【灰河伯の娘】

 灰河を下る旅の途中で、ちょっとしたトラブルに見舞われた。
 驚いたことといったらなかった。大延国は治安のよい国だと聞いていたし、それまでの気まま旅路での経験もそれを裏打ちしていた。旅に同行させてもらったコウという名の塩客という運送業者は気さくなうえに有能で、旅慣れない異世界人を連れているというのに面倒がることもなく、ゲートの街から私を連れ出して守ってくれていた。獣貌の人々とふれあい、料理に舌鼓を打ち、地球とは異なる文化に包まれて眠る時には、確かに異世界に来たのだという充足感を感じることが出来た。そうして灰河のたもとに到着し、小船を借りて気ままな河くだりが始まってみると、ゆっくりと流れていくあたりの光景を写真に取ったりして過ごす時間のなかで、せわしく追い立てられていた地球での暮らしでささくれた心が癒されていくようだった。
 とは言え、少々退屈していたことも否めなかった。
 トラブルに巻き込まれたことのない旅人のご他聞にもれず、私も内心では平穏な旅をかき乱してくれる何かを期待していた。もちろん口には出さないし、それどころか意識に上らせることもなかったが、後から振り返ってみれば、私は確かに何か印象的な出来事が起きることを願っていた。
 だから、それが河の中から姿を現したとき、興奮しなかったといえば嘘になるだろう。能天気極まりないと思われるかもしれないが、私としては無理もないことだったと言い訳したい。なにしろやってきたトラブルは、命を奪うような危険を秘めているわけでもなければ、うんざりするような面倒ごとでもなかったのだから。


