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 侯王とは、漢代以降に用いられる位。天子によってじられたのこと。
 漢王劉邦は楚漢戦争中、全土を自らの手で攻略・統率することの無理を悟り、韓信黥布らにを送って東方諸候王を立てた。劉邦は諸侯・及び諸侯王の支持によって皇帝に即位し、漢王朝は郡県王国を並立させる郡国制の下に始まった。
 侯王の領は当初の数倍に渡り、独立した財政・軍備を持ち、漢からは「外国」と看做されていたが、朝廷からの締め付けとそれに反発する蜂起が繰り返されてその権限は徐々に縮小され、封じられるのは宗室に限るとされた。
 宗室の皇子らが封じられる侯王は藩屏となって外敵から宗家(皇帝)を護る任を期待されたが、後漢代にはその領域は郡の半分程度が普通となり、魏ではさらに縮小されてほどしかなくなってしまった。漢の諸王は後漢末の乱で多数が戦死して滅び、魏の王家は司馬氏の専制に反した幾度かの兵乱に呼応できず、両王朝が滅亡を回避できなかった一因とされた。
 しかし、その反省に基づいて諸王に大きな権力を与え地方に配置した西晋は、八王の乱によって統一を失うことになる。

 国内の官制は侯王国を参照。


歴史

 漢王四年春二月,張良に印を操たせ遣わし、韓信を立てて齊王と為す。 秋七月、英布を立てて淮南王と為す。
 漢王五年、彭越を梁王と為す。韓信を楚王に改封する。
 同年、漢王劉邦、皇帝に即位する。
 高祖六年、楚王韓信を謀反の疑いで捕らえ、赦令を下して淮陰侯に封じる。
 また、斉王を劉氏以外に為すべきではないとし、斉王、荊王、楚王、代王にそれぞれ劉氏を立てる。
 韓王信が匈奴に下る。
 高祖十一年、韓王信を斬る。淮陰侯韓信を誅し、夷三族とする。
 十二年、梁王彭越が謀反し、夷三族となる。
 高祖は末年、白馬の盟を誓い、「劉氏に非ずして王なれば、天下は共にこれを撃て」とする。
 景帝三年、呉楚の七国が叛乱し、景帝は御史大夫の晁錯を斬って謝するが止まず、諸将を遣わしてこれを撃つ。
 武帝期、推恩の令を発して嫡子以外の王子にも地を分けて侯に封じることを認める。

 献帝建安二十一年、曹操が号を進めて魏王となる。
 建安二十四年、劉備漢中王を自称する。
 魏文帝黄初二年、孫権大将軍と為し、呉王に封じ、九錫を加える。
 黄初三年、呉王孫権が魏に叛き、改元して黄武元年とする。

 魏元帝咸熙元年、魏の晋公司馬昭が爵を進めて晋王となる。
 咸熙二年、晋王司馬炎が禅譲を受け、晋王朝を立てる。
 晋恵帝期、八王の乱に至る。



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関連項目・人物




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最終更新:2015年02月16日 00:33