2:これ以上もなく真夏に(100題より、087ビタミン剤)

 夏真っ盛りだ。

 天気は快晴。雲のない空はただ青い。じりじり、と熱気が頭を、顔を、腕を、体を焼く。
ふと横に目をやると電信柱の脇の空気が歪んで見える。陽炎が立つような気温なのだと実感して、思わずついた溜息は更に体力を奪っていくようだった。

せめてもと、なるべく日陰を選んで足を進める。

「あつい、暑い、むしろ熱い。やってられん……。」

 バイトの間は厨房の熱で汗をかき、バイトが終わったら外の気温で汗をかく。なんて無情な。しかも自転車がパンクしたというおまけ付き。とりあえず歩くしかない。大学が夏季休暇に入ったこともあり、バイトが午前で終わったのは喜ばしいが、これから本番とばかりに頂点に来た太陽の下を歩かなければならないのはつらい。

(あれだ、ついたら氷水をもらおう。んでぐいぐい飲み干そう。ビールもいいけどそれは自分の部屋に戻ってからだ、うん。)

 車の多い通りから曲がり、古い家が多いエリアに入っていく。整然とした街路樹の影は無くなり、代わりに家の庭から枝を張る木の影がひとつわさり、次にひとつわさり、と細い道に影を落とす。中には丹精込めて作っている庭も多く、青い空に負けない鮮やかな色の花々を咲かせているのが見える。
 しかしそれらに注意を払う元気もなく歩いていくと、他の家々より緑が多い場所が左手に現れる。小さいわけではないが、そう大きくもない神社だ。色が褪せた鳥居の向こう、石の道の先に本殿が見える。古い木が落とす大きめの影は涼しげで、今現在の俺のように神社を目的地としてない人にも、一休みに丁度よく見えるだろう。影の中に入り、少し下がった温度に息をつく。

「ついたー。」

 本殿への扉をあけようとして、ふと思い出し鞄の中を確認する。灰色の鞄の中に泳ぐ筆記用具やルーズリーフ、財布にまぎれて黒い小さな巾着が入っているのを見つける。更にそれを触り、中に固いものが入っているのを確認した。よし。って、ん?

(恋人のアパート前で合鍵探す彼女かーいっ!やべえ、俺ちょっと情けない。)

 自分の行動を客観的に見て、さみしくなった。いかんせん会いに行く相手は女の子ではなく野郎だ。どう考えても可愛くない。悲しいことにまだ一人身なため、これから今の俺みたいな行動を、俺にしてくれる女の子が現れることを期待する。理系学部は女生徒少ないけどな!ちきしょー。
 がらがら、と音をたてて扉の木枠を開ける。毎回この時は通りすがりの人に泥棒と間違われないかと心配する。何せこちらは普段着の若い男だ。冠婚葬祭とは全く無縁の色あせたパンツとアイロンもかけていないシャツという姿では、神社にまっとうな用事で建物内部に入るようには見えない。実際一度呼び止められたこともある。その時はここの神主さんだったので、説明したらわかってくれて助かった。バイトの人だったら説明に困ってたところだ。

 中に入ると日が差さない建物の中は予想以上に涼しい。肺の中まで冷やす勢いで深呼吸をする。香と埃と木の入り場じった、懐かしい気にさせる匂いが鼻に一緒に入る。次に左奥を覗き込む。今日も無事に奥へと続く通路は見つかった。ここまで来れば勝手知ったる、とばかりに足音を響かせて奥に進み、入りなれた引き戸の前に立つ。

「来たぞー」

 がらっ、と音を立てて開けるとそこには

             縁側で溶けてる神(一応)が一体あった

(…………なんでやねん。)

 思わず友人風に関西弁でツッコミを入れてしまった。


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 関西弁は伝染性が高い。それはともかくとして、レトロな囲炉裏や頬をつけたら冷たくて気持ちよいだろう板張り、涼しげに縁側の下で鳴る風鈴、更にその向こうに見える庭の綺麗さが、そこにある一体のゲル化しかけている代物のせいで台無しである。

