073眠り姫
もう、4年になる。
月最後の休日予定は決まっている。今日もいつものようにアパートの玄関で靴を履き、友人に電話をした。
「俺。今、頼んでいいか?」
『あっくん?大丈夫だよ。ちょっと待ってね。』
電話を切ってそのままドアを開けずしばし待つ。すると、アパートのドアの姿が霞み、やがて周囲の壁に似合わない引き戸が現れる。木の枠に薄く水が滴っているような、しかし向こうが見通せない不思議な質感のガラス状のものが嵌ったそれは、からからと軽い音を立てて向こうから開いた。
薄いフレームの眼鏡をかけ、穏やかな笑みを見せる男性が話しかけてくる。
「いらっしゃい、あっくん」
「ありがとう。これ、こないだの出張の土産。」
「おやお菓子?お茶していくよね、後で一緒に食べよう。」
「ああ。」
開いて貰った戸の向こうには、広い玄関があり、沢山の靴が脇に並んでいる。小さいのから大きいの、新しいものから古いものまで、下駄から草鞋からブーツから革靴に運動靴と多種多様の靴がごちゃごちゃとした順番に並ぶその様子は見慣れたものだ。
丁度遊びに行くのだろう、少年がわたわたと急ぎ足で廊下の角から顔を出し、玄関へやってきた。そのままの勢いで小さめの運動靴を履きながら挨拶をする。
「おじちゃんたちやっほー!いってきまーす!おばちゃんによろしく!」
「おうわかった行って来い。」
「ちょっと待ってね戸を戻すから。…はい。気をつけていってらっしゃい。」
「はーい!」
いつの間にか戸は姿を変え、同じように木枠でも、ごく普通の曇り硝子が嵌ったものに変っていた。少年はそこを勢いよく開け、大きな音を立てたことに慌てて静かに閉める。
濁った硝子の向こうに少年の着ていた黄色いシャツの色がぼんやり広がったかと思うとすぐに小さくなった。
「さて、俺もお邪魔します。2階に行くな。」
「うん。」
少年を二人で見送ると少年の靴の代わりと言うには大きすぎる自分の運動靴を靴の群れに追加した。周囲から人声や気配がするのを耳に肌にかすめながら、玄関からまっすぐ歩き、奥から伸びた階段を上る。
ぎし、ぎいっ、と歩く度に音が鳴るが十年以上歩いているそれには不安は感じない。登りきり、右の奥の部屋へと向かう。
体が覚えている歩数を進み、そこのドアのノブを軽く握る。すう、はあ、と、一呼吸ついてから開いた。
今日も変わらず、その布団は小さく膨らんでいる。
「……来たぞ。入る。」
応えがないとわかっていながらも、そう呟いて八畳間の中央、布団の横に胡坐をかいた。成人用のそれより小さな赤い布団は真っ白なカバーに覆われ、枕もシーツも同じく真っ白だ。
何を着ているのかは今は見えないが、それが季節に合わせた色とりどりの浴衣であることは何度も見ていたので予想がつく。
そのカバーも枕カバーもシーツも浴衣も、全く汚れないのに毎日交換されているのことも、知っている。
その浴衣が知人の手で毎月新しいものが増やされていることも、知っている。
ただそこに眠っている本人だけが知らない。
「元気か?今日はいい天気だぞ。俺のところでは桜が散ったが、こっちはこれからだな。満開になったら見に行こうか。」
小さく白い頬を静かに撫でて話しかける。六~七歳ほどに見えるその少女の膝まである長い髪は全て枕の上に払われ、まっすぐに黒い線を作っている。前髪は顔にかからないようにだろう、額のところで小さいピンで止めてあった。その寝顔は子供特有のあどけない表情で、知らず見ている分には至極平和に見えるだろう。
―――その呼吸が止まっていることを除けば。
触れた頬は柔らかく、しかし子供が持っている高い体温は感じられず、ひんやりとしている。
壊れないよう壊れないよう、そっと布団をのけて、その手を握る。それもひんやりとしていた。鮮やかな萌黄色に水の流れがついてあった浴衣の下の薄い胸は動かず、胸に耳を当てて鼓動を聞いたとしても聞こえない。
