第061話 許容範囲 ◆7NffU3G94s
三十分。その時間をここまで長く感じたことを、
葦月伊織は今までなかっただろう。
俯き自分の手首を抱えたまま黙っている少女の背を、伊織は我慢強くずっと撫で続けていた。
今は大人しくなった少女の首には、黒い布が巻かれている。
本当は消毒をした上で清潔な包帯などを用意するべきだったのだろうが、ここでそんなものが都合よく出てくることはない。
在り合わせのものでもないよりかはマシだと、伊織は自らのタイをほどき少女の首に巻きつけた。
……少女が手にしていた包丁は伊織が無理矢理彼女のデイバッグにしまい直したので、もう彼女いきなりあんなことを仕掛けてくることはないだろう。
しかし、それでも暗い少女の様子が晴れる様子は一向になく、伊織はそれが気になって仕方なかった。
「私、葦月伊織。名前教えてもらってもいいかな」
「……」
微笑みながら優しく声をかけるものの、そんな伊織の問いに返ってくる答えはない。
……ある意味、この三十分は伊織にとってロスタイム以外の何物でもなかった。
友人に後輩、そして誰よりも優先すべきである恋人の存在が伊織の脳裏を瞬間掠める。
恋人である彼と伊織が正式に結ばれたのは、本当につい最近であった。
伊織は、正に幸せの絶頂だった時にこの島に召喚されたことになる。
また、伊織には夢もあった。
やっと女優になるための一歩を踏み出したばかりだというのに……自分の運の悪さに、伊織はその柔らかそうな自身の唇を強く噛み締めた。
「ひっ」
「あ、ご、ごめんなさいっ! 大丈夫、大丈夫だから……」
少女の背を撫でていた手に自然と力がこもってしまったのだろう、掠れた悲鳴に我に返った伊織は慌てて取り繕おうと笑みを浮かべる。
演技ならお手の物だった、どんな状況でも伊織は笑顔を作ることが出来る。
苦渋に満ちた伊織の表情に華やかさが舞い戻る、しかしどこか物悲しい様子がそこから抜ける様子はない。
……そのせいだろうか。
どんなに伊織が宥めようとしても、少女の体の震えは増すばかりだった。
どこか虚空を見つめたまま少女はガタガタと全身を揺らしている、見開かれていく少女の瞳を慌てて伊織は覗き込んだ。
「え、大丈夫?」
少女の様子のおかしさに伊織も生まれた戸惑いを隠せないのだろう、思わず上ずった声を上げた。
少女の肩を抱くようにと正面に回り込もうとする伊織、しかし伊織が動き出すその前にガサッという雑音が彼女の耳に入りこむ。
自身が立てた訳ではないそれが草木を踏みつける音だと判断したと同時に、伊織はすかさず背後へと振り帰った。
それは、伊織は虚空を見ているものだと判断していた少女の視線の先に居た。
暗闇の中月の光に浮かぶは、長い金髪を湛えた一人の男。
どっしりとしたその構えに、思わず伊織も息を飲む。
気味の悪いジャケット、骨をかたどったデザインのそれが男の奇妙さをも表しているようで伊織の恐怖を煽らせた。
体格の良い男の面影を隠すかのごとく長い金髪が風に舞う、隙間から覗くサングラスでは男の表情を読むこともできない。
「……」
しばし見つめ合うことになる伊織と男。
しかし、伊織の中ではこの時点で既に結論は出せていた。
この男は危険である……男の放つ雰囲気で、伊織はこの場から一刻も早く離脱するべきだと判断した。
「立って、逃げなきゃ!」
振り向き、いまだ呆然となっている少女の手を引き伊織は立ち上がろうとする。
しかしいやいやをするように頭を振るだけで、少女が腰を上げる気配はない。
どうすればいいか、伊織の焦りは募る一方である。
その間も男は、沈黙を保ったままこの少女等二人を見下すだけだった。
このまま立ち去ってくれれば。そんな都合の良い考えが伊織の頭を過ぎるが現実はそこまで甘くない。
ついに男が伊織達の方へと足を踏み出してくる、このままでは危ない、どうすれば、どうすれば。
「ひっ……いやぁ、いやぁ……おにいちゃん……っ!」
