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天の岩屋戸

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古事記

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原文 現代語訳 備考
爾速須佐之男命、白于天照大御神 そこでスサノヲノミコトは、アマテラスオオミカミに、
「我心淸明、故、我所生子、得手弱女。因此言者、自我勝。」 「私の心が清らかだったので、私が生んだ子が女だったのです。
ですから当然、私の勝ちです。」
云而、於勝佐備此二字以音 といって、勝った勢いに任せて乱暴を働きました。
離天照大御神之營田之阿此阿字以音、埋其溝、亦其於聞看大嘗之殿
、屎麻理此二字以音散。
アマテラスオオミカミが作った田の畔を壊したり溝を埋めたりし、
また食事をなさる御殿に糞便をし散らしました。
故、雖然爲、天照大御神者、登賀米受而告 このようなことをなさいましたけれどもアマテラスオオミカミはそ
れを咎めるどころか、
「如屎、醉而吐散登許曾此三字以音、我那勢之命爲如此。又離田之
阿・埋溝者、地矣阿多良斯登許曾自阿以下七字以音、我那勢之命爲
如此。」
「糞便のようなものは酒に酔って吐き散らしたのでしよう。田の畔
を壊し溝を埋めたのは地面を惜しまれた結果です。」
此一字以音詔雖直、猶其惡態不止而轉。 と善いように仰せられましたけれども、その乱暴な所業は止みませ
んでした。
天照大御神、坐忌服屋而、令織神御衣之時、 アマテラスオオミカミが神聖な機織場で神樣の御衣を織らせていた
時に、
穿其服屋之頂、逆剥天斑馬剥而、所墮入時、天服織女見驚而、於梭
衝陰上而死。訓陰上云富登
機織場の屋根に穴をあけて天斑駒の生皮を投げ入れたため、驚いた
機織女が機織りに使う板で陰部を突いて死んでしまいました。
故於是、天照大御神見畏、開天石屋戸而、刺許母理此三字以音坐也
さすがのアマテラスオオミカミも頭にきたため、天の岩屋の中に
お隱れになりました。
天岩屋
爾高天原皆暗、葦原中國悉闇、因此而常夜往。 そのため高天原も、葦原中国も暗くなりました。夜が明けなく
なってしまったのです。
於是萬神之聲者、狹蠅那須此二字以音滿、萬妖悉發。 そこで多くの神々が騷ぎたて、あらゆる災難が生じました。
是以八百萬神、於天安之河原、神集集而訓集云都度比、高御產巢日
神之子・思金神令思訓金云加尼而、集常世長鳴鳥、令鳴而、
多くの神樣たちが天安河の河原に集まられ、タカミムスビノカミの
子のオモヒガネノカミに考えさせ、まず常世の国の長鳴鳥を集めて
鳴かせました。
取天安河之河上之天堅石、取天金山之鐵而、求鍛人天津麻羅而麻羅
二字以音
次に天安河の川上にある堅い石と天の金山の鉄を取り、鍛冶屋のア
マツマラという人を尋ね求め、
科伊斯許理度賣命自伊下六字以音、令作鏡、科玉祖命、令作八尺勾
璁之五百津之御須麻流之珠而、
イシコリドメノミコトに命じて鏡を作らせ、タマノオヤノミコトに
命じて大きな勾玉が沢山ついている玉の緒の珠を作らせ、
八咫鏡
召天兒屋命・布刀玉命布刀二字以音、下效此而、內拔天香山之眞男
鹿之肩拔而、取天香山之天之波波迦此三字以音、木名而、令占合麻
迦那波而自麻下四字以音
アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトを呼び、天の香具山の雄
鹿の肩骨を抜き、天の香具山のハハカの木で焼いて占いました。
天香山
波波架の木
天香山之五百津眞賢木矣、根許士爾許士而自許下五字以音、 於上
枝、取著八尺勾璁之五百津之御須麻流之玉、於中枝、取繋八尺鏡
訓八尺云八阿多
次に天の香具山の茂った賢木の、上の枝に大きな勾玉の沢山の玉の
緒を懸け、中の枝には大きな鏡を懸け、
下枝、取垂白丹寸手・青丹寸手而訓垂云志殿、此種種物者、布刀玉
命・布刀御幣登取持而、天兒屋命、布刀詔戸言禱白而、
下の枝には麻だの楮の皮の晒したの等を下げ、フトダマノミコトが
賢木をささげ持ち、アメノコヤネノミコトが荘重に祝詞を唱え、
天手力男神、隱立戸掖而、天宇受賣命、手次繋天香山之天之日影而
、爲𦆅天之眞拆而、
アメノタヂカラヲノカミが天岩戸の陰に隱れ立ち、アメノウズメノ
ミコトが天の香具山の日影蔓を手襁に懸け、眞拆の蔓を鬘として、
手草結天香山之小竹葉而訓小竹云佐佐、於天之石屋戸伏汙氣此二字
以音
蹈登杼呂許志此五字以音
天の香具山の小竹の葉を束ねて手に持ち、アマテラスオオミカミの
お隱れになった天岩屋の前に桶を覆せて踏み鳴らし、
爲神懸而、掛出胸乳、裳緖忍垂於番登也。爾高天原動而、八百萬神
共咲。
神懸して胸も露わにしながら裳の紐を陰部に垂らして踊りましたの
で、高天原中が鳴り響くほどに大勢の神が笑いました。
於是天照大御神、以爲怪、細開天石屋戸而、內告者 そこでアマテラスオオミカミは訝しみ、天の岩戸を細目に開けて内
側から、
「因吾隱坐而、以爲天原自闇亦葦原中國皆闇矣、何由以、天宇受賣
者爲樂、亦八百萬神諸咲。」
「私が隱れているので天の世界も下の世界も皆暗いだろうに、どう
してアメノウズメノミコトは舞い遊び、また多くの神は笑っている
のですか。」と仰せられました。
爾天宇受賣白言「益汝命而貴神坐。故、歡喜咲樂。」 そこでアメノウズメノミコトが、「あなたよりも尊い神樣がおいで
になりましたので、楽しく遊んでおります。」と申しました。
如此言之間、天兒屋命・布刀玉命、指出其鏡、示奉天照大御神之時
その間に、アメノコヤネノミコトとフトダマノミコトが鏡をさし出
し、アマテラスオオミカミに見せたので、
天照大御神逾思奇而、稍自戸出而臨坐之時、其所隱立之天手力男神
、取其御手引出、
アマテラスオオミカミはいよいよ不思議に思いになって少し天岩屋
から出かけた所を、隱れ立っていたアメノタヂカラヲノカミがその
手を取って連れ出し、
天岩戸
卽布刀玉命、以尻久米此二字以音繩、控度其御後方白言「從此以內
、不得還入。」
さらにフトダマノミコトがその後ろにしめ縄を引き渡し、「これ
から内にはお還り入り遊ばしますな。」と申しました。
故、天照大御神出坐之時、高天原及葦原中國、自得照明。 かくてアマテラスオオミカミがお出ましになったので、高天原も葦
原中国も自然と明るくなりました。
於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足
爪令拔而、神夜良比夜良比岐。
ここで神樣たちが相談をしてスサノヲノミコトに沢山の品物を出さ
せて罪を償わしめ、また髯と手足の爪を切って高天原から追放しま
した。

