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俗・人として袖が触れている 1話

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  • 1.君はまだ袖が触れている


「へぇ、ゆーちゃんも最近恋文来るようになったってさ」
 女房に髪を梳かせながら、大納言家の一人娘であるこなたは文を広げていた。
 手紙の主はこなたのいとこ。
 その愛情溢れる手紙に眼を通しながら、笑顔をこぼす。
 それに返事をするように、髪を梳かしている女房も笑う。
「そっか、ゆたかちゃんももうそんな歳なのね」
 女房の名前はかがみ。
 こなた付きの女房で、彼女とは長い付き合いでもある。
「わっ、でも全部断ったってさ。ってかゆい姉さんが全部破り捨てたって」
「まぁ……あの人らしいわね」
 主人と女房という関係である前に、親友である二人。
 その間に敬語や遠慮というものはない。
 もちろんこういう他人の居ない空間のみではあるが、二人にとっては至福の時間だった。
 それは、二人の関係が親友だからだけではない。
 今はもう……それ以上の関係を築いていたからだ。
「……明日、だね」
 こなたの声に、女房の髪を梳く手が一度止まる。
 だがすぐに櫛を滑らせ、長い髪を梳かしていく。
 そして無理矢理、笑顔を取り繕う。
「そう……ね、一杯綺麗にしないとね」
「あははっ、自信ないなっ」
 『明日』。
 その言葉が少し二人の空気を固くする。
 明日はこなたにとって、大切な日。
 彼女の……結婚の日。
 それの意味する事実が、二人の空気を固くしていた。
「大丈夫よ、私が太鼓判押してあげる」
「そっか、『かがみ』がそう言うなら安心かなっ」
 こなたが振り向く。
 その時後ろに居た女房との距離が思いのほか近かったため、少し顔が熱を持つ。
 もちろん髪を梳いていた女房……かがみも、それに同じ。
 お互いが、お互いの気持ちを知っていた。
 観月の宴の日。二人の……運命の日。
 その日お互いに、想いを伝えあった。
 こなたの結婚の相手は、春宮。
 その下に入内(にゅうだい:結婚)すれば、宮廷に入る事になる。
 それならもう、こんな何気ない時間も終わりを告げる。
 だが二人は決めていた。
 例え残された時間が少なくても。
 出来るだけ多く、出来るだけ長く……一緒にいよう、と。
 それはお互い、口に出したわけではなかった。
 それでもお互いがそう思っていると、感じていた。確信していた。
 だからもう、二人は嘆かない。
 いつか来る別れが、そこまで迫っていても。
 たとえ離れ離れになっても。
 もう二人は……心で繋がっていた。
「ほら、準備しましょ……今日は人が来るんでしょ」
「そだね、あやのさん何時頃来るかな」
 二人が笑いあう。
 そしてまた、髪を梳く作業に戻った。


「はぁ……」
「みさちゃん、溜息それで五回目」
 揺れる牛車の上であやのに咎められ、みさおがさらに落ち込む。
 自分でも無意識に出ているので、彼にはどうにも出来ない。
 だがこの牛車の軋む車輪の音は確実に大納言家に近づいているのを教えてくれる。
 そういえば、とそこでみさおはふと思いだした
 もう数ヶ月も前の記憶が淡く蘇り、少し視線を外に向ける。
 それにあやのが気がつき、みさおの心を代弁する。
「そういえば、初めて会ったのも牛車だったね」
「……ん」
 あやのに見抜かれたのが分かり、少し顔を赤くする。
「みさちゃんが暴れて、牛車壊しちゃったんだっけ」
「車輪が古かったんだってば、偶然だって偶然」
 経緯はどうあれ、その時牛車が壊れた。
 その時勢いで突っ込んで出来たコブの痛みは忘れても、あの時感じた気持ちは忘れない。
 そこで、少女に出会った。
 始めはまだ、みさおにも気がつかないほど淡かった。
 だけど、確かにその時だ。
 彼女を……意識し始めたのは。
「あ、ほら見えてきた」
 牛車の窓から外を覗くと、見覚えのある邸が見えてくる。
 みさおのそれと同じくらいとは言わないが、それなりに大きな屋敷。
 それを見て彼の口からまた溜息。
 顔が熱を持っていくのが分かると、一回両手で自分の頬を叩く。
 もうここまで来たら後には引けない。
 頬を打つ痺れが脳まで届き、覚悟を決める。
 それと同時だった、牛車の動きが止まったのは。


