(100題より、021背中合わせの体温)

 ひゅおう、と強い風が窓から入り込み、文机の上の紙を、壁にかかるカレンダーを、手に持つ本の頁を乱していく。
「あわわっ、折れる、折れるーっ」
 その風が本の繊細な紙を傷つめぬよう、慌てて本を閉じ、収まるのを待つ。侵入口は自分が全開にした窓だ。障子もガラス窓も開けはなったそこからは、染まり始めた紅葉が見える。風も収まったところで、窓に近寄り、そこから見える景色を眺めた。
 数年前までは当然のように眺めていたそれを改めて眺める。この木枠の感触も、窓の桟に手をつく角度も、数年離れていたくらいでは消えないらしく、すっと体に馴染む。
 風景もそのはずなのだが、これから徐々に色を変えていくだろう微妙な色合いの山肌は、新鮮さがあった。

「見ているようで見ていないものだよねえ」
「何をだ?」
「へ?あ、にいさん」
「寒くなるだろうに、相も変わらず窓は全開か」
「だって風が入る方が気持ちいいし。本を見てたら、ついついー」
「ああ、いい天気だな」

 背後から突然声が聞こえた事に少々驚いたものの、その声も背中に立つ気配もやはり長年馴染んだものだ。すぐに返事を返す。
 自分の後ろから伸びてきた着物の袖と、そこから覗く太い腕が窓枠を掴んだ。声の主も風景を覗き込んだため、その体温に背中が温かくなる、と同時に、頭に重いものがのしかかり、同時に固いものがえぐるようにぶつかった。自分が痛みに鈍感でなければ目から火花が出そうな衝撃だ。
「ごふっ!」
「こっちはもう紅葉が始まってるか。夏が短いな」
「に、にいさん、重い、頭重いよ。」
「向こうもそろそろ涼しくなるが如何せん今年は暑かったな。冷えて来てくれて何よりだ」
「聞こうよ!私の頭は顎乗せ台じゃないいいー」
「高さが丁度いいから仕方ないだろう。減るもんじゃないし我慢しとけ」
 相手の顎が自分の頭にずっしりと乗っている。それだけでも重いのに、そのまま喋られると声が頭に響くし、動く顎がごりごりと頭を削る。彼が昔から自分に行う習慣の一つだ。文句は毎回言うが、これまでの数十年、受け入れて退いて貰えたことはまずない。
「久々なんだから堪能させろ」
「いや堪能するものじゃないよこれは」

 ここはかつての自室だ。この部屋に入らなくなったのと同時に、彼と話すことも無くなっていた。理由は大喧嘩してそのまま絶縁状態を維持したからだが、先日の大騒ぎで有耶無耶になり、最近は元のように会話をするようになっている。
 そして会話とともに、数々の習慣も復活した。いや、小さい頃だけで一度消えた習慣まで再開されており、倍増と言っていい。
 その多くが力加減を間違えた初撃を伴うため本音を言えば勘弁してほしいが、本人は至極満足げにそれらを行うため、頑強に撥ね退けることもできない。
 なんだかんだ言って「ここ」は小さい頃からの安心できる場所なのだ。この窓の感触がそうだったように、数年の隔たりなどものともしない。

「そういやなんでここに?」
「いや、また今日から向こうに戻ってしばらく遊びに来れんから、顔見に来た。今なら屋敷の自室にいるとおじさんが教えてくれたんでな。あー、早く仕事一段落しねえかな。そしたらこっち引っ越すんだが」
「こっち来るの?ああ、この部屋空いてるしねえ。誰も反対しないだろうじぐぶっ?!」

 頭に更にかかった重量で今度は舌を噛んだ。

「いひゃい……」
「阿呆なこと言うからだ」
「へ?」
「ここはお前の部屋だろうが」

 ああ。
 家族は皆、この部屋を自分の部屋だとまだ認識しているだろう。その証拠に、自分が離れてからも、この部屋に他の人の荷物は無い。それは、きっととても幸せなことだ。自分の支えになる事実だ。
 でも。それでも。