「天岩屋=岩窟」「天岩戸=岩戸」として区別しています。

ゆかりの寺社(御朱印視点)

引続き調査中ですので、掲載もれがあるかも知れません。

【おススメ度 ☆☆☆☆☆】御朱印帳があります。(売切御免)

都道府県 寺社名 所在地 備考
宮崎県 天岩戸神社・天安河原宮 西臼杵郡高千穂町岩戸1073-1 天岩屋

【おススメ度 ☆☆★★★】普通の御朱印です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
長野県 戸隠神社 長野市戸隠3690 天岩戸
和歌山県 日前神宮・國懸神宮 和歌山市秋月365 八咫鏡
京都府 天岩戸神社 福知山市大江町佛性寺字日浦ケ嶽206 天岩屋【皇大神社or元伊勢観光センターにて拝受】
三重県 二見興玉神社 伊勢市二見町江575 天岩屋

【おススメ度 ☆★★★★】御朱印が頂けるか不明です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
岐阜県 戸隠神社 郡上市和良町宮地1 天岩戸
愛知県 正蔵寺 岡崎市岩戸町大久後3 天岩戸
奈良県 天岩戸神社 橿原市南浦町772 天岩屋
奈良県 天香山神社 橿原市南浦町608 波波架の木
岡山県 茅部神社 真庭市蒜山西茅部1501 天岩屋
徳島県 天磐戸神社 美馬郡つるぎ町一宇法正 天岩屋
奈良県 天乃石立神社 奈良市柳生町789 天岩戸

【おススメ度 圏外】寺社以外の関連施設です。

都道府県 寺社名 所在地 備考
三重県 高倉山古墳 伊勢市豊川町 天岩屋
三重県 恵利原の水穴 志摩市磯部町恵利原 天岩屋
宮崎県 天香山 西臼杵郡高千穂町三田井 天香山

天岩屋



天岩戸神社:京都府
日室岳の下を流れる宮川渓流に、秘境天岩戸神社があり、岩壁にはりつくように鎮座しています。天照皇大神がお隠れになったという伝
説の地
。天降った神々が座したと伝えられる巨大な岩「御座石」、神楽を舞ったと伝えられる岩「神楽石」など巨岩とうっそうと茂る森
が、神秘的な雰囲気を感じさせます。
この少し下流には神様が湯あみをしたという産釜・産だらいという大きな甌穴(水の流れが小石を転がしてできた岩のくぼみ)があり、
日照りの年でも水が湧き出てくると言い伝えられています。
大本教の開祖出口ナオ、王仁三郎は、当地を元伊勢として尊崇していたことが知られています。天岩戸神社にある産釜・産だらいの岩穴
の霊水「生粋の水晶のお水」を汲み取り、これをご神水とされました。
元伊勢内宮 皇大神社

天岩戸神社:奈良県
香具山(かぐやま)の麓にある神社で本殿はありませんが、日の神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)が隠れた天岩窟(あまのいわ
や)または、天岩戸(あまのいわと)と言われる巨石がご神体です

太陽神である天照大御神は、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)があんまり乱暴を働くので、岩戸に隠れてしまいました。日の神が隠
れたことによって世の中は闇に包まれてしまいます。
そこで、神々は思案し一計をめぐらしました。天岩戸の前に集まって、ある神様が踊り出し、これをほかの神様も笑いながら楽しみまし
た。隠れていた天照大御神が外の様子が気になって岩戸から顔を覗かせたとき、天手力雄神(あめのたぢからお)がとうとう外に出して
しまいました。そして、また世の中はもとどおり明るくなったということです。
境内には毎年新しい竹が7本育つ代わりに、別の7本が枯れ死するという「7本竹の不思議」が伝わっています。
橿原市

高倉山古墳
三重県中部、伊勢神宮外宮(豊受大神宮)神域の高倉山(標高116メートル)山頂に築造された古墳である。古くは鎌倉時代の文献に記
載が見え、江戸時代には天岩戸として広く信仰対象となっており、その関係もあって墳丘は流出・削平で大きく改変を受けている。これ
までに実測調査のほか、1975年(昭和50年)に発掘調査が実施されている。
Wikipedia

