心に突き刺さるような痛みも。
胸をきつく締め付けるような辛さも。
全てはゆたかの為だと、そう思っていた。
胸をきつく締め付けるような辛さも。
全てはゆたかの為だと、そう思っていた。
惑う虚空の中で
休日の朝の十時頃、自宅のリビングにて。
「お見舞い……ですか?」
初めて電話越しに聞く声に、私は同じ事を繰り返した。
会話の相手はゆたかの姉のような存在の泉先輩。高校三年生にしては身長の低い、数度話した事がある程度の上級生だ。
本来ならそんなあまり面識のない人から電話が掛かってくるはずはないのだが、ゆたかが住まわせて貰っている家の住人だから、恐らくゆたかから番号を聞き出したのだろう。
受話器を隔てると直接話す時の声とは少し違って聞こえる。深い関わりを持っているわけではないけど、それぐらいは分かった。
「そうそう、昼からでも家に来て欲しいんだよ」
僅かにくぐもった声色でお願いされる。
「ゆたかに何かあったんですか?」
「実は昨日から熱が下がらなくてね」
思っていた通りの事柄が泉先輩の口から現実として再確認される。
「元気も食欲もないみたいだから。友達に会えば少しは気が紛れるんじゃないかなと」
続いた言葉に私は考え込んでしまう。
ゆたかは私と会って本当に安らぐのだろうか。
そこまで症状が悪化したのは紛れもなく私の所為なのに。
先日の一時限目、完走後肩で息をしているゆたか。
保健室のベッドに横たわり、不規則な呼吸に苦しそうな寝顔を見せるゆたか。
いたいけな目を伏せて俯き、自己満足に留まっていた私を拒絶したゆたか。
半ば悟っているかのような、昨日の電話で聞いたゆたかの声。
そして大切な友人を少しも気遣ってやれなかった、己の姿形や態度。
どれも高性能な機会で記憶されているかのように、鮮明に私の脳に再現される。
優しく接しているつもりが、実際は自分の性格の所為で何もしてあげられていなくて。
決めた事を貫き通せずに投げ出してしまって。
私なんかがお邪魔して、許されるのだろうか。
「そういうわけでどうかな」
妙に離れた感じで耳に届く機会を介した音声に、私は思考の迷宮から引きずり出された。
「良かったら他の友達も誘って是非お越し願いたいんだけど」
付け足された台詞に、私は別に一人で行かなくても良いという事に気づく。
昨晩の電話の様子からしても、私とゆたかが今二人きりになったら気まずい空気が流れるだけだ。
だが田村さんやパトリシアさんがいれば、少なくともそういう事態を免れる事は出来るだろう。
それを目的に呼ぶのは失礼かもしれないけど、二人もゆたかが熱を出したと聞けば来てくれるはずだ。我々の目的は自然とゆたかの見舞いになる。
それならいつもの四人で事は上手く進むだろう。
普通に病人を訪れて、励ましの言葉を掛け、帰宅するだけ。
それならお互いの気遣いが入り込む余裕はない。
対面しない方が良いのにゆたかの顔を見たいと望んでいる、私の心も満たされる。
「分かりました」
「本当!?」
私の承諾の返事をまるで自分の事のように喜ぶ泉先輩。ゆたかをどれだけ大事に思っているかがひしひしと伝わってくる。
こんなにも早く私よりゆたかの事を分かっていて、言いたい事もはっきりと言える人を確認して、私は喜ぶべきなのに複雑な心境だった。
泉先輩がゆたかの看病をする光景がいとも簡単に想像出来る。
「二人とも来れるかどうかは分かりませんが、誘ってみます」
微かに覚えた寂しさを無理矢理嬉しさで被覆して、私はそう告げた。
心からの感謝を受け取ってから受話器を一旦元に戻す。そしてすぐに今度は私の方から先程とは違う相手に電話を掛ける。
頭にちらつく映像は、ゆたかの笑顔ばかりだった。
「お見舞い……ですか?」
初めて電話越しに聞く声に、私は同じ事を繰り返した。
会話の相手はゆたかの姉のような存在の泉先輩。高校三年生にしては身長の低い、数度話した事がある程度の上級生だ。
本来ならそんなあまり面識のない人から電話が掛かってくるはずはないのだが、ゆたかが住まわせて貰っている家の住人だから、恐らくゆたかから番号を聞き出したのだろう。
受話器を隔てると直接話す時の声とは少し違って聞こえる。深い関わりを持っているわけではないけど、それぐらいは分かった。
「そうそう、昼からでも家に来て欲しいんだよ」
僅かにくぐもった声色でお願いされる。
「ゆたかに何かあったんですか?」
「実は昨日から熱が下がらなくてね」
思っていた通りの事柄が泉先輩の口から現実として再確認される。
「元気も食欲もないみたいだから。友達に会えば少しは気が紛れるんじゃないかなと」
続いた言葉に私は考え込んでしまう。
ゆたかは私と会って本当に安らぐのだろうか。
そこまで症状が悪化したのは紛れもなく私の所為なのに。
先日の一時限目、完走後肩で息をしているゆたか。
保健室のベッドに横たわり、不規則な呼吸に苦しそうな寝顔を見せるゆたか。
いたいけな目を伏せて俯き、自己満足に留まっていた私を拒絶したゆたか。
半ば悟っているかのような、昨日の電話で聞いたゆたかの声。
そして大切な友人を少しも気遣ってやれなかった、己の姿形や態度。
どれも高性能な機会で記憶されているかのように、鮮明に私の脳に再現される。
優しく接しているつもりが、実際は自分の性格の所為で何もしてあげられていなくて。
決めた事を貫き通せずに投げ出してしまって。
私なんかがお邪魔して、許されるのだろうか。
「そういうわけでどうかな」
妙に離れた感じで耳に届く機会を介した音声に、私は思考の迷宮から引きずり出された。