「ようこそお越しくださいました」
 みさおが牛車から軽く飛び降りると、屋敷の女房が迎えてくれた。
 その顔に見覚えがあり、少し考えを巡らせる。
 だがそれを思いつく前に、向こうが先に気がつく。
「あっ、お久しぶりです。みさおさん」
「……ああ! 妹さんかぁー、久しぶりー」
 ようやく思い出し、軽く手を振るみさお。
 迎えてくれた女房の名はつかさ。
 みさおの想い人……かがみの妹。
 面識だって何度かあるし、それなりに親しい間柄。
 ちなみに彼女はみさおのことは、あやのの屋敷の雑色ぐらいにしか思っていない。
「あ、お姉ちゃんなら部屋に居ますよ」
「ふぇっ!?」
 つかさから返ってきた言葉に、みさおが飛び跳ねる。
 数ヶ月前の事だが、つかさは覚えていた。
 みさおと姉であるかがみが、一夜を共にしていた事を……ちなみに未遂だ。
 それ以来二人の仲は恋仲だと確信していたのだ。
「だってさ、頑張ってね。みさちゃん」
「んぎゃ!」
 あやのが彼の肩を強く叩き、最後の喝を入れる。
 そのままつかさに案内されて屋敷の中に消え、みさおが一人車宿に残される。
 部屋の場所ぐらいは、彼も知っていた。
 荷物を運ぶとか適当な口実をつけて、部屋まで着いていった事がある。
 その後に、もの凄い失態をしてしまったわけだが……それはまた別の話だ。
 ともあれ一度深呼吸をしたあとに、彼女……かがみの部屋を目指す。
 悩んでいれば居るほど、時間とは早く過ぎるものだ。
 寝殿造の端にある女房の部屋まで辿り着くのにも、彼にとってはすぐだった。
 まぁ、その部屋の蔀戸を叩くまでの時間のほうが長いわけだが……。
「え、と……かがみ、居るかー?」
 入り口で狼狽する事数十分。
 そろそろ行き交う女房の視線も痛くなってきたのか、ようやく声をかける。
 それに反応して中から物音が聞こえ、みさおの体が反応する。
 口から出て行きそうな心臓を押しとどめ、反応を待つ。
「誰?」
 声が耳を劈き、ゆっくりと蔀戸が開いていく。
 そして開いた戸から、何かが落ちる。
 それがみさおの足元に落ち、それに視線を奪われる。
 丁寧に枝に括り付けられてるそれは……所謂、恋文だ。
 それに気を取られていたのがいけなかった……みさおの視界にあるその恋文を、誰かが拾い上げる。
 その白い肌の手を見て、みさおの体が固まった。
「あらあんた……来てたんだ」
 声が脳を弛緩し、顔をゆっくりと上げる。
 視線が合い、動悸が早くなる。
 心臓が暴れて、言葉が続かない。
「突っ立ってないで入ったら?」
「え、い……いいのか?」
「用があって来たんでしょ?」
 もっともな理由を突きつけられ、何も言えずに部屋に上がる。
 何処か懐かしい彼女の匂いが鼻をつき、軽く眩暈を覚える。
「あ、えと……何してたんだ?」
 適当な所に腰を下ろすと、かがみも手にしていた文を机に置く。
 それだけでは間が持たないので、適当に話題を探す。
「何……って別に、本読んでただけ」
「本? ああ、これか……って『白居易』? 漢詩読めんのか!?」
「そ、そこまで大声出す事ないでしょ……趣味よ、趣味」
 近くにある写本を拾い上げるみさお。
 それは白居易(はくきょい:唐の詩人)の長恨歌の写本。
 漢字は主に公文書に使うために、男性が学ぶものとされていた。
 なので彼女のように本を読むまでになるには、相応の努力が必要になる。
「へー変わってんなぁー、漢字なんか無理矢理覚えさせられたもんだゼ?」
「漢詩が好きってわけじゃないわ、随筆とか読むのが好きなだけ」
 しかし、とみさおは少し呆れる。
 確かに女性の娯楽と言えば世間話の他にはそれぐらいしかない。
 だからと言ってそこまでして勉強してまで読むほどのものか、と。
 そして呆れた後に、笑ってしまった。
 その漏れた声に気がついたのか、かがみも少し頬を染める。
「いっ、いいじゃない。人の勝手でしょ!?」
 と、みさおから本を取り上げる。
 悪い悪いと彼も誤魔化すが、まだ顔が緩んでいる。
 別にかがみの事が可笑しかったわけじゃない。
 自分が苦手だった学問を、まさか好んでするような人が居るとは思ってもいなかった。
 それがしかも彼女で……それが何処か、可笑しかった。
「独学でやったのか? 凄いなー」
「まだまだ分かんない事だらけよ、これもまだ半分ってとこね」
 そう言ってまた本を広げるかがみ。
 そして難しい顔をし始めたので、みさおもつい席を立つ。
 そのまま彼女の持った本を横から覗き込んだ。
「『聖主朝朝暮暮情』……ああ、つまり君主様は昼も夜もずっと哀しいってわけ」
「分かるの?」
 不思議そうにかがみがみさおを見る。
 その距離が異様に近かったため、みさおが慌てる。
「あ、ああ。長恨歌なんて十になる前ぐらいには全部読まされたぜー?」
 春宮ともなれば、学問は嗜みどころか必須といってもいい。
 彼も女房などによって教えられてきたが、たびたび逃げ出していた。
 そのままあやのの所に遊びに行き、帰ってきては母や女房に叱られていた記憶はまだ新しい。
「じゃあ、これは?」
「『行宮見月傷心色』、行宮に月を見て心を痛める。行宮ってのは……」
 みさおの隣りで言葉の一言一句に耳を傾け、首を降るかがみ。
 それに至福を覚えるのは、男としては情けないが当然だろう。
 小さい本を二人で覗き込んでいるのだから、顔の距離が近いのは当然だ。
 それに加えて密室な事にみさおが気がついたのは、すでに数冊の写本を読み終えた後だった。