「響…。」
小さい爪を軽く撫で、手を握り直すが、握り返される力は返ってこない。苦笑を浮かべながら話しかけた。
「早く、起きろよ。」
実際には二十歳を過ぎている、自分が守ろうとしたのに自分を守った少女は、生きておらず、しかし死んでもおらず、ただ静かに目を閉じていた。
「おかえり。お茶淹れるね。」
1階の青年の部屋に行くと、新聞を読んでいた青年がこちらを見てそれを閉じ、傍に置いておいた道具で緑茶を淹れてくれた。小さく礼を言い、すする。この時期こちらは暖房を焚く程の寒さは過ぎているが、それでも肌寒く感じることも多い。
わずか冷えた室温に、その温かい湯の温度は心地よかった。
「どうだった?」
「今日も寝てたな。傍から見て腹が立つほどに。頬をびよんびよんと引っ張ってやろうかと毎回思う。」
「そう言いながらも、しないくせに。」
くすくすと笑いながら青年―――融(とおる)は二枚の菓子皿を用意し、そこに先ほどの土産の菓子を盛り付けた。自分の分の湯呑に口をつけて言う。
「まあでも気持ちもわかるかな。起きてくれないと僕も滸(ほとり)も結婚式ができないよ。」
「既に尻に敷かれてるな。」
「それが円満のコツ。覚えておいた方がいいよ?―――それに僕たちもそうしたいしね。」
「……。」
からかうように指を振ったかと思うと目を伏せ呟く。視線は湯呑に向いているため見えないが、その、声を沈め、溜息をつくように零した声に、上手く返事が出来なくなってしまった。
「更に言えば、結婚式の衣装の時点で無理だしねえ。」
そんな空気を壊すように再びおどけて融は笑んだ。それに合わせてこちらも軽口で返す。ネタにされた本人には悪いが、普段が普段だから甘んじて受けてもらおう。
「公私混同が過ぎるな。稼がせてやる必要は無いぞ?アイツに作らせずに断っちまえ。」
「残念ながら既にデザインとかは出来上がってるらしいんだよ。本人の脳の中で。今から断ったら騒がれちゃう。」
「叩いたら消えるんじゃないか?」
「ははっ、流石に今の姿でそれをするのは少し躊躇するなあ。そうそうこの前……」
それからは雑談に話が流れ、穏やかに時間は過ぎて言った。
「じゃあな。長居した。」
「こちらこそ楽しかったよ。今度はつーくんとも遊んであげてね。」
「わかった。汚れてもいい服で来て、気力体力を充実させて来よう。」
融の要望に重々しく頷いて答えると「修行じゃないんだけどなあ。」と苦笑された。半分は冗談だが、半分は本気だ。まだアレは弱すぎる。
「また来る。」
「うん。じゃあね。」
玄関で靴を履き、入ってきた時と同じ戸を開くと、そこには自分のアパートが広がる。手を後ろに振りながら戸を閉めると、戸は現れた時と同じように霞み、何の変哲もない金属のドアに戻った。
それを確認すると、いつものように融らの母親が持たせてくれた夕飯をテーブルに置き、椅子に座った。手帳を開き、週明けの仕事のスケジュールを確認する。
なんとはなしにシャツに手を入れ背中を掻き、手を止めた。
そこには、傷痕は無い。しかし過去そこに傷があったことを覚えている。
そこに触れているのは自分自身の手だ。しかし小さな手か過去そこに触れたことを覚えている。
『ごめんなさい。』
数回しか聞いたことがなく、そして最後に聞いた肉声はそんな言葉だった。
数回しか見たことがなく、そして最後に見た感情ある表情は泣き顔だった。
知らず片手を目の前に広げ、テーブルに肘をつく。叩いたらあっという間に壊れてしまうテーブルに当たるわけにはいかない。ただ目を強くつぶり、眉間をきつく顰め、感情の波が過ぎるのを待つ。
「早く起きろ……謝れないじゃないか。」
波が通り過ぎた後呟いた言葉は、誰のためのものだろうと自嘲した。
最終更新:2011年01月18日 00:45