京都観光データベース@ wiki内検索 / 「千手観音」で検索した結果
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千手観音
千手観音 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 千手観音(せんじゅかんのん)は、仏教における信仰対象である菩薩のひとつ。サンスクリットではサハスラブジャと言い、文字通り「千の手をもつもの」の意味である。インドでヒンドゥー教の影響を受けて成立した観音菩薩の変化身(へんげしん)のひとつであり、六観音のひとつでもある。千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表わしている。 名称 千手観音の尊名について、日本語では「十一面千手観音」「千手千眼観音」「十一面千手千眼観音」など、さまざまな呼び方がある。千手観音像の中には十一面ではなく二十七面につくる像もあり、必ずしも「十一面千手千眼観音」が正しいとは言いきれない。また、文化財保護法による国宝、重要文化財の指定名称は「千手観音」に統一されている。... -
三十三間堂
...称で知られる。本尊は千手観音、開基(創立者)は後白河上皇。1,001躯の千手観音を安置する本堂は特に有名。現在は同じ東山区にある天台宗?の妙法院?が所有、管理している。 歴史 この地には後白河上皇の離宮、法住寺殿があった。広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院であり、上皇の勅願により平清盛が私財を投じて長寛2年(1164)に創建された。当時は五重塔などが建つ本格的な寺院だったが、建長元年(1249)の火災で焼失。辛うじて千手観音立像と二十八部衆像を救出したという。建長3年(1251)に後嵯峨上皇の勅願で再建が開始され、仏像の復興には天才仏師運慶の子、湛慶を中心に仏師が総動員された。文永3年(1266)には本堂のみが再建されて落慶法要が執り行われた。天正14年(1586)に秀吉が建立した方広寺?の山内寺院とされたが、江戸時代には妙法院?の管理下に移り、以降妙法院?の最大... -
清水寺
...山号は音羽山。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮上人。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、古くからの観音霊場として知られる。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所でもあり、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 宝亀9年(778)、大和国子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)の僧・延鎮が、夢のお告げで霊泉を訪ねて辿りついたのが、現在清水寺が建つ音羽山であった。この山には数百年も修行を続けているという行叡居士(ぎょうえいこじ)という修行者(観音の化身ともいう)がいた。行叡は「自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていったため、延鎮は行叡居士が残していった霊木に観音像を刻み、草庵に安置した。これが清水寺のはじまりという。その2年後、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂は、修行中の延鎮に出会った。田村麻... -
鞍馬寺
...」と称し、毘沙門天、千手観音、護法魔王尊の三身一体であるという。山号は松尾山(しょうびさん)、開基(創立者)は鑑禎(がんてい)。山の精霊である天狗が住むという鞍馬山の南斜面に位置し、牛若丸(源義経)が修行をした地として著名。なお寺への輸送機関としてケーブルカーを運営しており、宗教法人としては唯一の鉄道事業者である。 歴史 寺に伝わる『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』によると、鑑真と共に唐から渡って来た高弟8名のうちの最年少であった鑑禎が宝亀元年(770)に草庵を結び、毘沙門天を安置したのが始まりという。山背国の北方に霊山があるという霊夢を見た鑑禎は、その霊山を尋ねて出掛け、ある山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見る。その山が鞍馬山であった。山に入った鑑禎は鬼に襲われて殺されそうになるが、あわやという時、枯れ木が倒れてきて鬼はつぶされてしまった。翌朝になると、そこには毘沙... -
