【清霞追風録・投声穿霧】

 霧にけぶる森の中を、一人の狐人が歩んでいく。
 さくさくと音を立てて枯葉を踏み、悠然と歩みを進めるその足取りは確かである。日が昇ってからいくらも経たぬ早朝の事、冷たい大気は人影にまとわり付いてその軽装を湿らせる。だが人影は頓着しない。無造作に紐でくくった髪を揺らし、毛並みの整った耳をつんと立てるさまは颯爽を絵に描いたよう。鋭いまなこは圭岳の氷河のように冷たく透き通って一点の曇りもなく、血色のよい口元は一文字に結ばれて確かな意志の強さを感じさせる。履剣に股引と男のような装束をまといながら、豊かな胸元を隠し切るには至らない。主張しすぎないながらも確かな存在感を発揮する全身の艶やかさを覆うのは、薄氷のように冷ややかな所作。恐ろしいほどの美形である。
 狐人の女はしばらく歩みを進めると、やおら足を止めた。女がこの森に入ったときとなんら代わり映えのせぬ景色である。女は何故足を止めたか――その答えが、女の背後で風を切った。どこからともなく放たれた金票は立ち込める薄霧を切り裂いて、女へと迫った。
 水面が渦を巻くように、女の体が旋回した。
 その身が動きを止めたとき、手には金票が掴み取られている。女は眉を潜めると、票の飛来した方向にちらりと眼をやった。かと思うと、女はまったく見当違いの方向に票を擲った。
 どさり、とどこかで何かが落ちた。
『――いててて、よく当ててくれるじゃねえか。普通は飛んできたほうに投げ返すもんだろ?』
 どこからともなく男の声が響く。心からの驚きともはたまた面白がっているとも取れる声音である。女は鼻を鳴らすと、ため息をついて首を振った。その顔に浮かぶのは、紛れもない呆れである。
「今のは『河児回投』。投げ方を工夫する事で軌道をまげて居場所を見誤らせる礫山派の技だ。前に一度、ほかならぬお前が使っていた。同じ技は二度も効かん。いい加減学べ」
『生憎、こちとらそんなに物覚えはよろしくないんでね。そら、どこかの誰かさんが頭を散々ぶちのめしてくださったおかげで』
「潔く負けを認めていれば、無用に打ち据えたりなどしない」
『だから俺が悪いってかい? 負けを認めず勝ちに拘るってのはそんなにまずいことかねえ』
「実力が伴わなければ、時間を無駄にするだけだ」
『言うねぇ。ますますお前を倒す日が楽しみになってきたぜ、スイメイ師』
 女がわずかに顔をこわばらせた。
「シキョウよ、子供じみた物言いは止めていい加減大都へ戻れ。皆がお前を待ちわびている」
『そんなになり手がいないかよ。皇帝ってのも案外人気ない商売だったってことかねぇ』
「ふざけている場合か。これは国事なのだ。お前の意思など関係ない」
『いやいやいや、どうあってもこればっかりは押し通させてもらうぜ。俺はお前を倒すその時まで都には帰らねぇ。何べん言ったかもう忘れたぜ、これ。いい加減覚えてくれよな』
「ならこちらも言わせて貰うが、どれだけ時間を掛けようが、いかなる技を学ぼうが、わたしに勝てぬことをそろそろ思い知ってもいい頃合だろう。わたしもそろそろお前の敗北を数えるのも飽きてきた」
『へっへ、ならせいぜい楽しんでくれよ、今日はお前が敗北を数える番だ!』
 がさり、と木の葉を踏みしめて、木立の向こうで何かが動いた。


 かつて、延国全土から集めた武芸者を師としてありとあらゆる武術を身につけた男がいた。名はシキョウ、後の大延国七十五代皇帝である。
 その天稟をもって武芸百般を窮めたシキョウであったが、ただ一人、どうしても打ち破れぬ相手がいた。名はスイメイ、後に永代剣聖の一人としてたたえられる剣の達人である。
 これを不服としたシキョウは、皇位継承権を放棄して出奔、全国に散らばったかつての師のもとをめぐり、スイメイを打ち倒す技を見出そうとした。対するスイメイもまた、摂政から任を受けてシキョウを連れ戻す旅に乗り出した。
 かくして、大延国中をまたにかけた追跡行が幕を上げたのである。