「なんで涼しい部屋で汗だくで、だらけきることができるのか聞いていいか。」
「だらけてる…つもりは……無い……です……よ~。」
「水もらうぞ。」
「僕にもくださいいいいいぃぃぃ。」

 ゆっくりとあげた顔には鮮やかな赤と金、そして黒で彩られた狐面がつけられていた。木彫りで作られているため厚みがあり、目の部分の穴に深く落ちる影は相手の目の色を隠す。そんな様相には既に慣れたが、こんな風にふるふると震えながら、ゆうらりと手をこちらに伸ばされると和製ホラーのようだ。特に夜に知らない人が見たら絶対叫ぶ。ちなみに俺が夜にこんな状態のこいつ見たら踏む。
 本当に疲れているようなので、部屋の隅に置いてあるガラスポットに入っていた麦茶を、一緒に置いてあった、やはりガラスの器に二杯分注ぎ、片方を相手の目の前に置いた。あらかじめ濃い目に淹れて氷を多くしていたのか、ポットは大量の汗をかいてはいるが、まだまだ氷を中に浮かべている。遠慮なく飲ませてもらうと、冷たい液が体を一斉に冷やしていった。うまい。

「うおー生き返るー。で、何してたんだ?庭の草刈りでもしてたのか?」

 いつも雑草が綺麗に抜かれている縁側の周りを見て聞く。色黒の手がゆっくりとグラスを手に取り、首と仮面をわずかに上げてお茶を飲んだ。そしてまた突っ伏す。その際に少し横に移動したのは多分、その方が床が冷たくて気持ちいいからだろう。てか零しやすいから起きて飲めよ。

「あきちゃんの…相手をしてたら……ふふふ、もう彼女は魔性です。骨抜きですよう~。腰が痛いですよう~。」
「四歳児に誤解を招く表現を用いるな。あと腰が痛いのはお前の身長が高すぎるからだろうが。」

 その身長よこせ、と毎回思う。こいつ大昔の生まれのくせになんでこんなに背が高いんだ。ちくしょー。まあきちんと子供に向き合うためにずっと腰をかがめて相手をしていたんだろうと思うと少し微笑ましい。いつも思うが人がいい神だ。きっと頻繁に子供と遊んで子供に遊ばれているんだろう。
 相手は狐の顔をわずか上げ、首をおや?と傾げたあと、言い直した。

「じゃあ…子供は神様の仲間です~…。」
「自分の立場棚上げかよ。」

 どうやら神主の孫娘の相手をしていたようだ。そのためか、袴ではなく俺と同じように一般的なパンツをはいている。白いシャツも襟はついてあるがフランクな代物だ。背中は汗で濡れている。どんだけ振り回されたんだろう。すごいな、あきちゃん。
 首を上げているのに疲れたのだろう。再度頭を落とした。ごり、と狐の面が床の板に擦れて小さく音を立てる。

「仮面(それ)も取れば涼しいんじゃねえの?」
「ん~。もう慣れてはいるんですけどねえ~。」
「どうせ俺が見なきゃいいんだから取っちまえよ。」
「ぎゃー!鼻が、鼻がもげますー!」

 正面にかがみこみ狐面の耳の部分を引っ張ると痛がられた。親切心で申し出たというのに。八つ当たり込みで踏んでやろうか、という考えがよぎる。

「そうだ。今年はまだ飲んでない。」

 が、いざ足を上げようかと思った瞬間、相手はむくり、と起き上った。聞こえていたのか偶然かはわからんが、ちっ。そしてこんな言葉を続けた。

「折角だから一緒に飲みましょう。だから甘酒買ってきてください」

(は?)