せ
...け) 仏像 千手観音(せんじゅかんのん) 語句 石庭(せきてい)→枯山水庭園(かれさんすいていえん) -
慶派
...(三十三間堂)本尊の千手観音坐像を造像。本尊の左右に林立する千手観音立像中にも湛慶作の銘をもつものが数躯ある。 千手観音坐像 蓮華王院(三十三間堂)所蔵 国宝 康勝(こうしょう) 生没年不詳 運慶の四男。建久9年(1198)頃、父に従い兄湛慶らと共に教王護国寺(東寺)の仁王像および二天像を、天福元年(1233)には弘法大師像を制作した。六波羅蜜寺?に安置される空也?上人立像は「僧康勝」の銘があり、代表作として著名である。 弘法大師像 教王護国寺(東寺)所蔵 国宝 空也?上人立像 六波羅蜜寺?所蔵 重要文化財 行快(ぎょうかい) 生没年不詳 快慶の弟子。大報恩寺(千本釈迦堂)の本尊である釈迦如来像を造像した。奈良・長谷寺の十一面観音像の制作においては師快慶を補佐し、蓮華王院(三十三間堂)の千手観音立像にも銘を残す。 釈迦如来坐像 大報恩寺(... -
勧修寺
...住職)は承俊、本尊は千手観音。寺名は「かんしゅうじ」と読まれることがあるが、寺では「かじゅうじ」を正式の呼称としている。 歴史 創建の時期については諸説あるが、寺伝によると昌泰3年(900)に醍醐天皇の生母藤原胤子?の追善のため、胤子?の祖父(醍醐天皇には曽祖父にあたる)である宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺に改めて、天皇等身の千手観音像を安置したという。寺名は外祖父藤原高藤?の諡号をとって勧修寺と号した。開山である承俊律師は東大寺出身の法相宗の僧。南北朝時代、後伏見天皇の第7皇子である寛胤法親王が入寺してから、代々法親王が入寺する宮門跡?寺院としての地位が確立し、広大な寺域を有することになった。文明2年(1470)の兵火によって堂宇のほとんどを焼失し、また豊臣秀吉が伏見城を築いた際、寺地内を貫通する形で伏見街道を敷いたために、寺地は分割され衰退する(名石はすべて醍醐寺... -
西明寺
...られている。脇陣には千手観音立像(寺伝によると智泉大徳作)や自性上人の念持仏という愛染明王像などを安置する。 客殿 江戸時代前期に移築された。本堂とは短い渡廊下で結ばれている。当時は食堂(じきどう)と称し、僧侶の生活や戒律の道場として使用された。慶長年間(1596~1615)から元和年間(1615~1624)に亘って制定された九ヶ条からなる「平等心王院僧制」の木札が掲げられている。 表門 本堂と同じく元禄13年(1700)の造営。主柱と控え柱の計4本の柱の上に切妻屋根を組み、屋根の棟の位置を中心からずらす、いわゆる薬医門形式の門。 文化財 国宝 なし 重要文化財(建造物) なし 重要文化財(美術工芸品) 木像釈迦如来立像 木像千手観音立像 拝観情報 住所 京都市右京区梅ヶ畑槇尾2 電話番号 075-861-1770... -
善峯寺
...。山号は西山、本尊は千手観音、開基(創立者)・開山は恵心僧都の高弟、源算。西国三十三箇所観音霊場の第20番札所で、桜や紫陽花、紅葉の名所としても有名。 歴史 草創は寺伝によると天台宗?の僧、源算が長元3年(1030)に伽藍を建立した(長元2年(1029)とも)のが始まりという。源算は因幡国(現鳥取県)の人で、出家して比叡山で授戒した。源算が比叡山を降り、西山に道場を建立しようとしたところ、霊夢に助成の申し出があり、その夜、数千匹の猪が境内地にあった邪魔な岩を砕いたという。本尊の千手観音は長久3年(1042)に洛東の鷲尾寺に安置されていたものを、後朱雀天皇の命によって移したもの。平安後期、後三条天皇の皇后が懐妊のときこの像に祈祷して後の白河天皇を出産したといい、白河院政期には幾つかの荘園が寄進され、平安末期には50余の僧坊が棟をつらねたという。この頃、関白藤原忠通?の子で、天... -
千本釈迦堂
...観音?、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音?、准胝観音?の6躯。作風には宋風が顕著で、写実的な表情と複雑な衣文が特色であり、等身大の六観音像が揃って残るのは珍しい。寺伝によると「経王堂に祀られていたものが寛文年間(1655~1672)に本寺に移された」とあるが、実際には明治の廃仏毀釈によって経王堂の諸仏が近隣であった当寺に遷されたことによる。 文化財 国宝 本堂 重要文化財(建造物) なし 重要文化財(美術工芸品) 木造釈迦如来坐像(行快作) 木造十大弟子立像(快慶?作) 木造六観音菩薩像 木造千手観音立像 銅造誕生釈迦仏立像 北野経王堂一切経(漆塗経箱・木造傳大士及び二童子像・経王堂覚蔵坊関係文書) 鼉太鼓縁 拝観情報 住所 京都市上京区今出川七本松上ル溝前町1305 電話番号 075-461-5973 拝観時間 9:00~... -