 最初に気がついたのはコウだった。竿を操っていたコウはやおら手を止めると、犬耳をピンと立て、風のにおいをかいで眉をしかめた。
「旦那、ちょっと」
「何事ですか」
「一応何かに掴まっといてくれますかね。まあ、振り落とされるようなことはないと思うんですが」
 コウの言っている意味をはかりかねて、私は空と川面を見比べた。青空の下では灰河が今日も穏やかに流れている。大延国を流れる大河の中でも灰河は比較的小さな河であるということだったが、それでもこうして河の中央から眺める岸はかなり遠い。旅の途中には行きかう船に手を振ることもあったが、今この場にいるのは我々だけのようだった。平和をかき乱したり、船を揺さぶって中身を振り落としたりするような存在は見あたらないが、それでもコウは険しい表情を崩していなかった。
 と、突然それがやってきた。
 確かに揺れは少なかった。船の進行方向の水面が突然渦を巻いたかと思うと、そこから何かが飛び出してきて私たちの船めがけて突き進んできた。水を掻き分けて進む何者かが水中にもぐりこんで船の周りを一周すると、船はがくんと止まった。
 水中の何者かは再び船のへさきに戻ってくると、それはするすると水中からせりあがってきた。
 犬人の少女の姿をしていた。飾り気のない灰色の衣を身につけ、少年のように短い髪の下ではつぶらな瞳がくるくると動いている。自信に満ちた笑みを口元に浮かべながら、腰に差した剣の柄をぽんぽんとたたいている。少女は当たり前のように水面に立っていた。その事で、当たり前の存在ではないということが知れた。
 少女は掌を突き出すと、高らかに言った。
「止ま――」
「灰河伯のご息女、蒼露公主とお見受けします! 白狼幇のコウ、ならびに異人から公主にご挨拶を申し上げます!」
 何事かいいかけた少女をさえぎって、コウは右手を左手で包むと頭を深々と下げた。私も見よう見真似で頭を下げると、調子の狂っていた様子の少女はひらひらと手を振った。
「ああうん、丁寧なご挨拶痛み入る。それでその、止まれ」
「止まっております」
「そうか。よし、止まったならいいんだ」
 蒼露公主と呼ばれた犬人の少女は満足げにうなずくと胸を張った。幼い顔立ちに似合わず豊満な胸が着物を押し上げていたが、当人にはそれを意識している様子はない。
「私はこの河を治める灰河伯の娘、蒼露公主である。ここを通りたければ貢物を出せ。さもないと通ることはまかりならん」
 厳めしい調子で口上らしきものを述べた少女だったが、所作のそこかしこからは天真爛漫さがにじみ出ている。コウの反応から、どうやら敬うべき存在らしいということは分かっていたが、それでも私はこらえきれずに笑みを漏らしてしまった。
「――おい、何がおかしい」
 そのことが、少女に見咎められてしまった。私はあわてて表情を取り繕ったが時すでに遅し、公主は水面を踏みしめて怒り心頭と言ったご様子だった。
「今の何がおかしいんだ! 私はきちんと言うべきことを言ったぞ! いい間違えたりなんかしていない!」
「おっしゃる通りでございます」とコウが合いの手を入れる。
「だったら笑う理由がないだろうが。それともなにか、日ごろからわけもなく笑っているのかお前は」
「申し訳ございません」とコウが私に目配せしながら頭を下げ、私も習った。
「いや、別に笑うのは構わんのだ。日ごろから笑顔が絶えない暮らしなんて中々素敵ではないか。ただ人をバカにするために笑うのは許せんと言いたいのだ。私は何か間違ったことを言っているか?」
「おっしゃる通りでございます」とコウ。
「ではもう一度聞くぞ。そこのお前、お前は私をバカにしているのか、いないのか、どっちなんだ」
「――全く馬鹿になどしておりません」
「そうか。ならいいんだ」
 水底に石が沈んでいくように、公主の顔からさっと怒りが消えうせた。見た目にたがわず、からっとした心の持ち主であるらしかった。
「ええと、それで何の話だったかな」
「貢物がどうとか」
「ああ、そうそう、貢物だ。貢物をよこさないと、ここから先は進ませてやらないぞ」
 貢物みつぎものと繰り返すその様子はいかにも嬉しそうである。
「あの、貢物とは具体的にはどういった……」
「そんなことも知らないのか。あのな、貢物と言うのは身分の高い人に贈り物をすることを言うのだ」
「それは知っていますが」
「じゃあなんで聞くのだ? 変なところで笑ったりもう知っていることを聞いてみたり、色々おかしな奴だなあ」
 心底呆れたように言う。私は努めて笑わないように表情を引き締めると、コウに助けを求めることにした。心得顔のコウはうなずくと、しゃちほこばって公主に頭を下げた。
「申し上げます。この男は異世界からやってきた旅人でございまして、この地のしきたりなどには疎いのです」
「異世界?」
「左様でございます。ですから失礼な振る舞いが多々見られるかもしれませんがそこはなにとぞご容赦――」
「ああなるほど! 見慣れない顔立ちだなあと思ったら異世界から来たのか! そうかー異世界かー」
 コウの言葉を、公主の素っ頓狂な声がさえぎった。公主は水面をとととっと歩むと、無造作にこちらの船に乗り込んできた。そのまま私の顔に手を伸ばすとぺたぺたとなで、耳をさわってくる。公主の指は不思議に冷たく、思わず声を上げると公主は驚いたように手を引いた。そのまま後ろに回って私に尻尾がないことを確認すると、公主はふたたび水面に降りてへさきに寄りかかった。
「卵貌なんて初めて見たなあ。父上のお話に出てくることはあったのだが、現物を見るのは初めてだ。本当に卵のような顔なのだなあ。それで異世界から何しにきたのだ?」
「このものは物見遊山にきたのでございます。灰河の美しさに心打たれ、河を下りながら景色を堪能したいということでして」
 揉み手をしながらしきりと目配せしてくるコウにあわせて、私は大きくうなずいた。何より、美しい河だと感じていたことは事実だったから、変に嘘をつく必要もなかったのだ。
 公主の機嫌は見る見る上向いた。
「そうかー。そうだな。綺麗なものを見に行く旅っていいものだよな」
「灰河の美しさは古来より詩人の詠うところです。かの大オウテンの『断灰』などは、私などがわざわざ申し上げるまでもなく」
「そういえばそんな詩もあったな。父上のお気に入りなんだ。この先の大岩に刻んであるから見ていくといいよ。私には意味が分からない詩だけど。異人は字は読めるのかな?」
「躍書でございますから、異人でも読むに支障はないかと」
「そういえばそうだったな。実を言うとあんまり真剣に読んだことはないんだ。何しろ意味が分からない詩だからな。灰河とは全く関係のないことが書いてあるようにしか思えないんだ、あれ」
「詩神の霊感というものは、時に理解しがたいものでございます」
「お姉さまたちも同じこと言ってたなあ。あれは絶対分かった振りしてるだけだとおもうんだが、それを言ったら怒られるからな」
 公主はころころと表情を変えて、一時もじっとしていない。そのようすを眺めているだけでも時間が経つのを忘れてしまいそうになる。そうこうしているうちに、少女がどういう存在なのかが気になってきた。水面を歩き、水を操る彼女は、河を支配する何者かの娘であるらしい。コウは事情をよく知っているようだが、余計な事を言わせて揉め事を起こさせまいとしているのか、私に発言権を与えないように心を砕いているように見える。
 もちろん、余計なごたごたを避けるやり方としてはそれが正しいのだろう。だが私には面白くなかった。何より、私は刺激を求めていたのだ。
「公主様、あの、質問が」
「なんだ?」
「公主様は一体どういうお方なのですか?」
「うん?」
 公主は虚を突かれたような表情になった。横でコウが泡を食ってしきりに目配せをしてきたが、私は勤めてそれを無視した。
「ええと、私はこの灰河の河伯の娘だ。蒼露公主と呼ばれている。これ、さっきも言ったと思うんだが」
「聞くには聞きましたが、意味が分からないのです。なにぶん、私は異人ですので」
「ああ、そうか。お前は同じことを何度も聞く変なやつだと思ってたけど、ちゃんと理由があるんだな。なんだ、意味が分からないなら何でも聞いていいんだぞ」
「ありがとうございます」
「そうだな、どこから話したものか――ひょっとして、異世界には水がなかったりしないだろうな? あのな、水と言うのはこの船の下で流れてるもののことで――」
「水はあります」
「じゃあ河は? 河と言うのはこの船の下で流れてるもののことで」
「河もあります」
「じゃあ何が分からないんだ……」
 耳をぴょこぴょこと動かして、公主は思案顔になった。そこにコウが申し訳なさそうに割り込んだ。
「公主様、異人はおそらく『河伯』のなんたるかを知らないのです。私の説明不足でして」
「ああ、そこか。異世界には水も河もあるけど河伯はいないということか。すごいな、治める河伯のいない河なんて一体どうなってしまうんだ。そんな河には本当に水が流れてるのか?」
「河伯というのは、河を治めるひとのことなのですか?」
「そうだ。あ、人じゃないぞ。精霊だ。河全体を統べる水の精霊のことを河伯というのだ。どんな小さな河にもいるし、場合によっては湖や池なんかにも支配が及んでいることもあるんだぞ」
「ははあ。では公主様の父上はこの河を治めていらっしゃるわけですか」
「そうだぞ。稜山と黄嘴岳の間から最初の一滴が流れ出したその時から、ずーっとこの河の主は父上だ。私は後から生まれたからその辺の事は詳しくないんだけどな」
「そうなのですか」
「うん。だがわからないからと言って父上に直に聞こうなんて考えたりするなよ。父上は私と違ってものすごく気難しいからな。きっと異人でも容赦しないぞ。」
 私は灰河の川面に目をやった。河の流れは穏やかそのものだ。流れの具合と支配者の気性とは無関係なのかと考えていると、公主が笑った。
「今は丸くなったほうだよ。以前はことあるごとに大荒れで大迷惑だったんだ。人の子と上手くやっていけるようになったのはここ最近のことだよ。それに、心配しなくてもいい。父上が人の子の前に顔を出したりすることなんてめったにないから」
「」
「私は別に。人の子に迷惑かけたりするつもりもないしな」
 公主がまた胸を張った。得意げなその様子を眺めていると、ふと小さな意地悪をしたいという衝動が湧き上がってきた。旅の途中ならではの開放的な気分に乗って、私は自分でも少々無作法かもしれないと感じるような言葉を投げた。
「しかし、公主様は貢物を要求していらっしゃるではありませんか。それは迷惑行為ではないのですか」
「へ? え、え、そうなのか?」
 公主の目がぐるぐると回った。慌てふためいた様子の公主は神妙な顔つきになると首を捻った。
「そんなに迷惑だったのか……? だって高貴な人に贈り物をするのは当たり前のことじゃないか……それに大したものじゃなくていいんだぞ。その……うーん」
「おっしゃる通りでございます!」
 コウがあわてた様子で割り込んだ。
「この河を安全に通行できるのは河伯のご恩あってのこと! 感謝の気持ちを表すのは当然のことでございます! 旦那、いくらなんでも今のはちょっと」
「そ、そうだよな。あのな異人、物知らずはまだいいけど恩知らずは嫌われるぞ」
「全くその通りです。知らなかったこととは言え、大変な失礼をしてしまいました。お許しください」
 私は素直に謝った。公主の曇り顔がぱっと晴れた。
「わかったならよし。さて、じゃあ貢物をくれ」
 何を贈るべきか、しばらく迷った。身分の高い人に贈れるような代物など何も用意していなかったからだ。だが、コウが助け舟を出してくれた。
「公主様、この異人は真に迫った絵をつくることができます。何でも写真というとか。出来ますよね、旦那」
「へ? なんだなんだ、絵描きなのか」
 確かにその手があった。私はカメラを取り出すと、公主に向けて何度かシャッターを切った。そのまま印刷用に持ってきておいた小型のプリンタにつなぎ、写真を印刷すると、あっけに取られた様子の公主に差し出した。
 公主の反応は劇的だった。
「わあ、なんだこれ。これ私か。うわー、なんだこれ今描いたのか? すごいなあ異人は!」
 水面をぴょんぴょんと跳ね回り、写真と水鏡を見比べては確かに私だと悦に入っている。なんとも嬉しげなその様子に、私は笑みを押さえられなかった。横で胸をなでおろしているコウに小さく頭を下げると、私は公主に声を掛けた。
「気に入っていただけて何よりです」
「いや、こんな絵は初めて見たぞ。すごいなあお前は。おや、でも待てよ。これ紙か。ひょっとして水につけたら駄目になるかな」
「ずっとつけていれば」
「そうか……なあこれ石に刻んで描き直すというのは」
「出来ません」
「だよなあ」
 不満げに眉をしかめた公主は、しかし程なく愁眉を開いた。
「まあいいや。だめになるまでは大事に持っておくさ。いい贈り物だ。大変気に入ったので通行を許す」
「ありがとうございます」
「そら、行くがいい」
 がくん、と船が揺れた。それまで止まっていた船の周りの水の流れが、緩やかに動きを取り戻し始めていた。
「お前は無礼だけど楽しかったぞ。あんまりお守に迷惑かけないようにしろよ」
「そうします」
「それでは、さらばだ」
 すとん、と落ちるように、公主は水面下に姿を消した。コウが肩を落としてため息をついた。