二見興玉神社
天の岩屋について
参道の突堤のほとりに東面の岩窟がありますが、この岩窟は往古より宇迦御魂大神を祀った三宮神社がご鎮座されておりましたが、文禄
年間に外側の境内に遷祀されました。
古来より日の出を拝む夫婦岩とともに日の大神がお隠れになった天の岩屋と伝えられて崇拝されております。
文治二年東大寺衆徒参詣記
おもしろく見ゆる二見の浦わかな岩戸のあけし昔ならねど 慶尊
二見潟天の岩戸のあけくれもながめて世をばすきぞしぬべき 景惠
古来の岩屋のほとりにて菊酒と稱する神酒及び無垢塩草を授与し、貝殻を販されており、現在の岩屋授与所がその旧地であります。
境内にて夫婦岩を拝する展望を有し、明治45年5月、皇后陛下行啓の際に、此の所に御休憩され、全面に於ける海女の作業を台覧あらせ
られて展望を賞讃あそばされました。
二見興玉神社

恵利原の水穴
ひんやりとした空気に包まれた道の先に、天照大御神が弟・須佐之男命の悪事を戒めるために隠れたという伝説がある洞窟が残っていま
す。岩穴から湧き出る清水は「名水百選」に認定されています。
天の岩戸の道中には樹齢360年以上の一本桜のオオシマザクラ「岩戸桜」があり、春には若葉を伴って純白の花が咲きます。
伊勢志摩観光コンベンション機構

天岩戸神社:宮崎県
古事記(こじき)、日本書紀(にほんしょき)等に皇祖天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)は御弟素盞鳴尊(すさのおのみこと)を御避け遊
ばして暫く天岩戸(あまのいわと)へ御籠り遊ばされた事を記して居ますが、当神社は其の霊蹟天岩戸(あまのいわと)を斎ひ奉る神社
す。
境内社殿の背後断崖の中腹に御窟あり天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)籠らせ給ひし処と伝へ、古より其の御神域を御神体として
お祭り
致して居ります。
社殿は東本宮(ひがしほんぐう)と天岩戸(あまのいわと)直拝の西本宮(にしほんぐう)と岩戸川(いわとがわ)の渓谷を挟み相対して御鎮座ま
しますが東本宮(ひがしほんぐう)関係の昌泰(しょうたい)年間の記録に天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天岩戸(あまのいわと)よ
り御出ましの節、思兼神(おもいかねのかみ)其の御手を取りて東本宮(ひがしほんぐう)の土地に御造営の御社殿へ御鎮りを願ったと記し
てあります。
弘仁壬辰三歳中秋には三田井(みたい)候の遠祖、大神大太惟基(おおかみたゆうこれもと)公霊夢に恐惶して頽廃せる社殿を再興し深く其
神明を崇敬したと申します。
又神社に由縁の舞楽として岩戸神楽(いわとかぐら)三十三番の古雅なる手振を宮司社家代々伝へ氏子達習ひ伝へて祭典に奉奏する外、毎
年十一月下旬より二月初旬にかけ、各集落において、民家に〆かざりして終夜舞続け黎明に及びて岩戸開(いわとびら)きと称するを舞納
むる慣習があります。
住時名士の此の地を訪ふ者も多く寛政の奇士高山彦九郎(たかやまひこくろう)の参詣紀行あり薩摩の歌人八田知紀(はったとものり)礼参
し、水戸の烈土井上主人義秀(いのうえもんどよしひで)等八名参籠して俳句「落つるには 手もなきものよ 蝸牛(かたつむり)」を残し
て居ます。
又大宝の昔京都神祇宮卜部朝臣(うらべあそん)参拝の記録あり相当古くより中央に認られて居た事が考えられます。
皇室の崇敬も厚く秩父宮殿下、秩父宮妃殿下、高松宮殿下、三笠宮殿下、朝香宮殿下、常陸宮(義宮)殿下を始め皇族、侍従の代参等、
度々の御参拝がありました。
天岩戸神社