「唐突だなおい。てか甘酒って雛祭りに飲むんだろ?今夏だぞ」
「何言ってるんですか。夏にこそ飲むんですよ。夏バテにいいんです」
「知らん」
「ああ、今時の人は知らないみたいですよねえ。昔はそうだったんですよ。体にいいんですよ~。ビタミンも多くて、。ええーっとその他にも網、さん…?」
「網さんって誰だよ」
「―――それは、アミノ酸ですねえ」

 と、そこに戸の向こうから声がした。この声は。

「お米のタンパクが微生物によって分解されて、栄養源が吸収しやすくなっているんですよ。だから『飲む点滴』とも言われているらしいですね。」
「そう、それですそれです。体にいいんですよ~」

 がらり、と戸を開けて和やかに現れたのは、袴姿の男性だ。細いフレームの眼鏡をかけ、髪は少し長く、後ろで結わえている。しかし、だらしないというイメージは感じない。きっと、伸びた背筋とやわらかな所作のせいだろう。
 神主さんの息子の夏幸さんである。先ほど噂していた『あきちゃん』のお父さんでもある。
 夏幸さんはいつも温和に微笑んでいて、見てるこちらを安心させる。あきちゃんも夏幸さんにとても懐いていて、二人のそんな姿は微笑ましい。奥さんにはまだ会ってないけど、やはり仲がよいのだろう。
 彼は神社の裏にある喫茶店の経営が本業らしいが、まだ行ったことはない。でも彼の作る食べ物はどれもおいしいから、近い内必ず行こうと思う。って、あれ?

「まだ昼過ぎですけど、喫茶店にいなくていいんですか?それにあきちゃん達は?」
「ふふ、今日は定休日ですよ。皆は母屋でお昼を食べてます」
「あっそうか」

 ううむ、夏休みに入って授業がなくなった結果、曜日感覚がずれてきている。気をつけねば。(それでもバイトは忘れない。これ大事。)
 夏幸さんはかたり、と白い器に盛られた昼食を3人分、部屋の囲炉裏の脇に置いた。どうやら今日も何か持ってきてくれたらしい。最初のころは遠慮していたのだが、薦めてくれる笑顔に押し切られ、今は恐縮しながらもいただいている。

「まあとりあえずは、こちらをどうぞ。こっちもアミノ酸たっぷりですよ。音が聞こえたので一人分増やして正解でした。ふふ」
「あ、すいませんいつも余分に作ってもらって。ありがたくいただきます」
「少し増える程度、大した手間ではないから大丈夫ですよ。暑い中バイトお疲れ様です」

 置かれた音に、先ほどまで寝ころんでいた奴が起き上り、いそいそと膝を擦りながら近寄ってくる。…自分もご相伴に預かっているので人のことは言えんが、現金だなオイ。でも夏幸さんは変わらずにこにことそんな相手の姿を見ている。これがいつものことなのだろう。奴は表情は仮面で隠れているが動作であからさまに「うきうき」しながら皿を手にとった。

「わ~、今日はなんですかあ~?」
「素麺ですよ」
「へえ、トマト入りですかあ~。初めて食べますねえ」

 「いただきます」と皆で手を合わせて言い、箸をつける。素麺はトマトとキュウリ、ワカメとツナがメインの具だ。赤と緑で彩りもよく、さらにてっぺんに持った薬味の生姜とゴマが見た目のおいしさをひきたてる。食べてみると、ツユにもトマトの汁がたっぷり入っておいしい。このツユと麺だけでも美味しいのが、薬味と一緒に食べるとまた一味違ってこれもよい。いいなこれ、実家に素麺が余ってたら貰って帰って自分でもやってみよう。

「トマト味って初めてですけどおいしいです。俺も今度やってみよう」
「ゆきくんのご飯はいつもおいしいですからねえ」

 そんな俺らの言葉に、くすり、と微笑する夏幸さん。

「テレビで覚えただけの上に、誰でも簡単にできるものですよ。褒めすぎです。しいて言えば薬味を沢山乗せるのがポイントなくらいで」
「いやでも美味しいですって。ただでさえ一人暮らしの身としては、こんな風に作ってもらったご飯って貴重ですし」
「そうそう、わざわざ僕にもいつも作ってくれるその行動がありがたいですよう~」

 一通り感想を言った後は口数も少なく、集中して食べる。
 縁側から見える暑い日差しと、快晴の空。誰かと一緒に食べる美味しいご飯と、冷たいお茶。
 少し変わった空間で、こうして今日も他愛のない時間を過ごす。そんな、当然になりつつある日常の一コマの中、ちりん、と風鈴が鳴り、風が部屋を走り冷やしていった。


