両津勘吉と別れたあと、鵺野ことぬ~べ~は森の街道の脇にある茂みに身を隠し、ここを通るであろう者を待っていた。
両津によるとその者はぬ~べ~の五倍の戦闘力だという。
もしも、その者と戦闘になれば間違いなく自分の命は無いだろう、とぬ~べ~は思う。
自分の命を奪うかもしれない人物を待つ、そんなことをしている己に呆れて笑うぬ~べ~。
本音を言うと、今すぐにでもこの場から逃げ去りたい、今すぐ両津を追いかけたい。
しかし逃げるわけにはいかない。もしゲームに乗っている者ならなんとかしなければならない。
放っておけば、必ず被害者が出る。彼の生徒、
稲葉郷子のように。
もう彼女のような人間を増やしてはならない。そのためにも残って食い止めねば。我が身を賭して。
(…!!!遂に来たか!)
向こうから男がやってくる。最初はぼんやりしていて男の姿ははっきりと分からなかったが、
こちらに近づくにつれ、男の容貌がはっきりと見えるようになった。
男はガクランで、胸は肌蹴ており、腰にサラシを巻いてる。とても学生には見えない。
更にその男の顔には両頬に三本づつ傷が入っており、それが一層近寄りがたい空気を生み出している。
しかしぬ~べ~はその男の容姿より、男が持つあるものに視線を奪われていた。
(あれは…首さすまた!!!)
そう、それは先刻別れた同僚の妖狐、玉藻が愛用していた首さすまたであった。
そして、首さすまたを所持しているということが何を意味しているのかも。
(あいつが…玉藻と争った男か。)
ぬ~べ~は考える。玉藻が話していた男の特徴と、今、眼前にいる男の特徴が一致している。ならばどうするか。
玉藻が言うにはこのゲームには乗っていない、とのこと。
しかし玉藻との戦闘によって男の行動方針が変更されたことも考えられる。
…このゲームに乗ってしまっているかもしれない。
あの玉藻を軽くあしらった男だ。俺も相手にはならないだろう。あのスカウターの値も納得できる。
一瞬、わが耳をぬ~べ~は疑う。馬鹿な、物音一つ立ててはいない!
それなのになんで俺がいることが分かってしまったんだ!
「出てこないならそれでも構わないぜ…ただし、ただで済むとは思うなよ」
ぬ~べ~の疑問が解決しないうちに男が言葉を続ける。男の言葉に従わなければ間違いなく戦闘になる。
いや、待っているのは死のみ。
ぬ~べ~は己が取れる選択は男に従うのみだと悟り、しぶしぶ姿を男の前に晒した。
「…ずいぶん妙な手をしているな」
「…!」
ぬ~べ~は驚愕する。ぬ~べ~の左手は鬼の手と呼ばれ、通常、霊力のある人間にしか見ることは出来ない。
ただ、それはこの世界では異なっていて、通常の人間でも見ることが出来るのであった。
しかし、そのことをぬ~べ~は知る由もない。
「妙に感覚が鈍いこの世界でも、てめえのようなド素人なら簡単に見つけられるぜ。
フン、まぁそんなことはどうでもいい。てめえはこのゲームに乗っているのか?」
ぬ~べ~は首を横に振る。声を出して答えようとするが言葉を忘れたかの如く声がでない。
蛇に睨まれた蛙とはこのことだろう。ぬ~べ~は完全にこの男の雰囲気に飲まれていた。
「貴様はこの男達を知っているか?」
男が淡々と質問を続ける。どうやら男はぬ~ベ~自身には興味がなく、情報のみを求めているようだ。
男が尋ねた男達とは無論男塾の面々であったが、ぬ~べ~は知るはずもない。
静かに沈黙を続けるぬ~べ~を見て察したのか、男は再び歩みだし、ぬ~べ~の横を通り過ぎた。
(何をやっているんだ俺は…これじゃ両津さんと別れてここに残った意味がないじゃないか!)