冷静さがどんどん欠けていく伊織の頭に響いた少女の声。それで伊織は、はっとなった。
そう。今伊織自身に何ができるのか、何をするべきなのか。方向性の変化した考えが彼女の頭を満たしていく。
伊織の傍らには、庇護すべき対象とも言える少女がいる。
少女は怯え、震え、何もできない状態だった。
そんな少女を置いて一人逃げるか。否、そんなこと伊織ができるはずなどない。
友人に後輩、そして誰よりも優先すべきである恋人の存在。伊織にとって仲間と呼べる大切な人達が、この島にはいた。
早く彼等と再会し、この島から逃げ出したいという思いが伊織の中で一番強いのは確かである、それも一つの事実である。
しかし、それだけを優先する程伊織は冷酷ではない。
次の瞬間伊織は勢いよく起きると、ばっと両の手を水平に広げ男の進路を断つべく立ち上がっていた。
少女を庇うため自ら前に出てきた伊織の瞳に、一切の迷いも存在しない。
……恐怖心が拭えた訳ではないだろう、それは伊織の小刻みに揺れる両膝が物語っていた。
しかし伊織がその構えを解こうとはしない。
キッと睨みつけるように男を見やりながら、伊織は男と対峙した。
「……誰かいるわ」
「ほ、本当ですか?!」
すかさず人差し指を口元にあてながら傍らの少年に牽制をかけると、
野上冴子は木の陰から前方の様子を覗き込んだ。
体格の良い長身の男に、制服に身を包んだ少女が二人。
少女はどちらも違う制服を身に着けていたが、年頃は同じ程であろう。
少女二人は座り込み、見上げる形で男を見やっているだけだが、男の風貌から遠めに見て読める状況は最悪なものしか浮かばない。
冴子は装着しているメリケンサックの確認をした後、いざという時は飛び出せるようにと自身の準備を整えた。
「!! 伊織ちゃんっ」
漏れた声は冴子の隣にて同じように茂みに隠れながら場を覗いていた少年、
瀬戸一貴のものだった。
思わず一貴へと視線を移した冴子の瞳に映ったのは、驚愕に満ちた少年の表情だった。
『伊織ちゃん』、少女の形容を表すであろうそれが指し示すものを瞬時に冴子は理解する。
「……どっち?」
「え?!」
「あそこにいる、どちらかの子でしょ? 瀬戸君の友達の葦月伊織さんは、どちらの子かしら」
「えっと、あの紫と黒の制服の子です!」
移動の際一貴は知人についての情報を冴子に流していた、それで冴子もすぐ思いつけたのだろう。
すかさず答えた一貴の言う伊織の特徴を照らし合わせながら、冴子は『伊織』に判別をつける。
「了解……ん、さすがに月の光だけじゃ分かりにくいけど、全体的に暗い制服の子ってことでいいのよね。
すぐにでも声をかけてあげたいけど、あの男が厄介ね……」
そうして冴子は、改めて男の背中を見回した。
がっちりとした体つきが男の筋力を表している、それは遠めから見ても容易く判断をすることができるくらいであった。
月の光の下、男は少女二人の前で仁王立つ。その姿に隙も見当たらず冴子は小さく舌を打つ。
と、ここでふと冴子の脳裏に何か閃くものがあった。
それは微かな情報であり、冴子の中にあるおぼろげな記憶では言葉には表せない程度のものである。
それでも、何故かその背中に冴子は何かしらの「覚え」があった。
(……何? ついこの間だった気がするわ、誰かから聞いた話だったかしら……)
しかしゆっくりと溶かそうにも、曖昧な記憶の中からでは確かな情報というのは嗅ぎ取れない。
冴子は集中し、何とか事を絞り込めないかと必死に頭を動かした。
そうやって、冴子が考え込んでいる時だった。
一貴はそんな彼女の様子には一切気づかず、ハラハラと場を見つめていた。
座り込んだ少女二人といかつい体付きの男が一人、一見頓着しているように見える場だが伊織達が危険な立ち位置にいることに変わりはない。
飛び出して行きたいという思いが一貴の中に全くないわけではないだろう、だがここで軽率な行動を取り事態が変な方向に移ってしまうことを一貴は恐れた。
