丁か、半か。
僕のみに留まらず、ジョセフたちの運命すらもこの賽子に掛かっていると言っても過言ではない。
この一投手が要。僕らの全てをこの三つの立方体に賭けたんだ。
賽子の数字の和が『丁』……偶数ならば橙を信じて藍の説得に乗り出る。
和が『半』……奇数ならば藍を信じて我々の生命線にもなる情報の提供。
これは何も僕の思考の放棄、諦めからの行動というわけではない。
因幡てゐ。彼女との邂逅がこの僕にも少なからず影響はあったはずなんだ。
たとえすれ違いのような僅かな触れ合いだとしても、てゐの持つ幸運は僕の運命に何らかのきっかけを与えた。
それを僕は信じている。
橙よりも藍よりも、あろうことかあの人を食ったような悪どいインチキうさぎを僕は信じているというわけだ。
カランカランと、椀の中の賽が弾きあって小さな音をたてた。
回転が止まる。目が出る。
深呼吸し、目を閉じてあの小憎たらしい白兎の顔を思い浮かべる。
ここが、運命の分かれ道……!
さあ、いかに……!?
「…………………藍、その手をどけてくれないかい? 賽子が見えない」
目を開けて、賽子の目を確認しようとした僕の光景にはしかし、予想とまったく違う様子が描かれていた。
賽を投げ入れた椀に蓋をするかの如く、藍の綺麗な手が椀を覆っていたのだ。
彼女の意図が読めずに困惑する僕へと、藍は穏やかな説明を繰り出してきた。
「……なるほど。店主よ。お前の考え、何となく掴めてきたぞ」
ギクリ。そんな時代遅れな擬音が喉から発せられた錯覚を感じた。
「大方、私の言葉を信じるか、それとも偽りだと勘ぐり警戒しているかの境界を行き来しているのだろう。
結果、お前はこの賽子に自らの判断を委ねようとした。違うかな?」
ズバリ、としか言いようがない。
流石は頭脳明晰の九尾。完璧なる読みだ。
ああ、どうやら運命の女神は僕に運否天賦のチャンスすらも分け与えてくれるつもりはないらしい。
僕の無言をイエスと受け取ったのか、藍はしたり顔で椀の中の賽子を摘み取って掌中で転がし始めた。
「ふふ。まあ面白い選択ではあるな。だがそれは到底賢い行為とは言えないぞ。
賢明なる未来への舵取りを諦め、思考することを捨てた、ただの臆病な小心者の覚悟なき捨て鉢だ」
これはまた。随分と言いたい放題だね。
でもそれは違うぞ
八雲藍。これは僕なりに考えた、光ある未来を手繰り寄せるための手段なんだ。
てゐがもたらしてくれた(はずの)幸運は、必ず意味がある。それを僕は信じているんだからね。
……などと格好をつけた言い訳したい気持ちをグッと堪えて、僕は苦笑の表情を作った。おいそれとてゐの情報は話せない。
「これは私の推論だが、お前はきっと既に橙と会ったんじゃないか? あいつから私のことを聞いたろう?
私をゲームに乗った者だと『思い込んだ』お前は、私から情報を聞き出すか、または説得するかの勇猛を発揮したんだ。無謀とも言えるがな」
……どうしてこの妖獣はこうも察しが良いんだ? さっきからピタリ賞の連発だ。
だがここで動揺するなよ霖之助。彼女は僕を揺さぶっている。反応を窺っているんだ。
「橙が私のことを『もしも』誤解しているのなら、お前もまた私を誤解している。これでは私も堪らないな。誤った伝言ゲームひとつで、人の関係は簡単に崩落するぞ?
……とはいえ、お前の気持ちも分からんでもない。そこで店主よ。私と『ひと勝負』しないか?
お前が勝てばお前の話にもゆっくり耳を傾けてやる。私が勝てばお前の持つ『情報』……全て吐き出してもらおう」
なんだって……? 何だかおかしな方向に進んで行っているぞ。
しょうぶ……勝負だって? 僕がこの最強の妖獣と? 今から?
「ああ、そう構えるな。ただの『ゲーム』だ、安心してくれ。
せっかくお前が勇気を出して振った賽子だ、ここで引っ込めるのも男子としては格好がつかないだろう。
丁度三つあることだし……うん。『チンチロリン』でもやるか。ルールは知っているな?」
チンチロリン……ああ、魔理沙と霊夢が宴会でもたまにやっているらしいね。……賭博で。
しかし、これは正直予想外の展開だ。この九尾は一体全体何を考えてこんな提案を設けたんだ?
同じ運否天賦の賭けなら、僕がやろうとしていた丁半でも似たような条件だったろうに。
「長々やっても仕方ないし、ここはシンプルに一発勝負といこうじゃないか。
互いに賽子を三回振り、最初に出た役を『目』とする。高い役を出した方の勝ちだ。どうだろう?」
そう言って彼女は朗らかな微笑で卓に肘を付き、僕の判断を待った。
僕と八雲藍の運試し。勝てば彼女を説得できる機会を手に入れ、負ければ情報の提供。
最初の丁半と大して変わりはない……と思うかもしれないが、僅かな違いはある。
形態が『勝負』になったということは、少なからず多少の時間はかかるだろう。
時間が引き延ばせれば、『彼ら』の到着も視野に入る。ほんの少しの時間稼ぎに成り得るんだ。
それにこの展開すらも、てゐから授かった(はずの)幸運の影響だとも思う。
この一発勝負で未来の『何か』が変わるはずなんだ。それが良い方向へか悪い方向へかは、分からないんだけども。
よし。決断は変わらない。てゐの幸運を、僕は信じる。
「……いいよ。乗ろう。勝負、してみようじゃないか」
「決まりだな」
これ以上なく綺麗に微笑んだ藍が、手に持った賽子を渡してきた。
第一投は僕からどうぞ、ということらしい。
僕は再び深呼吸をして、てゐの小憎たらしい顔をもう一度思い浮かべながら、賽子を投げる。
さあ、幸運の女神は僕にどう微笑んでくれる?
▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽
「たのもーー! この店に霖之助とかいうメガネ君と八雲藍様は来てるゥー?」
意気揚々と溌剌に、その男は香霖堂の店のドアを下品に叩いた。
店主の許可を待つことなく、勝手にドアを開けて侵入を果たした彼ら三人。
二代目ジョジョこと波紋戦士、ジョセフ・ジョースターを筆頭に。
異様な威圧感を醸す機械兵士、
ルドル・フォン・シュトロハイム。
その巨体の男たちの陰に隠れるようにビクビクと店内を窺う凶兆の黒猫、橙。
時刻は既に朝の8時を過ぎた頃。
橙の情報が正しければこの香霖堂に敵は居る。
“最強の妖獣”八雲藍。橙に参加者の殺害を強制し、その首を持って来いと命じた智徳備える人非人。
ドス黒い“悪”のスタンド使い、プッチ神父。
邪悪の化身に魅入られた氷精チルノ。
そして心を閉ざした妖怪、
古明地こいし。
各々に交錯した想いはあったが、とにかくその全ての障壁を持ち前の知恵と度胸と騙しで突破してきたジョセフ。
彼が次に定めた敵は八雲藍。正真正銘、知と力の両者を蓄えた実力者。てゐ曰く“超強敵”。
ジョセフは憤慨していた。
こんな幼い橙に平然と殺戮を命じた、その外道に。
こんな幼い橙を泣かせ傷付けた、その邪悪に。
八雲藍とやらはあの
チルノやこいしを洗脳し駒としていたDIOと同じ事をやっているのだ。
許せない。許せるわけがない。
しかしだからといってジョセフが藍を殺そうだとか再起不能にしてやろうだとか、そういう過剰な暴力を行使しようとまでは思わない。
八雲藍はあくまで橙のご主人様。言うなら家族のようなものなのだ。
そんな橙の数少ない支えを奪うつもりなど毛頭ない。ほんの少し、仕置きを与えてやるだけ。
出来ることなら説得で藍の正気を取り戻してあげたいが、それは難しいだろう。
聞くによれば八雲藍とは相当に聡明叡知らしく、その利口者が導き出した結果が『ゲームに乗る』という道だ。
ジョセフは先導者でもなければ演説家でもない。
相手を口車に乗せるのは十八番だが、一度修羅に堕ちた者を再び正しい道に引き戻す術を備えている訳ではない。
普通に説得するのでは、もとより土台不可能なのだ。
ならば相手にとって『益』となる手札をチラつかせ、自分が出来得るギリギリの交渉をする。
橙の望むような『元の優しい藍様に戻って欲しい』という願いに、可能な限り近づかせるために。
どうも藍の行動基準の全ては彼女の主人、『
八雲紫』にあるようだ。
八雲紫を護る為なら『何でもする』。藍との交渉、そのキーポイントは彼女の絶対的な芯にある。
その間隙を上手く突ければ……藍をこちら側に引き込む事も不可能ではない。
つまりは、彼女と『手を組む』ことも想定したうえでの接触。勿論、彼女の暴走にも似た行為を抑止したうえでの協力だ。
だが失敗した場合は、戦闘にもつれ込む事態にもなる。というより、その可能性の方が遥かに高い。
相手が『問答無用』ならば、そもそも交渉のテーブルに着くこと事態が難関だ。
店内に踏み入れた瞬間、襲われかねない。そうなったらもう、こちらとしては敵の無力化を図るしかない。
とりあえずは気絶させておき、後は主人の八雲紫を捜索して藍と橙の身を任せる。
その紫までもがゲームに乗っていたり死んでいたりしてれば最悪だが、藍の心を正常に戻すにはもうそれしか考えられないのだ。
とにかく、まずは最初が肝心。
どう接触するか? ここを凌がねばジョセフの策はいきなり半分破綻となる。
相手の出方のパターンを色々想定していたジョセフが、敵の巣に突っ込んで最初に目撃した光景は。
「おや、お客さんのようだ。良かったじゃあないか店主よ。普段は客入りの少ないこの店も、今日は千客万来のようだ」
居た。
絶世の美女が、休日午後の会話でも楽しんでいるかのように、平然と佇んでいた。
店の真ん中で丸テーブルを囲み、平和にお茶を啜りながら男と向き合っている。
藍と向き合っていたその男、森近霖之助は上半身だけをこちらに動かし、珍客三人の来店に視線を向けた。
その表情はどこかホッとしているような、困惑しているような、複雑なる顔で。
少なくとも出会い頭に攻撃だとか、既に霖之助の首が床を転がっていただとか、そんな『最悪』は回避したらしい。
思った以上にこの場は平穏だ。どこからか香ばしい味噌汁の匂いすらしてくる。
まさか先に到着していたこの霖之助なる男が既に八雲藍の交渉に成功し、後は和気藹々と談笑など楽しんでいたとでもいうのか。
そのわりに霖之助の表情はあまり芳しくない。何か、あったのだろうか。
「あー、アンタさっき俺を助けてくれたメガネ君? 霖之助だっけ。ともかく、ありがとうよ」
ジョセフは早々と霖之助に傷の手当の礼を言う。
だいぶ雑な処置ではあったが、命の恩人であることに変わりはない。
「やはりキミは僕の思った通りの人物だ。必ずここへ来てくれると思っていたよ。……ところで」
霖之助は言うなり、ジョセフの背後をキョロキョロと覗き見る。
誰かお目当ての人物でも居るのだろうか、と疑問に思う前にすぐにピンと来た。
「あぁ、あのチビうさぎちゃん? 危険なことには首を突っ込みたくないっつって家で待ってるぜ。……“今のところは”な」
「ふーん、そうか。まあ彼女らしいといえば彼女らしいのかな。
何にせよ今の状況、僕にとっては少々手に余っててね。来てくれて助かった……と言うべきか、はたまたその逆か」
苦笑する霖之助の様子に疑問を覚え、彼らの座る丸テーブル上に目を向ける。
賽子が三つに椀一つ。……テーブルゲームにでも洒落込んでいたのか?