広隆寺
...の不空羂索観音?像と千手観音像、定朝の弟子長勢の工房で造られたという日光・月光菩薩像や十二神将像など50数躯の仏像のほか、絵画や史料が展示されている。久安6年(1150)に焼失したのち復刻された霊験薬師仏は館内の厨子内に安置され、11月22日のみ公開されている。 文化財 国宝 木造弥勒菩薩?半跏像(宝冠弥勒※) 木造弥勒菩薩?半跏像(泣き弥勒※) 木造阿弥陀如来坐像 木造不空羂索観音?立像 木造千手観音立像 木造十二神将立像 広隆寺縁起資材帳 広隆寺資材交替実録帳 桂宮院本堂 ※広隆寺には国宝の2躯の弥勒菩薩半跏像がある。 (1)宝冠をいただき、台座とともに赤松の一材から彫成されている。一部に漆箔が残るが、本来は各所に乾漆を盛って仕上げていたとする説もある。細作りの体で清楚な気品があり、その作風はソウルの韓国国立中央博物館の金銅弥勒菩薩像に通じる。加えて... -
金戒光明寺
...る藤原時代の木造[[千手観音 ]]像を安置する。御影堂の東側にある松は「鎧かけの松」と呼ばれ、一ノ谷の合戦で平氏方の若武者平敦盛を討ち取った熊谷直実が、法然?の弟子となってこの寺で出家した際に脱いだ鎧を掛けたという伝承がある。 阿弥陀堂 慶長10年(1605)に豊臣秀頼によって再建されたとされる寺内最古の建物。本尊の阿弥陀如来像は恵心僧都作の伝承を持ち、胎内に彫刻道具が収められていたことから「ノミ納め如来」とも呼ばれる。堂内は通常非公開。 三重塔(文殊塔) 境内の東側の石段を登りきったところにある本瓦葺の塔。寛永10年(1633)に徳川秀忠の菩提を弔うために建立。本尊の文殊菩薩像は、もと岡崎の宝幢寺村にあったもので、塔建立に際して遷された日本三文殊のひとつ(現在は御影堂に安置されている)。脇侍とともに運慶作とされるが詳細は不明。 大方丈・紫雲の庭 昭和... -
東寺
...その後の再建。本尊の千手観音立像は火災で焼損したが、1960年代に修理され、現在は寺内の宝物館に安置されている。 五重塔 京都のシンボルともなっている塔である。高さ54.8mで木造塔としては日本一の高さを誇る。創建は空海没後の9世紀末。初層内部の中央は直径1mもある檜の心柱が貫いている。これを大日如来に見立て、その四方を菩薩を脇侍にもつ如来が囲んでいる。現在の塔は5代目で、寛永21年(1644)に徳川家光の寄進で建てられた。 大師堂(御影堂) 南北朝時代に建てられた住宅風の仏堂である。国宝指定の名称は「大師堂」だが、一般には御影堂と呼ばれている。この堂のある一画を西院といい、空海の住房跡とされている。康暦元年(1379)の火災による焼失後、その翌年に再建されたのが現存の建物である。ただし、堂の北半分は弘法大師像を安置するために明徳元年(1390)に増築されたもの。... -
真如堂
...側に最澄の作と伝わる千手観音立像、左側には園城寺(三井寺)の開祖である智証大師の作と伝わる不動明王坐像を安置する。阿弥陀如来像は円仁が「女人を救い給え」と願ったところ、3度頷いたことから「うなずきの弥陀(阿弥陀)」とも呼ばれる。不動明王像は、陰陽師安倍晴明の命を救った念持仏という。 三重塔 宝暦7年(1757)に建立されるも安永3年(1774)頃から建て替え、文化14年(1817)に完成したもの。総高は約30m。 本坊・書院 本堂とは回廊で繋がれている。書院東側にある庭園は天龍寺庫裏前の石組などを手掛けた曽根三郎によって昭和63年(1988)に作庭された。東山三十六峰を借景とした枯山水庭園で、中央の石組の向かって左が釈迦のあたまで、右脇を下にして横たわり、その周りを弟子や動物たちが囲んで釈迦の死を嘆き悲しむ様子を表現したという。 元三大師堂 おみくじの発... -
延暦寺
...旧所在釈迦堂) 木造千手観音立像(旧所在山王院) 木造不動明王立像(旧所在飯室不動堂) 木造維摩居士坐像(青龍寺旧蔵) 木造慈恵大師坐像(青龍寺旧蔵) 木造慈恵大師坐像(本覚院旧蔵) 木造阿弥陀如来立像(滋賀院旧蔵) 木造吉祥天?立像(滋賀院旧蔵) 木造大黒天立像(律院旧蔵) 木造薬師如来坐像 絹本著色天台大師(智顗)像 絹本著色天台大師像 絹本著色相応和尚像 絹本著色不動明王三大童子五部使者像 絹本著色文殊菩薩像 絹本著色山王本地仏像 紙本著色山王霊験記 尾長鳥繍縁花文錦打敷 紺紙金銀交書法華経 紺紙銀字法華経 華厳要義問答 悉曇蔵 伝述一心戒文 延暦寺楞厳三昧院解 山門再興文書 道邃和尚伝道文 宗存版木活字(付属品共)ほか多数 史跡 延暦寺境内 拝観情報 住所 滋賀県大津市坂本本町4220 電話番号 077-578-0001 拝観時間 8:30~16:30... -