今一貴自身に何ができるのか、何をするべきなのか。一貴はその案を思いつくことが出来ずやきもきしながら、ただただ見守ることしか出来なかった。
と、その時もう一人の少女を庇うかのように伊織が一歩前に出る。
両手を開き、男の進路を塞ぐような形で伊織はその場に君臨した。
伊織が標的になる可能性はこれで一気に増したことになる、一貴は慌てて冴子へと目をやり彼女からの指示を仰ごうとした。
しかし先ほどから固まったままの冴子は、一貴の視線に気づかないのかただじっと前方を見つめながら押し黙るだけだった。
……ゆっくりとした歩みで男が動き出したのは、それからすぐのことだった。
縮まっていく伊織と男の距離、二人がぶつかり合うのにそう時間はかからないだろう。
どうすればいいか、冴子から指示は与えられない、そうこうしている間にも男はどんどん伊織へと近づいていっている。
……一貴の我慢が限界を迎えるのに、そう時間はかからなかった。
「……伊織ちゃんっ」
「?! 瀬戸君駄目よ、短絡的にならないで!!」
小さく叫び、一貴は決意を心に練りこむと同時に隠れていた茂みから飛び出した。
気づいた冴子がその場で制止の声を上げるが最早それは届かない、既に一貴は三人の男女の下へと駆け出している。
その手にはナイフが、一貴に支給された武器であるスペツナズナイフが握られていた。
「伊織ちゃんに何する気だああああああああぁぁ!!」
ナイフを振りかぶりながら大声を上げ、一貴は男の注意を引こうとする。
あまりにも目立つ行為、金髪の男以外にも伊織、そして伊織が庇っていた少女も同時に一貴へと目線を向けた。
「せ、瀬戸くん?!!」
伊織の声、いつもは耳に入るだけで甘酸っぱい思いに包まれるそれを無視して一貴はナイフを振り上げる。
ナイフが振り下ろされるまで五秒にも満たないだろう、一貴は無我夢中で走りながらナイフを男へ……
「ぐぎっ」
まるで、人間のものとは思えないもの。しかし確かに人が発した声だった。
それが自身のものだと一貴が気づくのに、そう時間はかからないだろう。
一種の浮遊感、肌を裂く風の勢いを感じると同時地面へと叩きつけられた様な感触を得た一貴は口の中に広がっていく血の味に酔いそうになっていた。
細められた一貴の瞳が映す世界、そこに君臨するは裏拳を放ったであろうポーズをとる金髪の男が一人。
ああ、この男に殴られたのだと。次の瞬間一貴は既に理解できていた。
「瀬戸くん!!」
伊織の声、ずっと会いたかった愛しい彼女は今一貴の目の前にいた。
しかし一貴は体を動かすことが出来ないでいた、受けた体のダメージというよりも精神的負荷が大きいのかもしれない。
無我夢中になっていた一貴の体に、この段階で震えが走る。
溜まっていた緊張感が放出されてしまったのだろう、己の情けなさに一貴は泣きそうになった。
そんな一貴の視界に、こちらへと駆け出そうとする伊織の姿が映し出される。
一貴は男の足元に転がっていた、伊織が一貴のもとへ向かうにはあの男の横をすり抜けなければいけなかった。
その危険性に、一貴の鼓動は一際大きく鳴り響く。
(ダメだよ伊織ちゃん、こっちに来ちゃ……っ)
口に出したい、声に出したいという一貴の願望は叶わない、大きく切れてしまった口内のおかげで一貴はまともに声を出すことができないでいた。
だが予想外と言うべきか、男は伊織が彼の横をすり抜ける際彼女に対し何の手出しもしなかった。
男の真横を過ぎる伊織、一貴と伊織の距離がゼロに近くなっていく。
一貴は、心の中でひたすら彼女の名前を呼んでいた。
先ほどまでの恐れが掻き消える、大切な存在が目の前まで近づいてきたという現実が一貴の思考を麻痺させた。
あと数歩。伸ばされた伊織の手に触れたくて、一貴は震えの残る左手をゆっくりと彼女の方へと差し出そうとした。
「い、いやああああああああああああ!!!」
鮮血が飛んだのは、その時だった。
