周章は、後漢前期の人物。
安帝の初年に
司空まで昇ったが、その安帝が衆心を得ていないことから
和帝の長子
劉勝を立てて
外戚の
鄧氏を廃しようとして発覚し、自殺した。
情報
事跡
初め南陽郡に仕えて
功曹となった。
和帝の永元四年(92年)六月、勢威を振るっていた
大将軍の
竇憲が帝の政権奪回を受けて免じられ、
冠軍侯に封じられて国に就いていた。
周章は南陽太守に従って
行春し、冠軍侯国に到った。太守はなお竇憲に謁したいと思ったが、周章は進んで諫め、
「今日は公の行春です。いったい儀を越えて私に交わるべきでしょうか。かつ、竇憲は椒房(皇后)の親族であり、王室を勢い傾け、しかして藩国に退き就いたのです。(私交することでの)禍福は量り難くあります。明府(太守への敬称)は
剖符の大臣であり、千里の重任にあります。挙止進退を軽んじるべきでしょうか?」
太守は聴かず、
車に昇って出発しようとした。周章はその前にでて佩刀を抜き、馬の鞅(むながい。胸に掛ける組紐)を断ち切った。そこでようやく太守は赴くのを止めた。竇憲は後に自殺を強いられ、その実情は誅殺であり、
公卿以下の多くが彼と交通したことで罪を得たが、太守は幸いにも免れることができた。
これによって太守は周章を重んじるようになり、
孝廉に
察挙した。
周章は朝廷に入ると、六度遷(昇進)して五官中郎将となった。
元興元年(105年)十二月、
皇太子が選ばれないまま和帝が崩御した。
鄧太后は、長子の皇子
劉勝に痼疾(不治の病)があって、宗廟を奉承して皇帝に即位するのは不可能であるとして、
劉隆が孩抱(幼子)であることに乗じて養子とし、即日に
皇帝(殤帝)に立て、劉勝を
平原王とした。
殤帝の延平元年(106年)、光禄勲となった。
同年八月、殤帝が即位一年足らずで崩御した。群臣は平原王劉勝の病が痼(不治)ではないとして、期待を集めることにした。しかし鄧太后は前に劉勝を立てなかったことから、怨みとなるのを恐れ、和帝の兄で清河孝王
劉慶の子劉祐(
劉祜)を立てた。これが安帝となった。
安帝の永初元年(107年)、
魏霸に代わって太常となった。
その冬(九月?)、
尹勤に代わって司空となった。この時、
中常侍の
鄭衆、
蔡倫らが皆勢を秉(と)り政に豫っていた。衆章はしばしば進んで直言した。
その十一月、周章は衆の人望が安帝に附かないことから、遂に密謀して宮門を閉ざし、車騎将軍の
鄧騭兄弟及び鄭衆、蔡倫を誅し、
尚書を劫かして太后を
洛陽南宮に廃し、安帝を遠国の王に封じ、劉勝を迎えて立てようとした。しかし事が発覚し、策免され、周章は自殺した。
家には余財は無く、諸子は衣を易えて出、日を并せて食したという。
年表
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最終更新:2016年01月11日 22:05