霊懐王皇后は、後漢後期の霊帝の妃妾。生前の位によって史書では王美人と呼ばれる。献帝となる皇子劉協を産んだ。
 何皇后の嫉妬を買い、間もなく毒殺される。
 献帝の即位後に「懐」とされ、皇后として霊帝と合葬された。


情報

霊懐王皇后
(不詳)
(不詳)
本貫地 趙国
家柄 趙国王氏
祖父 王苞
幼年評 姿色豊かで、聡敏にして才明有り。書・会計を能くす。
位歴 美人
死去 何皇后によって毒殺
諡号 霊懐王皇后
劉協(漢孝献帝)


事跡

 姿色豊かで、聡敏にして才明有り。書・会計を能くした。良家の子であり、法に応じた相貌であるということで選ばれて掖庭に入った。
 光和三年(180年)、霊帝の子を妊娠するが、何皇后の嫉妬を畏れ、服薬して堕胎しようとした。しかし胎児は安んじて動かず、またしばしば太陽を背負って行く夢を見た。
 翌光和四年(181年)、皇子劉協を産む。しかし王美人は遂にによって毒殺される。
 興平元年(195年)、献帝が元服を加えると、有司長秋宮皇后)を立てるようにと奏した。しかし献帝は詔して、「朕は稟受(天の定め)が弘(ひろ)からず、禍乱に遭い値しており、未だ先帝を紹(つ)いで故典を光(かがやか)すことができていない。皇母は前に薨じ、未だ宅兆も卜せず(墓所も選べない)。礼章に闕(欠)が有って心中に結ばれているが如くだ。三歲の慼(うれい。服喪)には蓋吉を言わず(だから皇后を決めることなどできない)。しばらくその後を須(ま)つように」。このため有司は王美人を追尊して霊懐皇后とし、文昭陵(霊帝の陵墓)に改葬するように奏した。儀は敬陵恭陵の先例に比し、光禄大夫を持節して使わし、司空の事を行わせ、皇后の璽綬を奉じさせて葬を取り仕切らせた。王美人の兄の王斌と河南尹の駱業が陵墓を復土した。
 敬陵は章帝の、恭陵は安帝の陵墓である。それぞれ、章徳竇皇后と安思閻皇后の他に、和帝の生母梁貴人、少帝劉懿の生母李氏が合葬されている。献帝もその例に倣った儀礼で生母を葬ったのだろう。


年表




所属項目(タグ)


関連項目・人物

「霊懐王皇后」をタグに含むページは1つもありません。



-
最終更新:2016年02月28日 01:51