状況の把握に努めようとするジョセフの耳に、麗しき女性の叫びが轟いた。
迷子の愛娘を発見した母親のような、安心を織り交ぜた驚愕の声で。
「橙! 良かった、無事だったか……! 予定より二時間以上も姿を見せなかったので心配したぞ!」
「藍、さま……! あ、あの……私は……橙は………っ!」
橙の姿を見た途端、それまで冷静だった藍が即座に立ち上がって駆け寄って来た。
その顔からは橙の身を案じ、本心から無事を祈っていた心境が読み取れるようで。
小さな身体を精一杯抱きしめられた橙は困惑する。そして、ひとえに希望の灯が点り始める。
『もしかして藍様は、考え直してくれたのかもしれない』
『いつもの優しかった藍様に戻ってくれたのかもしれない』
橙のその淡い希望は。
(……よくぞ約束どおり『三人もの首』を連れて来てくれたな。遅刻の件は不問としよう。“後は”私に任せてくれ)
見る者をひりつかせる様な冷たい微笑で、そっと耳打ちされた言葉に打ち崩された。
あまりにも残酷に。あまりにも簡単に。
橙の心から、大切な何かが剥がれ落ちた音がした。
目の前が真っ暗になって。
身体が金縛りみたいに動かなくなって。
寒気で逆立ったその小さな頭に。
「オイ、べっぴんの狐耳オネエちゃんよォー。うちの預かり猫ちゃんに気安く触るんじゃねえぜ。
怯えてんじゃねーか。……離れな」
木洩れ日のような温かさが、撫でられた。
抱擁する藍から引き剥がすように、ジョセフの大きな手が二人の間を遮る。
どんなに平穏な様子を見せても、どんなに橙を心配するように見えても。
この女は狐。衆を眩まし、人に化ける狡猾なる女狐。
その性質を見抜けなければ――負ける。全滅必至。
「……“うちの預かり猫”とは、おかしな物言いをする。
橙は私の……この八雲藍の可愛い式だ。今すぐに返して貰いたいのだが?」
ゆらり。
妖しげなオーラすら錯覚し得るほどの振る舞いで、大妖はゆっくりと立ち上がる。
その瞳に燻るは、僅かな『殺意』。
「……俺はジョースター。ジョセフ・ジョースター。お前に会いたくて会いたくて堪らなかったぜ、藍様よォー」
この瞳に気圧されるな。既に戦いは始まっている。
ジョセフは端から藍の言葉を信用するつもりは毛頭ない。
根拠は実に単純。涙を流しながらあれほどに懇願した橙が、嘘を吐くわけがないからだ。
元より激情の性格であったジョセフ。あんな子供に殺しを強要した八雲藍を許せるはずもない。
この女にまずやらせるべきは―――
「橙に謝りな。その後にお前を主人の八雲紫の居場所へ連れて行く。ノーとは言わせねえぜ」
当然、橙への謝罪だ。
そして速やかなる『同行』。彼女の暴走を止めるには、主人の一喝が不可欠と判断しての提案。
交渉と言うにはあまりに強気で、強引な態度。だが下手に出ては逆にこちらが言い伏せられる。
藍からすれば不合理な申し出。そんな提案にも眉ひとつ動かさない彼女は冷静に返答する。
「何故、私が自ら生んだ式に頭を下げる必要がある? それにお前らは紫様の居場所を把握しているとでも言うのか?」
「あーあー、すっ呆けんな。テメーが橙を都合の良い殺人の駒にしようとしてんのはとっくに知ってんだよ。
テメーがゲームに乗ってる事も含めて、全て謝ってもらうぜ。主人の八雲紫の目の前でな。
紫の居場所は今から捜す。テメーにもついて来てもらうぜ」
「成る程。だがジョセフとやら、それは大いなる誤解だ。私はゲームに乗っているわけではないぞ。
いや、恥ずかしい話だがゲームが始まった当初、私は怒りによって少々モノの正常な判断が出来なくなっていてな。
ついつい自分の式に激しく当たってしまった。そのことからの些細な感情の行き違いさ。全く情けないことだ。
だが決して此度のゲームに肯定的というわけではない。橙にも悪いことをした。頭ならいくらでも下げよう」
そう言うと藍はいかにもすまないといった表情を作り、ジョセフの弁を軽く否定した。
彼女の言葉が真実ならば事は丸く収まるが、ジョセフはそれに「分かればいいんだ」とあっさり納得する馬鹿ではない。
まず『疑ってかかる』。八雲藍がゲームに乗った殺人者だと決め付けて、それが誤解なら「スミマセンでした」と謝ればいいだけの話。
ジョセフらしいトンデモ論法だ。だがここは慎重すぎるくらいが良い。
仮にこの女が尻尾を隠してゲームに乗っており、そしてジョセフらと一時の行動を共にした場合。
―――必ず寝首を掻かれる。自分たちはいとも簡単に全滅するだろう。
そんなジョセフの内なる細心を知ってか知らずか、藍は語りを続ける。
「それに紫様を捜す必要はないぞ。何故なら私は既にあの方と偶然の邂逅を済ませている。
そしてあるひとつの任命を下されていてな。曰く『異変解決のために参加者の人数が必要だ。出来得る限り集めて来い』だそうだ。
正直、お前たち三人と出会えたのは僥倖だ。これで紫様のお役に立てるだろう」
などと笑顔すら交えて彼女は言う。まるで用意された台本を読み上げるように、つらつらと。
藍の真意を確かめる術は今のところジョセフにはない。
流石に策士の九尾と称されるだけある。会話のペースはいつの間にか藍が掌握しかけていた。恐らく何を言ってもゆるりと受け流され、論破される。
気付けば封殺。あらぬ方向へと話が進み、相手にとって都合の良い展開ばかりを強いられかねない。
正攻法では駄目。ならばジョセフが本来得意とするのはハッタリだ。
突くべき点は『白』か『黒』か、この九尾の女が『完全無罪』か『完全有罪』かの二択しかない。
ジョセフは既に藍を『黒』だと決定した体で動いている。
―――かけてみるか、『カマ』を。
「オーケーオーケー。じゃあひとつ交換条件といこうぜ。
要するにお前は俺たちを八雲紫の居場所へと連れて行こうって言うんだな? それには俺も合意するさ。
だが一時的にも行動を共にしようって言うんだ。当然、確認することがあるよなあ?」
「……」
藍は口を閉じる。ジョセフの言葉をじっくりと、思案しながら聞き入れて。
その様子を茶化すようにジョセフも焦らす。相手の表情ひとつひとつ、その弛緩さえも見逃すまいと。
「いやぁ~~何しろお前の主張する言葉が正しいなら、俺達は一応『仲間』になるわけだよなァ~~?