* * *
口内でガチガチと鳴り響く、それは少女の歯が奏でるリズム。今、彼女の脳はそれで満たされていた。
赤木晴子。最愛の兄の惨殺された死骸を見せつけられ、弄ばれ、少女は絶望に陥った。
自ら死を選ぼうにも戸惑いは拭えず、それが中途半端な覚悟だと自覚させられることも晴子の精神を傷つけた。
首に走る躊躇い傷が痛む、しかしそれは「彼女」のおかげで大分軽減されていた。
彼女は、自分の名を「葦月伊織」と名乗った。
何だか晴子も聞いたことがあるような名前だったが、それを思い出すことはできなかった。
暖かい笑みを湛えた伊織は尽きっきりで晴子を慰め続けてくれた、口に出すことは出来なかったがそれは晴子にとっても救いとしか表せなかった。
首に巻かれた、タイが熱い。それが伊織の優しさだった。
ありがとう、その一言を告げたくて晴子は落としていた視線を上げる。
……伊織は何か考え込んでいるようだった、眉間に寄せられた皺が丹精な作りの顔に闇を落としている。
どうしたのだろうか、晴子が不思議に思った時であった。
顔を上げた晴子は、隣にて座っている伊織の向こうに一つの影を見つけることになる。
いや、影と表すべきではないだろう。少なくとも、月の光に反射するその長い金髪はこの暗い森の中でもかなり目立つ存在であった。
目を奪われる、その美しさに晴子は見惚れそうになる。
だが、次の瞬間確認できた金髪の持ち主である男の表情……サングラスに覆われているため目は確認できない、それでも硬く口を閉じ堂々としている男の雰囲気に晴子は寒気が隠せなかった。
「ひっ」
自然と漏れる掠れた声、晴子はそれでも男から目が離せなかった。
離した途端に男がどのような行動に出るか、それを想像するだけで晴子の思考はマイナスのものしか浮かんで来ない。
伊織が何か口にしている、しかし晴子は答えられなかった。答えられる余裕がなかった。
口内でガチガチと鳴り響く、歯の奏でるリズムが晴子の脳を満たしていく。
そこにある純粋なる恐怖、フラッシュバックする兄の死の光景に晴子は大きく目を見開いた。
(私も……死……ぬ…………お兄ちゃん……みた、いに……)
「立って、逃げなきゃ!」
誰かが何かを口にしている、だがそれを晴子の耳は言語として捉えることが出来ないでいた。
先ほど、晴子は自ら命を絶とうとした。
彼女の絶望は大きく、そのつらさから逃げるためにと晴子は自身に支給された包丁を自分の首へとあてがった。
しかし伊織のおかげで、晴子は自身を取り戻しかけた。
あの時の晴子には死ぬ覚悟はあったが、死ぬ勇気がなかった。
今の晴子はどうか。
精神的には落ち着いてきたはずだろう、だが今の晴子は……勇気はおろか、覚悟さえも希薄になっていた。
「死ねなかった」という事実が、晴子の弱さである。
それは逆に、「死にたくない」という晴子の内に隠されている人間の本能を刺激する。
晴子は混乱していた、友好的なムードの全くない男の登場で癒されかけた心にひびが入る。
殺し合いが強制されるこの島にて、疑うべきは全ての他人である。
生き残れるのはただ一人、そのために自らの手を汚す者がいてもおかしくはない。
いかにも力があるように見える筋肉の隆起は、男の着る気味の悪いデザインのジャケットの上からでも確認できる。
男の放つ相手を萎縮させるような雰囲気、サングラスで隠された冷たい表情、たくましいとしか表せない体格。
男の手は、両手ともズボンのポケットにしまい込まれていた。
では、その手がポケットから出された時一体何が出てくるのであろう。
銃? ナイフ? いくつも成り立つ憶測に晴子は頭がクラクラとしていくのを感じた。
死にたくない。
それは、間違いなく恐怖という言葉で表される激情だった。
死にたくない。
しかし死ぬ可能性など誰もが持ち得ている。
死にたくない。
いや、死んで楽になりたいと晴子も一度は願ったのだ。
なら、死んでもいい?