ぬ~べ~は己を恥じる。いくら恐怖に飲まれていたからといえ、これでは情けないを通り過ぎて惨めだ。
いくら命のやりとりをしたことがあるぬ~べ~でも、それは除霊行為の延長上のものであって、
今回のような人間同士の、純粋な殺し合いとはまた異質なものである。
全く初めてと言ってもいい、殺し合いの中で恐怖を感じるのは当たり前なのだが、
今のぬ~べ~にとってはそれすらも恥に思えるのだ。
「…ま、待て!!!」
意を決して男を呼び止める。男は歩みを止めると静かに振り向き、まるで射殺すのような眼光を向けた。
「ほう、言葉を発する勇気があったか。どうやら腰抜けじゃないらしい」
男は口元に笑いを浮かべながら冷ややかに見つめている。その視線に耐えながらぬ~べ~は言葉を続ける。
「俺の名は
鵺野鳴介、小学校の教師だ!あんたの名は?」
「…」
男は目を伏したまま、まるで興味のないかのように沈黙を続ける。
対してぬ~べ~は一言発するたびにますます必死の形相になり、恐怖に負けないよう自身を奮い立たせていた。
「あんたは…ゲームに乗っているのか?」
「…フ、今はどちらとも言えん」
「…!なら、誰か殺したことはあるのか?」
「今まではない。だが、これからは分からん」
ぬ~べ~はほっと安堵の溜息をついた。今まではない、ということはこの男は郷子を殺した者ではない。
勿論嘘をついている可能性もあるが、この自信に満ちた顔をしている男が嘘をついているようには見えない。
「あんたが俺の敵でないなら頼みがある。俺は今このゲームから脱出するために仲間を集めている。
…俺の仲間になってくれないか?」
ぬ~べ~の額に絶え間なく脂汗が流れる。とりあえず敵ではないことが分かったが、
この男から絶え間なく発せられる威圧感、それによってぬ~べ~の精神は常に削られている。
常人であれば即座に逃げ出すであろう威圧感の中でぬ~べ~はひたすら耐えているのだ。
「悪いがそいつは無理な話だ。やることがあるんでな」
ぬ~べ~は少し肩を落とす。だがこの男が敵でないことが分かっただけでもここに残った甲斐があった。
そう前向きに考えるとある疑問が頭に浮かぶ。
男が言った、「これからは分からん」「やることがある」の言葉。
この言葉の意味を考えたとき、ぬ~べ~は自然とその答えを男にぶつけていた。
「これから誰かを殺そうとしているのか?」
「フ、そういうことになる」
ぬ~べ~はその返答を聞き、悟る。この男は少し前の俺と一緒なのだと。
この男が純粋な意味でこのゲームに乗っているのなら、今頃自分は生きちゃいない。
それなのに自分を殺さず、誰かを殺そうとしているのならば……この男はきっと……
「…仇討ちか?」
男は眉をピクッと動かすと目を開き、鋭い視線をぬ~べ~に送った。
が、その眼差しは先程までの冷たく、威圧感のある眼差しではなく、
いなくなった誰かを思い出し、遠いどこかを見つめているような眼差しであった。鋭いながらも温かみさえ感じられた。
「フ、そんなもんじゃねえよ」
男は笑いながらそう言う。
「なら…どうして?」
「あいつは…俺達の中心だった」
あいつ…きっと殺された仲間のことだろう。ぬ~べ~は静かに耳を傾け、続きを待った。
「それだけじゃねえ。あいつは俺達の看板を背負ってたんだ」
「看板?男塾というところのか?」
ぬ~べ~は先程男が自分に問うた時、男塾の面々という言葉を口にしていたことを思い出した。
その男塾がどういった塾かは分からないが、この目の前の男のような屈強な男達が揃う場所であろうことは容易に想像できる。
「それなのにあいつはやられちまった。それは男塾の看板に泥を塗ったことに等しい。
だから、死んだあいつ、桃の代わりに俺が泥を拭いに行く。ただそれだけだ」
「…仲間を殺した相手に恨みはないのか?」
ぬ~べ~は素朴な疑問を口にする。郷子が殺されたと知ったとき、自分はどうしようもない負の感情に襲われた。
そう、殺した相手をきっと見つけ出し、仇を討つ、と。それは今も変わらない。
だが、目の前の男は恨みからではなく、看板に泥を塗られた、という傷つけられた名誉のために戦うと言う。
それはぬ~べ~にとって理解しがたいことであった。
「殺されたんじゃねえ。倒されたんだ。その違い、分かるか?」
「…」
「不意打ちや、逃げ出して死んだのならそれは殺されたってことだ。だが、あいつはそんな奴じゃねえ」
ぬ~べ~は黙って次の言葉を待つ。
「正面から戦って、負けて死んだ。つまり倒された。
男としてのスジを通してあいつは死んだ。だが、あいつが背負っていた看板に泥を塗られたのも事実。
だからあいつの仲間の俺が代わりに泥を拭いに行く。男同士の戦いの結果に恨みなんてもんはねえよ」
そうか…ようやく分かった。この男、いや、男塾に
集う男達がどういう人種なのかを。
ぬ~べ~は男の話を聞き、今までに感じられた喉に引っかかったような疑問が解消できた。
この男達はきっと男としての道をまっすぐに歩んでいくような人種なのだと。
言葉には出来ないが、男に生まれた者なら誰もが一度夢見た生き方。そんな生き方を貫いている人種。
そんな人間が全力を尽くして倒されたのなら、少々の恨みはあっても、自分のように取り乱しはしないだろう。
この男、口調はぶっきらぼうで、近寄りがたい印象はあるが、信用できるのではないか?
