伴う。だが一方で、躍書からあふれ出る情報の奔流をかき分け、望むものを掴みとることが出来たならば、そこから得られる恩恵もまた計り知れない。こうして、人は躍書に相対し、その宿す情報に取り組もうとする。語りかける躍字に自らを預け、求めるものを読み取ろうとする行為、これをすなわち潜書という。
潜書に定まった手順は存在しない。ただ躍書を開けば、すぐさま潜書が始まってしまう。ただし、潜書の途中は他の何もかもがお留守になってしまうため、多くの潜書者はまず身支度を整え、食事をし、安全を確保してから臨むことが多い。詳しくは後に述べるが、潜書を公務として行う潜書官たち、あるいは娯楽として供する者たちにとっては、準備もまた潜書そのものに負けず劣らず注意を払うべきこととされている。
準備が整い、躍字が流れ込んでくればどうなるか。これは、書の内容によって千差万別である。
経験者の多くは目くるめくような体験であると語る。濁流に投げ込まれ、あるいは風に巻き上げられ、とかくそうした体験に近いのだと。躍字があらわす意味たちが、知覚能力の限界を超えて押し寄せるのだから無理もないとも言える。書が記録を旨として書かれたものであったとすれば、潜者はその出来事を追体験する。書が架空の物語であれば、これもまた実体験のごとくに立ち現れて潜者の周りできらびやかに舞い踊る。抽象的な事物を意味する躍字であったなら、潜者はその本質を余すところなく掴みとる。
ただし、以上のことは全て「潜者がしかるべき意志力を備えていれば」という但し書きが付いてしまう。
多くの場合、潜者はただ押し寄せる躍字を押さえ、五感からなんとか意味を引き剥がすだけで終わってしまう。読もうとする文字が度を越えて複雑であったならば、躍字に心をさらわれて人事不省に陥ることさえありうるのだ。一同こうなってしまえば、書から引き離しただけでは事態は解決しない。経験を積んだ潜者が書に分け入り、迷った心を探し出す必要がある。延で語られる御伽噺の中には、御伽噺そのものにとらわれてしまった魂を救い出すというモチーフがたびたび登場する。
こうした潜書が日常的に行われている場所として、各地に支部を持つ簡林院という役所が上げられる。
簡林院はさまざまな記録をつかさどる部局であり、かつては戸部の管轄下にあった。正しく課税するために必要な情報を集め、分析し、管理する。こうして集積された情報が有用であることは自明であり、それゆえやがて戸部から独立するに至った。現在では殿試を潜り抜けた俊才たちが最初に配属される部署であり、出世の登竜門ともなっている。
もし簡林院を訪れたならば、そこでは数々の記録を記した竹簡や木簡と、その管理を行う司書たちの姿がまず目に付くだろう。だがこれらはごく一部、世間とかかわりあうためのいわば接続地点に過ぎない。簡林院の最も重要な部分はその内奥にある。すなわち、株分けされた大躍字の一部と、そこから必要な情報を取り出す熟練した潜書官たちである。
大躍字とは何か。それはすなわち、「全ての躍字の集合をあらわす躍字」である。
無限と言ってよい数存在し、しかもすさまじい勢いで増え続ける躍字全体の集合を表すのだから、大躍字とはもはや文字の枠を超えた存在とみなして一向に差し支えない。大躍字はその細部が無限にきめ細かく分化し続けるが、これは世界の出来事が反映され、新たな躍字が生み出されるために起こる作用であると考えられている。この驚くべき大躍字はその在りかたについても他の躍字とは異なっている。部分を切り出し、分けて取り出すことができたのである。いわば、躍字の部分集合を現す躍字を作ることが出来たのだ。
ここで「出来た」という言い方をしているのは、現在は大躍字そのものの所在は失われているためである。存在していることは間違いないのだが、少なくとも延の国内には見当たらぬ。かつては現在の甘陽に存在し、多くの学者たちによって部分を切り出され、そこから取り出された知識は大いに世を潤していたとされる。だが六大霊王と呼ばれた驚くべき皇帝の治世が終わりを告げる直前、大躍字は忽然と消えうせた。そう、歴史は伝えている。
そうして消えうせた大躍字の代わりとして現在用いられているのが、北方の大都に浮かび上がる『乾』、そして南の砦都に根ざす『坤』の躍字である。いずれもその周りには大伽藍が建てられ、忙しく立ち働く潜書官や書記たちによって利用されている。多くの場合、彼らの仕事は各所の求めに応じて必要な情報を取り出し、分かりやすい形にまとめることである。たとえば辺境の事情を知りたいと思ったとき、原本の失われた書物を読みたいと思ったときなどに、潜書官は躍書に完全無欠な形で埋め込まれている記録を読み出すのだ。「科学とは自然という書物を読み解くことである」という言葉が地球にはあるが、その伝でいえば、彼ら潜書官は科学者に似ている。もっとも、彼らは実際に自然を読んでいることになるのだが。