「ひっ……いやぁ、いやぁ……おにいちゃん……っ!」
晒された、晴子の大好きな兄の生首。
親しみのあるバスケ部の顧問は、躊躇なくそれを投げ打った。
放たれたシュートの描く軌跡、薄く開かれた兄の瞳が晴子の頭から離れない。
瞬間、その生首が自分のものに置き換えられる。
それは想像させるだけで晴子の涙腺を破壊した。
そしてそれが、傷ついた晴子が受け入れかけた現実の許容範囲を突破した瞬間だった。
* * *
「い、いやああああああああああああ!!!」
嬌声、場に響いたそれと同時に伊織の前進は止まった。
手を前に伸ばしながら地に落ちていく伊織の姿、言葉を発さなければ瞬きもせず一貴は目の前の光景を見つめていた。
手が、届かなかったということ。
もう少しで触れる所だったのに、何故か伊織の足は止まったということ。
「いや、いや! ぅあああああああああああああ!!!」
伊織の足は止まったが、少女の嬌声は止まらない。
聞き覚えのないその声の持ち主は伊織が庇っていた少女のものだった。
少女は喚きながら、ひたすら自分のデイバッグの中身を四方八方に投げつけていた。
全てをぶちまけ終わると、今度は頭を抱えてその場で小さく丸くなる少女。
「……ぃやぁ……死に……たくなぃぃいいぃぃ……」
こもったような声、しかしそれが少女の全てを表しているのかもしれない。
全身麻酔がかかったかのように身動きが取れなかった一貴の体はいつの間にか回復している、ゆっくりと半身を起こすと一貴はずりずりと膝を擦りながら倒れた伊織のもとへと近づいていった。
そこには、何故かじんわりと広がっていく赤い泉が形成されていた。
「瀬戸君!」
背後からの声。一貴が振り返ると、やっと追いついてきたのか真後ろにてこちらを見やる冴子の姿が目に入る。
応急処置を、そう口にして自らのジャケットを脱ぎながら冴子は一貴の横に膝をつき倒れる伊織を見下ろした。
「ぁ……」
伊織の声、弱々しいそれに一貴の心臓がドクンと大きく鳴る。
自らのジャケットを伊織の背中に添えながら、冴子はそれを引き抜いた。
……赤く、赤く染まっていく冴子のジャケットから一貴は目が逸らせない。
冴子の右手には包丁が、銀の刃が光っている。
視線を伊織へと戻す一貴、冴子が何やらもぞもぞとやっているが一貴はその行為をどこか遠い世界で行われているようなものに感じていた。
何が、起きたのか。
自身の頭に手を沿え、一貴はゆっくりと場面を思い起こそうとする。
駆ける伊織の足が止まる、それは伊織の庇っていた少女が悲鳴を上げるのとほぼ同時だった。
少女は自分のデイバッグに入っていた荷物をひたすら周囲に投げつけてた後、自分の殻にこもるかの如く丸くなる。
今でもそうだった、自分以外の存在を近づけさせないためにとった行為なのかもしれないという憶測は容易く成り立たせることが出来る。
伊織の背中には一丁の包丁が刺さっていた。
伊織は、あの男の前を通り過ぎた後倒れた。あの男にやられた?