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 皿が綺麗に空にすると、中断されていた会話の続きになった。

「で、なんでこんな真夏に甘酒なんだよ」
「夏って日射病「熱中症」そうそれで倒れたりして、大変じゃないですか~。それで夏バテ防止によく飲まれてたんですよう~。今の世はそれに比べるとおいしくて栄養が多いものがたくさんあって、涼しい場所もあって、至れりつくせりですねえ~」

 そう言って男は仮面を斜めにして口を出し、そこから麦茶を飲みながら、はふう、と息をついた。顎の部分や体を見る限り、その年齢は20代程度と思われるのに台詞がそぐわない。神様ってどんだけ歳くえば老けるんだろう。

 この見た目が胡散臭い神(一応)と会ったのは数か月前だ。この神社で祭られてるらしいが、数点以外はあまり人間と変わらない。たまたま酒の相手をして、なんとなく気が合い、なぜかここに出入りする切符をくれた。以来、割と頻繁に訪れては管をまいたり宿題をしたり酒を飲んだりしている。(もっとも、こいつは酒は飲まないが。)
 最初は丁寧な言葉を使っていたが、タメ口になるのはあっという間だった。さらにここ最近は遠慮なくどついている。神様にこんな扱いでいいんだろうかと思わないでもないが、神主さんも夏幸さんも更にその娘のあきちゃんも面白がって見てるだけなので、多分いいのだろう。

 しかしそんな風に仲が(おそらく)良いのだが、まだ仮面の下は見たことがない。一度一緒に外出した時は帽子をかぶっていたが、術でもかけてるのか顔の印象が極端に薄くなる。見ている間はそれでもわかるのだが、後になると記憶は消えてしまった。
 胡散臭いという気持ちは当然あるが、郷に入っては郷に従えという言葉がある。「神様ってそんなもんかも」と流しておくのが無難だろう。どうせこいつは読もうと思えば人の心が読める。悩めば悩むだけニヤニヤされそうだ。

(あ、なんかニヤニヤ顔想像したら腹たってきた。)

 その当人は、今は人の脳内(はなし)を聞いていないようで、夏幸さんと二人で飲んだ甘酒の思い出を、懐かしげに話していた。

「話していたら私も飲みたくなってきてしまいましたねえ」
「そうですね~。てことで、買ってきてください」
「はぁ?」

 そしてこちらに飛び火した。ちょ、まて。

「なんで俺が。」
「年寄りには暑さがつらいな~。あきちゃんの相手で腰が痛いな~。さっき引っ張られた鼻も痛いな~」
「外見20代が何言ってる。自業自得だろう。人の親切を事欠いてなんて言ってる」
「甘酒一杯付き合ってくれてもいいのになー」
「てんめえ…」

 更に反論しようとしたところで、決めの一手が隣から聞こえた。

「私からもお願いします。今日はこれから用事があるのですよ。秋枝にも飲ませたことがないので飲ませたいですし」
「う……はい」

 親切を多々受けている相手の言葉には弱いです。はい。ということで、再度炎天下に出てのお使いとなった。ああ、また暑い中歩くのか俺。あああああああ想像するだけであちいいいい。くそう仕方ない。せめて今日は帰ったら自転車のパンク直そう…。


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「はあ、あっつい。ここかあ?」

 他の用事があるらしい夏幸さんに「6人分お願いしますね」と言われながら、お金を預かり簡単な地図を書いてもらった。(普段のお礼に代わりに払うと言ったのだが、笑顔で断られてしまった。)なんでも昔からそこの甘酒を飲んでいるらしい。地図をちらちら確認しながら歩くと、そこには酒屋さんが見つかった。表には販売スペースが設けられ、その後ろには古びた木造建築が見える。いかにも昔からお酒を造ってますという店構えだ。玄関には酒の名前が大きく書いてある布が張ってあるのを見る。

(なーんか、見覚えのあるような。あれ?そういえば甘酒って酒屋さんでいいのか?でも地図だとここだし…まあいいか。)

