(無題)
(無題) | の続編です。 |
私の感情を顧みず、押し付けがましい光を浴びせ続けていた太陽は、とうの昔に鳴りを潜めていた。
見事に輝く満月が、これまた私の感情を慮る素振りを見せようとせず、白熱灯のような明かりを煌々と振りまいていた。
そして、とっぷりと夜の帳が下りた街中を、ひとり早足でくぐり抜け、ようやっとマンションにたどり着いた。
『あの男が背後から襲いかかって来るのではないか』
『途中で当麻に出逢うのではないか』
その不安と希望は、どちらも現実にならなかった。
マンションのオートロックを解錠し、葬式会場のように静まり返っているエントランスホールでため息をつく。
エントランスホール同様に、私のこころの中も、葬儀の参列者のように沈みきっていた。
朝、猛ダッシュで駆け抜けた廊下を、夜、しずしずと音も無く歩く。
行動は対照的だったが、『不安』という感情に逼迫されている点では共通していた。
『不安』と言っても、朝と今ではかなり毛色の違ったものだが。
そして、さながら空き巣の如く、そろりとドアを開けて玄関に足を踏み入れる。
ドアが音も無く閉まった途端、背後から照らしていた月明かりが途絶えた。
遮光カーテンで閉め切られた室内は、目眩を覚える程の暗闇に包まれていた。
暗闇の中、役に立たない目測と、当てにならない憶測で、闇雲に電灯のスイッチを探る。
途中、何度も激突し、喧しい音を立ててしまったが、ようやっとスイッチにありつく。
視界に光が戻った瞬間、目の前には惨憺たる光景が広がっていた。
食べ散らかされた食器、
脱ぎ散らかされた衣類、
荒れ放題の室内。
遅刻寸前だった私は、食器洗いや片付けなどの『女子的行為』を全て放棄して飛び出して来たのだった。
折角視界が開けたというのに、再び目を覆いたくなる衝動にかられる。
疲れきっていたこころに更なる圧力がかかり、涙が込上げてきそうになる。
ぐっとこらえて、
「……今日はもういいや。美琴さん閉店します」
誰に言うでもなく閉店を宣言し、そのままベットにダイビングボディプレスをかます。
大の字になって着地した瞬間、ベッドはぎしり、と大きく音を立てて軋んだ。
枕に顔を埋めて深く深呼吸をすると、懐かしいような、安心するような、独特のにおいがした。
そのにおいを嗅いだ瞬間、私は当麻を思い出さずにはいられなかった。
(そういえば、昨日の今頃……)
丁度24時間程前、私は当麻と共にベットを軋ませていた。
理由はお察し頂きたいが、その時は宙にも浮かびそうな程幸せな気分だった。
しかし、今ではどうだろうか。
同じ部屋、同じベッド、同じ時間帯なのに、たった24時間経過するだけで、ここまで気分が落ち込むとは。
中途半端な予知能力では、流石にこんな結果は予想出来なかったであろう。
うつ伏せに寝ていると、重力にのって涙が溢れそうになる。
ごろりと反転し、シミひとつ無い真っ白い天井を見上げる。
そして、すこし身体を起こし、部屋を見回してみた。
すると、いつもと変わらないハズの部屋が、いつもより広く見える事に気付いた。
いつもなら5秒に一回ぐらいのペースで、
「狭い」
「もう少しあっちいってよ」
「むさ苦しいんだけど」
と、ぼやいていたはずの部屋。
今では、緑乏しい大地が果てなく続く、ロシア北部のツンドラ地域のように見える。
(ちなみに私はツンデレではない。断固として付け加えておく)
そんな部屋にひとりでいると、荒廃した広大な大地に、ひとりぽつねんと取り残されたような気分になる。
いままで堪えていた感情、そして涙が、堰を切った様に溢れ出た。
「……当麻っ……帰って、きてっ……!」
喉の奥がつーんとし、気道をきゅっと閉めあげられたような感覚に陥る。
涙や鼻水で、顔がぐしゃぐしゃになるのも構わず、私はひとり泣き濡れた。
『またか』という、呆れの感情。
『いい加減にしろ』という、怒りの感情。
『どうしたんだろう』という、不安の感情。
今やそれら全ての感情を超越していた。
『無事でいて欲しい』
ただ、その一念だけであった。
いつもなら、こんな風には思わなかっただろう。
いつもなら、こんな風に部屋でちぢこまっていることは無かっただろう。
私は怖かったのだ。
「ぶっ殺す」
と、宣言したあの男が、本当に当麻を殺してしまったのではないか。
目の前を通り抜けた救急車に、当麻が乗っているのではないか。
何か重大な事件に巻き込まれたのではないか。
考えれば考える程、私はネガティブの泥沼にはまっていった。
中学生の私ならば、