 幼馴染が上手くやっているか考えながら、あやのは大納言家の寝殿を訪れていた。
 案内してくれた女房も記帳の裏に隠れ、静まった寝殿に声が響く。
「こんにちわ、あやのさんっ。わざわざごめんねっ」
「ううん、物忌(ものいみ:厄除け籠り)じゃ仕方ないよ」
 あやのが笑いながら腰を下ろす。
 彼女にとっても幼馴染の彼を奮起させるいい機会だったので丁度良かった。
 まさか何しに来たのかも忘れて本を読みふけってるとは、考えもしなかったわけだが。
「明日はとうとう結婚だね、おめでとう。お友達が春宮妃だなんて鼻が高いなっ」
「あんがと。まだそんな実感ないけどね」
 照れながら返事をするこなた。
 結婚に向けて、父親が様々な調度品を新調していく。
 だが新品の匂いに包まれながら、未だにこなたは取り残されている気分だった。
 明日には初めて会う男性と、一夜を共にする。
 それを三日続けるのが、婚姻の儀式だ。
 でもそれもまだ……現実味がない。
「あ、あのさ」
「?」
 染めた頬を隠すように俯きながら、こなたが声を絞る。
「あやのさんもその……初めての時は、緊張した?」
「えっ……」
 少し踏み込んだ質問をされ、あやのも少し頬が染まる。
 こなたも自分の頬の熱を感じる。
 返歌もした。
 覚悟も決めた。
 そのはずなのに……彼女にはまだ、最後の一線を越える勇気が出なかった。
「やっぱりその、い、色々痛かったりとか……するんでしょ?」
「う、ううーん……なんて言うのかな」
 どうにも状況を説明しづらく、あやのが戸惑う。
 だが真摯な表情で自分を見てくるこなたを前に、誤魔化すわけにもいかない。
「みさちゃ……じゃなかった。春宮様はね、ちょっと大雑把な所はあるけど……こなたちゃんのこときっと大切にしてくれるよ」
 しかしあれで純情だからな、と勝手に心で思って口には出さなかった。
 今頃はもしかしたら会いに行った女房と上手くやっているのかもしれない。
 もしかしたら良い雰囲気になって押し倒して……。
 ――まぁそんなはずないか、と頭に上がった妄想を蹴飛ばす。さすが幼馴染。
「あはは、でもちょっと意外。こなたちゃんでもそういうのやっぱ気にするんだね」
「そ、そりゃするよ。一番重要なとこじゃん!」
 十八にもなれば男性経験の一つぐらいあってもよいものだが、あいにくこなたにそれはなかった。
 来る文を全部断り続けてきたのだから、当然と言えば当然の結果だ。
 そうやって一生独り身でも構わないと彼女は思っていた。
 だがある日来た文。
 春宮からの恋文、それをこなたは受け入れた。
 いや、受け入れる事しか出来なかった。
 貴族社会において、断ることは許されなかったからだ。
「やっぱり……不安」
「そうじゃないけどさ、何で私なんだろーとかは思っちゃうな……もっと良い人居ると思うけど」
「そ、そんな事ないよ? こなたちゃんとっても魅力的だし」
 まさか嫉妬の結果とはあやのも言えるはずがなく、慌てる。
 それに気を良くしたのか、こなたがそうかな? と照れ笑う。
 そして几帳の奥の女房に声をかけ、何か用意をさせる。
「せっかく遊びに来たんだし、貝合わせでもやろっか。珍しいのが手に入ったんだよねー」
 こなたはそう笑いながら、つかさに貝と筆の用意をさせた。