 瞬き一つ、スイメイの手は佩剣に伸び、抜き打たれた刃は飛来した礫を過たず受け止めていた。ただ打ち返すのでもなく、切り落とすのでもなく、まるで刃に吸い付けるようにして勢いを殺す絶技である。礫を足元にどさりと落とし、スイメイは首を傾げて見せた。
「それで?」
 返事は全く別方向から飛来する礫である。四方八方、まるで何人もの投げ手がスイメイを押し包んでいるかのように、ありとあらゆる方角から雨あられとふりそそぐ攻撃に対し、しかしスイメイは顔色一つ変えない。岩の間を流れる清水のように滑らかに身をかわし、時折思い出したように礫を受け止めては、つまらなさそうに林の中へ投げ返す。そのたびに、ぴしり、という石と石とがぶつかりあう音が響き、シキョウが悪態をつく。
『おいおい、どうしてこっちの居場所が分かる?』
「軌道を曲げても無駄だと言ったはずだ」
 スイメイが動いた。枯葉を踏みしめ、木立の中を迷いなく駆ける。飛来するつぶてをものともせず、水面から飛び出す魚のように空中に身を躍らせると、一本の木立めがけて剣を突き出した。切り裂かれた樹皮がぱらぱらと剥がれ落ち、巧妙に隠されていたうろが姿を現したが、中身は空である。着地したスイメイは怪訝そうに眉をひそめた。
『生憎だったな、はずれだ。そりゃ鳥用の罠だよ。元に戻しとけよな』
 弄うような声とともに、折り取られた枝がまるで矢のように降り注ぐ。その全てをたやすく撃ち落し、スイメイは再び森の中を駆け抜けた。樹を一刀の元に切り落とし、地に刃を突きこみ、枝に飛び乗ってはあたりに視線をめぐらす。そのいずれも、シキョウを捉えることはない。いつしかつぶては鳴りを潜め、山彦のような呼び声だけがスイメイをもてあそぶように響き渡るばかりである。
 ついにスイメイは足を止め、剣を鞘に戻していた。
『そらそら鬼さん、手のなるほうへ、だ。もう飽きちまったかな?』
「……また妙な手管を覚えたか」
『おっと、この技を侮辱するのは止めてもらおうか。これは投声術っつってな、元はこのあたりの狩人たちの技だったそうだ。風霊の力を借りて違うところから聞こえているように見せかけ、獲物を追い詰めるってわけだ。この通り、自分の居場所を隠すにも使えるけどな。お前が見当違いの方向に投げ返してるのは愉快な眺めだったぜ。俺の当てられたふりに騙されてるところもな』
「それがどうした。ただ逃げて隠れて、それで私に勝ったつもりか」
『当座はそれでいいかもな。俺の目的はお前にぎゃふんといわせることだし、お前はお前で俺を連れ帰れなきゃ負けみたいなもんだろう? 見つけられなきゃどうして捕まえられる? もちろんいつの日かはお前を剣で叩きのめしてやるつもりだが、それはしばらくお預けだ。怪我もしてるしな。誰かさんのおかげで』
「……何のことだ」
『とぼけなさんな! 前あったときに河に追い落としただろうが!』
 スイメイの眉が困惑にゆがんだ。対照的に、あたりには怒気が満ちた。
『まさか覚えてないとか言うつもりじゃないだろうな!』
「ひょっとして易河でのことか? あの程度で怪我するほどやわでもないだろう」
『冗談抜かせ! 増水してたんだぞ、それも雪解け水で! こうして生きているのが奇跡だね』
「それは日ごろの修行が足りないからではないのか。鍛えていれば、多少泳いだぐらいで音を上げたりしないものだ。それに、仮にも皇帝の血を引くのだから、河伯にでも助けを求めればよかっただろう。大騒ぎするほどのこととは思えないが」
『……もういい。お前に文句を言った俺がバカだった』
「気を悪くしているなら謝ろう。配慮したつもりだったのだ。あれだけ無様に負けたのだから、頭を冷やす時間を与えたほうがいいと思ってな」
『負けてねぇよ! ただちょっと足が滑っただけだ』
「好きなだけ言うがいい。とにかく、頭を冷やすのに川の水はお誂えむきだと思ったので放っておいたのだ。まさかそのまま逃げ去るとは思わなかったが」
『あれは逃げたんじゃねえ! 流されたんだよ! ちょっと間違えればそのままミズハミシマあたりまでいってたかもな! 考えてみりゃこれまでだってずいぶん粗末に扱ってくれてきたじゃねえか、それでも俺を捕まえにきたって自覚あるのか』
「それもそうだな」
『お、反省したか?』
「無駄話は良くない。さっさと捕まえてしまうとするか」
 スイメイが手を差し伸べ、虚空をゆっくりとかき混ぜた。