だったらあるよねェ~、まず確かめるべき事柄がさァ~? へっへっへ……!」
「……煙に巻くような態度はやめろ。……何をご所望だ?」
白々しい女だ、とジョセフは心中で唾を吐く。
そんなことは決まっている。というのも、ジョセフは少しだけ『アテ』があった。
それは橙が説明してくれた言葉にある。藍が橙に及ぼした所業、その言葉の中に。
―――『三つ以上の首を持ってきたら、褒美をあげようじゃないか、橙』
藍は橙に対し、そんな理不尽的強制をしてきたと言う。
もしも藍が殺戮に興じていたとして、既に誰か他の参加者を手に掛けていたとして。
例えばかつての合戦では、敵大将を討ち倒しておきながらその首を持って帰らない馬鹿はいない。
そんな古風な考え、胸の内に灯った一抹の予期に、ジョセフは賭けてみた。
すなわち、この八雲藍は『もしかすれば』―――
「……『支給品』の開示。アンタが今持ってる物……全部見せてみろよ」
室内の空気が、一瞬だけ氷点下にまで下がった錯覚を受けた。
可能性は――ある。
もしも藍が既に参加者を『誰か』殺害していたのならば。
橙にあんな強要をさせた手前、『持ち帰っている』可能性がある。
手に掛けた相手の、『首』を。
「…………なるほどな、正論を言う。良いだろう……私の支給品を見せて―――」
―――あげよう。
台詞が言い終わるや否や、影が動いた。
藍の体……ではなく。
ジョセフの『背後』。今までずっと黙して語らなかった『この男』の影が。
「妙な動きをするなよ、東洋の物の怪。無手と言えど甘く見ないほうがいい。
このシュトロハイム、キサマの首を瞬間ウイスキーコルクのように捻じ抜く程度の握力は備えておるわ」
この場の誰よりも戦場の殺気をその身に受けてきたシュトロハイムが、いち早く動いた。
もしも藍が『黒』で、我々に仕掛けてくるとしたら、ジョセフの要求を受けるこのタイミングで動くだろう。
向こうにとって『都合の悪いモノ』の開示を行う直前。シュトロハイムは一層に、藍の漏らす僅かな殺気も逃すまいと感覚を研いでいた。
そして、嗅いだ。
敵がほんの一瞬漏らした、殺意を。
「藍さまっ!!」
「橙ッ! コイツに近づくなッ! テメー、尻尾を出しやがったなッ! おまけに九本もよォー!!」
ザワッと、事態は一変する。ジョセフの勘……そしてハッタリはピタリと撃ち抜いたのだ。
この女狐の正体が、『黒』だと!
「……フフフ。いやぁ、失態だったかな。やはり殺人の証拠なんて持ち歩くべきではないな。反省しよう」
シュトロハイムに鋼鉄の手刀を首にあてがわれ。
ジョセフの波紋の呼吸を前にしながら。
それでも八雲の大妖は揺るがない。
笑みすら浮かべ、余裕といった態度を崩そうとしない。
不気味だ。
敵が完全に黒だと分かった今。
そして敵が明らかにこちらに対して攻撃の意思を見せようとした今。
あのデイパックから飛び出てくるモノは生首どころか、どんな殺戮の武器かわかったものではない。
気絶させての『無力化』。
ジョセフとシュトロハイムは同時にその考えに至る。
軍人であるシュトロハイムは即座に行動に起こした。一瞬の判断が生死を分けるこの状況は、戦争だ。
もとより得体の知れない相手。その細首を左手で掴み、意識を奪おうともう片方の腕を振り上げる。
その刹那に、聞いた。
吊り縄を首に掛けられた状態であるはずの、身動きも取れない女の淡々とした言葉を。
「やめておけ。……お前たちの可愛い『預かり猫』が死ぬことになるぞ」
美女などではなく、死神か何かのように底冷えた声で。
呟かれた台詞の意味をジョセフが咀嚼するには、一手遅かった。
「橙!? オメー、何だその『首輪』は!? いつ付けられたッ!」
「え……、あっ……え? な…なに、コレ……!?」
周囲の視線が橙の首……そこに黒光りする『首輪』に集まった。
一体いつ装着されていたのか。慌てふためる橙は混乱しながらも、その首輪を外そうとガチャガチャ弄くる。
「やめておけ、橙。あまり乱暴に扱うと『暴発』するぞ?