ぬ~べ~は密かにこう思い始めた。だが、まだ言わなければならないことがある。
「…あんた、その槍の持ち主と戦っただろう?」
そう、それは玉藻のこと。この男は知らないだろうが、玉藻は今もこの男の命を狙っている。
彼の妖狐としての象徴である首さすまたを取り返すために。
「ほう、それを知っているのか」
「ああ…あいつは俺の同僚だ。さっき偶然再会できて、その際話を聞いたんだ。
今はもうあんたを追ってここにはいないが…」
ぬ~べ~は素直にこれまであったことを話す。隠していても仕方ない。
「…で、それがどうした?」
男は当然のことを問いかける。ぬ~べ~はしばらく沈黙を保ったのち、
遂に重い口を開いた。
「あいつは今もあんたの命を狙っている。その首さすまたを取り戻すために。
…戦闘になればあいつも必死だ、先程の戦いみたいにあんたも無事にはすまない」
男は静かにぬ~べ~の話に耳を傾けている。
あの玉藻という男が生きていたこと、そして再び目の前に立ちはだかろうとしていること。
それらは男にとって新しい情報であるにも関わらず眉一つ動かさない。
仮にも命を狙われているのに、未だにその余裕の表情を崩さない。
男にとってそれは些細なことなのか、それとも予想していたのか。ぬ~べ~には分からなかった。
「無理を承知で頼む…首さすまたを玉藻に返して「断る」」
ぬ~べ~が言い終わる前に男は断った。
男にやるべきことがある以上、武器が必要。それが相手を倒すことならなおさら。
ぬ~べ~は一縷の望みにかけて男に訴えたが、やはり予想通りの結果に終わってしまった。
「今度は俺の番だ」
きょとんとした顔で男の顔を見上げるぬ~べ~。思いもよらぬ男の発言で一瞬呆然としてしまったのだろう。
男の質問には最初に答えたはず…他に聞きそびれたことでもあったのだろうか?
「その玉藻って奴はてめえの仲間なのか?」
「あ、ああ…さっきも言ったが、あいつは同じ小学校の同僚だ」
「…分かっちゃいねえな…」
???
ぬ~べ~は男の真意が理解できず、思わず首をひねってしまう。
この男は何が言いたいのだろうか…
「分かりやすいよう言い直してやる…てめえは俺を襲った奴の仲間か?」
ぬ~べ~は一瞬にして男の言ったことを理解する。背筋が凍るとはまさにこのことだ。
つまり男が言いたいのは…玉藻の仲間だというなら俺も…敵だということ。
そして…敵なら命はないということに違いない。
いつの間にか男から絶え間なく殺気と威圧感が感じられる。そう、初めて会ったときのように。
「…」
ぬ~べ~が返答を渋っていると男がにわかに組んでいた腕を外し、首さすまたを手にする。
(まさか…)と思ったその刹那、首筋に冷たいものを感じた。
殺意と威圧感の中に晒されている最中、この冷たさですら気持ちよく感じられる。
だが、ぬ~べ~は分かっている。この冷たさこそ、男から発せられる殺意と威圧感を一身に集められ、
まさに今、ぬ~べ~の命を奪おうとしている首さすまたの刃であることを。
「さっさと答えな」
返答を迫られる。その声は恐ろしく冷たく感じられる。
ぬ~べ~は今一度状況を確認する。手足は自由が動くが首筋に刃を当てられ、
返答次第では冷たき刃は軽やかにその首を飛ばすであろう…状況は絶望的である。
抵抗しようとすればそれもまた首が飛ぶ結果に繋がろう。
そういえばこんな間近でこの首さすまたを見ることなんてなかったな…きれいなもんだ。
ぬ~べ~は刃に映った自身の顔を見ながら懐かしい者達のことを思い浮かべる。