こんにちは
~人間は孤独だね~
他者を理解するとは何か?
ここにいわゆるサトリがいたとする。彼は我々の考えていることを読み取るという。
だが彼が読み取るという、我々の考えていることとは何か?
それは我々の言語化した思考か?
はたまた我々の言語化以前の感情か?
ここにいわゆるサトリがいたとする。彼は我々の考えていることを読み取るという。
だが彼が読み取るという、我々の考えていることとは何か?
それは我々の言語化した思考か?
はたまた我々の言語化以前の感情か?
サトリが読み取るのは言語化した思考であろう。そうでなければ、サトリは対峙した者の次の動きを、次の言葉を的中させることは不可能である。感情を読み取ったところで、我々は悲しめば必ず嘆くわけではなく、憤れば必ず怒鳴るわけでもなく、次の一手は読み取りようがない。
さてサトリは我々の究極の理解者であると言えようか?
我々が悲しみの理解を他者に求めるとき、我々が憤りの理解を他者に求めるとき、我々はその他者に、自分の言葉の、意志の理解を求めているのであろうか?否、我々はそのとき我々の感情の理解を求めている。共に、悲しみ、憤ることを求めている。
さてサトリは我々の究極の理解者であると言えようか?
我々が悲しみの理解を他者に求めるとき、我々が憤りの理解を他者に求めるとき、我々はその他者に、自分の言葉の、意志の理解を求めているのであろうか?否、我々はそのとき我々の感情の理解を求めている。共に、悲しみ、憤ることを求めている。
それでは、サトリが他者の感情を読み取るとしたならばどうであろうか?それはもはやサトリのサトリたる機能を備えておらず、それはサトリではなく、カンジとでも呼ぶべきものである。カンジは、もし我々に対峙したならば、我々が悲しめば、彼もまた悲しみ、我々が憤れば、彼もまた憤るであろう。
さてカンジは我々の究極の理解者であると言えようか?
カンジは、我々が嘆きへたり込んでいるとき、もしかしたら、明日のために一歩歩き出しているかもしれない。なぜなら、我々も彼も等しく悲しみつつも、そこからどのような意志を持って生きるかは、等しくはない。(そこが、カンジとサトリの読み取る次元の違いでもある)我々が憤怒で暴れまわっているとき、カンジは憤りつつも恋人の待つ家路についているかもしれない。しかしそんなカンジを見た我々は、言えるであろうか?カンジを、我々の究極の理解者であると
さてカンジは我々の究極の理解者であると言えようか?
カンジは、我々が嘆きへたり込んでいるとき、もしかしたら、明日のために一歩歩き出しているかもしれない。なぜなら、我々も彼も等しく悲しみつつも、そこからどのような意志を持って生きるかは、等しくはない。(そこが、カンジとサトリの読み取る次元の違いでもある)我々が憤怒で暴れまわっているとき、カンジは憤りつつも恋人の待つ家路についているかもしれない。しかしそんなカンジを見た我々は、言えるであろうか?カンジを、我々の究極の理解者であると
我々の究極の理解者は、カンジサトリである。我々と同じように感じ、我々と同じように行動する。それは我々自身でしかない。かつ、我々もまた、我々自身の感情を感じえず、我々自身の行動を理解しえないことを鑑みれば、我々は誰にも理解されず、誰も理解できない。我々は理解者を求める。イデアとしての己自身を求める。しかしながらそんなものは存在せず、人間は悟らざるを得ない。人間は孤独だ、と。
イデアとしての己自身を他者へ仮託する行為、つまり己と他者を同一視する行為、それは分かりやすい例で言えばセックスである。だが我々はセックスをしていても孤独であることに変わりはない。なぜなら己と他者は紛れもなく別である。人間の相性はすべからく悪く、人間は他人間だ。さて、孤独を受け入れられない人間は、フリをする。お互い理解し合っているフリをする。お互い愛し合っているフリをする。己と他者を同一視する。私たち愛し合っているの、私たち相性がいいの、それらの言葉は、他者をイメージとして捉え、自分の理解できる範疇に収めようとする、激しい欺瞞と同調圧力に満ちている。それはマスターベーションとも言えよう。
イデアとしての己自身を他者へ仮託する行為、つまり己と他者を同一視する行為、それは分かりやすい例で言えばセックスである。だが我々はセックスをしていても孤独であることに変わりはない。なぜなら己と他者は紛れもなく別である。人間の相性はすべからく悪く、人間は他人間だ。さて、孤独を受け入れられない人間は、フリをする。お互い理解し合っているフリをする。お互い愛し合っているフリをする。己と他者を同一視する。私たち愛し合っているの、私たち相性がいいの、それらの言葉は、他者をイメージとして捉え、自分の理解できる範疇に収めようとする、激しい欺瞞と同調圧力に満ちている。それはマスターベーションとも言えよう。
愛するという行為は孤独である。決して理解できないものを受け入れなくてはならない行為である。人間は愛する人間とセックスをするとき、身体は悦びに打ち震えつつも、頭は決して一体化し得ない身体に慟哭している。
(高)