あぁいや、勘違いするな。爆発物とかではない。もう少しマイルドな装置らしい。
所謂『毒針』だ。遠隔操作で発動し、リモコンのスイッチを入れると輪の内側から針が飛び出て装着者を毒に侵す」
当たり前のように藍は説明した。その手の中には見せびらかさんばかりと、小型のリモコンが握られている。
シュトロハイムが藍を攻撃するならば、その意識を奪う前にスイッチは押されるだろう。
例え藍を再起不能にしたとして、橙の命は保障されない。
つまりこれは―――
「―――テメェェェーーーーーーーッッ!!!! 自分の式を『人質』にする気かァァァーーーーーッッ!!!!」
ジョセフは咆哮する。
どこまでも、どこまでも他人を駒としか扱わないような非道に怒り。
いや、他人ではない。藍にとって橙は他人などではないはずだった。
式神とはいえ、単なる道具として以上の想い入れは当然あって。
そして、それ以上でもそれ以下でもない。
今の藍はまさに『何だってやる』。
主、八雲紫を生還させるためなら、例え己の式すらも……道具のように利用する。
恐らくさっき橙に駆け寄ってきた時に首輪を取り付けたのだろう。こうなることを予想して。
ジョセフは怒れる眼を通して、藍の瞳を睨みつけた。
どこまでも深く冷静で、暗く静かで、機械のように確固とした眼差し。
―――本気だ。この女は、本気で橙の命を利用する腹だ……!
そのふざけた考えに、本気で嫌悪感を示した。
もはやこの女には道理も通らない。心で最も大切な部分を壊してしまった、哀れなる殺戮の悪魔。
理性を保っているように見えて、光を失ったその瞳の中にかつての八雲藍は存在しない。
そういう意味では、ジョセフがこれまでに対峙してきた誰よりも恐ろしい敵だった。
「そう猛るな。私とて自分の式は可愛いものだ。そう易々と手には掛けたくない。
……ふむ。そうだな、白状しようか。確かに私は紫様を除く全ての参加者を皆殺しにする腹積もりだ。
ご察しの通り、デイパックの中にも『殺した証拠』が入っている。見てみるといい」
「ら……藍、さま……っ! もう、こんなこと……やめて……っ!」
あくまでも淡白な物言いの藍と、橙の切望する嘆き。
対照的なそれは、二人の元ある関係とはおよそ程遠い距離。
ジョセフの心の中で、最後の一線が切れた音がした。
「―――テメエは絶対に、許せねえ……!」
「だったらどうしたと言うんだ? ここで私と闘うか? 私の方は構わんが」
「……俺たちが、何の準備も対策も無しでノコノコ敵地に現われるヌケサク集団にでも見えるか?
“もしもの場合”の用心策くれえ、あるに決まってんだろ」
「意味を図りかねるな。その用心策とやらを聞こうじゃないか、ジョセフ」
「俺たちが二時間経っても戻って来なかったら、八雲藍は『ゲームに乗った者』として会場中に情報をバラ撒く。
拠点に残った『仲間』にそう伝えて来てんのよコッチは。ゲームが進むほど、不利になるぜお前は」
「……拠点の仲間、だと?」
藍の眉がピクリと吊り上がった。
これは勿論ジョセフの完全なるハッタリ。八雲藍が先々、確実に動きにくくなる不利な情報をバラ撒く。
この大ボラに、果たして効果はあるのか。
「ハッタリはよせ。ゲームが始まってそう時間も経ったわけでもない。そうそう仲間など作れはしない」
「ハッタリじゃあねーさ。そいつの名前は言えねえが……そうだな。性格の悪そうな月のウサギちゃんとだけ言っておくぜ」
幻想郷の住民にも精通している八雲藍にこんなヒントはほとんど答えを言ったも同然だ。
だがここまで言わなければハッタリを見抜かれる。虚実の境界線に近ければ近いほど、信憑性を与えやすい。わざわざウサギと言ったのは、たまたまてゐの顔が最初に頭に浮かんだだけだ。
ジョセフは心の中でてゐに謝り、表面はなおも堂々とする。ハッタリで引っ掛けるには、いかに堂々と自信満々に豪語できるかだ。
「月の……ウサギ……やはり『奴』か……、面倒な……!」
その時、意外なことに藍は一瞬、僅かに顔を歪ませブツブツ呟いた。
(『やはり』……? 何だ……? 心当たりがあるのか?)
藍とて、元々てゐとは全く知らぬ仲でも無いのだろうが、“やはり”というのはどういう意味なのか。
ジョセフが既に因幡てゐと結託していたのをまさかこの九尾は知っていたのか?
露知らぬ藍の心中にジョセフが逆に焦っていると、藍はどこか観念したようにすくりと肩を下ろした。
何故かその間際、彼女は背後のシュトロハイムを睨みつけたようにジョセフには見えた。
「――成る程、分かった。どうやら私たちは互いに手を出しにくい状況にあるらしいな」
おや、とジョセフは訝しげる。予想より随分と簡単にハッタリに掛かってくれた。
いやにあっさりとしている点が逆に不気味であったが、ともかくこれはチャンスだ。
「そういうことだぜ。じゃあどうする藍サマよォー。お前はたった独り。戦力としては俺たちが上だ」
「例え頭数を何人揃えて来ようが、私は負けるつもりもないのだが……そうだな。お前たちは橙という人質の解放を望み、かつ私を完全に無力化したい。
私はお前ら全員を抹殺したいが、何処にあるかも分からぬ拠地に残った仲間とやらが目障りだ。
決して相容れようもない望み……平和的交渉も不可能ときた。厄介だな。
―――だったら……いっそ『コイツ』で決めるというのはどうだろう?」
不敵に口の端を釣り上げた藍が、卓上の椀の中に腕を突っ込んで取り上げた小物。
三つの賽子だ。何の変哲もない、ただの遊戯道具。
「……まさかとは思うがよォ、運試しで決めようってんじゃあねーだろうな?」
「そのまさかという奴だ。『運否天賦』に天命を委ねるというのも悪くはないだろう?