……違う、男はずっと両の手を自らのズボンのポケットに入れたままだった。
見上げる一貴の視線の先、男はまだ変わらぬ様子でその場に立ち尽くしているだけだった。
ふと、サングラス越しの男の目が一貴の方へと向けられる。
「……」
「……」
お互い、しばしの間無言で見つめ合う一貴と男。
興味無さそうに顔を背け、一人場から去っていく男の背中を一貴は止めようとは思わなかった。
少なくとも、この男は今関係ないと。一貴は、そう判断したからである。
変わりに視線をずらし、あの今もまだ丸くなったままの少女の姿を一貴は見つめた。
伊織の背中には一丁の包丁が刺さっていた。
駆ける伊織の足が止まったのは、伊織の庇っていた少女が悲鳴を上げるのとほぼ同時だった。
少女は自分のデイバッグに入っていた荷物をひたすら周囲に投げつけてた後、自分の殻にこもるかの如く丸くなる。
少女のデイバッグに入っていた荷物とは、水に食料などこのロワイアルに巻き込まれた参加者全てに共通して配布されたものである。
一貴のバッグにもあった、しかし一つだけ「共通」ではない支給品があった。
ランダム支給品。一貴が引き当てたスペツナズナイフのように、この少女に与えられたものが伊織に突き刺さった包丁であるならば。
疑問という名の氷は、瞬時に溶けきることになった。
「瀬戸君、ごめんなさい……」
名前を呼ばれ振り向く一貴の目に入ったのは、悔しそうに唇を噛み締める冴子の姿だった。
何故、冴子はこのような表情をしているのか。
「……せと……く、ん……」
か細い伊織の声、伊織は冴子に膝枕をされる形で横たわっていた。
真っ赤に染まったジャケットからは血が滴り落ちている、それが冴子の「ごめんなさい」の意味なのだろう。
「い……葦、月」
薄く開かれた伊織の瞳を覗き込むように、一貴は屈み込んだ。
光の見えない濁ったそれから、普段の彼女の愛くるしさは読み取れない。
「せと……く、ん……」
伊織の声、一貴は妙に冷めた気持ちでそれを聞いていた。現実と認識できなかったのかもしれない。
彼女が何故こんな目に合わねばという不条理さ、ふつふつと湧き上がる静かな怒りが一貴の中を満たしていく。
「死に……たく……ない……よぉ……」
「葦月?」
零れる伊織の涙を指で拭うと、一貴は彼女の手を握り締めた。
さっきは届かなかった伊織の柔らかい手、暖かくすべすべとした手触りに一貴の胸はせつなくなる。
現実とは認識できなかった、でも実際伊織の命は一貴の目の前でその灯火を消す寸前まで弱りきってしまっている。
少女が適当に投げつけた刃が、そんなにも深く刺さってしまうものなのか。
距離は……確かに、そこまで開いていない。
でも、何故。これは偶然なのか、恣意的なのか。それすらも一貴は分からなかった。
ただ、分かるのは。
「よし……伊織、ちゃん……?」
死にたくないと呟く少女が苦しそうに咳をする、吐かれたのは膨大な量の血液だった。
伊織の手と繋いでいた一貴に手にも血液がかかる、一貴はそれを避けようともせず真っ向から浴びた。
暖かい。だが、吹き抜ける風が瞬時に冷やして温度を消す。
それでも、一貴の握り締める伊織の手はまだ暖かかった。
暖かいうちは大丈夫。
生きている。死んでいない。
死なない。
「伊織ちゃん……死ぬわけ、ないよ……だって、こんな、さ……ありえない、だろ……」
現実と認識できない、現実。
一貴の目から涙が零れることはなかった、ただカラッカラに渇いた喉の痛みが一貴にそれを強要する。
泣けと。大好きなあの子が死んだのだ、悲しみに伏せ泣き喚けと。
しかし、一貴は泣かなかった。
泣いたら、それは認めてしまうことになる。
――伊織が死んだと、認めてしまうことになる。
「思い出したの……
神崎狂よ」
動きを止めた伊織の髪を指で梳きながら、冴子は言葉を紡ぎだす。
一貴は微動だにせず、ただ音としてそれを耳にした。