 とりあえずやはり暑い。地図にぽとぽと落ちる勢いで汗が流れるので、まずは入ってみる。中は狭いが、ここで作っているらしい日本酒が並べられている。あまり日が入らないのはお酒を日光に当てないようにするためだろうか。よく見ると、展示してある酒も一本以外はすべて新聞紙や箱で包まれており、冷蔵庫にしまってある。
 母屋は古いとはいえ販売スペースは新しく、冷房が入っており、涼しさに大きく息をつく。玄関を入ると同時にチャイムが鳴り、奥から人が出てきた。

30代くらいの女性だ。多分そこは自宅スペースや作業スペースなのだろう。入口のお酒と同じ字がプリントされたエプロンをつけている。

「はいいらっしゃいませー」
「あ、すいません。甘酒を買いに来たんですけど」
「え?あの、甘酒、ですか?ちょっと待ってください」

 女性は慌てたように奥に戻る。どうしたんだろう?売り切れとか?ややして女性は戻ってきて、訝しげにこちらを見た。

「あの、甘酒を買いに来たんですよね?」
「ええ、はい。お使いで」
「ええと、あの、すいません。今の時期は甘酒は販売してないのですが…。」
「へ?」

 マジですか?

(え?でも売ってるって言ってたよな?アイツ。)

「いやあの、売ってる、と言われて来たんですけど…」
「冬の間は売ってますが、夏は…」

 ここで俺が連想したのは「この前」が持つスパンだ。年寄りの記憶って奴は……あれだ、「この前」に含まれる時期が長い。祖父母レベルだと10年前だったりする。今回それと同様のことが発生しているのではないだろうか。アイツが夏に飲んだ甘酒の記憶が、ずいぶん昔なのではないだろうか、と。

(アレの場合何年だ?50年とかいうんじゃねえよなオイ。いやでも夏幸さんも飲んだって言ってたし。)

 困ってしまい、しばし固まっていると、玄関からまたチャイムが鳴った。振り返るとそこには片手にビニール袋を下げた老人がいた。背筋はまっすぐで、パリッとアイロンのかかったシャツを着ている姿は格好いい。髪は短く刈り込んでいて、半分以上が白くなっていた。老人は勝手知ったると言わんばかりにレジに来て、サンダルを脱ぎながら女性に問いかけた。

「どうした。」
「あ、おかえりなさいお父さん。えっと、このお客さんが甘酒無いかって。」

その声に我に返る。そうだ、無いものをねだっても店の人に迷惑だ。うわ俺失礼なことを。

「えと、す、すいません。友人が「甘酒はここのを夏に飲むんだ」とほざきやがって。多分間違いなので帰ります。どうも、すいませんホント。」

 慌ててしまいつい余分なことを口にする。「ほざく」だなんて目上に使っていい言葉ではない。更に慌ててしまう。しかし老人はこちらが明らかに慌てているせいか、不愉快な顔を見せることもなく、すまなそうにこちらに話しかけた。

「なるほど。兄ちゃん、わりいが今は甘酒は売ってねえんだ。なんせ買うのは冬ばかりで夏に飲みたがるのは老人ばかり…って、お?」

そこで老人は何か思いついたようだった。こちらをまじまじと見る。

「兄ちゃん、甘酒飲むのその友人って誰だ?」
「え?ええと?」

『アイツ』の名前はダメだろう。てかそういえば名前知らないし。知ってても他人に説明しずらい。代わりに夏幸さんのことを教えることにする。間違ってはいないはずだ。

「この近くの、神社の人、で、す。」
「なあるほど。知らん顔が来たから関係ないと思ったら。」

 自分の無精ひげを撫でながら言うと、老人は女性―娘さんを振り返り指示をした。

「おい、アレ出してやれ」
「え、でもあれは」
「大丈夫だ。この人は俺の客のお使いだ。母さんに用意してもらってこい。兄ちゃん、何人分いるんだ?」
「へ?えと、6人分、です。」
「神主さんらの分もか。じゃあ多めに持たせてもいいな。二袋頼む。」
「わかった。」
「あ、ついでに、普通のと牛乳のと一つずつ、コップに作ってきてくれ。余っても俺が飲む。」
「え?へ?あの?ええっと。」