あまり血生臭い事柄で全てを片付けるというのも身が持たないし、気持ち良くない。お前らもそうは思わないか?」
コロコロと、掌に握るその道具を転がしながら藍は言い切った。冗談のようにも聞こえかねないその提案を、どう受け取るべきか。
いつものように鼻で笑ってやりたかったが、この大妖怪の目は冗談も洒落も言っている色はしてない。
ジョセフらが閉口する中、彼女だけがこの場で平静に物事を進めていた。
首元に手刀を当てるシュトロハイムに「少しだけ宜しいか」と沈着に許可を取り、脇のデイパックの中を改める。
ゆっくり中をまさぐり、やがて彼女が静かに取り出したのはエニグマの紙。
すわ、武器か。シュトロハイムもそれを警戒するが、藍の様子に殺気は感じない。極めて穏やかだ。
「正当なる勝負<ギャンブル>を行って、互いにケリをつけようと言っているのだ。
暴力を行使してこの場の沈静化を図るには、互いに不利益の根が残る。
このバトルロワイヤル……いや、この世は結局の所、正しい判断が出来る者だけが充実なる“生”を味わえる。
判断力の無い者は……搾られるだけだ。“敗者”として、な」
頭を人指し指でトントンと、軽く叩きながら藍は説いた。
テーブル上に並べられた物は四つの異物。橙に巻きつけられている物と同じ鉄製の『首輪』だ。
「さて、ここにある首輪は私の支給品になる。パーティ用なのか、おあつらえ向きに複数支給されていたようだ。
先にも説明したとおり、首輪には『毒針』が仕込まれており、連動するリモコンの作用で発動するらしい。
この毒は非常に強力な『神経毒』だ。即死とはいかずとも、ひとたび毒が体内に回ればすぐさま身体の自由を奪い、ものの数時間で絶命させる。
コイツをこの場の『全員』で装着し、『全員』が賭けに挑む。私の言いたいこと……理解できるだろう?」
「………俺たちが勝てば、ひとまずお前を毒で行動不能に出来る。負けりゃあ揚がった魚みてーにパクパク口開けて俺たち全員床に転がる、ってことかい」
もう一度、藍はニヤリと笑む。頬肉が唇に引きつけられ不気味に歪む様で。
この会場で出会った人物の中では、飛び切りに邪悪で悪魔のような笑顔。
無言は肯定の証。
本気だ。
この女はそんな非人道的遊戯を、本気で提案している。
『暴力』ではなく『知力』による対局を為そうと言うのだ。
てゐ曰く、この八雲藍なる女は『文武両道』などという域を遥かに凌駕する『大妖怪』。
人間であるジョセフが、改造兵士シュトロハイムと力を合わせたとして。
『暴』による闘争も、『知』による試合も、この大妖怪には敵わないかもしれない。
―――まともに闘り合ったとするなら。
(ギャンブル……『運勝負』だとォ~~? それなら確かに勝ちの見込みが出てくる。つーか分のある勝負かもしれねえ……!)
相手は一人。こっちの戦力は単純な力で言うならジョセフとシュトロハイムの二人。
ここで戦闘にもつれ込めば数の上では利がある……が、それでは人質にされた橙の命が危ない。
しかし純粋な『ゲーム』なら。暴力という要素を持ち込む余地のない『運勝負』なら。
それはジョセフの得意分野でもあるし、戦う能力を持たないらしい霖之助も勝負のテーブルに着くことが出来る。
つまり実質『三対一』。魅力ある申し出ではある。
しかし腑に落ちない点も存在する。
「だが言った通り、俺は別にお前を毒殺してえわけじゃあねーぜ。気絶なり何なりさせた後、八雲紫の場所に連れて行きてえだけだ。
俺たちが勝ったとして、お前が毒で死んじまったら意味ねえだろ」
「その点については安心すると良い。毒を中和させる解毒剤も私が人数分持っている。
神経毒と言ってもすぐには死なん。私が敗北し毒で倒れた隙にでも紫様の元へ運び、解毒することは可能なはずだ」
ここで明らかにされた解毒剤の存在。
確かにそれならばジョセフの、もとい橙の『元の優しい藍様に戻って欲しい』という願いは現実味を帯びてくる。
要は道中、藍を無力化した状態で紫の元に辿り着き、そしてご主人様からの一喝を藍へとお見舞いする。それこそが八雲藍説得にもっとも近い行程なのだ。
現在の藍を止めるにはもう、橙でも無理だ。鍵は紫にしか在り得ない。
なるほど。この勝負、有益ではある。受ける価値はあるかもしれない。
だがジョセフは慎重な男。
まだある。この勝負の『不備』な点は。
「……保障だ。悪いが保障がねえ。俺たちが勝ってもお前が自分の首に掛かった首輪のスイッチを押してくれるっつー保障がな。
負けた後に『やっぱ殺し合いでケリをつけよう』なんて言われちゃあたまらねーぜ。振り出しだ」
これこそが賭けという勝負でもっとも揉めやすい場面。
負けた『代償』の支払いをうやむやにしてやろうという、惜しみの感情の発生だ。
これが金のやり取りならばまだしも、今回は命に関わる勝負だ。
まさか自身の首輪のリモコンを対戦相手に渡しておく大マヌケな奴はいない。
つまりこの問題は、『勝負の取り決め通りにキチンと罰を執行してくれる中立者』の存在。
負けた者に必ず刑を執行してくれる立会人のような人間が必要だということだ。それが無ければ、そもそも勝負として成立しない。
「やっぱり今のナシ」「もう一回初めからやり直そう」
そんなわけのわからぬ不平で、正当な勝負を無かったことにされるのは両者にとっても御免被りたい事態のはず。
「居るじゃあないか。ただひとり、我々にとって『中立』となるような存在が」
そんなジョセフの危惧などお見通しという風に藍は言いのけた。あまりにも簡単に、指し示した。
その存在……ただひとりの中立者を。
「お前がやるのだ、橙。負けた者に『罰』を与える役目を、お前に与えてやる」
菊の花のように綺麗な藍の指が、自身の式……橙を指した。
「…………え……わ、私、ですか?」
「他に誰がいる。お前は今でこそコイツらに懐いているようだが、私の式神でもある。
この中でもっとも『中心』に立っているのがお前だ。これ以上の適任者はない。
少々感情的なのは目を瞑るが…………『出来るな』? 橙」
有無を言わせぬ迫力。もとより、拒否の選択を潰すかのような威圧感。
主人のあまりに屈強な圧力に橙は、首を横に振ることができなかった。
「ちょっと待てッ!! 橙だと!? ザケんなタコ!!