「良かったら他の友達も誘って是非お越し願いたいんだけど」
付け足された台詞に、私は別に一人で行かなくても良いという事に気づく。
昨晩の電話の様子からしても、私とゆたかが今二人きりになったら気まずい空気が流れるだけだ。
だが田村さんやパトリシアさんがいれば、少なくともそういう事態を免れる事は出来るだろう。
それを目的に呼ぶのは失礼かもしれないけど、二人もゆたかが熱を出したと聞けば来てくれるはずだ。我々の目的は自然とゆたかの見舞いになる。
それならいつもの四人で事は上手く進むだろう。
普通に病人を訪れて、励ましの言葉を掛け、帰宅するだけ。
それならお互いの気遣いが入り込む余裕はない。
対面しない方が良いのにゆたかの顔を見たいと望んでいる、私の心も満たされる。
「分かりました」
「本当!?」
私の承諾の返事をまるで自分の事のように喜ぶ泉先輩。ゆたかをどれだけ大事に思っているかがひしひしと伝わってくる。
こんなにも早く私よりゆたかの事を分かっていて、言いたい事もはっきりと言える人を確認して、私は喜ぶべきなのに複雑な心境だった。
泉先輩がゆたかの看病をする光景がいとも簡単に想像出来る。
「二人とも来れるかどうかは分かりませんが、誘ってみます」
微かに覚えた寂しさを無理矢理嬉しさで被覆して、私はそう告げた。
心からの感謝を受け取ってから受話器を一旦元に戻す。そしてすぐに今度は私の方から先程とは違う相手に電話を掛ける。
頭にちらつく映像は、ゆたかの笑顔ばかりだった。
「ちょっと早く来すぎたかな」
腕時計で現在の時刻を確認して呟く。針は約束より十分早い時間を指し示していた。
私は泉家の最寄りの駅で友達を待っていた。パトリシアさんはバイトがあるという事で断られたけど、田村さんは快く承知してくれた。
晴れ渡った空をふと仰ぎ見る。
限りなく広い青はとても眩しく映り、私の心情とは対照的だった。
ゆたかに会った方が良いのか会わない方が良いのかはっきりと決断せず、不安定に揺れる気持ちの狭間で彷徨っている私とは違って、雄大な自然は悠々と何事にも動じず漂っていた。
そこに答えがあるはずないのに、私は目を凝らして雲間を探るように目線を泳がす。
太陽を直視してしまい、私は反射的に目を閉じる。
自分でも何をしたいのだろうと思う。
「みなみちゃーん」
突如聞こえた私の名を呼ぶ声に、身体の向きをそちらに向ける。
田村さんが長い黒髪と檸檬色のマフラーを宙に舞わせて私の方に走っていた。
「ごめんごめん、待った?」
少し呼吸を荒げて白い吐息を吐き出しながら、田村さんが尋ねる。
「私が早く来すぎただけだから……気にしないで」
そう答えると、田村さんは安心した表情になって次第に息を整わせ始めた。
落ち着くのを待ってから、私達はゆたかが待つ泉先輩の家へと向かった。
腕時計で現在の時刻を確認して呟く。針は約束より十分早い時間を指し示していた。
私は泉家の最寄りの駅で友達を待っていた。パトリシアさんはバイトがあるという事で断られたけど、田村さんは快く承知してくれた。
晴れ渡った空をふと仰ぎ見る。
限りなく広い青はとても眩しく映り、私の心情とは対照的だった。
ゆたかに会った方が良いのか会わない方が良いのかはっきりと決断せず、不安定に揺れる気持ちの狭間で彷徨っている私とは違って、雄大な自然は悠々と何事にも動じず漂っていた。
そこに答えがあるはずないのに、私は目を凝らして雲間を探るように目線を泳がす。
太陽を直視してしまい、私は反射的に目を閉じる。
自分でも何をしたいのだろうと思う。
「みなみちゃーん」
突如聞こえた私の名を呼ぶ声に、身体の向きをそちらに向ける。
田村さんが長い黒髪と檸檬色のマフラーを宙に舞わせて私の方に走っていた。
「ごめんごめん、待った?」
少し呼吸を荒げて白い吐息を吐き出しながら、田村さんが尋ねる。
「私が早く来すぎただけだから……気にしないで」
そう答えると、田村さんは安心した表情になって次第に息を整わせ始めた。
落ち着くのを待ってから、私達はゆたかが待つ泉先輩の家へと向かった。
大分通い慣れた道程は変わりない。
脇に据える商店も、所々そびえる電柱や塀も、コンクリートで固められた歩道も。
そこに微細な変化はあるのかもしれないが、大局は不変のもの。私が意識しなくても目的地まで導いてくれる。
「ゆーちゃんの事だけどさ……」
取り留めのない色々な事を喋っていると、不意に田村さんが新たな話題を切り出してきた。
今から出向く、ゆたかに関する事。
表情を窺うと、神妙な顔を真正面に向けていた。
「昨日学校で、ゆーちゃんが無理してるみたいな話、したじゃない?」
不純な感情を一切排除した真摯な眼差しを向けられて、私は静かに頷く。
「あの後ゆーちゃんと話したんだけど、やっぱり何処か変な感じだったんだよ」
その言葉に、ゆたかの荷物を届ける役目は田村さんが受け持った事を思い出す。恐らくその時に会話を交わしたのだろう。
「変な感じ、って……?」
「何か隠してるっていうか……やっぱり無理してるっていうか……」
正確には分かっていないらしく、語尾を濁してゆたかの様子を表す田村さん。
戸惑わせているのは間違えなく私の所為なのだけれど、言い出せるわけはなかった。
風が通り抜けて、髪や服がはためく。
普段は気にもならない音が、今だけは煩く聞こえた。
「本人は何もないって言ってたけど……」
本当は違うのだろうかとでも言うように眉を寄せる田村さん。
私の選択が、周囲の関係ない人間まで巻き込んで困らせている。