 見回す視線に気づいたのだろう。聞かれた。

「戻りはしないのか?」
「……うん」
「ほんっと頑固だな お前は」
「もうあっちに必要なものは全部置いてるから居心地がいいしねえ。それにどうせ、ここから大して離れてないでし、似たようなものだよー」

 今住んでいるログハウスももう、立派な自分の居場所だ。それにあそこには大事な同居植物も同居人も同居もふもふもいる。

「……そうか。だが、きちんとちまちまこっち来て顔を見せてやれ」
「はーい」
「あと、知らない奴にはどんなにふさふさな毛玉でも近寄るなよ。知り合いでも白髭ジジイは絶対やめろよ。他の人型になれるやつもな。オスは当然だ。白蛇の嫗(おうな)殿とかならいいが。あっちにも顔出すようにするから、俺が寝れるように布団増やしとけ」
「ええええええ。来なくても大丈夫だよー。ほんっと心配性だなあにいさんはー」
「どの口が言う、どの口が。さっき阿呆なことを言ったこの口か?人に天晴な位に心配ばかりかけるこの口が言うのか?ちょっと目を離したら落ちてたり溺れてたり攫われてたり埋もれてたりするこの口が?あぁ?おい」
「みぎぎぎぎぎぎぎ。らいひょーぶらってばー」

 知らない人が見たらヤクザと認識しそうな口調と顔で、豪快に他人の口に指を突っ込んで左右日引っ張る相手から慌てて部屋の中央へ逃げ、余分に怒られないように再度本を読むことにする。丁度相手が窓を閉めたので風にページ繰りを邪魔されることもないため、床に座って読みかけの本を再び開く。
 しかし背中がどうも寂しい。何か寄りかかるものをと思ったが、また部屋に入るようにはなったものの、こちらではもう生活はしていない。置いてあるものも少なく、クッションのような手頃なものも無論なかった。仕方ないので我慢しようと思ったとき、また背中に体温を感じた。

 にいさん…在共の背中だ。首だけを背後に回すと、在共は懐に手を入れ首を撫ぜながら呟いた。

「この心配ばっかかけるくそがきが―――きちんと安心させろ」
「……はーい」
「はい、だろ返事はきりっとしろ」
「わぷっ」

 間延びした返事が置きに召さなかったようで、肘でこちらの頭をぐりぐりとこづいてくる。やはり手加減具合間違っていて痛い。しばらく続けられて再び逃げようとした時、今度はやさしく頭を抱えこまれた。そして小さくささやく。

 「今は、あったけえな。それに、きちんと起きてる」

 その囁きに、文句を言おうとした口から言葉をつむぐことができなくなった。諦めて力を抜いてもたれる。

「起きてるよ」
「ああ」
「息もしてる」
「ああ」
「……生きてるよ」
「ああ」

 頭を抱えられて、しばらく撫でられて、撫でるのが終わってからもどけるのは躊躇してしまい、結局その背中をソファーがわりに本を読むことにする。ソファー代理もなにやら仕事用の手帳を開いて読み出したようだ。特に会話はないが、苦ではない。知っている。昔から知っている。「ここ」は、安心してていい場所だ。安心、という心を知っていていい場所だ。昔も。今も。

 とある植物は、歌うことを教えてくれた。
 とある獣は、独りきりで存在しなくていいと教えてくれた。
 他にもたくさんの生き物がたくさんのことを教えてくれて。伝えてくれて。想ってくれて。それ故に今自分はここにいる。

 この人が教えてくれたのは 自分が心を持っていてもいいのだということ。
 持っていてはいけないという沢山の他の声以上に、持っていてくれと願って、その願いを躊躇なく伝えてくれた人。

 (だから、勝てないんだよなあー)

 ああ、布団を用意しておかないと。
最終更新:2013年02月18日 23:53