「『此恨綿綿無尽期』、この哀しみはどこまでも尽き果てる事はない……ってわけだ」
「……」
 長恨歌の最後の行を読み終わり、みさおが体を伸ばす。
 最後まで読まされた覚えはあるが、まさかこれほどすんなり読めるとは自分でも思ってもいなかった。
 この時ばかりはあの五月蝿かった女房にも、心で感謝する。
 さすがにかがみの前では、いい所を見せたかったらしい。
「……悲しい歌、ね」
「んー、まぁそんなもんじゃね?」
 長恨歌は七言百二十句からなる長詩。
 そこに書かれているのは、楊貴妃と玄宗皇帝の愛の物語。
 そして、破局の物語。
 それにかがみは、自分とこなたを少し重ねた。
「ごめん、全部読ませちゃったわね」
「んああいいっていいって」
 もちろんみさおも途中で何度かやめようかと思った。
 だが彼女の隣りに居る至福の時間を、少しでも長く味わいたかった。
「そっか、最近見覚えがあると思ったらあれだよな」
「?」
 閉じたはずの白居易の写本を開きなおすみさお。
 かがみと距離が出来て少し熱が引いたため、先ほどから引っかかっていた事を思い出す。
「あれで見たんだよ……ほらあの、なんてったっけ。堤中納言(藤原為時)とこの二の姫が書いたっつうやつ」
「えっ……」
 その時、かがみの目の色が変わる。
 そのまま好奇の眼でみさおに詰め寄る。
「あ、貴方じゃあ『あれ』読んだの!?」
「んああ、あやのがどうしても読みたいっつーから本人に頼んでなー」
 ある日の宴に出ていた中納言に、女房から声をかけさせればすぐだった。
 次の日には雑色が馬で駆けて持って来てくれた。
 こういう時は自分の位の高さを実感する。
「なんだまだ読んでないのかー、今回も凄かったぜ?」
「う、うん……写本も回ってきやしないわ」
 はぁ、と肩を落とすかがみ。
 女性の娯楽といえば随筆。
 そしてその中でも特に人気だったものが、それ。
 藤原香子(紫式部)作、源氏物語である。
「そっかー、じゃあ今度持ってきてやろうか?」
「へっ?」
 あやのが読み終われば、大人気の写本も行き場を失くす。
 結局みさおも読むように進められ、つい此間読み終えた所だった。
「い……いい、の?」
「まぁ、持っててもしょうがないしなー」
 どの道みさお付きの女房に押し付ける予定だったので、どちらでも同じだ。
 だけど、次の瞬間……彼に稲妻が走った。
「ありがとうっ!」
「ぬおっ!」
 みさおの手を、かがみが掴む。
 それに反応し、奇声が響く。
「あ、ごっ、ごめんっ」
 その声の原因に気がついたのか、かがみも手を離す。
 そこまで来てようやく、彼女の方も今の状況に気がつく。
 密室に、男性と二人。
 『よく知らない』はずの彼と、何時の間にか打ち解けていた。
 その状況が頭に入ったのか、思わずみさおから一歩だけ離れる。
 顔は少し、熱を持っていた。
 そして誤魔化しながら狼狽する瞳に、朱色の空が写った。
「大分引き止めちゃったわね……ごめん」
「いや、だからいいって」
 慌てながら散らばった白居易の写本を片付け始めるかがみ。
 読み終わってはみさおが適当に投げたため、辺りは写本が散らばっていた。
「……っと」
「何?」
 その時だ。
 それを手伝っていたみさおの視線が、不意に机の上に。
 そこにあったものを見て、少し彼の表情が曇る。
「だ、誰からだったんだ? 文」
 そして、思わず聞いてしまった。
 その机の上にある文……恋文の事を。
