鄭衆は、後漢前期の宦人。
章帝に太子時代から仕えた。その子の
和帝が
竇氏から政権を奪回する計画の首謀となり、
竇憲を筆頭とする一党を一挙に打倒して和帝親政の時代を開いた。
その後は和帝の政事に参与して親愛された。「
中官が権を用いるのは鄭衆より始まる」と、後漢書宦者列伝はいう。
情報
事跡
ひととなりは謹慎にして機を見るに敏。心に一計を有した。
明帝の
永平年間(58~75年)、最初に
太子家に給事した。太子が即位(
章帝)すると、拜して
小黄門となりやがて
中常侍に遷った。
次の
和帝の初め、
鉤盾令の位を加えられた。
和帝の世の初めには
竇太后が
臨朝して政事を
秉ったため、太后の兄で大将軍の
竇憲らが威権を窃み、朝臣は上下を問わず竇氏に附かない者は無かった。しかし鄭衆は独り徒党を組まず、王室(劉氏)に心を一つにして向け、豪党につかえなかったので、和帝は親愛信頼を得ることになった。
永元四年(92年)、和帝が竇憲兄弟を誅する決意をすると、帝の異母兄の
清河王
劉慶を経由して、
薄昭や
竇嬰が誅された際の故事を探索して帝へ届けた。
竇憲が不軌(叛乱)を作すと、鄭衆は誅罰の計画を首謀した。竇憲が征伐から帰還するのを待ち、郊外で軍に褒賞の品を賜って油断させてから、竇憲らを洛陽城内へ引き入れて城門を閉ざし、党与を一挙に捕縛した。竇憲は
冠軍侯に改封されて領国に就かせられ、当地で自殺を迫られた。
鄭衆はこの功によって
大長秋に遷った。勲功を評価し褒賞を分ける際には、多くを事態して少なくを受け、これによって常に朝廷の議事をあずかった。後漢王朝で
中官が権を用いるのは鄭衆より始まる。
永元十四年(102年)、和帝は鄭衆の功美を念じ、封じて鄛郷侯(
南陽郡棘陽県)、食邑千五百戸とした。
延平元年(106年)、
安帝が即位し 引き続き
蔡倫と共に政事に参与した。
永初元年(107年)、
司空の
周章が、安帝が衆人の心を掴んでいないことから密謀して宮門を閉ざし、
車騎将軍鄧騭兄弟と鄭衆・蔡倫を誅して安帝を廃位し平原王
劉勝を立てようとした。事は発覚し、周章は策免され、自殺した。
同年、臨朝する和熹皇后が封を三百戸益して千八百戸とした。
元初元年(114年)に卒した。
養子の
鄭閎が爵位を嗣いだ。鄭閎が卒し、子の
鄭安が嗣いだ。後に国は絶えた。
桓帝の延熹二年(159年)、鄭衆の曾孫の
鄭石讎を紹封して
関内侯とした。
年表
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関連項目・人物
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最終更新:2016年02月28日 01:54