その事実に、私は無責任に口をつぐんだ。
脇に据える商店も、所々そびえる電柱や塀も、コンクリートで固められた歩道も。
そこに微細な変化はあるのかもしれないが、大局は不変のもの。私が意識しなくても目的地まで導いてくれる。
「ゆーちゃんの事だけどさ……」
取り留めのない色々な事を喋っていると、不意に田村さんが新たな話題を切り出してきた。
今から出向く、ゆたかに関する事。
表情を窺うと、神妙な顔を真正面に向けていた。
「昨日学校で、ゆーちゃんが無理してるみたいな話、したじゃない?」
不純な感情を一切排除した真摯な眼差しを向けられて、私は静かに頷く。
「あの後ゆーちゃんと話したんだけど、やっぱり何処か変な感じだったんだよ」
その言葉に、ゆたかの荷物を届ける役目は田村さんが受け持った事を思い出す。恐らくその時に会話を交わしたのだろう。
「変な感じ、って……?」
「何か隠してるっていうか……やっぱり無理してるっていうか……」
正確には分かっていないらしく、語尾を濁してゆたかの様子を表す田村さん。
戸惑わせているのは間違えなく私の所為なのだけれど、言い出せるわけはなかった。
風が通り抜けて、髪や服がはためく。
普段は気にもならない音が、今だけは煩く聞こえた。
「本人は何もないって言ってたけど……」
本当は違うのだろうかとでも言うように眉を寄せる田村さん。
私の選択が、周囲の関係ない人間まで巻き込んで困らせている。
その事実に、私は無責任に口をつぐんだ。
暫くして泉家が見えてくると、私の中に形成された入り組んだ迷宮は更に難解な構造へと変わっていった。
今からゆたかと会うのに、そんな事を知られるわけにはいかない。
伝わる確立は殆どないと分かっていても、私は一時的に忘れようと努める。
「みなみちゃん、難しい顔してどうしたの?」
田村さんが私の顔を覗き込んで聞いてくる。
「何でもないよ」
気持ちを引き締めて、悠然と構えている家を見上げる。
素性を隠す笑壺が張りついた仮面を被り、準備は完了した。
呼び鈴を鳴らすと、すぐに返答があって屋内から足音が聞こえてきた。
「はーい……おお、みなみちゃんにひよりん、いらっしゃい」
泉先輩が扉を開けて歓迎してくれた。
「寒かったでしょ。さ、上がって上がって」
来客用と思われるスリッパを用意しながら早く入るようにと勧める泉先輩。私達は一礼して、揃えられた室内履きに足を通す。
先導する泉先輩に続いて二階へ踏み入ると、ゆたかが寝ている部屋のドアが見えてきた。泉先輩が手の甲で三度軽く叩く。
「ゆーちゃん、起きてる?」
「起きてるよ」
少々の時間差の後、聞こえてきたゆたかの声。当たり前だが今私の目の前にある部屋にゆたかがいる事を表している。
理由は分からず、心臓が高鳴る。
「みなみちゃんとひよりんがお見舞いに来てくれたよ」
その言葉を皮切りに、再び空白。
また拒絶されてしまったらどうしよう―――
浮かんでくるのは最悪と最高の紙一重の展開だけ。
「……入って良いよ」
ゆたかの下した許可に、救われたのか違うのか。
頭が混乱してきた。
先程から私に突きつけられるのは、正反対の性質を持った事物ばかり。
そのどれもが確かな答えを持たず、私を惑わせている。
全く逆の、究極の選択肢。
私が正しい方を選び取る事は可能なのだろうか。
今からゆたかと会うのに、そんな事を知られるわけにはいかない。
伝わる確立は殆どないと分かっていても、私は一時的に忘れようと努める。
「みなみちゃん、難しい顔してどうしたの?」
田村さんが私の顔を覗き込んで聞いてくる。
「何でもないよ」
気持ちを引き締めて、悠然と構えている家を見上げる。
素性を隠す笑壺が張りついた仮面を被り、準備は完了した。
呼び鈴を鳴らすと、すぐに返答があって屋内から足音が聞こえてきた。
「はーい……おお、みなみちゃんにひよりん、いらっしゃい」
泉先輩が扉を開けて歓迎してくれた。
「寒かったでしょ。さ、上がって上がって」
来客用と思われるスリッパを用意しながら早く入るようにと勧める泉先輩。私達は一礼して、揃えられた室内履きに足を通す。
先導する泉先輩に続いて二階へ踏み入ると、ゆたかが寝ている部屋のドアが見えてきた。泉先輩が手の甲で三度軽く叩く。
「ゆーちゃん、起きてる?」
「起きてるよ」
少々の時間差の後、聞こえてきたゆたかの声。当たり前だが今私の目の前にある部屋にゆたかがいる事を表している。
理由は分からず、心臓が高鳴る。
「みなみちゃんとひよりんがお見舞いに来てくれたよ」
その言葉を皮切りに、再び空白。
また拒絶されてしまったらどうしよう―――
浮かんでくるのは最悪と最高の紙一重の展開だけ。
「……入って良いよ」
ゆたかの下した許可に、救われたのか違うのか。
頭が混乱してきた。
先程から私に突きつけられるのは、正反対の性質を持った事物ばかり。
そのどれもが確かな答えを持たず、私を惑わせている。
全く逆の、究極の選択肢。
私が正しい方を選び取る事は可能なのだろうか。
可愛いらしいぬいぐるみや小物、暖かい色で纏められた絨毯や窓掛けは女の子らしく、ゆたからしい。
淡白な私の部屋とは大違いの部屋の壁際には、温そうな毛布と布団が重なって置かれてあるベッド。
その中に、儚い雰囲気を纏う少女はいた。
「いらっしゃい、みなみちゃん、田村さん」
ゆたかは微笑んではみせたものの、やはり泉先輩の言っていた通り元気がなかった。
それは風邪だからとかいうものではなくて、内面に秘めるその人特有の感じのようなもの。表面上のものではなく、ゆたかの本質的な部分。
