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平分なり。八に(したが)い厶に(したが)う。八、猶お背のごとくなり。韓非曰く「背厶にして公と為す」
天子の三公を公と称し、王者の後を公と称す。その余の大国を侯と称す。(春秋公羊伝隠公五年)
公は、公正無私の意である。(『白虎通』巻一 爵)


 とは、天子を輔弼する最上位の臣の称。経書に由来する三公を始め、上公比公従公といった位階が作られた。また、諸侯の爵位の一つ。公爵五等爵では第一位であって一般的なの上位にあった。王の親近者や前代の王家の末裔が封じられた。

 伝統的には、「公」の字は平分の意とされる。八は背であり、厶は「私」の古字。(わたくし)に背いて利害得失を平分し、以って広く益を帰する者、それがであると考えられた。
 卜文・金文に於いては、公とは公宮の形象であった。氏族が共有する(おおやけ)の祭場にて祖霊へ捧げる廟歌を、祖霊に報告することをと言う。転じて、公宮を主催し、死後そこに祭られることになる人を「公」と呼ぶようになったのであろう。*1

 春秋戦国以降に経学が発展すると、公もまたそれに沿って整理された。大別して、五等爵の第一位にある諸侯としての公と、天子に仕える三公としての公がある。


公爵としての公

王者これ禄爵を制す。。およそ五等。(『礼記』王制)
王者の後を公と称す。(同上)

 公爵は、『礼記』等によれば、が天下に封じた公・侯・伯・子・男の五等爵の最上位で、百里四方を封土とするという。また、前時代の王の後裔が封じられた。
 周の畿内には周王に仕えて功のあった卿士や、王子が封じられた公国が多数見られた。また、の後裔を宋公に封じた。 
 後漢では宋公に加えて周の後裔として衛公が封じられた。
 には禅譲後の漢献帝を封じた山陽公と、劉禅を封じた帰命公があった。
 は五等爵を復活させ、侯王の次子以下や、上公・三公となった者、步闡ら、他国から帰順した高官を封じて世襲のものとした。
 また、前漢の王莽、後漢の曹操司馬昭は、王朝の慣習に反して国公となり、禅譲への道の一階梯とした。


天子の内爵

公卿大夫は何の謂いか? 内爵の称である。(『白虎通』巻一爵)
太師、太傅、太保を立つ。これただ三公。道を論じ邦を(はか)り、陰陽を燮理す。官は必ずしも備えず。ただその人とす。(『尚書』周書周官)

 公は、天子に仕える公卿大夫の最上位でもある。周の朝廷三公九卿二十七大夫八十一元士とも模式化された。(『礼記』王制)
 は初めの官制を継いで上卿を置いたが、古制復古の気運と政事の煩多により、丞相の職事を三分することが主張された。成帝綏和元年に大司馬票騎將軍の将軍官を罷めて大司馬とし、御史大夫大司空として、俸禄・封爵を丞相と同等とした。漢代に於ける三公の始まりであり、以後置廃や改称はあるものの長く踏襲された。
 後漢に於いては太傅大将軍上公として三公の上にあり、また、鄧騭に始まる儀同三司が名臣に与えられて「公」位に並ぶようになる。『百官志』には大将軍、驃騎将軍車騎将軍衛将軍が三公に次ぐ比公と記されており、晋代以降には正式に従公という位階となって内外に重要な位置を占めていく。
 このように、「公」は特定の職官に留まらず、儀礼秩序中の一位階として確立する。後漢に於いては、毎年正月の大朝には列侯とともにをささげ、その服飾は金印紫綬であり、には侯王とほぼ同等の儀式が行われた。諸将軍中二千石九卿)らとは一線を画し、一代のみの官位にも関わらずの中に割って入る身分秩序を確立したのが「公」であった。
 王莽曹操司馬昭が禅譲を受ける前段階として国公を得たことにはこのような礼制の整備があるだろう。



諸侯の国内での敬称

春秋』が自国の君である魯侯を一貫して「魯公」と呼び、春秋諸侯が文公、桓公、などととしたように、諸侯の国内では自らの君主を「公」と敬称した。転じてか、郷里社会での有望者を敬して「公」と呼んだ。
 一般的な敬称としての「公」は近代まで受け継がれている。


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最終更新:2015年02月27日 22:15

*1 白川静『字統』