 こちらがよくわからないうちに、二人の間で話はついたようで、「はーい」と言いながら女性は再び奥にいってしまった。販売スペースに二人だけにな

る。説明を求めるように老人を見ると、こちらに顔を寄せてにやり、と笑いながら小さい声で話しかけてきた。

「あん人はどうしてる?」
「え?へ?あ、ええと」
「神社の」
「え、と、神主さんですか?」
「そっちじゃない。―――わからんか?知り合いだから、頼まれたと思ったんだが」
「あー、……すいません、多分わかるんですけど、そういえば名前聞いてません。いつも『お前』とかで済ませてしまってて」

 名乗られないし、聞きにくくかったのだ。よく漫画やゲームだと「本当の名前は大事なので聞いてはいけない云々」とか言ってるので、こっちから聞いてよいのだろうか、と疑問に思ったまま、そのままで来てしまった。

「『お前』ねえ。仲はよさそうだな、兄ちゃん」

 くっくっくっ、と楽しげに笑いながら、老人はわかるように言い直してくれた。

「面(めん)の旦那だ。」
「ああ。よかった合ってた。」
「今時の若いモンはそんなもんなのかねえ。で、どうなんだ?」
「今日は神主のお孫さんの相手と暑さでへばってました。それで甘酒が飲みたいと言い出して。」
「なるほど。」

 またにやり、と笑う。この人もアイツと親しそうだ。最初からこの人のことを教えて貰っていたら、慌てないで済んだんじゃないだろうか?くそう。

「あん人は下戸だからな、昔っから酒じゃなくて甘酒だ。俺も小僧のころはよく一緒に飲んだ。こっちが大きくなってからも、年に1度は飲みに来る。」
「ああ、それですぐにわかったんですね。」

 なんとなく、小さい男の子と並んで大きい狐面の男が甘酒を飲んでる所を想像した。微笑ましい。

「本当は多めに持たせて冷凍させりゃあ頻繁にこっちにゃ来なくていいんだけどな。機械を自分で扱うのは簡単なもんでも面倒らしい。そんなとこは俺よりよっぽど年寄りだな。まあ今回は神主さんらも飲むみたいだから、そっちで冷凍させてもらえ。そしたらもう一回くらいは飲める。代わりにそっちで薄めてくれ。あそこの人たちならやり方も知ってるはずだ」
「あ、わかりました。えっとすいません、ついでに聞きたいんですけど、あの人、何歳なんですか?俺、外見以上だってことしかわからなくて。」

 老人から出る『年寄り』という言葉に、本人には聞きにくいことを聞いてみた。老人は再び顎をさすりながら答える。

「さあなあ。俺の父親が小さい頃にはいたらしいがなあ。面は違ってたけど外見の年齢も同じだったみてえだ。あそこの神社の歴史が100年ちょい前からだから、その位には年食ってるんじゃねえか?」
「そうですか。」
「まあ俺も父親や近所の人に昔言われたことだが、あの人とは仲良くしてやってくれ。俺もまだまだ元気だけど、何十年もぴんしゃんってわけにはいかねえし。」
「いやいや、まだまだ元気そうですよ。」

 老人は70前後だろうか?それでも足腰はしっかりしてるし、言葉も明瞭だ。なにより目が力強い。しかし老人はその目に憂いを帯びて言葉を続けた。

「それでも俺らは、あん人ほど長くは生きねえからなあ。頼むぜ。うちは孫は仲良くしてるみたいだが、娘夫婦はあん人のことは知らねえ。あんたみたいな年代の人が他にほいほい知り合いにいるとも思えん。知り合いがいる時期が途切れねえように、リレーしねえとな。」

 その表情は、声は、アイツがこの町で見守ってきた人々を語る時に重なる。
         大事だと。幸せでいてほしいと。愛しいと。
                  言葉の端々から漏れ出る心を仮面の下からほろほろと言葉とともに零す、あの姿に。