天岩戸


戸隠神社:長野県
「昔、天照大神が、弟の素戔鳴尊の乱暴を怒って天の岩屋へお入りになってしまわれました。世の中は真っ暗闇になり、いろいろの悪い
神々が出てきて、恐ろしいことや、悲しいことが次々におこりました。
大勢の神様たちは、岩屋の前に集まって、天照大神に岩屋から御出でになっていただくにはどうしたらいいだろうかと、相談をしまし
た。その時、戸隠神社の中社にお祀りされている天八意思兼命が「良いことを思いついた。私たちが岩戸の前で踊ったり歌ったりして楽
しそうにしていると、きっと天照大神様は、『あの者たちは何をしているのだろう』とおのぞきになるにちがいありません、・・・」と
知恵をしぼって考えをだされました。
天八意思兼命のお考えにもとづいて、神様たちは準備をしました。まず鶏を沢山集めて鳴かせました。火之御子社に祀ってある天鈿女命
(あめのうずめのみこと)は大変踊りの上手な神様ですが、この神様が伏せた桶の上にのって足拍子も面白く「とんとん、とととん、
と」と踊りました。大勢の神様も「やんや、やんや」と手拍子をうってこれに応えました。
天八意思兼命が「コケコッコー」と長鳴鶏ながなきどりの鳴き声をまねると、沢山の鶏は一斉にコケコッコーと鳴きだしました。天鈿女
命の踊りがあまりに面白いので、神様たちも「わっははは」「おっほほほ」と笑ったりつられて踊りだしたりしました。
岩屋のなかの天照大神は何事がおきたのかと、そっと岩戸をあけて外をご覧になりました。
その時岩戸のかげで待ち構えていた天手力雄命(奥社にお祀りしてある神様)が岩戸に手をかけ一気にガラガラと渾身の力を込めて、岩
戸をあけてしまわれ、天照大神を岩屋からお出ししました。
世の中は再び明るくなり、悪い神々は、逃げ去りました。天手力雄命は、また天照大神の御手をとって岩戸にお入りになってはたいへん
と、岩戸を「エイッ」と持ち上げ下界へ投げすててしまわれました。岩戸は宙を飛んで日本のだいたい真ん中に落ちまし
た・・・・・・。
この時、天手力雄命が放り投げたのが「戸隠山」であるという話
は、日本の神話として昔から語り伝えられており、この岩戸伝説と同じ
ような話が、戸隠の古い記録である「戸隠山顕光寺流記」や「戸隠本院昔事縁起」にも記されています。
戸隠神社

戸隠神社:岐阜県
その創建年代不詳。 天の岩戸の磐戸が真っ二つに割れてその片割れが、戸隠神社に飛んできたという「重ね岩」(社殿の後に、神岩、天
岩戸という大きな岩があり、指一本で動かすことのできる、実に不思議な岩があります。(この岩は、古事記に出てくる天照大神の「天
の岩屋戸こもり」に由来する伝説)
史料によると、平安期、天慶元年(938)美濃の国神名帳によれば、郡上7社の内の一社(正6位上国津明
神)と記載されている。信濃の国戸隠神社より勧請され、明治7年(1874)戸隠神社と改称される。地頭橘頼綱が、国土安泰と戦勝祈念のた
め、文永8年(1171)から建治元年(1275)までの5ケ年に亘り大般若経の奥書にある「九頭大明神御宝前」という記録が、当時既に九頭龍
宮ここに存在している事を意味するものである。この大般若経を永禄12年(1569)三木自綱が郡上に進入した折に、戦利品として河尻新之
丞利廣が飛騨に持ち去り、千光寺(大野郡丹生川村)へ寄進した。現在当社には残簡一部が存在する。文禄3年(1594)に雷火により本殿をは
じめ、その他が焼失した。しかし、再び郡上藩主になった遠藤慶隆によって、慶長12年(1607)社殿等再建され、郡上五保の惣社として
代々厚く崇敬されて来た。郷中盛衰記天保11年(1840)には和良街道筋の大社として、その偉容と賑わいぶりが記されている。 『大神
楽』 大幣帛を持った口上役の大音声によって、大神楽起こし笛が始まり、大神楽・大獅子・岡崎・こすずみの4曲神楽奉納。舞子は、大
太鼓打ち2名、ささらすり1名の子供3人で定められた法式によって舞う。楽人は笛、小鼓、小太鼓、があり、衣装に裃をつけ、頭に
は゛とさか゛をかぶる。曲に合わせ大獅子が宮路地区雄の麒麟獅子、上沢地区が雌の麒麟獅子が舞う。『山車』 上沢の山車は参道を登る
時゛ちゃんとこ゛猿田彦命が踊り、境内広場では、からくり人形「那須野与一の的」を演じる。宮路地区の山車は参道を登る時゛おか
め゛天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞い、境内広場では「とんぼかえし」=西洋人の鉄棒演技=を演じる。
「馬乗り」「神輿」「伊勢神楽舞」等の奉納もご奉仕いたします。
岐阜県神社庁