如意輪観音
如意輪観音 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、井上一稔著『日本の美術5 No.12 如意輪観音・馬頭観音』(至文堂・1992)ほか 概略 如意輪観音(にょいりんかんのん)は、観音信仰の展開に伴って考えだされた変化観音で六観音のひとつ。持物の力を象徴した観音で、極めて密教?的性格が強い。奈良時代後期には二臂像が造立されたが、平安時代以後は六臂像が多くつくられた。 名称 梵語チンタマニチャクラ(チンタ=如意、マニ=宝珠、チャクラ=輪)。如意とは如意宝殊、輪は法輪を意味し、如意宝珠の三昧に住して法輪を転じ六道の衆生の苦を抜き利益を与えることを本誓とする菩薩である。日本語では「如意輪観音菩薩」や「如意輪観世音菩薩」など様々な呼び方があるが、重要文化財等の指定名称は「如意輪観音」となる。 像容 二臂や六臂、十臂、十二臂など変化に... -
十一面観音
十一面観音 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 十一面観音(じゅういちめんかんのん)は、仏教の信仰対象である菩薩のひとつ。サンスクリットではエカーダシャムッカといい「11の顔を持つもの」の意である。観音菩薩の変化神のひとつであり、六観音のひとつでもある。十一面観音はその深い慈悲により衆生の中から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す仏であるとされ、女神のような官能的な容姿に造られたものが多い。 名称 日本語では「十一面観音」、「十一面観世音菩薩」などさまざまな呼び方があるが、国宝、重要文化財等の指定名称は「十一面観音」に統一されている。 像容 玄奘訳の「十一面神咒心経」にその尊容が明らかにされている通り、本体の顔以外に11の顔を持つ菩薩である。多くの十一面観音は、頭部正面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)をいだき、頭上には... -
西国三十三箇所
西国三十三箇所 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 西国三十三箇所(さいごくさんじゅうさんかしょ)とは、和歌山県・奈良県・京都府・大阪府・兵庫県・滋賀県・岐阜県に跨る33ヵ所の観音霊場のこと。718年、長谷寺の開基、徳道上人によって始められたと伝えられる。その後一時廃れるが、永延2年(998)、花山法皇によって復興される。時代によって寺の出入りがあるものの、江戸時代に場所、順位が固定した。のち坂東三十三箇所、秩父三十四箇所が成立し、百箇所観音ができあがる。 三十三箇所一覧 No. 山号 山号の読み 寺院名 寺院名の読み 通称 所在地 1 那智山 なちさん 青岸渡寺 せいがんとじ 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 2 紀三井山 きみいさん 金剛宝寺 こんごうほうじ 紀三井寺 和歌山県和歌山市 3 風猛山 ふうもうさん 粉河寺 こかわ... -
泉涌寺
泉涌寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 泉涌寺(せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗?泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来?の三世仏。平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)」とも呼ばれている。 歴史 仁和寺、大覚寺などとともに皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856)、左大臣藤原緒嗣?(おつぐ)が、自らの山荘に神修... -
三千院