テメェこいつにそんな真似させようってのか! 出来るわけねえだろうがッ!!」
ジョセフからすれば橙など子供。幼子にも等しい無垢な女の子だ。
そして藍は、仮にも橙の主人ではないのか。その関係に潜む如何なる感情など浮かばないとでも言うのか。
そんな純粋で、娘のような式を、徹底して手駒に扱う藍という女は―――
「何様だテメェェッ!!」
「『御主人様』、だ。可愛い可愛い橙の……な」
ジョセフがどれだけ吼えようと、藍は決定を覆すことはしない。
彼女の腹の底に浮かぶのは、自身の命すら捧げるただひとりの主人……敬愛する八雲紫の影のみなのだから。
それに比べれば橙など所詮は式。力による支配も厭わず、その効果も一目瞭然。
故に橙は、主の命に背けない。
求められた役柄に、頷くことしか出来ない。
「は……い………、わかり、ました……出来ます……やれ、ます…………っ」
こうして黒猫は、その残酷すぎる役割を受け入れた。
悲痛な表情を、前髪で隠すようにうつむきながら。
「よし、決まりだな! 未熟といっても流石は我が式神。融通の利かない子ではなかったようだ。
安心しろ橙。中立の立場であるお前は勝負に参加する必要はない。やることはリモコンスイッチを押すだけだ。
私が勝てばジョセフたちのスイッチを。私が負ければ私のスイッチを躊躇なく押してくれればいい。
なに、殺すわけではない。ほんの少し身体の自由を奪うだけの行使だ。『ただのそれだけ』……簡単だろう?」
軽く手を叩き、事を進める藍をよそにシュトロハイムはジョセフに耳打ちする。
(……ジョジョ。言うまでもないが、このゲームで俺たちが全滅することはイコール――)
(わーってるぜ。首輪の毒で動けなくなった俺たちをヤツは簡単に皆殺しに出来るからな)
遊戯での敗北は『死』と同義。それをこの場の全員が暗黙の上に理解していた。
いや、藍だけはたとえ敗北しても自分が殺されるまではされないと分かっている。そういう点では幾分かは気も楽になるだろう。
ジョセフらよりも遥かにリラックスできた精神で勝負に臨めるというわけだ。この時点で既に今回の勝負、フェアではない。
だが橙に首輪が巻きついている以上、ジョセフもこの申し出を拒否するわけにはいかない。
「霖之助さんよ。アンタもひとりでこの女と対峙しようとしてたんだ。命を賭けるっつー覚悟はあったんだろ? ……闘えるか?」
「…………僕でも力になれることがあるなら、喜んで勇もう。ジョセフ・ジョースター」
ジョセフと霖之助は互いに視線を交わし、頷き合った。
シュトロハイムにも横目で無言の了承を取る。それを確認したシュトロハイムは、僅かに首を頷けた。
『闘う意思』。全員が胸の内に秘めたそれを、ジョセフは心で受け取った。
賽は投げられたのだ。やるしかない。
「条件がある。テメーの勝負、受けてやる代わりに橙の首輪を外せ。人質は俺たち自身がなってやる」
「全員が首輪を付けたなら橙の物は取り外そう。ただしリモコンは橙が持ったままだ。
もしお前らが強引にも橙のリモコンを奪おうとしたなら容赦なくスイッチを押す。
当然、私がリモコンを奪おうとした場合もだ。わかったな、橙?」
「…………はい……やります…押せます……」
恐怖しながらもそれを了承する橙。
よほど藍が恐ろしいのか、そのやり取りにジョセフは少し違和感を持つ。
藍の首輪のスイッチまで橙に持たせるということは、この場の全員の命を橙が握るのと同義だ。
藍が自分の生殺与奪をいくら自分の式神とはいえ、他人に握らせることをそう簡単に許すだろうか。
それに橙の性格上、彼女が中立に立てる側だとはジョセフにはどうしても思えない。橙自身、自分の感情をコントロールできるような子ではないのだ。
しかし主人と式神の関係など、馴染みのないジョセフが完全に理解することなど出来ないのかもしれない。
理解できるのは、ただひとつ。
「なるほど。他人を陥れる『化け狐』だなお前は。それもとびっきりに性格の悪いっつー但し書き付きのよォー」
「吼える暇があったらさっさと首輪を付けて欲しいものだな。それがゲーム了承の合図とする。御覧の通り、私なら既に付けたぞ」
首に装着した黒い異物をトントンと見せつけ、挑発するように催促する。
そんな藍の振る舞いに苛立ち、ジョセフも荒々しく首輪を手に取った。
ズッシリとした重量感が腕に伝わり、不気味に反射する光が映る。
―――絶対に負けられない。
確固とした意思で首輪を付け、全員がゲームに了承した。
それを確認した藍は満足げに頷くと、懐から鍵を取り出し、橙の首輪を外す。
この瞬間から、この賭けの“チップ”は自らの命となる。
勝てば藍の無力化。
負ければ全員『死』。
そんな虎口を脱するための<ギャンブル>とは。
「……で、俺達は今から一体なんの勝負をするんだ? そこに賽子はあるみてーだが」
「『チンチロリン』はどうだ? おあつらえ向きに賽子が三つあることだし、人数は何人からでも出来る手軽な卓上遊戯だ。
ルールもそう複雑ではなくわかりやすい。小細工を弄する余地も少ない運勝負。実はさっきまでそこの店主と興じていたんだがね」
「『チンチロリン』~~? なんだそりゃ? シュトロハイム、お前知ってる?」
「聞いたこともないな。少なくとも我が祖国では」
「……チンチロリン、所謂チンチロは元来中国発祥の大衆遊戯が、第二次世界大戦後に日本に広く普及したものだとされている。
この幻想郷にも馴染みのある博戯で、主に賭博として愛される。……店主よ」