「そんなことは絶対にあり得ない、絶対にさせない、当麻は無事だ」
と、ひとり息巻いて街に飛び出し、四方八方手当り次第に当麻の行方を探していただろう。
しかし、今の私には、現実を確かめる勇気も気力も行動力も精神力も無かった。
もし、本当に当麻の身になにかあったならば。
そう考えると、身体がふるえ、心臓が猛獣のように暴れ回り、精神が崩壊しそうになる。
私のこころは、当麻を大切に思うあまり、すっかり骨抜きになってしまったようだ。
そして、時間が経てば経つ程、思考を重ねれば重ねる程、私の不安は高まり、涙が溢れ出た。
不安で、怖くて、哀しくて、淋しくて。
何でもいいから私を慰めてくれる存在が欲しかった。
ふと視線を足下に向けると、朝投げ捨てていったゲコ太のぬいぐるみが、無造作に転がっていることに気付いた。
思わず引き寄せてぎゅっと抱きしめ、ぐじゅぐじゅになった顔を、ゲコ太の頭に押し付ける。
ゲコ太は相も変わらず間抜けな顔をしていたが、それでも私のこころをほんの少しだけ癒してくれた。
ごく普通の無機質なアクリル繊維が、こうも暖かく、そして、優しいものだとは思わなかった。
そして、只の緑色のぬいぐるみに、こんなに人を癒すが秘められているとは思わなかった。
突如として思い当たった。
「部屋・抹茶色・泣く……」
答えはスタート地点にあった。
私は、部屋で緑のゲコ太を抱きながら泣くことを予知していたのだ。
不安、恐怖、傷心、寂寥感。
そこに『後悔』という感情が加わった。
予知していたのだから、何とかしてこの結末を回避する方法は無かったのか。
当麻のところへ行って、無理矢理にでも引っ張ってくることは出来なかったのか。
数多の後悔が、東尋坊に打ち寄せる波の様に、激しく襲い来る。
そして、涙が止めどなく溢れ出た。
「……お願い、当麻……もどってきてっ……」
喉から絞り出すように声を出すも、答えるものも、聞いてくれるものも無く、部屋は空虚に静まり返ったままだった。
私とゲコ太しかいない、がらんどうな部屋で、私はひとり涙を流し続けた。
「美琴!」
そこには、手に持っていた荷物を投げ捨て、息を切らせながら駆け寄る当麻の姿があった。
正真正銘、ほんものの上条当麻、そのものだった。
しかし、あれだけ待ちこがれていたはずなのに、嬉しさや安堵よりも、驚愕が先に襲いかかって来た。
着ていた衣服には、明らかに血液と思われる赤黒い跡が残っていたのだ。
「当麻!血が!」
思わず駆け寄り、身体を調べる。
しかし、当麻の身体自体には何の異状も見られず、出血は他の要因によるものらしかった。
血に濡れた衣服を触ろうとすると、当麻は自分で片付けるから、と、私を制した。
触れる事を拒絶され、思わず私の表情が歪む。
それを読み取った当麻は、事の顛末を語り始めた。
話を要約すると、
『何とかゼミを切り上げて、
待ち合わせ場所に駆けつけていたところ、
折悪く産気づいた妊婦さんに遭遇してしまい、
救急車を手配していたら、
いつの間にか旦那さんと勘違いされ、
リアルゲコ太先生の病院へ付き添っていった』
とのことらしい。
服が血まみれなのは、破水した妊婦さんを抱きかかえた時に、いつのまにかついてしまったとのこと。
しかし。
「そんな話、信じられると思ってんの……?」
「……ごめん。でも、信じて欲しい」
「私は当麻を信じていたわ。でも、当麻は来なかった」
「ほんとうにごめん」
「連絡ぐらいしてくれても良かったんじゃない?」
「必死だったし、病院で携帯使う訳にもいかないから……」
「救急車呼んであとは任せておけばよかったじゃない!」
「……ごめん」
当麻は、まさに青菜に塩といった様相を呈しており、悄然と俯いている。
その表情からは、日頃見せる底抜けの快闊さ、いざという時に見せる男らしさ、剛胆さといったものは、微塵も感じとることが出来なかった。
当麻にこんな事を言っても、なんの意味も無いことは分かっている。
当麻が人命を救うという素晴らしい行為をしたことも分かっている。
当麻が困っている人を助けずにいられないことも重々分かっている。
そして、私が相当意地の悪いことを言っていることも。
それでも尚、私の舌鋒は鋭さを増す一方だった。
「私がどれだけ待ったか分かってんの?」
「……ごめん」
「今日が何の日か分かってんの?」
「……ごめん」
「私がどれだけ心配したか分かってんの?」
「……ごめん」
「『ごめん、ごめん』ってなんなのよ!他に何とか言いなさいよ!」
「……ごめん」
「どうせ当麻は私の気持ちなんか分かんないんでしょ!?」