このように公務として行われるものとは別に、楽しむために行われる潜書もある。これはひとえに、躍字を書く技術の発展によるところが大きい。莫大な潜在能力を秘める故にともすれば危険となる躍字をてなづけてきた、延人たちによる苦労の賜物である。
躍字は映画に似ている。その心は、一連の出来事をその内部に納めているということである。長大なストーリーを描く映画は上映時間も長くなり、観客にも負担を強いる。だが一方で、筋立てをテンポよくまとめた短編映画も成立しうるし、あるいは長大な映画であったところで、部分を切り取って編集することによって、トレイラーや見所集に仕立て上げ、さらなる手管を尽くして省略を進めれば、フィルムの一コマだけでも充分に映画を感じさせることできるだろう。こうして出来上がったものは元の映画とは異なるものであるが、なるほど映画の一部には違いない。
遊び向けの躍字を描くこともまた、これと同じである。書家は書こうとする躍字の意味する何事かを心に浮かべ、特に必要でない部分を切り捨て、そうして研ぎ澄まされた事柄を書く。もし洗練が足りなかったならば、切り捨てた部分を復元しようとする躍字を押さえつける必要がある。これは不恰好で、かつ危険な作業になる。そのまま潜者で迷ってしまったものたちと似たような末路をたどってしまうことも、未熟な書家にとってはありえないことではないという。
余談であるが、同様の手法は真名に対しても用いられる。全人生の記録をこめて全てをさらけ出すのではなく、適当な抄訳版を作り出すのだ。このような名を書くことに専門技能は必要なく、だれもが自然に行える。あるいは、最初に躍字を編集する手法を確立した書家の脳裏には、こうした事実があったのかもしれない。
さて、こうして編集された躍書――初心者向けとしては紀行文が、上級者には架空の世界を描いたものがよいとされる――を嗜むことができるのは金持ちに限られる。こうした躍書を作りうるのは簡林院を引退した碩学や熟練した書記たちであるが、膨大な手間がかかり、作り手たちもまた巨額の報酬を求めるためにあまり作られることがない。それゆえ絶対数が少なく、値も釣りあがるという寸法である。一時期は禁制品となったこともあるため、ますます躍書の数は少なくなっている。とても珍しい品であったのである。
ところが、
ゲートの開いた現在ではわずかに事情が異なっている。ヤミ潜書業の出現と、それに耽溺する地球人たちの出現である。
いったい何者の手によるものか、ゲートの近傍ではこのところ多くの躍書が出回り、異世界人むけに潜書を行わせる商売がいくつもたち現れている。彼らは地球人にすりより、この世の驚異をお目に掛けようと言葉巧みに誘惑する。警戒心のゆるい地球人はたやすくのせられてしまい、この異世界の魔法に心を奪われる。終わった後に高値を吹っかけるのはまだ良心的な商売であり、ひどいものになると、潜書によって茫然自失状態に陥った客の身ぐるみはがして放り出す盗賊まがいの行為も珍しくないという。
地球人にも同情すべき点がある。せっかくゲートをくぐり観光に訪れたところで、観光客のほとんどはゲートのある街から外に出ることはない。なにしろモータリゼーションに慣れきった現代人のこと、いくら延国に驚異がひしめいていようと、そこまで徒歩でたどり着こうとする覚悟のあるものはまれである。異国の旅人に便宜を図れという勅令もあり、また各地の塩客たち、すなわち塩の護送から発達した護衛兼輸送業者たちも商機とみて異国人むけの案内サービスを開始しつつはあるのだが、どうにも手が回りきらない。せっかく異世界を訪れても見て回れないのである。ヤミ潜書はここに付け込んだ形である。
現状では現地政府による対策は進んでおらず、旅行者は自分で自分の身を守るしかない。もしあなたが、延国でいかなる甘言を投げかけられようとも、それに屈するべきではない。さもなくば、あなたもまた『急鼠の亡』に近い末路をたどる羽目になるだろうから。
延国に限らず、異世界には驚異が満ちている。潜書はその一つに過ぎないが、同時にひどく目を引くものの一つでもある。もしあなたが延の地で躍字に相対したならば、彼らに注意深く耳を傾け、しかし全ては許さぬことを心に置くべきだろう。結局のところあなたは異界の客であり、全てを理解する必要はないのだから。
但し書き
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- なんとなく筒井康隆のパプリカを思い出す。このネタで思わずss一本書いてみたくなるすばらしいものでした。 -- (名無しさん) 2012-04-11 18:07:11
- 理論立ててファンタジーが構築されているのがすごいですね。なるほどと納得する昔話を主幹にしているので分かりやすいです。違法品みたいなもの世界観のカンフル剤みたいなものですね -- (名無しさん) 2014-05-11 17:40:12
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最終更新:2012年04月11日 17:42