地球であれ異世界であれ、勝負事というものは常に人々の関心をひきつけて止まぬものである。大延国も例外ではない。子どもの遊戯から興行目的の競技、金と罵声の飛び交うばくちから名誉と栄光を賭けた一騎打ちに至るまで、大延国にはさまざまな勝負事があふれている。
そうした勝負事の中でも、特に衆に親しみ、あるいは生活において重要な意味合いを獲得しているものを取り上げて三比と為す。すなわち、比武、比技、比食である。
この項では、特に比武を取り上げ、比技と比食については別項に譲るものとする。
比武とは、文字通り武術家同士による力比べのことである。
大延国に置いて、武術家たちは社会の一角を担う重要な存在である。治安維持や南蛮の撃退にかかわる軍人や官憲として国家に貢献する武術家も居れば、野に在って野獣や賊を退けて世に尽くそうとするものもあり、あるいは逆に己の力を頼んで傍若無人の限りを尽くすものもあれば、追われる身となって鼠賊山匪に身を落とすものもある。こうした、とかく多彩な武術家たちによって構成される社会のことを武林という。
さて、人の集まりというもののご他聞にもれず、武林においても争いごとは絶えない。理由はさまざまであるが、枝葉を取り払えば名誉の問題に帰着することが多い。武術家にとり、武林における名誉や評判というものはきわめて重要なものである。一般社会では盗賊として追われる者が武林においては尊敬される立場を獲得することもありうるし、逆にどれほど立派な地位の持ち主であろうとも、武術家としての名誉にもとる振る舞いをしたと知れれば爪弾きにあい、場合によってはそれだけで命を狙われる理由にとして充分とみなされることさえある。己の流派が課する戒律や個人的信条を破れば不名誉であり、義を見てせざるもまたしかり。弟子の恥は師匠の恥であり同門の恥でもあり、同門の士の恥を雪ごうとせぬこともまた恥の上塗りとなる。
こうした恥を雪ぐ手段として、上古の時代には血みどろの抗争が行われていた。武門における発言力を獲得するためには強さを見せ付けるのが一番手っ取り早く、強さを見せ付けるには真剣勝負で勝利することが至当だという理論である。えてして一門を巻き込んだ小戦争に発展しがちなこうした抗争こそは、現在の比武の原点である。
現在では、こうした野蛮な比武のありようは鳴りを潜めている。後世の歴史家たちは、そのきっかけを作った人物として第75代皇帝・シキョウと、その師匠であり妻でもあった永代剣聖スイメイの名を挙げる。
シキョウは武術の天稟を持ち、先帝による教育方針もあって延国全土の武術を身につけた。流水をも断つほどの使い手であったとされるシキョウは、皇帝に推挙されたことを不服として宮殿を飛び出し、各地を巡っていたとされる時期がある。師として仰いでいたスイメイによる探索によってシキョウは連れ戻されるのだが、それまでに約一年の月日を要している。この間、延全土を追いつ追われつしていた二人の行っていた勝負が、現在の比武の原型となったというのである。
延を巡るとき、シキョウとスイメイの伝承を聞くために場所を選ぶ必要はない。およそシキョウとスイメイが勝負を行ったとされる場所は延国中に数え切れぬほど存在するのである。資料による裏づけが取れている場所もあれば曖昧な場所もあり、明らかに別の人物を主人公としていた伝承が乗っ取られた事例も少なくない。こうした伝承が拡散している背景として、シキョウが各地に伝わる武術を全て身につけていたと知られていることがあげられる。シキョウはスイメイを見返すため、かつては大都に呼び寄せて教えを乞うた武術家たちのもとをたずねて全国各地を巡ったとされている。実際に訪れれば足跡が残り、そして仮にシキョウが訪れることがなかった流派もそのことを隠そうとした。シキョウが訪れなかったということは、とるに足らぬ武術とみなされたも同然だからである。 かくして各地にシキョウ来訪の伝説が打ち立てられ、あるいはでっち上げられるに至った。
折しも、シキョウの教育を行うために各地から大都に呼び寄せられた多くの武術家同士の交流によって、武林は地方ごとにまとまった小さな集団から、延国全体に広がる社会へと変貌を遂げつつあった。シキョウの放浪もまた、こうした交流を後押ししたものと思われる。そしてある一点で、その伝承にスイメイの追跡という色が加わると、それも全国へと拡散していったのであろうことは想像に難くない。スイメイの苛烈極まる追跡を、その地において学んだ技でシキョウが退け、また地を移す。スイメイを登場させることによって、その地の武術に華を持たせる形での話が作りやすくなったというわけである。