 日が沈み、船をいったん離れてそばの村に宿を求めたあたりで、コウにはこっぴどく怒られた。
「旦那、一応うちの白狼幇は河伯とのつきあいにそれはもう注意を払ってやってきてるんですよ。そこを台無しにされるとこちとら商売あがったりでね」
 さすがに気がとがめて、私は懸命に謝った。なおもくどくどと
「まあ、出てきたのがあの公主様でよかったですよ。あのお方は灰河の水精の中でも飛びぬけて気性の優しい方ですから」
「そうなんですか」
「灰河は暴れ河だったんでさ。何度も水害を起こした難儀な河だったそうで。流れのそばじゃとても言えませんがね」
 コウが肩をすくめた。
「そこをなんとかなだめすかして今みたいな静かな河にしたてあげたんでさ。うちの幇会の創設者もその作業に一口かんでて、そのおかげで今でも子孫がこの辺で塩客なんかやってられるわけでしてね。だから、うちじゃ灰河に対して礼儀を欠くなんてことがあっちゃまずいんです」
 まずいことをしましたと、私はもう一度頭を下げた。
「まあでも、私も公主にお目にかかったのは初めてですよ。たまーに出てきて貢物を要求するらしいなんて話は一応聞いてたんですがね。そ言う意味じゃ、旦那は運がよかったのかもしれませんね」