いつも私を含めた周りの人を穏やかな気持ちにさせてくれる、ゆたかだけの力。
そういったものが感じられなかった。
「何か飲み物持ってくるね。ホットミルクで良いかな?」
「お願いします」
上半身を起こしたゆたかに目と心を奪われていた私の代わりに、田村さんが泉先輩の問い掛けに答えてくれていた。
泉先輩が台所へ向かってから、私達はゆたかの近くに移動して腰を下ろす。
「わざわざ来てくれてありがとうね……こほっ!」
途端に咳き込むゆたか。
やはり症状がかなり酷いようだ。今までにないくらい苦しそうに目を閉じている。
「ゆたか、大丈夫……?」
「私達の事は良いから、もう少し寝ていた方が良いよ」
田村さんの言葉に、ゆたかは火照った顔のまま半眼で見つめる。
「ごめんね、折角来て貰ったのに……」
「良いって良いって」
笑ってみせる田村さんに、ゆたかは少しだけ本来の自分自身を取り戻したようだった。
そして私はまた、自分より頼れるゆたかの友達を見つけた。
たったの一言しか掛けてやれなかった私と、気遣いの言葉を瞬時に紡ぎ出した田村さん。
どちらがゆたかの事を思い遣れているかなんて歴然だった。
保健委員の代わりなんて、幾らでも適任がいる。
寝息を立て始めたゆたかとそれを眺める田村さんを、私は少し離れて見ていた。
それは実際に距離でもあるし、心の距離でもあった。
淡白な私の部屋とは大違いの部屋の壁際には、温そうな毛布と布団が重なって置かれてあるベッド。
その中に、儚い雰囲気を纏う少女はいた。
「いらっしゃい、みなみちゃん、田村さん」
ゆたかは微笑んではみせたものの、やはり泉先輩の言っていた通り元気がなかった。
それは風邪だからとかいうものではなくて、内面に秘めるその人特有の感じのようなもの。表面上のものではなく、ゆたかの本質的な部分。
いつも私を含めた周りの人を穏やかな気持ちにさせてくれる、ゆたかだけの力。
そういったものが感じられなかった。
「何か飲み物持ってくるね。ホットミルクで良いかな?」
「お願いします」
上半身を起こしたゆたかに目と心を奪われていた私の代わりに、田村さんが泉先輩の問い掛けに答えてくれていた。
泉先輩が台所へ向かってから、私達はゆたかの近くに移動して腰を下ろす。
「わざわざ来てくれてありがとうね……こほっ!」
途端に咳き込むゆたか。
やはり症状がかなり酷いようだ。今までにないくらい苦しそうに目を閉じている。
「ゆたか、大丈夫……?」
「私達の事は良いから、もう少し寝ていた方が良いよ」
田村さんの言葉に、ゆたかは火照った顔のまま半眼で見つめる。
「ごめんね、折角来て貰ったのに……」
「良いって良いって」
笑ってみせる田村さんに、ゆたかは少しだけ本来の自分自身を取り戻したようだった。
そして私はまた、自分より頼れるゆたかの友達を見つけた。
たったの一言しか掛けてやれなかった私と、気遣いの言葉を瞬時に紡ぎ出した田村さん。
どちらがゆたかの事を思い遣れているかなんて歴然だった。
保健委員の代わりなんて、幾らでも適任がいる。
寝息を立て始めたゆたかとそれを眺める田村さんを、私は少し離れて見ていた。
それは実際に距離でもあるし、心の距離でもあった。
「はーいお待たせー」
扉が開くと共に声が飛び込んできた。入り口に視線を送ると、お盆に三つのマグカップを乗せた泉先輩の姿が見えた。
泉先輩は丁寧に私達に手渡してくれた。
「頂きます」
一言断りを入れて淵に口をつける。湯気が立つほど温められた牛乳は、芯まで冷えた身体を隅々まで癒していく。
田村さんも来る中途に相当冷え込んでいたらしく、幸せそうな顔を浮かべていた。
「ありゃりゃ、ゆーちゃんは寝ちゃったか」
そう言って残った一つを机の上に置く泉先輩。
「相当酷いみたいッスね」
「昨日から結構うなされてたんだよ……今回はいつにも増してヤバそう」
泉先輩は溜め息混じりに説明してくれた。
ゆたかの様態に関する単語が出てくる度に、私は胸に棘が刺さるのを感じた。
私が原因なのに、それを言い出せない。
何をどう言うべきなのか、言った方が良いのか。
多様な感情が複雑に絡み合って、正否の判断がつけられない。
私に与えられた手段は塞ぎ込む以外になかった。
扉が開くと共に声が飛び込んできた。入り口に視線を送ると、お盆に三つのマグカップを乗せた泉先輩の姿が見えた。
泉先輩は丁寧に私達に手渡してくれた。
「頂きます」
一言断りを入れて淵に口をつける。湯気が立つほど温められた牛乳は、芯まで冷えた身体を隅々まで癒していく。
田村さんも来る中途に相当冷え込んでいたらしく、幸せそうな顔を浮かべていた。
「ありゃりゃ、ゆーちゃんは寝ちゃったか」
そう言って残った一つを机の上に置く泉先輩。
「相当酷いみたいッスね」
「昨日から結構うなされてたんだよ……今回はいつにも増してヤバそう」
泉先輩は溜め息混じりに説明してくれた。
ゆたかの様態に関する単語が出てくる度に、私は胸に棘が刺さるのを感じた。
私が原因なのに、それを言い出せない。
何をどう言うべきなのか、言った方が良いのか。
多様な感情が複雑に絡み合って、正否の判断がつけられない。
私に与えられた手段は塞ぎ込む以外になかった。
「でも、みなみちゃんもひよりんも来てくれた事だし、きっとすぐに良くなるよ」
泉先輩は打って変わって笑顔になって言った。
「ゆーちゃん、いつもみなみちゃんの事楽しそうに話すんだよ」
耳を疑った。
ゆたかが私の事を話す……?