「私の判断ミスだわ、あの男がこれだけ危険な男だともっと早く気づいていれば彼女をこんな目には……」
目を伏せ、伊織の髪に触れていない方の手を冴子はきつく握り締める。
ごめんなさい、瀬戸君。もう一度そう呟き、冴子は一筋の涙を流しながら語った。
警察でもマークを徹底していた覚醒剤常習者、神崎狂。
冴子が直接の担当に回ることはなかったが、それでも噂だけは警察署内でも充満していた男のことを。
ぼーっと霞みそうになる意識の中、一貴は何故このタイミングで冴子があの男のことを話し出すのだろうと考えた。
「そうね、もう何を言っても遅いのかもしれないけど……奇襲をしかけてあいつを殺してやるぐらいの勢いがなくちゃ駄目だったのよ……。
あんな犯罪者をのさばらせた結果がこれなんて……この子が、浮かばれないわよ……」
冴子は一人、悔しそうに言葉を吐いている。
……冴子が何か勘違いをしている、そう気づいた一貴はゆっくりと顔を上げ冴子の横顔を見た。
怒りに染めたその表情に初めて会った時のようなクールな面影はない、しかし冴子の認識している現実の間違いだけは修正しなければと今度は一貴が口を開く。
見る角度に問題があったのかもしれない。確かに伊織は神崎と冴子が呼ぶ男の横をすり抜けた後倒れたが、神崎の手が両ポケットに入ったままであることを確認していないと誤解も生まれてしまうだろう。
あの男が伊織を手にかけることなど物理的に不可能だった、それは一貴も保障ができる証拠でもある
しかし。
「瀬戸君、何を言ってるの?」
一貴は、自分の血の気がさーっと引いていくのを自覚した。
己の目で見た現実を一貴は冴子に細かく説明した、相変わらず喉は掠れたままで長く喋るのはきつかったがそれでも一貴は丁寧に離した。
だが、冴子がそれを受け入れようとする様子は皆無である。それは一種の思い込みであった。
また神崎がナイフの使いに長けているという事実が、冴子の憶測を彼女自身の中で確定次項にまで昇らせていた。
事は既に過ぎてしまったことである、今更詳細の確認などできない。
一貴には一貴の、冴子には冴子の持論ができてしまい会話は平行線になりかける。
……もし普段の冴子であれば、そのような軽率な判断を下さなかったかもしれない。
だが彼女の中には後悔があった、目の前で見殺しにしてしまった未来のある若き少女の存在が冴子自身を焦らせていた。
そして、ずっと考えていた「神崎狂」という男の存在。
焦りは唐突なる結論を突きつける、そして冴子の下したモノにいくら間違いがあっても。
今の彼女に正常な判断をつけることは、厳しいとしか言いようがなかった。
冴子から向けられる疑念の眼差し、その気分の悪さに一貴は吐きそうになるが、それでもここで無意味な口論を続けても仕方ないと引き下がる。
だが、押し黙った一貴に冴子がかけたのは、あまりにも残忍な響きを持った言葉だった。
「少し騒ぎすぎたかもしれないわね、場所を移したいわ。瀬戸君、あの女の子をつれてきてくれないかしら」
「……野上さん? 俺言いましたよね、あの子が……あの子が伊織ちゃんを……」
「瀬戸君、いい加減にして欲しいわね。……神崎を庇っているつもりなの? 怯えて固まってる、あの子を犯人に仕立てようとするなんてどうかしてるわ」
「野上さん!!」
聞く耳を持たないといった冴子の態度に、一貴の我慢も限界を迎える。
ついには大きな声を上げてしまう一貴だが、それでも冴子はクールに彼の言葉をかわした。
……伊織の前でこんな口論を続けなければいけないなんて。
申し訳ない気持ちで一貴は泣きそうになる気持ちを抑えられなかった、しかし冴子にはとりつく島もなく一貴のフラストレーションは高鳴る一方となる。
確かに冴子は凄かった、刑事だという雰囲気も相成り彼女の頼もしさは一貴にとって安心感以外の何物でもなかった。
しかしそれでも、いくら頼っていたとはいえこのように無下な扱いをされる謂れは一貴にも微塵もなかった。