『何のつもりだ?』
 スイメイは答えず、ただ手を動かす。徐々に全身の動きが加わっていく。水気を含んだ大気が渦を巻き、寄り集まって徐々に濃度を増していく。日はすでに地平線に姿を現し、差し込む日差しは大気を暖めて澄み通らせはじめる時間である。にもかかわらず、スイメイの周りでは霧は薄れるどころか、むしろじっとりとした質量すら帯び始めているようである。スイメイの得意とする水の精霊魔法によって、周囲の霧がスイメイの周りに集結しているのだ。言葉による呼びかけすらなく、小さな動作だけでそれを行ってみせるのは、スイメイの卓抜した水功によるものである。
 瞬く間に視界をぼやけさせるほどに濃くなった霧の中心で、スイメイは佩剣に手をかけると無造作に引き抜いた。悠然とした動作で舞を続けるスイメイが、ときおりさっと剣を突き出す。びいんという音とともに霧が破れ、スイメイの姿をあらわにする。『破流一点』、こめた気によって流水にすら穴を穿つ剣術の絶技である。シキョウすらもその技に当てられて押し黙り、枯葉を踏みしめるさくさくとした音だけが響く。
 ひとしきり型を披露したのち、スイメイは再び剣を収めた。
 手を打ち合わせる音が、スイメイの周り中から押し寄せた。シキョウによる投声術である。大観衆のそれとまごわせるばかりの大喝采が止むと、シキョウが感服したようにため息を漏らした。
『いやいや、お見事。さすがはスイメイ師だ。眼福がんぷ――』
 だが賞賛の言葉も途中で途切れた。スイメイが佩剣を外して地に置くと、やおら衣を脱ぎ捨て始めたためである。
『おい、ちょっと何を』
 シキョウにとめる暇もあらばこそ、スイメイは次々に衣を脱いでいく。同時に霧が濃さを増し、スイメイの姿はあっという間に霧の中に覆い隠された。朝の清冽な光の中で、スイメイの輪郭だけが影を落としてあらわである。と、スイメイが剣を拾い上げた。
『おい、ちょっとまて、まさか』
 スイメイが再び型をなぞり始めた。素早く動き回るスイメイが剣を突き出し、『破流一点』。あられもない姿の片鱗がさっと見えては再び霧の向こうに隠れて消え、再び別の穴が霧に穿たれる。まるで芳しからぬ見世物のような有様に、先ほどとは明らかに異なる緊張感が大気に満ちる。再びスイメイがさっと剣を突きだそうとしたとき、ひびいた声音は泡を食っていた。
『お、おいそろそろ止めろって、お前何考えて――』
 スイメイの動きが瞬く間に変質した。
 気合とともに両腕に力を集め、ひねりを加えたそれを剣に乗せて擲つ。『衝河推岩』。本来は掌術の技法であるが、スイメイの手に掛かれば剣を打ち出す投擲の技へと変化を遂げるのだ。
 剣は矢のように飛び、過たず何かに突き立った。押しつぶされた蛙のようなうめき声が、剣の根元で上がった。