三千院 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原?にある天台宗?の門跡?寺院。円融房、梨本門跡、梶井門跡などとも称する。青蓮院、妙法院?、曼殊院?、毘沙門堂とともに、天台五門跡?のひとつに数えられている。山号は魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄。境内の往生極楽院は元来別の寺院で12世紀から大原?の地にあったもの。明治4年(1871)に三千院の本坊が移転した際に、その境内に取り込まれた。 歴史 三千院は天台五門跡?の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788)に延暦寺を開いた時に、東塔南谷に「円融房」を開創したのがその起源という。円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。当時、比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点をもって... -
銀閣寺
慈照寺(銀閣寺) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 慈照寺(じしょうじ)は、京都市左京区にある臨済宗?相国寺派の寺院で相国寺の境外塔頭。通称銀閣寺、山号は東山(とうざん)。開基(創立者)は、室町幕府8代将軍足利義政、開山は夢窓疎石とされている(実際には夢窓疎石は創建より100年ほど前の人物であり、このような例を勧請開山という)。慈照寺の名は足利義政の法名にちなむ。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 室町幕府8代将軍の足利義政が嗣子義尚(よしひさ)に将軍職を譲ったのち、文明14年(1482)に東山の月待山麓に山荘東山殿を造営した。東山殿は祖父足利義満の北山殿(金閣)にならい、義政が自らの美意識を投影して8年の歳月を費やし建立。簡素で枯淡の美を真髄としたその意匠は、後世に東山文化と呼ばれる。当時は... -
に
寺院 西本願寺(にしほんがんじ) 二尊院?(にそんいん) 仁和寺(にんなじ) 神社 城・御所離宮 二条城(にじょうじょう) 地名・園池 人物 仏像 如意輪観音(にょいりんかんのん) 語句 -
醍醐寺
醍醐寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐にある真言宗?醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝(しょうぼう)。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもち、伽藍は山上の上醍醐と山麓の下醍醐にわかれて建ち並んでいる。寺宝10余万点、うち国宝・重要文化財107件約4万点を所有する屈指の大寺院。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 寺伝によると、創建は貞観16年(874)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が霊感を得て笠取山に登り、准胝観音?並びに如意輪観音を造って祀ったのが最初という。聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。延喜7年(907)には醍醐天皇の御願寺となって飛躍的に発... -
平等院
平等院 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏?ゆかりの寺院。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来浄土宗?と天台宗?を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は藤原頼通?、開山(初代住職)は明尊である。平安時代後期である11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを現在に伝え、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣源融(みなもとのとおる)が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998)、関白藤原道長?... -
仁和寺