「俺の……俺の話を、もっとちゃんと聞いてください!!」
小さく溜息をついた冴子が、呆れた表情で一貴を見やる……その表情は驚きのものに一瞬変化するが、それでもいつもの余裕なものに戻るのに時間がかかることはなかった。
「またそれ? 瀬戸君、最初会った時も同じことしたわよね。……で、それでどうするのかしら。
もうちょっと頭を使って欲しいものね、私を脅す気?」
呆れた口調で振るいにかけようとする冴子。
彼女の視線の先、一貴は冴子を睨みつけながらスペツナズナイフを構えていた。
その切っ先は冴子に固定されている、冴子の態度が一貴の許容範囲を上回った結果彼はこのような強行に出てしまった。
もっと自分の意見も尊重して欲しい、一貴はただそれだけを望んだ。
脅しではあるが、一貴はこれで少しでも冴子の態度が変わってくれればと薄い望みをかけていた。
「伊織ちゃんの前でこんなことさせないでください、野上さん俺はただ……」
「後にしましょう、瀬戸君。今はここから離れたいわ」
「野上さん!!」
冴子の聞き分けの悪さに一貴はだんだん悲しくなってくる、ナイフを握り締める手にも思わず力が入ってしまった。
その時だった。
柄の上部にあったひっかかり、一貴は勢いでそれを押してしまっていた。
一貴が自覚した時にそれはもう放たれている。一貴は、それを呆然と見やることしか出来なかった。
放たれたモノ、それは冴子の額に突き刺さる
銀色の刃だった。
瞬間噴出す血と共に冴子は後方にどっと倒れる、その膝の上ではまだ伊織が寝たままだった。
どさっと冴子が地についたと同時に、風の掻きたてるもの以外の音が場から消えた。
一貴は、そっと自分の手の中におさまっているはずの自身に支給されたナイフを見つめた。
そこには柄しかなかった。
月の光は少々引き、薄暗さも大分ましになった時刻。
残されたのは上半身に冴子の血液を浴びた一貴と、丸くなったまま小さく嗚咽を漏らす晴子だけだった。
――あの場から既に離れていた神崎が、後に起こったことを知りうることはない。
ただ馬鹿らしいと、神崎は彼等に対し一切の興味も持たず今も一人黙々と山道を進んでいる。
神崎の中、じわじわと胸の奥からせり上がってくるのは多くのドラッグを使用したことによる副作用だけではないだろう。
胸の疼きを消すことが出来るのは、神崎の宿敵である
日々野晴矢を討ち取るとこのできた後のみだった。
神崎は自身の欲の追求のためだけにただその足を動かしている、だがそれは彼自身しか分からない彼の「思い」である。
――神崎があの場に残っていれば、もっと違う未来になったかもしれない。
零れた雫は一貴が流したものだった。
認めなければいけない現実を前に、一貴は重なり合う二つの死体を見つめていた。
【E-05/神塚山山中/一日目・午前4時30分過ぎ】
【女子01番 赤木晴子@SLAM DUNK】
[状態]:精神的に不安定、自分の殻にこもってしまっている・首に切り傷(伊織のタイが巻かれている)
[装備]:なし
[道具]:なし
[思考]:1.何も考えられない
[備考]:支給品全てを周囲に投げ捨てている
【男子20番 瀬戸一貴@I''s(アイズ)】
[状態]:呆然
[装備]:スペツナズナイフ(柄のみ)
[道具]:支給品一式
[思考]:1.呆然
[備考]:神崎狂の情報を知っている
【男子09番 神崎狂@BOY】
状態:健康
装備:なし
道具:支給品一式(※
ランダムアイテムは不明)
思考:1.日々野と決着をつける
【女子10番 野上冴子@CITY HUNTER 死亡確認 】
【女子16番 葦月伊織@I''s (アイズ) 死亡確認 】
伊織の支給品一式(ランダムアイテム未確認)は死体傍に放置
冴子の支給品一式は死体傍に放置、メリケンサックは装着されたまま
晴子の包丁も二つの死体の傍に放置
【残り47人】
最終更新:2008年02月13日 20:16