某美術予備校の教室の片隅で-迷走する卵たち
「とにかくさ、本当に来週までには頼むから何か作って持ってきて」。
切羽つまった講師の一言である。新宿の、某美術予備校で講師から言われ続けた言葉だった。現代美術を学ぼうと思って東京芸術大学の先端芸術学部に対応したクラスに入部した。もともとデザイン科にいたのだったが、ただ表面的に美しいデザインを追及するのではなく、もっと根本的な表現活動をやってみたいと思って先端芸術学科に移ったのだった。
切羽つまった講師の一言である。新宿の、某美術予備校で講師から言われ続けた言葉だった。現代美術を学ぼうと思って東京芸術大学の先端芸術学部に対応したクラスに入部した。もともとデザイン科にいたのだったが、ただ表面的に美しいデザインを追及するのではなく、もっと根本的な表現活動をやってみたいと思って先端芸術学科に移ったのだった。
ある日、自分の作品を順々にクラスのみんなに紹介することになった。ある男の子が作ってきたのは、傘の柄を何十本も組み合わせた直径1mくらいの巨大なボールのようなモノだった。それは伸縮自在で、畳んでしまうと直径30cmくらいになる。私がかろうじて理解できたのは、それが傘の柄でできていることであり、作るのに相当な時間がかかったのだろうなということだけである。作品のコンセプトというか、何を訴えたいのかということまではそれを見て、もしくは彼の説明を聞いても理解するまでにはいたらなかった。もう一人の女の子が持ってきたのは、裾が四方に広がっている真っ白いドレスである。体の部分全体に、なにやら形容詞のような単語がプリントされている。彼女は「この裾から、電波が流れてて・・それでコミュニケーションが・・」どうのこうのと言っていたのを記憶している。私はといえば、彼女が何を言いたいのか理解しようとすればするほど混乱状態に陥っていくばかりだった。入部したての男の子の番になった。彼は自作の天秤のようなモノを持ってきていた。声を震わせ、思い詰めた面持ちで、黒板に幾何学式のようなものを書きながら、おそるおそる講師の顔をちらちら見て説明しだした。しかし、何分もしないうちに、自分でも自分が何を言いたいのか分からなくなった様子で、黙りこくってしまった。講師が、どうかしたのかと聞くと、彼はそもそも作品にテーマは必要なのか、テーマとは一体何かと聞いた。講師は、それは自分で考えることだろうと言い放ち、彼の番はそこで終了した。当の私は、実は新しく入部した彼の気持ちがよく理解できた。現代美術が何だか分からない。ただその一言に尽きるのだ。現代美術がやりたくて入ったのに、現代美術が分からないとは一体どういうことか、と思うだろう。私は現代美術を知らない。それで、学ぼうと思って入ったのだ。この半年間のクラスで言われたのは、最初に述べたように、ただただ、「とにかく、何かを作ってこい」だった。クラスに初めて入ったときから、講師からは現代美術がそもそも何なのかさえ教わることなく、ひたすら自分で何か作るしかなかった。
美術教育とは何か。本来の目的は、優秀な芸術家を世に送りだすことにある。予備校で言われたように、確かに自分で考えるということは大切である。しかし、その前段階として、どのようにテーマを設け、どう作品という形でそれを表すのかを教えることは必須であると思う。本当に大切な部分は、基本を教わったあとの、自分の新しい世界を構築していくところである。それを教えるのを怠って、「自分で勝手に悟れ」、「自分で考えろ」とはあまりにも放任主義ではないか。このような美術教育の下では、面白いアートを発信できる人材は育たない。全て基本を教えてから各人の才能を伸ばそうとするアメリカの美術教育制度に比べたら日本の今後の美術界の行方に不安を隠せないのは私だけだろうか。
(照)