諸侯とは、帝王により土地の分封を受けて建てられた封建国家の君主のこと。総称。王朝により様々な等級が設けられる。周の五等爵のうち最も一般的な爵位が侯爵であったことから「諸侯」という総称が定着したが、戦国時代以降は諸王、侯王も諸侯に含まれる。乱世に独立した軍閥(群雄)を指す事もある。

 伝統的には、諸侯は上古から既に存在していたとされる。
 神農氏の世が衰えると、互いに侵攻しあった諸侯を伐ち収めたのが軒轅であった。軒轅は炎帝を克し蚩尤を伐ち、諸侯の推戴によって天子と為り、神農氏に代わって黄帝として即位した*1
『尚書』夏書禹貢は、四海の中心を京師として外側へ向けて五百里ごとに区分し、五服を定め、その内から二番めを侯服とした。侯服内の内側百里を(卿大夫の封地)、次の百里を男邦男爵の封地)、外の三百里を諸侯の封地とした。
 夏・殷はその諸侯の等級を三等とした。殷ではがあったという。周に至って五等爵が定められた。夏・殷が三等爵なのは、両者が質家(質実を重んじる朝廷)で、天に拠り三光(日、月、星)に法る故であり、周が五等爵なのは文家(文章儀礼を重んじる朝廷)で地に拠り五行に法る故であるという。
 西周の封建秩序が崩壊し、春秋・戦国時代を経て諸侯が併呑されて七王が並び立っても、諸王はしばしば諸侯と呼び習わされた。特に西の強国秦に対して東方六王国を言ったものである。
 諸軍閥が秦を滅ぼすと、項羽義帝を立て、自らは覇王となり、天下に十八王の諸侯を封じた。その中に漢王劉邦が含まれる。
 劉邦は項羽を討って漢王朝を建てると、秦の二十等爵制を継いだが、実際の食邑を持つ「諸侯」としては侯王、徹侯(列侯)、関内候の三等であった*2。建国の功臣を封じた侯国は百余国あり、王国は九ヶ国であったが、以後、漢代に於いて政治的に「諸侯」という場合、主に侯王を指すことになる。
 後漢末、董卓に反して山東に蜂起した軍閥もまた諸侯と通称された。これには、曹操劉備孫堅らを含む勢力をとは書き難い史家の都合の他に、長安朝廷にも群雄と融和しようとする派閥が存在したこと、西方の王朝、東の諸勢力という構図を戦国秦・漢初の情勢に擬えたこと、実際に李傕政権時代に形式的ながら懐柔に成功していること、が理由に挙げられるだろう。



所属項目(タグ)


関連項目・人物




-

タグ:

爵制 諸侯
最終更新:2015年02月27日 04:05

*1 『史記』五帝本紀

*2 『漢書』諸侯王表は王と侯の「二等之爵」と謂う