天乃石立神社
延喜神名帳に記載されている式内社である。小社としてその中に加わっている。御神体は巨石で前伏磐、前立磐、後立磐と三つに割れて
いる。神代の昔、手力男命が天之岩戸を開けた時、力が余り虚空を飛来しこの地に落下したと伝えられる巨岩崇拝の伝統である。
奈良県神社庁

正蔵寺
 正蔵寺の裏に,大きな屏風状の岩石があるので,これより岩戸の名称が起こったようである。伝説によると,むかし,神が,岩中に,
天の岩戸をお造りになったとき,そのかけらを落としてしまわれた。それが落ちたところが岩戸だったということである。かけらは2個
落ちて,一つは岩中町の盤座の前に倒れ,他の一つは南の山を越えて,岩戸の正蔵寺の裏山に落ちた。そこで,この地を岩戸と呼ぶよう
になったそうである。
岡崎市立秦梨小学校


八咫鏡


日前神宮・國懸神宮
創建二千六百餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。
日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀
しております。
神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、天照大御
神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大
御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。
時を同じくして鋳造された天照大御神の二体の御鏡が、日前國懸両神宮の御神体として奉祀された
と『日本書紀』に記されております。
天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちね
のみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされ
ています。
その後、崇神天皇五十一年、名草郡濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇十六年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、永きに渉り鎮
座の地として今に至っております。
爾来、天道根命の末裔である紀氏(きいし)によって歴代奉祀され、両神宮の祭神が三種の神器に次ぐ宝鏡とされたために、伊勢の神宮に
次いで朝廷からの崇敬も篤く、延喜の制には両社とも明神大社に列し、祈年(としごい)、月次(つきなみ)、相嘗(あいなめ)、新嘗(にいな
め)の祭祀には天皇から幣帛(御供)を賜るほどでありました。
また古くから紀伊國一之宮として一般の人々からも崇敬をあつめ、両神宮の総称を「日前宮」(にちぜんぐう)とし、親しみをもって呼ば
れています。
戦国時代におきましては、豊臣秀吉の天正の兵乱により境内荒廃、社領没収の憂き目に逢いましたが、徳川の時代に入り紀州藩初代藩
主、徳川頼宣(とくがわよりのぶ)が入国されるや社殿を再興され、明治四年太政官布告による神格の制が治定されると、官幣大社(かんぺ
いたいしゃ)に列し、敬神崇祖の大義を示すことと相成りました。
大正八年の国費による境内建物すべての改善工事によって旧観は一新され、大正十五年三月の完成をもって現在の姿となっております。
日前神宮・國懸神宮


波波架の木


天香山神社
天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)の祭神は、櫛真智命神(くしまちのみことのかみ)です。
境内にある「朱桜」(にわざくら)という古名で知られる「波波架の木」(ははかのき)は、その昔、占いに用いられたと言われていま
す。
「古事記」の天岩戸神話(あまのいわとしんわ)には、天香具山(あまのかぐやま)の雄鹿の骨を抜きとって「朱桜」の木の皮で焼き、
吉凶を占ったとあります。
橿原市

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