「信頼されてるって凄い伝わってくるよ」
違う。
そう、否定したかった。
でも、心の何処かで頼られていると言われて喜んでいる、もう一人の自分がいて。
私は何も言えなかった。
「そりゃもう、『三次元の天音様』の異名持ってるぐらいッスから」
笑い合う田村さんと泉先輩。
私の事について話されているという事も、何の事か今一理解出来ない称号を授かった事も、今の私にはさして気にならなかった。
それほど私の脳内は切羽詰っていて余裕がなかった。
「何にせよ今日はわざわざありがとうね」
泉先輩はおもむろに立ち上がり、扉へと歩みを進めていった。
「私はこれからパソコンするけど、好きなだけいて良いからね」
そう言い残して部屋を後にした。
私はその後姿を眺めながら、私とゆたかが完全に別離する事は不可能なのだと悟った。
保健委員の肩書きと宿命を背負った時から、それは暗黙の了解として私に突きつけられていたのだ。
その頃はこんな事態になるとは思ってもみなかったから認識していなかっただけ。
泉先輩も、田村さんも、パトリシアさんも、成実さんも。
私をゆたかの面倒をしっかり見れている良い人だと思っているのだ。
本当は、違うのに。
私は、ゆたかを苦しめる存在なのに。
その役目は、私よりも自分達の方が適していると分かっておらずに。
「信じられるって、良いものだね」
私の胸中を知らずに、田村さんが誰にとももなく呟く。
私は相も変わらず黙秘を決め込んでいた。
否定するべきなのに、出来なかった。
信頼とか信じるとか、そういった類の言葉がとても嬉しかったから。
人と関わる事が不得手だった私には、非常に良く感激が染み渡った。
気がつけば少し前に誓った事を、なかったもののように扱おうとしている私がいた。
真実は違うのに、客観の誤解に心を躍らせて。
その真実も不確定のものだからと、別のものに置き換えようとしていて。
ゆたかから離れる事は、本当にゆたかの為になるのだろうか。
散々悩んで見出した結論を、今になって覆そうとしていて。
私はやはり、心の底からゆたかの事が好きなんだと実感する。
間違いのない、確かな道を確かめたい。
眠りの深淵に誘われている、最愛の人を見て思った。
泉先輩は打って変わって笑顔になって言った。
「ゆーちゃん、いつもみなみちゃんの事楽しそうに話すんだよ」
耳を疑った。
ゆたかが私の事を話す……?
「信頼されてるって凄い伝わってくるよ」
違う。
そう、否定したかった。
でも、心の何処かで頼られていると言われて喜んでいる、もう一人の自分がいて。
私は何も言えなかった。
「そりゃもう、『三次元の天音様』の異名持ってるぐらいッスから」
笑い合う田村さんと泉先輩。
私の事について話されているという事も、何の事か今一理解出来ない称号を授かった事も、今の私にはさして気にならなかった。
それほど私の脳内は切羽詰っていて余裕がなかった。
「何にせよ今日はわざわざありがとうね」
泉先輩はおもむろに立ち上がり、扉へと歩みを進めていった。
「私はこれからパソコンするけど、好きなだけいて良いからね」
そう言い残して部屋を後にした。
私はその後姿を眺めながら、私とゆたかが完全に別離する事は不可能なのだと悟った。
保健委員の肩書きと宿命を背負った時から、それは暗黙の了解として私に突きつけられていたのだ。
その頃はこんな事態になるとは思ってもみなかったから認識していなかっただけ。
泉先輩も、田村さんも、パトリシアさんも、成実さんも。
私をゆたかの面倒をしっかり見れている良い人だと思っているのだ。
本当は、違うのに。
私は、ゆたかを苦しめる存在なのに。
その役目は、私よりも自分達の方が適していると分かっておらずに。
「信じられるって、良いものだね」
私の胸中を知らずに、田村さんが誰にとももなく呟く。
私は相も変わらず黙秘を決め込んでいた。
否定するべきなのに、出来なかった。
信頼とか信じるとか、そういった類の言葉がとても嬉しかったから。
人と関わる事が不得手だった私には、非常に良く感激が染み渡った。
気がつけば少し前に誓った事を、なかったもののように扱おうとしている私がいた。
真実は違うのに、客観の誤解に心を躍らせて。
その真実も不確定のものだからと、別のものに置き換えようとしていて。
ゆたかから離れる事は、本当にゆたかの為になるのだろうか。
散々悩んで見出した結論を、今になって覆そうとしていて。
私はやはり、心の底からゆたかの事が好きなんだと実感する。
間違いのない、確かな道を確かめたい。
眠りの深淵に誘われている、最愛の人を見て思った。
「それにしてもこれどうしようか……っ!?」
机に目を向けた田村さんの声の最後の方は不自然に聞こえた。
「どうしたの?」
「ちょっと泉先輩のところ行ってくる!」
田村さんは勢い良く言い放って、急ぎ足で部屋を出ていった。
どうしようとは多分ゆたかの分のホットミルクの事で、このままでは誰も飲まずに無駄になってしまうという事だろう。安らかな寝顔で深い眠りについているゆたかを見ながら推測する。
しかしそれなら何故田村さんは大慌てで、泉先輩に用事があるのだろうか。
不思議に思いながら、私はマグカップがある机上に目をやった。
隣に見慣れない本が置いてある事に気づく。
もしかして田村さんはこれに何か疑問を持ったのだろうか。そうかもしれないと考えて手を伸ばす。
適当に頁を捲ると複数のコマに分割されていた。そこから私はこれは漫画だと読み取る。
しかし漫画の単行本にしては大きく、そして薄すぎやしないだろうか。雑誌と同じか一回り小さいぐらいの本は、私が見た事ないほどの薄さだった。
ふとその内容に、私は手に取るように分かるくらい思いっきり顔を真っ赤にする。
それは所謂、成人していない子供が読んではいけないものだった。しかし登場する人物は女性ばかり。
更に頭がパニックに陥る。現在の状況をどうにか理解処理しようと脳が全快になる。
どうしてゆたかの部屋にこんなものがあるのだろうか。
もしかしてゆたかが購入した……?
途中まで考えて、その可能性はありえないと首を振る。ゆたかの外見からしてまず売って貰えないはずだ。
なら一体どうして―――
「先輩ッ!何でゆーちゃんの部屋に私の作品『揺れる気持ち ~特別な貴方に捧ぐ私の初恋~』があるんですかっ」
別の場所、恐らく泉先輩の部屋から田村さんの叫ぶ声がここまで届いて私の思考を中断させる。
「ああ、それ?ゆーちゃんが読みたいって言うから私が貸したんだよ」
「マジで読みたいって言ったんスか!?」
「そうだよ、しかも中々返してくれないしね。気に入ってるんじゃない?」
扉を開け放つと泉先輩の声も十分聞き取れた。どうやらあちらもドアを閉めずに口論しているらしい。
ゆたかが、読みたい?これを?
