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 周章は、後漢前期の人物。安帝の初年に司空まで昇ったが、その安帝が衆心を得ていないことから和帝の長子劉勝を立てて外戚鄧氏を廃しようとして発覚し、自殺した。


情報

周章
次叔
本貫地 南陽郡随県
起家 南陽郡功曹
官歴 孝廉 六遷 五官中郎将 光禄勲 太常 司空 策免・自殺
死去 永初元年(107年)十一月、安帝の廃立を密謀し、策免、自殺。
死後評


事跡

 初め南陽郡に仕えて功曹となった。
 和帝の永元四年(92年)六月、勢威を振るっていた大将軍竇憲が帝の政権奪回を受けて免じられ、冠軍侯に封じられて国に就いていた。
 周章は南陽太守に従って行春し、冠軍侯国に到った。太守はなお竇憲に謁したいと思ったが、周章は進んで諫め、
「今日は公の行春です。いったい儀を越えて私に交わるべきでしょうか。かつ、竇憲は椒房(皇后)の親族であり、王室を勢い傾け、しかして藩国に退き就いたのです。(私交することでの)禍福は量り難くあります。明府(太守への敬称)は剖符の大臣であり、千里の重任にあります。挙止進退を軽んじるべきでしょうか?」
 太守は聴かず、に昇って出発しようとした。周章はその前にでて佩刀を抜き、馬の鞅(むながい。胸に掛ける組紐)を断ち切った。そこでようやく太守は赴くのを止めた。竇憲は後に自殺を強いられ、その実情は誅殺であり、公卿以下の多くが彼と交通したことで罪を得たが、太守は幸いにも免れることができた。
 これによって太守は周章を重んじるようになり、孝廉察挙した。
 周章は朝廷に入ると、六度遷(昇進)して五官中郎将となった。
 元興元年(105年)十二月、皇太子が選ばれないまま和帝が崩御した。鄧太后は、長子の皇子劉勝に痼疾(不治の病)があって、宗廟を奉承して皇帝に即位するのは不可能であるとして、劉隆が孩抱(幼子)であることに乗じて養子とし、即日に皇帝(殤帝)に立て、劉勝を平原王とした。
 殤帝の延平元年(106年)、光禄勲となった。
 同年八月、殤帝が即位一年足らずで崩御した。群臣は平原王劉勝の病が痼(不治)ではないとして、期待を集めることにした。しかし鄧太后は前に劉勝を立てなかったことから、怨みとなるのを恐れ、和帝の兄で清河孝王劉慶の子劉祐(劉祜)を立てた。これが安帝となった。
 安帝の永初元年(107年)、魏霸に代わって太常となった。
 その冬(九月?)、尹勤に代わって司空となった。この時、中常侍鄭衆蔡倫らが皆勢を秉(と)り政に豫っていた。衆章はしばしば進んで直言した。
 その十一月、周章は衆の人望が安帝に附かないことから、遂に密謀して宮門を閉ざし、車騎将軍の鄧騭兄弟及び鄭衆、蔡倫を誅し、尚書を劫かして太后を洛陽南宮に廃し、安帝を遠国の王に封じ、劉勝を迎えて立てようとした。しかし事が発覚し、策免され、周章は自殺した。
 家には余財は無く、諸子は衣を易えて出、日を并せて食したという。


年表




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関連項目・人物

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最終更新:2016年01月11日 22:05