私と映画とスピカ1895
映画制作スピカ1895 2005年度冊子序文
私が新入生のとき、スピカの機材はハンディカム1台であった。カメラをかまえ、ファインダーをのぞき、ホームビデオのような画質を見て、理想とのギャップに幻滅もしたが、こみ上げてくる感動の方が大きかった。青春時代、学校にも家にも街にも居場所を感じられない典型的な冴えない男だった私にとって、落ち着ける時間が、通学中の自転車での妄想中と映画を見ているときだけだった間抜けな私にとって、それは初めての武器であったからだった。
しかし次の幻滅がまたすぐに訪れた。五月祭で実際に映画を撮ってみた時だった。脚本は考えつかない。思い通りの画は撮れない。何よりも撮影自体が想像以上に大変だった。そして、駒場祭、このときに撮った映画で、私の幻滅はもはや挫折になった。妄想は妄想のままで、理想にも思想にもなりえなかった。私はそのとき二十歳にしてドンキホーテになってしまった気がした。武器だったはずのカメラはやっぱりただのソニー製ロシナンテだった。
映画に対するモチベーションが下がった私は、しばらく考えていた。
「映画なんて撮ってなんの意味がある?ビジネスや語学でもやってたほうが人生に役に立つに違いない。どんな力作も10年後には痛い思い出となり、あのころは若かったと笑うことになるに違いない。」だが頭で理解はしていても、大切に育ててきた初期衝動を捨てるには、私の心はまだ若かった。
しかし次の幻滅がまたすぐに訪れた。五月祭で実際に映画を撮ってみた時だった。脚本は考えつかない。思い通りの画は撮れない。何よりも撮影自体が想像以上に大変だった。そして、駒場祭、このときに撮った映画で、私の幻滅はもはや挫折になった。妄想は妄想のままで、理想にも思想にもなりえなかった。私はそのとき二十歳にしてドンキホーテになってしまった気がした。武器だったはずのカメラはやっぱりただのソニー製ロシナンテだった。
映画に対するモチベーションが下がった私は、しばらく考えていた。
「映画なんて撮ってなんの意味がある?ビジネスや語学でもやってたほうが人生に役に立つに違いない。どんな力作も10年後には痛い思い出となり、あのころは若かったと笑うことになるに違いない。」だが頭で理解はしていても、大切に育ててきた初期衝動を捨てるには、私の心はまだ若かった。
そんななか新勧が近づき、同時にスピカをどういったサークルにしていくかについても考えるようになった。まず映画マニア以外を受け付けないようなサークルにはしたくはなかった。監督や俳優をやってみたいという人しか入れないサークルにもしたくはなかった。正直、かと言ってみんなで楽しくやれればいいじゃんというだけのサークルにもしたくはなかった。私は、誰もが何かやらかしたくてしょうがない気持ちを、大なり小なり抱えているものだと思う。だからその大なり小なりのくすぶりを、青臭い初期衝動を、水に流してしまうのではなく、昇華できるような場所にしたかった。その決意表明として私たちは、サークルの名前を、映画制作チームスピカから映画制作スピカ1895へと変えた。
果たして、去年の新歓は成功だったとは言えなかった。女性が入らなかったし、人数自体も少なかった。しかしながら去年一年間で機材も充実しだし、まだ満足から程遠いものの映画自体のレベルも上がってきた。そして今年の新歓を迎えた。やはり中心として動ける人数は少なかったし、課題も山積みだった。だが、私たちの抱いていた理念は確実に共有されていた。結果、新歓は丹羽を中心として尽力し成功し、多くの新入生が入ってくれて非常に嬉しい。先日の五月祭で300人の客を動員できたのも私にとっては感慨だ。
雨の農学部キャンパスで、たった六人の客しか呼べなかった、私とケンケンの最初の五月祭から二年。スピカができて六年。大地震が起き、サリンがまかれ十年。私が生まれ二十二年。戦後六十年。映画ができて百十年。時代は動き続けている。要約不可能なほどの営みがあり、今日を迎えている。異形のヒーロー仮面ライダーはいつの間にかイケメンアイドルの登竜門になり、ジェダイのフォースは身体検査で決まるようになった。ビデオカメラはデジタル化したのに、善悪や美醜はデジタルではなくアナログで、それどころか円環であることすら判明してしまった。「みんなちがってみんないい」を免罪符に、思考停止が跳梁跋扈し、突き立てた中指の使い道は今や鼻をほじることぐらいしかない。
そんな時代に生きる我々は、それでも、だからこそ、我々なりの方法で、曖昧な現実を、曖昧なまま、葛藤したまま、克明に表現してみせようではないか。
そんな時代に生きる我々は、それでも、だからこそ、我々なりの方法で、曖昧な現実を、曖昧なまま、葛藤したまま、克明に表現してみせようではないか。
(高)2005.4