蔡倫は、後漢前期の宦人。和帝中常侍として仕え、鄭衆とともに信任されて政事に参与した。
 樹皮を用いた紙「蔡侯紙」の発明者として著名な他、尚方令として御用の器具や秘剣の制作に携わり、一代の模範となった。
 安帝の世も引き続き政事に預かったが、鄧太后が崩御して帝が親政を行うようになると、かつて帝の祖母の宋貴人(敬陰宋皇后)蠱道の罪で有罪とした件で廷尉に送られ、取り調べを受ける前に自殺した。
 本貫の県は史書では不明だが、耒陽県に生家が存在したという伝記がある。


情報

蔡倫
敬仲
本貫地 桂陽郡耒陽県
起家 給事
官歴 小黄門 中常侍 加尚方令 長楽太僕
爵位 龍亭侯、邑三百戸(漢中郡成固県か) 死後除かれる
才学を有し、心を尽くして敦慎で、しばしば厳顏を犯して得失を匡(ただ)し弼(たす)けた。
死去 安帝が勅使し廷尉に致す。乃ち沐浴して衣冠を整え、薬を飲み死す。



事跡

 明帝の永平年間(58-75年)の末、宮掖(宮中及び掖庭)に給事した。
 章帝の建初年間(76-84年)、小黄門となった。
 建初七年(82年)、当時の皇太子劉慶竇皇后に疎まれ廃されて清河王となり、代わって皇子劉肈(後の和帝)が皇太子に立てられた。劉慶の母の宋貴人と、妹(宋貴人(小貴人))は蠱道呪詛を行った罪で(取り調べ)を受け、小黄門の蔡倫が担当に使わされた。皆、竇皇后のほのめかしを受けて蔡倫に意思を伝え、蔡倫はそれによって宋姉妹を有罪として暴室へ送った。姉妹は同時に薬を飲んで自殺した。 
 和帝の即位(88年)に及び、中常侍に転じ、帷幄(廟堂の政事)に参与した。才幹学識を有しており、心を尽くして敦慎で、和帝の厳顔を犯し(不興を買うのを覚悟で)、政事の得失を正して輔弼した。休沐で邸宅に帰るたびに、門を閉ざして賓客を絶ち、体を田野に晒して耕作して人脈を作らなかった。
 後に尚方令を加位され、永元九年(97年)、秘剣及び諸器械を監作した。精工堅密なこと、後世の法とならないものはなかった。
 日頃から五官中郎将何敞の憎しみを買っており、蔡倫もこのことを恨んでいた。元興元年(105年)のある時、祠廟が厳粛でなければならないことから、何敞はわずかの病で齋(いつき)をしなかった。後に鄧皇后太傅鄧禹の冢に参上すると、何敞は起きて皇后に随い、百官に会した。蔡倫はこれによって何敞が詐病したと奏した。何敞は座して罪に抵触し、家で卒した。
 また、同年に蔡侯紙を制作し、上奏した(後述)。

 延平元年(106年)、劉慶の子である安帝が即位したが、鄧皇后が太后として臨朝し、引き続き鄭衆と共に政事に参与した。
 永初元年(107年)、司空周章が、安帝が衆人の心を掴んでいないことから密謀して宮門を閉ざし、車騎将軍鄧騭兄弟と鄭衆・蔡倫を誅して安帝を廃位し平原王劉勝を立てようとした。事は発覚し、周章は策免され、自殺した。
 永初四年(110年)、鄧太后は経書の伝文に正定されない箇所が多いことから、儒学に通じた謁者劉珍博士良史を選び、東観にて各々の家法を引き比べて校訂させた。蔡倫はその監典に当たった。
 元初元年(114年)、鄧太后は蔡倫が久しく宿衛の任にあることから、封じて龍亭侯、邑三百戸とした。後に長楽太僕として太后に仕えた。
 永寧二年(121年)三月、董太后が崩御すると、安帝が万機を掌って親政を始めた。安帝は、かつて祖母の宋貴人が誣告され蔡倫の取り調べで自殺に追い込まれたことから、勅使して蔡倫を廷尉に召致した。蔡倫は辱めを受けるのを恥とし、乃ち沐浴して衣冠を整え、薬を飲んで死んだ。侯国は除かれた。

蔡侯紙の発明

 古来、書には主に竹を編んだものを使用しており、ただ縑帛(細織の固い絹)を用いることがあってこれを「紙」と読んでいた。縑は高価で多用できず、行政も含めた一般の文書には簡を使用していたが、その重さのために不便なものだった
 蔡倫は意を用いて、樹膚(樹皮)・麻頭(砕いた麻)・敝布(ボロ布)・魚網を用いて紙を作り、元興元年(105年)にこれを奏上した。和帝はその能を善しとし、大いに普及し、故に天下はみな「蔡侯紙」と称えた。
「湘州記」曰く、「(桂陽郡の)耒陽県北に漢の黄門蔡倫宅が有る。宅の西に一石の臼が有り、これが蔡倫の紙を舂(つ)いた臼と云う」


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最終更新:2016年01月11日 19:53