急いで密室を作り、今一度漫画を手に取る。
信じられない。真っ先に浮かんだ感想。
本当に二人に言っている通りなのだろうか。
しかしその事実をどこか肯定したい気も少なからずあった。
盗み聞いてしまった事が本当なら、ゆたかはこのようになりたいと思っているのだろう。
信じ難い仮定だが、私の心臓は着実に刻むテンポの速さを激増させていた。
一旦冷静になろうと自分に言い聞かす。
しかし私の心は沈静の動向を見せる事はなく、架空の空間に生み出された己の妄想の産物に依然程度を増すばかりだった。
さっきの田村さんと泉先輩の会話が何度も私の中でエコーする。
欲望に近い想定をそう簡単に信じるわけにはいかない。
だが本音はそうであって欲しいと切実に叫んでいる。
机に目を向けた田村さんの声の最後の方は不自然に聞こえた。
「どうしたの?」
「ちょっと泉先輩のところ行ってくる!」
田村さんは勢い良く言い放って、急ぎ足で部屋を出ていった。
どうしようとは多分ゆたかの分のホットミルクの事で、このままでは誰も飲まずに無駄になってしまうという事だろう。安らかな寝顔で深い眠りについているゆたかを見ながら推測する。
しかしそれなら何故田村さんは大慌てで、泉先輩に用事があるのだろうか。
不思議に思いながら、私はマグカップがある机上に目をやった。
隣に見慣れない本が置いてある事に気づく。
もしかして田村さんはこれに何か疑問を持ったのだろうか。そうかもしれないと考えて手を伸ばす。
適当に頁を捲ると複数のコマに分割されていた。そこから私はこれは漫画だと読み取る。
しかし漫画の単行本にしては大きく、そして薄すぎやしないだろうか。雑誌と同じか一回り小さいぐらいの本は、私が見た事ないほどの薄さだった。
ふとその内容に、私は手に取るように分かるくらい思いっきり顔を真っ赤にする。
それは所謂、成人していない子供が読んではいけないものだった。しかし登場する人物は女性ばかり。
更に頭がパニックに陥る。現在の状況をどうにか理解処理しようと脳が全快になる。
どうしてゆたかの部屋にこんなものがあるのだろうか。
もしかしてゆたかが購入した……?
途中まで考えて、その可能性はありえないと首を振る。ゆたかの外見からしてまず売って貰えないはずだ。
なら一体どうして―――
「先輩ッ!何でゆーちゃんの部屋に私の作品『揺れる気持ち ~特別な貴方に捧ぐ私の初恋~』があるんですかっ」
別の場所、恐らく泉先輩の部屋から田村さんの叫ぶ声がここまで届いて私の思考を中断させる。
「ああ、それ?ゆーちゃんが読みたいって言うから私が貸したんだよ」
「マジで読みたいって言ったんスか!?」
「そうだよ、しかも中々返してくれないしね。気に入ってるんじゃない?」
扉を開け放つと泉先輩の声も十分聞き取れた。どうやらあちらもドアを閉めずに口論しているらしい。
ゆたかが、読みたい?これを?
急いで密室を作り、今一度漫画を手に取る。
信じられない。真っ先に浮かんだ感想。
本当に二人に言っている通りなのだろうか。
しかしその事実をどこか肯定したい気も少なからずあった。
盗み聞いてしまった事が本当なら、ゆたかはこのようになりたいと思っているのだろう。
信じ難い仮定だが、私の心臓は着実に刻むテンポの速さを激増させていた。
一旦冷静になろうと自分に言い聞かす。
しかし私の心は沈静の動向を見せる事はなく、架空の空間に生み出された己の妄想の産物に依然程度を増すばかりだった。
さっきの田村さんと泉先輩の会話が何度も私の中でエコーする。
欲望に近い想定をそう簡単に信じるわけにはいかない。
だが本音はそうであって欲しいと切実に叫んでいる。
傍で寝ているゆたかに目をやる。
いつもは結っているけど、今は解放してある桃色の髪。
開かれた時は大きく、鮮やかな碧色の瞑った瞳。
薄らと汗ばみ上気した頬。整った形の鼻。
一定の循環を保ち上下する胸。僅かに聞こえる呼吸の音。
度々開閉する、口。
柔らかそうで瑞々しい、唇。
―――私は何をしようとしているのだろうか。自我を取り戻し慌てて激しく首を左右に振るう。
しかし私の脈動は収まり方を忘れてしまったかのように、必要以上に血を運搬させているように思えた。
全体的に静寂に包まれているからであろう、自分の鼓動が気になってしょうがない。
耳に届くのは中枢器官の動静と、ゆたかの立てる寝息だけ。
閉ざされた私達だけの空間。
理性と本能が私の中で具現化して壮絶な決闘を繰り広げている。
何かの手違いという可能性もある。
ゆたかが望んでいたとしても相手は私ではないかもしれない。
思う度に前者の勢力が強大なものになっていき。
願わなければこんな本は借りない。
ゆたかも私と同じ気持ちなのかもしれない。
思う度に後者が巻き返しを図る。
いつもは結っているけど、今は解放してある桃色の髪。
開かれた時は大きく、鮮やかな碧色の瞑った瞳。
薄らと汗ばみ上気した頬。整った形の鼻。
一定の循環を保ち上下する胸。僅かに聞こえる呼吸の音。
度々開閉する、口。
柔らかそうで瑞々しい、唇。
―――私は何をしようとしているのだろうか。自我を取り戻し慌てて激しく首を左右に振るう。
しかし私の脈動は収まり方を忘れてしまったかのように、必要以上に血を運搬させているように思えた。
全体的に静寂に包まれているからであろう、自分の鼓動が気になってしょうがない。
耳に届くのは中枢器官の動静と、ゆたかの立てる寝息だけ。
閉ざされた私達だけの空間。
理性と本能が私の中で具現化して壮絶な決闘を繰り広げている。
何かの手違いという可能性もある。
ゆたかが望んでいたとしても相手は私ではないかもしれない。
思う度に前者の勢力が強大なものになっていき。
願わなければこんな本は借りない。
ゆたかも私と同じ気持ちなのかもしれない。
思う度に後者が巻き返しを図る。
「ん……」
長い死闘の末。
「みなみちゃん……」
突然耳に舞い込んできたゆたかの寝言に、本能は強靭な刃を身につけ―――
