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 鮑信は、後漢後期の人物。済北相のときに誅董卓の兵を挙げる。鮑勛の父。



情報

鮑信
叔業
本貫地 泰山郡平陽県
家柄 平陽鮑氏
鮑丹
誕生 元嘉元年(151年)
官歴 辟召大将軍何進) 騎都尉 帰郷 破虜将軍袁紹署) 済北
(おさな)くして大節を有し、寬厚にして人を愛し、沈毅にして謀を有す。
乱に遭って兵を起すと雖も、家は本は儒を修め、身を治めて倹に至り、而れども将士を厚く養い、居に余財を無し。士は此を以ってこれに帰した。
死去 初平三年(192年)、寿張県にて黄巾と戦い、殊死(決死)して太祖(曹操)を救った。太祖は僅かに囲みを潰やして出ることを得たが、鮑信は遂に没した。
享年 四十一
追贈 建安十七年、太祖(曹操)は鮑信の功を追録し、上表して鮑邵を新都亭侯に封じた。鮑勛を丞相掾に辟した。
鮑邵 鮑勛


事跡

危険を避ける

 (おさな)くして大節を有し、寬厚にして人を愛し、沈毅にして謀を有した。
 霊帝の中平年間(184-189年)、大将軍何進によって辟召され、騎都尉を拜した。
 中平六年(189年)、何進の目論見によって東方へ遣わされ、郷里へ帰って募兵し、千余人を得た。しかし、還って成皋県に到ったところで何進は宦官に誅殺されていた。
 洛陽に至った頃、董卓もまた入城していた。鮑信は董卓が必ず朝廷を乱すと察し、袁紹に董卓を襲うことを勧めた。曰く、
「董卓は強兵を擁すと雖も、異志を有しております。今、早く図らねば、まさに制する所となります。その初めて至った疲労に及び、これを襲って(とりこ)とすべきです」
 袁紹は董卓を畏れ、計画を発することができなかった。鮑信は自分のを率いて郷里へ還った。

起兵し曹操に附く

 平陽県に戻ると、徒衆(歩兵)二万、騎七百、輜重五千余乗を収集した。
 この歳の末、曹操陳留郡己吾県にて起兵し、鮑信とその弟の鮑韜は兵をもってこれに応じた。
 初平元年(190年)討董卓の連合が結成され、曹操と袁紹のによって鮑信は行破虜将軍に、鮑韜は裨将軍となった。
 時に袁紹の勢力が最も盛んで、豪傑は多く彼に集結した。鮑信は独り曹操に言うには、
「そも、知略は不世出、英雄を総じ、もって乱を撥し(治めて)正に返すことの能う者は、君だ。いやしくもその人に非ずんば、強といえども必ずや斃れる。君は(およ)そ天の啓く所だ」
 として、早々と深く交結した。曹操もまた鮑信と親しくし、その人物を異(特別な人物)とした。
 曹操に従って洛陽へ進軍し、汴水徐栄の軍と遭遇して敗れた。鮑信は瘡(傷)を負い、鮑韜は陳(陣列)にあって戦亡した。
 初平二年(191年)、袁紹が韓馥州牧の位を劫奪し、冀州を根拠地とした。鮑信は曹操に言うには、
「奸臣が(すき)に乗じ王室を蕩覆すると、英雄が節を奮い天下が嚮応(呼応)したのは、義だったからだ。(しかし)今、袁紹は盟主となり、権に因って利を専らとし、まさに自ら乱を生まんとしている。これはまた一つの董卓を有したものだ。もしこれを抑えんとしても、すなわち力では制すること能わず、(まさに)に以って難に()うばかりで、またなぜ(すく)済}うこと能うだろうか? (しばら)大河の南に(はか)り、以ってその変を待つべし」
 曹操はこれを善しとした。黒山賊于毒らが兗州東郡を襲うと、曹操は河水を渡って東郡を救い、東郡太守となった。曹操は上表して鮑信を済北相とした。

青州黄巾との戦い

 初平三年(192年)、青州黄巾の衆百万が兗州の境界に侵入し、任城国相の鄭遂を殺し、転じて東平郡に入った。兗州刺史の劉岱はこれを撃とうと考えた。
 鮑信は諫めて曰く、
「今、賊の衆は百万、百姓は皆震え恐れ、士卒は闘志無く、敵すべきではありません。賊衆を観るに、群輩が相隨(するのみで秩序が無く)、軍には輜重が無く、ただ鈔略を以って資としております。今は士衆の力を蓄え、先ずは固守を為すに若くはありません。彼は戦を欲しても得られず、攻めてもまた能わず、その勢は必ずや離散するでしょう。後に精鋭を選び、その要害に拠ってこれを撃てば、破るべくものです」。
 劉岱は従わず、遂に黄巾と戦い、果して殺されるところとなった。
 鮑信は州吏万潜らと東郡に至り、曹操を迎えて兗州牧を領させた。
 曹操は賊が勝ちを恃んで驕っていることから、奇兵(伏兵)を設けてから挑戦してみせ、東平郡寿張県にて賊を撃とうとした。
 曹操は鮑信を連れて歩騎千余人を率い、行って戦地を視た。しかし後方の歩軍(歩兵)がまだ至らぬうちに、にわかに賊の屯営と接触し、戦ったが利せず、死者は数百人となって、引いて還った。賊は(つづ)いて前進してきた。黄巾は賊となって久しく、しばしば勝ちに乗じて、兵は皆精悍だった。曹操は旧兵(熟練兵)が少なく、新兵は習練していなかったので、軍を挙げて皆懼れた。
 鮑信は殊死(決死)して戦い、もって曹操を救った。曹操はかろうじて囲みを潰して(破って)脱出することができたが、鮑信は遂に戦没した。時に年四十一。
 曹操は甲を(かぶ)り冑を(かぶ)り、親しく将士を巡って賞罰を明らかに勧めたので、衆はまた奮いたち、(敵の)間を()けて討撃し、賊は(やや)折れて退いた。賊はこれによって曹操に書を移して曰く、
「昔、(あなたは)済南に在って神壇を毀壊されました。その道は乃ち中黄太乙と同じく、道を知るが似若(ごと)くでありましたのに、今、更めて迷い惑っておられます。漢行はすでに尽き、黄家がまさに立つべきなのです。天の大運は、君の才力の能く存するところに非ぬものですぞ」
 曹操は檄書を見て、これを罵倒し、しばしば降伏の路を開示しつつ、遂に奇伏(伏兵)を設けて昼夜会戦した。戦えば(すなわち)ち(そのたびに敵を)禽獲し、賊は乃ち退走した。
 曹操は鮑信の喪(遺体)を購い求めたが得られず、衆人は木に刻して鮑信の形状の如くし、祭って哭した。
 曹操は黄巾を追って済北国に至り、黄巾は降ることを乞うた。冬、兵卒三十余万、男女百余万口の降伏を受け、その精鋭な者を収めて、号して青州兵とした。

生き様と死後

 鮑信は乱に遭って兵を起したとはいえ、本来は儒学を修めた家柄で、自身を治めて(つづまやか)な生活に至った。しかしながら将士を厚く養ったため、住居に余財は無かった。士はこのことから鮑信に帰した。
 建安十七年、曹操は鮑信の功を追録し、上表して子の鮑邵を新都亭侯に封じた。鮑勛丞相辟召した。


年表




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最終更新:2016年02月18日 09:52