「……ごめん」
「……当麻が帰って来て、私がどれだけ、安心したか……!」
それ以上、私が言葉を紡ぐことは出来なかった。
滂沱の涙がほほを流れ、唇から嗚咽が零れ、身体ががくがくと震える。
当麻への罵詈雑言も、当麻への恋情の言葉も、全て喘ぐ様な泣き声に変わってしまう。
想いを伝えることが出来ずに、喘ぎ喘ぎ声をあげると、当麻の身体が私を優しく包み込んだ。
「本当にごめん。今日だけは遅れないようにしよう、今日だけは美琴を幸せにしようって思ってたのに……」
そこまで言って、当麻の言葉が途切れた。
抱きしめている当麻を見上げると、ぐっと唇を噛み締め、さめざめと声も無く涙を流していた。
当麻の涙は、見上げる私の頬に零れ落ち、ふたり分の涙となって頬を伝っていった。
涙と鼻水で顔中ぐじゅぐじゅに濡らし、不細工な顔をして涙を堪えようとする当麻。
哀れで、惨めで、かっこわるいはずなのに。
いたわしく、痛々しい姿が、何故だかたまらなく愛おしい。
私は、当麻の背中に手を回し、きつく抱きしめると、涙でかすれた声を振り絞って答えた。
「……意地張っちゃってごめん……ほんとは、当麻が帰って来て嬉しいのに……当麻がいるだけで幸せなのに……」
それが最後の一押しだった。
ついに当麻は身体をくの字に曲げ、声をあげて泣き出してしまった。
ごめん、ごめん、と、繰り返し、雄叫びに近い慟哭をあげる。
私は、まるで赤子をあやすかのように、当麻の背中をさすってあげる。
そして、身体を抱きかかえ、真っ赤に充血した当麻の目を見つめ、そっと口づけを交わす。
「なんなのよもう!ほんっとムッカつく!もう当麻なんてどうなっても知らない!」
朝はそう思っていたはずなのに。
今ではそんな考えは雲散霧消し、当麻への恋慕と悔恨の念が残るのみだった。
この想いは、言葉では言い表すことが出来ない。
言葉で言い表せないのなら、態度で示すしか他に道はない。
身体が融合してしまうのではないか、と思う程きつく抱きしめる。
息が止まりそうな程、長く、深いキスをし、舐る様に激しく舌を絡め合う。
そして、たっぷりと余韻を味わったあと、名残惜しげに唇を引きはがして、
「そういえば、今日は『ごめんなさい』じゃなくて『おめでとう』の日だったな……」
「すっかり頭から飛んでたわ……」
そういえば、今日は当麻とお付き合いを始めた記念日だった。
朝から色々ありすぎて、完全に『おめでとう』と言うのを忘れていた。
時刻は夜11時過ぎなので、辛うじて『今日』の範疇に入れていいはずだ。
「せめてケーキぐらい買わなきゃ、って思ってたんだけど……コンビニぐらいしか開いてなくて……」
そう言いながら、ぐじぐじと涙を拭いながら、部屋に入ってくる時に放り投げた荷物を漁る。
そこからコンビニのビニール袋を取り出し、中身を私に手渡した。
「こんなものしか用意出来なかったけど……美琴が抹茶味のパルムが好きって言ってたから……」
プレゼントは抹茶のアイスクリームだった。
ゲンナマ主義の女なら、
「この甲斐性無し!」
と、一喝し、張り手の一発でもかましかねないプレゼントだが、私にとっては逆に好感の持てるプレゼントだった。
値段や質では、イタリアンレストランに程遠いかもしれないが、躍起になって何か代わりを探している姿を想像すると、思わず頬がにやけてしまう。
まるで初めてのお使いから帰って来た子供を見ているような気分だった。
しかし、
「……って溶けてるじゃん!」
パッケージを開けると、そこには半分溶けかけて、でろでろになった抹茶アイスがあった。
「うえ!?放置しすぎた!」
「もう!これ、どうすんのよ!」
そう言って、溶けかけた抹茶アイスをブンブンと振りまくった。
「ぎゃー!美琴さん!汁、飛んでます!染み抜きが大変なんですぅー!」
「血みどろの格好した奴が今更なに言ってんのよ!」
私はさらに勢いよく抹茶アイスを振る。
辛うじてアイス本体は吹っ飛ばなかったものの、雫は雨のように当麻に降り注ぐ。
その雫の内の一つが当麻の目尻に飛び散る。
まるで、抹茶色の涙を流しているように見えた。
閃きは突然訪れた。
「あ、『部屋、抹茶色、泣く』だ」
私の中途半端な予知能力は、今日も健在のようだった。
今日、二つの予知を同時におこなっていたのは、神様のいたずらなのか、プレゼントなのか、私には定かではない。
しかし、未来が見えたところで、私と当麻の波瀾万丈な人生には、なんの意味も無いのだということを、まざまざと見せつけられた。
私は、目の前だけを見て歩いていこうと決意した。