理性という対抗者を、斬り捨てた。
横たわるゆたかに顔を寄せる。やはり私の名前を呼んだのは無意識の内の行為だったらしく、ゆたかはまだ夢の世界にいるみたいだった。
鼻に掛かりそうな吐息に、私は抑えを完全に失った。
弾力のある部分に、自分の同じ形状のものを重ねる。
初めて触れる他人の唇の柔らかさ。
それがゆたかのものだからという事もあるだろうけど、私はただただ驚きと喜びが込みあがってくるのを感じた。
触れ合わせた箇所から何かが私の中に流れ込んできて、増幅していく。
正体は不明だけど、それはとても居心地が良いもので。
本質を確かめる間もなく、私はすっかり虜になってしまっていた。
長い死闘の末。
「みなみちゃん……」
突然耳に舞い込んできたゆたかの寝言に、本能は強靭な刃を身につけ―――
理性という対抗者を、斬り捨てた。
横たわるゆたかに顔を寄せる。やはり私の名前を呼んだのは無意識の内の行為だったらしく、ゆたかはまだ夢の世界にいるみたいだった。
鼻に掛かりそうな吐息に、私は抑えを完全に失った。
弾力のある部分に、自分の同じ形状のものを重ねる。
初めて触れる他人の唇の柔らかさ。
それがゆたかのものだからという事もあるだろうけど、私はただただ驚きと喜びが込みあがってくるのを感じた。
触れ合わせた箇所から何かが私の中に流れ込んできて、増幅していく。
正体は不明だけど、それはとても居心地が良いもので。
本質を確かめる間もなく、私はすっかり虜になってしまっていた。
ふと、風邪が窓を叩く音で私は逃避していた心の知覚を再び有する。
そっと唇を離すと、唾液で生成された細い糸が目に止まった。
私の心残りを表しているかのように張り広がり、柔らかに差し込む太陽の光を反射してほのかに煌いている。
少し淫らなその様子に、私は自分がしでかした事の重大さを初めて理解した。
たちまち身体中の熱が顔面に集結するような感覚に襲われる。
私は何という事をしてしまったのだろうか。一時的になくしていた大事な歯止めを再び手にすると同時に、欲望に身を任せた己の行為を恥じる。
激しい動悸はどうにもならないと既に諦めているので、状態をそのままにゆたかに目線の照準を合わせる。
目は閉じているが、もしかしたら起きているのかもしれない。
心の中でどうしてそんな事するのって、泣いているのかもしれない。
そんな考えが頭を過ぎった。
根拠なき身勝手な想像に淡い夢物語を描き、ゆたかの気持ちも考えずに行動してしまった事に、際限なく自責の念が溢れてくる。
今まで必死に隠し通してきて、最終的に決別を決断したのに。
たった一つの感情に掻き乱されて、全てを無駄にしてしまった。
最悪だ、私。
横溢する負の情動に紛れた今の私を表すのに最適な二文字は、決して意味を成さない謝罪の言葉と共に何度も何度も内心の迷路を漂っていた。
私だけの世界の情景を、まるで他人事のように眺めていたのは勿論私だった。
私なんだけど、私じゃない。人に伝えたら確実に首を傾げられそうな事を思う。
私だって良く分からない、感覚的な問題。
ゆたかの唇を奪ったのも私なんだけど、それを何処か別の隔絶した場所から嘲っているのも私。
二人の自分が存在しているような気分になって、違和感を覚える。
ついにとんでもない事をしてしまったと現状を嘆く声も。
念願のものを手に入れたと余韻を喜ぶ声も。
両方とも、私のもので。
本気でもう一人別の自分がいるような印象を持ってしまう。
バランスは均衡してはおらず、生得的な様式に従った方が優勢。
ゆたかは私が離れていって悲しくないのだろうか。
それは本当にゆたかの為になる最善の手段なのだろうか。
この期に及んで真理を自分に都合の良いように思い込む。
それが確かだという証拠は何処にもないけど。
それが不確かだという証拠も何処にもありはしない。
そう思えてしまい、後者の信念は無駄に膨れ上がるばかりだった。
そっと唇を離すと、唾液で生成された細い糸が目に止まった。
私の心残りを表しているかのように張り広がり、柔らかに差し込む太陽の光を反射してほのかに煌いている。
少し淫らなその様子に、私は自分がしでかした事の重大さを初めて理解した。
たちまち身体中の熱が顔面に集結するような感覚に襲われる。
私は何という事をしてしまったのだろうか。一時的になくしていた大事な歯止めを再び手にすると同時に、欲望に身を任せた己の行為を恥じる。
激しい動悸はどうにもならないと既に諦めているので、状態をそのままにゆたかに目線の照準を合わせる。
目は閉じているが、もしかしたら起きているのかもしれない。
心の中でどうしてそんな事するのって、泣いているのかもしれない。
そんな考えが頭を過ぎった。
根拠なき身勝手な想像に淡い夢物語を描き、ゆたかの気持ちも考えずに行動してしまった事に、際限なく自責の念が溢れてくる。
今まで必死に隠し通してきて、最終的に決別を決断したのに。
たった一つの感情に掻き乱されて、全てを無駄にしてしまった。
最悪だ、私。
横溢する負の情動に紛れた今の私を表すのに最適な二文字は、決して意味を成さない謝罪の言葉と共に何度も何度も内心の迷路を漂っていた。
私だけの世界の情景を、まるで他人事のように眺めていたのは勿論私だった。
私なんだけど、私じゃない。人に伝えたら確実に首を傾げられそうな事を思う。
私だって良く分からない、感覚的な問題。
ゆたかの唇を奪ったのも私なんだけど、それを何処か別の隔絶した場所から嘲っているのも私。
二人の自分が存在しているような気分になって、違和感を覚える。
ついにとんでもない事をしてしまったと現状を嘆く声も。
念願のものを手に入れたと余韻を喜ぶ声も。
両方とも、私のもので。
本気でもう一人別の自分がいるような印象を持ってしまう。
バランスは均衡してはおらず、生得的な様式に従った方が優勢。
ゆたかは私が離れていって悲しくないのだろうか。
それは本当にゆたかの為になる最善の手段なのだろうか。