さて、こうした伝承の中心となっているのは、シキョウとスイメイのさまざまな勝負の描写である。ごく当たり前の剣術勝負や型の披露によって競うものはむしろ少なく、橋の欄干の上で戦っていただの、河を流れる板を飛び渡っていただのと言った誇張の混じるものから、落ちる木の葉をどれだけ切り落としたか、どちらがより太い柱を切り落とせたかといった技比べもあり、変わったところでは懸賞金のかけられた賊をどちらがどれだけ早くどれだけたくさん討ち取ったかという勝負も見られる。こうした伝承は武門の威信を高める道具として作られたものもあれば、いわゆるエンターテイメントとして脚色を加えられたものもあって千差万別だが、とにかく勝負のありようだけは多彩を極め、延の武術史を語る上では無視することの出来ない名著『百家武伝』にも、「史書に取り上げる題材としては俗に過ぎる感もあるが」という但し書きつきで、こうした勝負の数々が取り上げられている。後に皇帝に即位したシキョウの登場する武術伝承を無視するわけにもいかないという配慮であろうか。
この『百家武伝』の記述を根拠として、現在の比武の形式が成立したとみなしてほぼ間違いない。シキョウとスイメイの勝負事を先例として、自らも習うのである。武林において百家武伝はほぼ官野を問わず必修と言ってよく、共通認識を土台とする事で円滑に勝負が行えることが、『百家武伝』を採用する大きな理由となっているのである。
形式が整備されたことによって、比武をより簡便かつ頻繁に行う道が開かれた。武林において何事か争いが発生したときのみならず、流派交流や親善の試合として、あるいは野に眠る才能を発掘するための手段として比武を用いることも可能になったのである。特に重要なのは、シキョウの治世において成立した武科挙である。文人登用制度である科挙に遅れること実に二百年を経て、延国は武人を登用する制度をようやく整備したのであった。整備が進んだ理由としては、この時期南蛮の勢力が弱まっていたことも挙げられよう。賽王付近に駐留する軍隊は一部が縮小され、解雇された兵士は行き場をなくして世にあふれ、大いに治安を乱していた。こうした兵士たちの受け皿となったのが武科挙である。シキョウは、武術を極めれば栄達も可能であるという体制を戦時のみならず平時もまた維持することで、社会不安を元から断とうとしたのである。
武科挙の最終試験である大比武は皇帝の御前で行われ、貴顕を招いて盛大に執り行われる国家行事である。同様の行事は地方でも執り行われることがあり、多くの場合、優勝者には大比武におけるシード権が与えられる。もっとも、宮仕えを嫌う武術家が腕自慢のためだけに出場する例も少なくないようである。
比武が行われるとなると、人々はこぞってこれを見物に出かけ、達人の披露する絶技に眼を瞠って大いに楽しむ。さながら祭りの様相を呈することもあるようである。生真面目な武術家も、比武においては耳目をひきつけることに躊躇はしないものである。なんとなれば、比武で勝つことこそ、武林における最も名誉な行為だからである。
とかく血なまぐさいものとして秘されがちであった武術は、比武によって人々の親しむところとなり、武林はその裾野を大いに広げて発展を遂げた。比武なかりせば、今の武林の姿もなかったに違いない。シキョウとスイメイの全土を股にかけた追跡劇はただ民話の題材たるに留まらず、大延国武林の根幹として息づいているのである。
但し書き
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また、以下のSSの記述を参考としました。
【続・その風斯く語りけり】
- 誰かに師事している限りはシキョウはスイメイに勝てない。ふと思った -- (名無しさん) 2013-10-09 02:41:45
- シキョウとスイメイの各地での戦いが後の世に武の明るい印象を広めたのかなと。片や強さをひたすら求め純粋に武を研ぎ澄ませる者もいるんだろうなと思いました -- (名無しさん) 2014-06-29 17:22:16
- シキョウとスイメイにサラブレットが被って見えるがスイメイには野性味を感じた。比武にはところ構わずながらも礼節を重んじる精神の根幹のようなものを見た -- (名無しさん) 2014-07-18 23:14:35
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最終更新:2012年05月07日 02:05