「……僕にゲーム説明をしろって言うのかい?」
「そう言うな。うんちくを語るのはお前の好きそうな役柄だろう?」
抵抗も諦め、霖之助はやれやれと言わんばかりに首を振る。
ジョセフもシュトロハイムもこの国の人間ではない。藍の言う通り、確かに説明は必要だ。
「……チンチロは賽子三つを丼などの椀に投げ込み、出た『目』で勝ち負けを決めるゲームだ。
まず最初に『親』と『子』を決める。子が親に対して張った『チップ』を賭け、親から順に賽を振って役を競う。
勝敗に応じて配当が親と子の間でやり取りされる。チンチロは基本、親と子の戦いだ。子と子同士で戦うなんてことはない。
ここまではいいかい?」
嫌々説明するわりには中々の説明っぷりだと霖之助は自分でも思う。
ジョセフたちの頷きを確認し、紙とペンを取り出してつらつらと書き並べていくのは目の『役』。
「チンチロの役は、同時に振った賽子三個のうち二個の出した数が一致した際に残りの一個が出した目となるんだ。
例えば1、1、2と出たなら出目は『2』。4、4、6と出たなら『6』になる。
もし4、5、6と続いた目(シゴロ)が出たら二倍の配当。
逆に1、2、3(ヒフミ)を出せば掛け金の二倍取られる。これは負の役だ。
3、3、3や4、4、4などのゾロ目はかなり強い役で、三倍配当。
また滅多に出ることはない1、1、1(ピンゾロ)と6、6、6(オーメン)は最強の役で、掛け金の五倍もらえる。
親が『6の目』『シゴロ』『ゾロ目』の役を出せばその場で親の勝ち。子は賽子を振れず、掛け金を支払わなければならない。
ちなみに振った賽子が椀の中から零れてしまった場合(ションベン)はその時点で負け。
地方によって微妙なローカルルールはあるみたいだが、役の強さは紙に書いておこう」
手馴れた手つきでチンチロにおける役を書き記していく霖之助を余所目に、藍は訂正を加えた。
「元より掛け金などあってないようなもの。ピンゾロとオーメンの五倍配当は少し緩くし、通常のゾロ目と同じ三倍配当としよう。
ただし役の強さは変わらず『最強』のままだ」
「なるほどよォー。なんだ結構簡単そうなゲームじゃねえか。ボクちん、こーいうの得意だもんねー」
「茶化すなジョジョ。……なるほど、役の強さは分かった。
しかしゲームの『勝敗』はどう決めるつもりだ? 通常の賭け事と違い、俺達は別に金欲しさに遊ぶわけではない」
シュトロハイムの指摘に藍は、質問を予想していたように手早く卓上に積まれた小銭を手に取る。
「チップはこれを使わせてもらおう。この店にあったなけなしの銭のようだが、代替にはなるだろう」
「……君は一言多いぞ、八雲藍」
「この銭を全員に20枚ずつ配ろう。こいつがゼロになればその者の負け。瞬間、首輪が作動し敗者を襲う。
私のチップが無くなればお前たちの勝利。お前たち三人のチップが無くなれば私の勝利。それがシンプルで良いだろう」
「……俺は承知した。ジョジョ、それと店主よ……お前ら、覚悟は出来ているな?」
戦場で常に命を落とす覚悟をしてきたシュトロハイムは、一番に覚悟の宣誓を取る。
彼とて様々なテーブルゲームの経験はある。そこらの博奕打ち程度には負けなしだ。
加えてこちらの味方は相手を騙すことにおいて底無しの厄介さを誇るジョセフ・ジョースターがいる。
霖之助という一見軟弱そうな男の勝負強さについては計れないが、数の利もある。布陣としては強力と言わざるを得ないだろう。
「覚悟ォ? そんなものこのクソッタレな首輪付けた時から出来てるっつーの! お前こそ俺の足引っ張んなよシュトちゃんよ~。
……ところで霖之助、このチンチロってのはどんな順番で廻るんだ?」
「親が先に振り、左回りに子が振っていく形式だね」
「オーケーオーケー左回りね。じゃ、俺はこの席にするぜ」
いつものお気楽な調子でジョセフは藍が座る椅子の右隣にドスリと腰を下ろした。
それをみたシュトロハイムも迷うことなくジョセフの右に座る。丸テーブル上だと、藍と対面になる場所だ。
「覚悟ならさっきも言った通り、既に完了しているつもりだよ。もっとも僕は勝負事にはめっぽう弱いがね。
じゃあ僕はこの席……ジョセフの対面になるのかな」
消去法的に霖之助もそれに倣い、シュトロハイムの右に静かに腰掛ける。その右隣には藍がその様子を見据えている。
そんな修羅の場で唯一、中立の立場で見守る橙。
彼女は当然ジョセフ達の勝利を祈っているが、あくまで自分は藍の式神。表面では公平さを望まれている。
もはやどうすればいいのか、橙にはわからない。
「ジョセフお兄さん……ごめん、ごめんなさい……!
私、藍様の式だから……逆らえないから、こうすることしか……っ」
「お前は自分に出来ることをやればいい。荒事は俺達に任せろ」
「そこまでだ橙。あまりコイツらに肩入れするような素振りを見せるんじゃあない。
……だが安心しろ。お前に付いた悪い虫は、私が駆除してやるからな」
全員が、着席する。
奪い合いの遊戯がこれから始まるのだ。
敵は一筋縄ではいかない、幻想に生きる賢哲の妖狐。
このバトルロワイヤルが始まって、恐らく初めて純粋なる『知と運』で闘う殺し合いとなるだろう。
暴力は要らない。必要なのは己の持つ『知略』で相手を捻じ伏せる手練手管。
そして誰しもが生まれた頃よりその身に内包してきた―――運(ツキ)。
先の見えぬ勝負が、開幕した。
最終更新:2016年01月14日 19:23