この期に及んで真理を自分に都合の良いように思い込む。
それが確かだという証拠は何処にもないけど。
それが不確かだという証拠も何処にもありはしない。
そう思えてしまい、後者の信念は無駄に膨れ上がるばかりだった。
「みなみちゃーん」
いきなりドアノブに誰かが手を掛ける音が響いて、私は跳ね上がる。
その間抜けな様子は見られなかったようで、田村さんは何も言う事はなく入室してきた。
気づかれないように、胸を撫で下ろす。
「あんまり長居したら悪いから、そろそろ帰ろうかと思うんだけど……」
畳んであった上着を羽織ながらそう言う田村さんは、もう既に帰る気満々だった。
何かあったわけじゃないだろうけど、いや、あったのかもしれないけど。
「うん……そうしようか」
聞き出しはせず、私も答えて立ち上がる。
「ん?もう帰る?」
様子を見に来たのだろうか、部屋の外に出ようとした時にこちらへ向かってきていた泉先輩に尋ねられた。
「はい……お邪魔しました」
「わざわざ遠くから来て貰ったのにごめんね。もうちょっとゆーちゃんが良くなってからの方が良かったかもね」
「早く元気になると良いッスね」
泉先輩が頷いて会話が途切れる。それを合図のように私達は頭を下げて、階段へと足を運んだ。
一段高度の低い場所に下りようとしたその時。
「……みなみちゃん」
まだ閉ざされていなかったゆたかの部屋から主の声が飛んでくる。
いつもより覇気もなく弱々しかったけど、何故か届くゆたかの声。
私は振り返れなかった。
ベッドから身を起こして私の方を見ているゆたかがいるであろう部屋を、見る事が出来なかった。
喋っているという事は、起きているという事だから。
許しも得ずに口づけを交わしてしまったシーンが、走馬灯のように蘇る。
あの時からずっと、目を覚ましていたのだろうか。
「田村さん……」
次に呼ばれた友達の名前に、私は全く関心を示さなかった。いや、正確には示せなかった。
そんなゆとりがあるわけなかった。
張り裂けそうな鼓動、水分を失い渇く喉、小刻みに震える全身。
私の勘違いかもしれない。
三人の足音で喪失していた意識を戻したのかもしれない。
けど、静かに沈んだ声には並々ならぬ志が込められているようだった。
「折角来てくれたのにごめんね……」
か細い絞り出したような小声が私を貫く。
本当に謝らなければいけないのは私の方なのに。
涙腺が崩壊するのを防ぐのに全神経を注いでいた私は、それすらも言い出せなかった。
頭が酷く痛む。総身の熱が一挙に結集するようだ。
「また月曜日、学校で会おうね」
精一杯の笑顔で答えているのであろうゆたかを、私はやはり見れなかった。
「みなみちゃん、田村さん、またね」
「またね、ゆーちゃん」
―――またね。
「じゃあね……ゆたか」
その別れの言葉に、私は背を向けたまま違う挨拶を選んだ。
それが本心から出た言葉かどうか今は考える気にはなれなかったし、結論は出ないと思った。
いきなりドアノブに誰かが手を掛ける音が響いて、私は跳ね上がる。
その間抜けな様子は見られなかったようで、田村さんは何も言う事はなく入室してきた。
気づかれないように、胸を撫で下ろす。
「あんまり長居したら悪いから、そろそろ帰ろうかと思うんだけど……」
畳んであった上着を羽織ながらそう言う田村さんは、もう既に帰る気満々だった。
何かあったわけじゃないだろうけど、いや、あったのかもしれないけど。
「うん……そうしようか」
聞き出しはせず、私も答えて立ち上がる。
「ん?もう帰る?」
様子を見に来たのだろうか、部屋の外に出ようとした時にこちらへ向かってきていた泉先輩に尋ねられた。
「はい……お邪魔しました」
「わざわざ遠くから来て貰ったのにごめんね。もうちょっとゆーちゃんが良くなってからの方が良かったかもね」
「早く元気になると良いッスね」
泉先輩が頷いて会話が途切れる。それを合図のように私達は頭を下げて、階段へと足を運んだ。
一段高度の低い場所に下りようとしたその時。
「……みなみちゃん」
まだ閉ざされていなかったゆたかの部屋から主の声が飛んでくる。
いつもより覇気もなく弱々しかったけど、何故か届くゆたかの声。
私は振り返れなかった。
ベッドから身を起こして私の方を見ているゆたかがいるであろう部屋を、見る事が出来なかった。
喋っているという事は、起きているという事だから。
許しも得ずに口づけを交わしてしまったシーンが、走馬灯のように蘇る。
あの時からずっと、目を覚ましていたのだろうか。
「田村さん……」
次に呼ばれた友達の名前に、私は全く関心を示さなかった。いや、正確には示せなかった。
そんなゆとりがあるわけなかった。
張り裂けそうな鼓動、水分を失い渇く喉、小刻みに震える全身。
私の勘違いかもしれない。
三人の足音で喪失していた意識を戻したのかもしれない。
けど、静かに沈んだ声には並々ならぬ志が込められているようだった。
「折角来てくれたのにごめんね……」
か細い絞り出したような小声が私を貫く。
本当に謝らなければいけないのは私の方なのに。
涙腺が崩壊するのを防ぐのに全神経を注いでいた私は、それすらも言い出せなかった。
頭が酷く痛む。総身の熱が一挙に結集するようだ。
「また月曜日、学校で会おうね」
精一杯の笑顔で答えているのであろうゆたかを、私はやはり見れなかった。
「みなみちゃん、田村さん、またね」
「またね、ゆーちゃん」
―――またね。
「じゃあね……ゆたか」
その別れの言葉に、私は背を向けたまま違う挨拶を選んだ。
それが本心から出た言葉かどうか今は考える気にはなれなかったし、結論は出ないと思った。
私が選ぶ道に続く
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- お互いの、すれ違う心理描写が
凄く上手いです。作者さんは、
天才ですね! -- チャムチロ (2012-10-23 00:35:49)