 この人にとって、アイツは家族にも似た人なのだろう。幸せであっていてほしい人なのだろう。
 思わず背筋が伸びた。

「……はい、でも一緒に喋ったり酒飲んだりするだけですけど」
「それで十分だ」

 二人で黙ると、タイミング良く娘さんが戻ってきた。白いものが入った袋を手に下げ、二つの紙コップをお盆に載せて持っている。

「はい二袋。はいお盆。」
「おうあんがとな。もう奥行ってていいぞ」
「お喋りに突き合わせてたの?袋が溶けないうちに解放してあげなさいね」
「うーるせいや、とっとと赤ん坊の世話してこいっ」
「はいはーい」

 親子で笑顔で憎まれ口をたたきあう姿は、仲がよいことを窺わせる。

「赤ん坊もいるんですね」
「おう、二人目の孫は娘だった。泣いてると騒がしいがその位の方が元気でいいってもんだ。ほれ、ちょっとこれ飲んでみろ」

 言われて覗くと、片方には半固形状の良く見る甘酒が入っていて、もう片方はもっと白くてシェイクのようになめらかそうなものが入っている。

「ええと、これが甘酒ですか?」
「おう、兄ちゃん飲んだことないか?」
「実は」
「なら飲んでみろ飲んでみろ。まずはこっちな」

 まずは半固形状の方を飲んでみる。少し匂いにくせはあるが思ったほどではなく、味の方は甘いがしつこくはなく飲みやすい。固形状のものがもっとざらつくかと思ったが、口に入れると全く気にならなかった。感想を聞かれそう答えると、笑いながら答えた。

「材料は殆ど米だけだからな。麹の酵素で米も表面の殻以外は綺麗に消化されてて残らねえ。スーパーで缶で売ってるやつみたいに酒粕に砂糖を加えたもんじゃねえから甘さもくどくないし、酒に弱い奴でも安心して飲める。」
「ええと、甘酒って2種類あったんですね。」
「そうだ、こっちが米だけでできた甘酒だ。麹と炊飯器ともち米がありゃあ兄ちゃんでも作れる。まあそれでもウチで作った甘酒の方が美味いって言ってくれる人も多いから、こうして作っておいてあるな。それでも夏は顔見知りしか買いには来ねえから、店には出してない。ほれ、今度はこっち」

 次に白い方を飲んだ。あれ?

「これ、牛乳?」
「そうだ。水で薄めるところを牛乳で薄めて、ミキサーにかけてる。うちの孫息子はこっちも好きでな。気分で両方飲んでる。俺としては昔ながらの方が美味いと思うんだがな。兄ちゃんはどうだ?」
「こっちも美味しいです」

 ミキサーにかけたせいかとろみを増した牛乳入り甘酒は、食感がさっきのよりこってりとしていて、でもやっぱりくどくはなくおいしかった。これ、このままシェイクにしても美味しいんじゃないだろうか。

「夏は牛乳入りで、冬は元々の甘酒の方で飲みたいかな?」
「ふうん…やっぱ若い人だと味覚が違ってくるのかもしれねえなあ。わかった。それ、そのまま飲んでけ。外は暑いだろ」
「あっ、え、はい。いただきます」
「兄ちゃん歳は?って聞くのは野暮か。ほれ、こっちもやる。家帰って飲め」

 そういって老人は日本酒の小さいボトルも袋に入れてよこした。

「え?でも。これって立派な商品」
「気にするな。あん人の相手してる兄ちゃんにご褒美だ。これからも付き合ってやってくれ」
「あ……はい。ありがたくいただきます。」
「いいって」

 照れたように老人は笑って手をひらひら、と振った。
 甘酒の代金を支払い、作り方をメモした紙も入れて貰って帰り道につく。貰った牛乳入り甘酒をちびちび飲みながら。行く時より時刻からいって気温は上がっているはずだけど、気持ちはよかった。


************************************


「あ、おかえりなさい~。そして甘酒ええええ~」
「現金だなおい。甘酒は今夏幸さんが用意してくれてるから待て」
「あ、そですかあ。お店ではコップに入れてくれなかったんですかあ?」
「人数がいつもより多いから、冷凍保存してる濃い状態で持たせてくれた」
「なるほど~」