「ああ……左京少進(さきょうのしょうじん:役職名)から。しつこいのよこの人」
「しつこいって?」
 この言い方から察するに、どうやら一枚目の手紙ではないらしい。
 それが少しみさおの癇に障る。
「きちんと断ってるんだけど、中々折れてくれなくてね……困ったもんだわ」
 だが溜息が漏れる様子を見て、少し安心。
 彼だって同じだった。
 送った恋文を受け取ってももらえず、断られた。
 左京少進といえば正七位の上ぐらいのもの。
 春宮の位の自分を断ったのだから断られて当然だ、と安心する。
 ――だが、声が漏れた。
 かがみから、僅かに。
「……でも、もういいのかな」
「えっ……?」
 その僅かに漏れた声を聞き逃せず、思わず聞き返す。
「この人ね、毎回わざわざ自分の足で届けてくれるの……雑色に遣わせても一緒なのにね」
 そして文だけ残して去っていく。
 その甲斐甲斐しい姿を見れば、多少なりとも心は動く。
 かがみの心も、それに同じだった。
「私を大切にしてくれるなら……その人でも、いいのかなって」
「で、でも好きじゃ……ないんだろ?」
 自分で言っておいて、間抜けな質問だとみさおは思った。
 返ってくる答えは、分かっていたはずなのに。
「……そうね」
 文を手に取り、一度広げる。
 そして少し溜息をしたあとに、視線を窓へ。
 朱色から黒に染まっていく空が、時間の経過を知らせてくれる。
 刻々と減っていく時間が……かがみの心を締め付けていた。
「私ね……好きな人が居るの」
 みさおの心臓が跳ねる。
 もちろんそれが、自分のはずがない。
 いやむしろ、それが誰かでさえみさおは知っていた。
「だから他の人にはもう……同じ感情は持てない。だから、いい」
 かがみには大切な人が居る。
 でもその人と結ばれることは、決してない。
 その大切な人は、違う誰かのものになってしまうから。
 それを、嘆いた日もあった。
 恨んだ日もあった。
 だけど、いつのまにか……その心は消えていた。
「自棄になってるわけじゃないわ、でもこの人は私の事……大切にしてくれると思う」
「じゃ、じゃあ!」
 そこで思わず、みさおが声を出した。
 かがみの言葉を上手く飲み込めなかったからじゃない。
 思わず、叫んでしまった。
 彼にだって、自信があったからだ。
 誰よりも、彼女を大切にしてるという自信が。
「じゃあもしお前に『もう一度』文送ったら……いつかは受け取ってくれるのか?」
 かがみの眼を見て、言う。
 そうだ、とそこで彼はようやく思い出す。
 何をしに、ここに来たのか。
 何を伝えに、ここに来たのか。
「……」
 沈黙が続く。
 かがみがその言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。
 だがそれは戸惑いとは少し違う感情。
 そして、その思った感情をそのままみさおに伝えた。
「何言ってるの?」
「えっ……」
 みさおにゆっくりと、彼女の言葉が染み渡っていく。
 彼の言葉の意味が分からなかったわけじゃない。
 彼女には……『理解できなかった』のだ。


「『貴方から文なんて、貰ったことないじゃない』」


 その言葉と共に。
 彼の鼓動と共に――開いた。

 閉じてしまったはずの、幻想の扉が。

















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