 服を身につけ、腕を振って霧を晴らしたスイメイは、悠然とした足取りで剣を飛ばした先へと向かった。
 一本の樹のもとで足を止め、上を見上げてため息をつく。視線の先にあるのは、衣の首元を剣でつなぎとめられた狐人の姿だ。狐人――シキョウはぽりぽりと頭をかくと、精一杯の呆れ顔を作って歯をむき出した。
「ちぇ、なんだよさっきのあれは。脱ぐのが趣味とは恐れ入ったぜ」
「別に趣味ではない。声は如何様にも曲げられよう。だが視線は別だ。見えているなら、視線が通っているのは明らかだ。ああすれば、お前が何を見ているのかが分かる。何が見えているのかが絞れれば、居場所が分かる。居場所さえ分かれば、お前を捕らえることなど造作もない。そういうことだ」
「たったそれだけのために脱ぐかよ」
「どうせお前しか見ていない。さあ、行くか」
「やなこった。俺はここでしばらく休んでいくことにする。ここはいい眺めなんだ」
「意地を張るな。子供か」
「子供でけっこう。それに、ここの師父に勝負の顛末を報告してからでないとな。負けました、投声の技に泥を塗っちまいましたってわけだし、お叱りを受けてからじゃないと礼を失うってもんだ。そうだろ」
「それはそうかもしれないが」
「そういうこった。だから、今日のところはお引取り願おうかな。気が向いたらまた相手してやるよ」
「――抵抗するなら多少手荒な真似をしてもよいと言われているのを思い出した」
「おおこわ」
「ふざけるな。下らん言い訳ばかりして時間稼ぎでもしてるつもりか」
「半分正解だな。実はもう少しばかりここにぶら下がってたい理由があるのさ」
「なんだ」
「言っただろ、いい眺めだって。ここからだとな、お前の谷間がぎりぎり拝めるんだ」
 スイメイが絶句し、自らの姿に眼を落としてさっと自らの胸元を庇う。と、その足元に剣が投げ落とされて突き立った。はっとなったスイメイが顔を上げたときには、シキョウの姿は消えうせている。どこからともなく投げられた声が、スイメイの周りにまとわりついた。
『相変わらずよくわかんねえな。見られていいのかいやなのかはっきりしてくれよ』
「下卑たことを言うな。この程度恥じるものか」
『その割りにゃさっきの面はずいぶんな見ものでしたがねー。じゃ』
「シキョウ! 逃げるのか!」
『ああ、師父にご挨拶申し上げた後にな。じゃまた会おうぜ。今度は負けないから覚悟しとけよ』
 高笑いが森に木霊し、シキョウの気配は消えうせた。
 ただ一人残されたスイメイは唇を噛み、剣を拾い上げると一振りして露を落とした。鼻を鳴らしたスイメイの表情が常ならぬ様にゆがみ、剣を鞘に収めてため息をつく。
「――また逃げられたか」
 スイメイは肩を落としてその場を後にした。霧も晴れわたり、さわやかな朝の空気が森に満ち始める。目覚め始めた鳥たちの鳴き声を耳にするほどに、スイメイの渋面もわずかに緩んだ。このときのスイメイには知る由もないことだが、彼女の旅はまだまだ道半ばである。


(了)

 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
 独自設定についてはこちらからご覧ください。
 また、以下のSSの記述を参考としました。
 【続・その風斯く語りけり】


  • 武技武侠がしっくりくるアクションSSでした。シキョウとスイメイをすぐに進展させないのも上手いと思った -- (名無しさん) 2014-05-07 23:18:40
  • 身分を越えた師弟関係と純粋に勝負の中にある二人の無邪気さが楽しいですね。研ぎ澄まされた剣や凛と咲く武の花というのをスイメイに重ねるひと悶着でした -- (名無しさん) 2014-07-20 19:12:15
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最終更新:2012年05月16日 22:20