 その後の旅は特に変わったことも無く過ぎた。
 復路も同じ道をたどったが、公主が姿を現すことはなかった。そのまま地球へと戻った私の手元に残っているのは、カメラのメモリに残る公主の笑顔だけだ。また延国へ行くべきだろうか。もしそんなことがあれば、今度は防水仕様の写真が取れるような用意をしていこうと思う。そんなものがあるのかどうかは別として。

終わり

 但し書き
 文中における誤り等は全て筆者に責任があります。

  • 情景と個々の動きが合わさって場面がすぐに目に浮かぶ。丁寧な描写からもファンタジックな世界の様子が伺えた -- (とっしー) 2012-10-14 18:45:27
  • >幼い顔立ちに似合わず豊満な胸が着物を押し上げていたが の一文に行くまでの前振りが秀逸でなんですかねそのおっきしましたよ -- (tosy) 2012-10-15 13:27:15
  • 異世界と地球との考え方や常識の交錯とくどくなり過ぎない台詞の掛け合いが楽しい水面 -- (とっしー) 2012-10-16 02:13:19
  • 大延国の秘境辺境を巡る旅って物凄い魅力的なコンテンツだ -- (としあき) 2012-10-21 16:14:50
  • 闊達で無邪気な公主のキャラクターが魅力的。喜ぶ顔が見たくてあれこれプレゼント、もとい貢物を献上したくなる -- (名無しさん) 2012-10-30 21:08:30
  • 大延国式の生活文化が満遍なく表現されている。獣人の国というのもよく分かる。専門用語に近いものはまとめを参照かな? -- (名無しさん) 2013-02-16 18:11:38
  • 誰かがちゃんとした河のヌシ教育をしてあげるべきだったんだ。文明のリキの威力は異世界では絶大だ -- (名無しさん) 2014-06-05 22:50:50
  • 塩客の慣れた応対は頼もしさを感じますね。最初から最後まで蒼露の背伸びしている感じと純真さが微笑ましかったです -- (名無しさん) 2015-03-05 06:14:50
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最終更新:2012年10月08日 00:19