 鞄を下ろして座りながら会話を続ける。コイツもさすがに復活したようで、今度は向こうが麦茶を入れて出してくれた。ありがたく飲み干す。ぷはあ。

「店のお爺さんに会ったぞ。お前のこと知ってた」
「ああ、杜氏さんに会ったんですね~。あそこはお酒も甘酒も作ってて、どっちも美味しいんですよ~。お酒もおいしかったでしょう~」
「?酒は飲んでこなかったぞ?」
「あれ?いやそうじゃなくて、ほら、初めて会ったときも飲んだじゃないですかあ」
「ん?あれ?ああああああ、そっか!」

 道理で見た覚えがあると!そうか!あの美味い酒のラベルか!うわあ、今日貰った奴飲むの楽しみだ。

「今気づいたんですね~」
「あーそっか、そっか。いやすまん。あのお酒も美味しかったって言えばよかった」
「おや?仲良くなったみたいですねえ」
「うん、まあ。親切な人だった。あの人がいなきゃ甘酒買えなかった…ってそういえばお前きちんと言っておけよ。お前のお使いだってあのお爺さん―杜氏さんが気づかなきゃ、甘酒売って貰えなかったんだからな!」
「おんや?そうなんですか?」

 店で甘酒を買うまでのやり取りを説明してやる。無論、「あん人と仲良くしてやってくれ」という言葉は抜きで。あの言葉は、俺を通してコイツに伝えたら色褪せる気がしたから。

「そうだったんですかあ。すいませんねえ。じゃあ、ありがたーく飲まないと」
「おう飲め。杜氏さんと俺にありがたく飲め。作ってくれる夏幸さんにもありがたく飲め。更に更にアスペルギルスオリゼーとオリザサティバにありがたく飲め」
「最後の、なんですか?呪文ですか?」
「麹菌と米のこと」
「難しい言い方で言われてもわかりませんよう~」
「俺も最近漫画と教養の授業で知った」

 そんなくだらない会話をしていると、足音が聞こえてきた。今度はこちらが近づいて引き戸を開ける。

「おや、ありがとうございます。そしてはいどうぞ、お待たせしました」

 にっこりと夏幸さんがお盆を見せた。



「どうですか?どうですか?」

 いざ飲もうとすると、素麺の時以上にうきうきと聞かれた。夏幸さんもにこにこと笑いながらこちらを見ている。感想が気になるようだ。

「お店でも味見させて貰ったけど、予想より美味い。」
「そうでしょう~。ってあれ?僕のと違う?」
「ん?ああ、牛乳入れて貰った。」
「へえ~それがさっき言ってた。僕にもください。」
「ほい。」
「ん……おいしいです、けど、僕はやっぱり、こっちですね。」

 牛乳入りの方を飲んだ後、結局コイツは普通の甘酒を選んだ。長年飲んでいる方がやはりなじんでいるのだろう。そうして再び自分のコップの甘酒を美味しそうに飲む。

 きっと、こいつは、環境がたくさん、変化していったんだろう。

     服も。言葉も。習慣も。所作も。そして周囲の人も。

 それは、どんな気分なのだろうか。

 そんな中でこの柔らかい甘さはずっと、こいつにとって変わらない味なんだろう。

 「まあ普通の甘酒の方も美味しかったから、次はそっちにするよ。作り方も教えて貰ったし。」

 それから杜氏が子供の時の話を聞くと、嬉々として教えてくれた。当時の遊び、先代の厳格さと、子供ながらに彼が見せてた意気込み。やっぱりコイツは優しく柔らかく、愛おしげに話す。ゆっくり、ゆっくりと。

 自分は学生で実家も遠い。この場所に一生暮らす可能性は少ないだろう。まあでも自分は今、こうしてこいつの前で話を聞いて、話をすることができる。せめてそれを、大事にしよう。

 こいつが、寂しいと思う時間が減るように。
 こいつがいつか、俺のこともこんな風に話すように。

「まあ時間に余裕があったら、また買ってきてやるよ。」
「おねがいします~。」

 からん、と空になったコップで、氷が鳴る。
 狐面から除く口が、にっこり、と大きく弧を描いた。

「また、一緒に飲みましょうね。」
最終更新:2010年12月05日 21:24