仁和寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗?御室派総本山の寺院。山号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇である。皇室とゆかりの深い寺で、出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」の別名があり、桜の名所としても知られる。徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886)に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年死去した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年(888)に落成し、年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に御室と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室御所」の別称がある。なお、御室の旧地には現在、「... -
し
寺院 慈照院(じしょういん)→相国寺(しょうこくじ) 慈照寺(じしょうじ)→銀閣寺(ぎんかくじ) 詩仙堂(しせんどう) 地蔵院?(じぞういん) 寂光院(じゃっこういん) 聚光院(じゅこういん)→大徳寺(だいとくじ) 春光院(しゅんこういん)→妙心寺(みょうしんじ) 相国寺(しょうこくじ) 丈山寺(じょうざんじ)→詩仙堂(しせんどう) 勝持寺?(しょうじじ) 成就院(じょうじゅいん)→清水寺(きよみずでら) 聖澤院(しょうたくいん)→妙心寺(みょうしんじ) 正伝永源院(しょうでんえいげんいん)→建仁寺(けんにんじ) 正伝寺?(しょうでんじ) 青蓮院(しょうれんいん) 神護寺(じんごじ) 真珠庵(しんじゅあん)→大徳寺(だいとくじ) 真宗本廟(しんしゅうほんびょう)→東本願寺(ひがしほんがんじ) 真如堂(しんにょどう)(真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)) 神社 地主神社(じしゅじん... -
大徳寺
大徳寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 大徳寺(だいとくじ)は、京都市北区紫野にある臨済宗?大徳寺派大本山の寺院。山号を龍宝山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)。茶の湯の文化と縁が深いことから「大徳寺の茶づら」とも呼ばれた。境内には仏殿、法堂をはじめとする中心伽藍のほか、20ヵ寺を超える塔頭寺院が建ち並び、建造物、庭園、障壁画、茶道具、書画など多くの文化財を今に伝えている。 歴史 開祖である宗峰妙超は、鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち)や京の南浦紹明?(なんぽじょうみん)に参禅し、徳治2年(1307)には師から印可を得る。播磨国(現兵庫県)守護・赤松氏の家臣である浦上(うらのえ)家の出身であった縁で、正和4年(1315)、赤松則村(円心)の帰依を受け(元応元年=1319説も)... -
吉山明兆
吉山明兆 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 吉山明兆(きつざんみんちょう)は、室町時代前・中期の画僧。破草鞋(はそうあい)とも号する。水墨画を専門にした最初の画僧といわれており、如拙、周文、雪舟らとともに日本の水墨画の成立と発展を担った。正平7年/文和元年~永享3年(1352~1431) 人物史 淡路国(現兵庫県)生まれ。幼少時に淡路安国寺の僧、大道一以(だいどういちい)の弟子となり、一以が東福寺28世となったのに従い東福寺に入る。下位の僧にもかかわらず、画才が認められて専門の画僧となった。東福寺の殿司(建物の管理をする役職)を終生務めたため、兆殿司とも呼ばれる。水墨画は宋時代以降、中国の文化人や禅僧の間でもてはやされ、鎌倉中期の禅宗の移入に伴って中国の水墨画が渡来し、禅僧の修行の一環として描かれるようになった。梅、竹... -
伊藤若冲
伊藤若冲 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)は江戸時代の絵師。別号斗米庵(とべいあん)。写生的、装飾的な花鳥画と、水墨画に異色の画風を作り上げた。正徳6年~寛政12年(1716~1800) 人物史 京都・錦小路の青物問屋「枡源」の跡取り息子として生まれる。23歳のとき、父源左衛門の死去の伴い、四代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する。「若冲」の号は禅の師であった相国寺の禅僧、大典顕常から与えられた居士(在家の仏教信者)号である。『老子』にある「大盈(だいえい)は冲(むな)しきが若(ごと)きも、其の用は窮(きわ)まらず(=大きく満ちているものは何もないように見えるが、その働きは窮めることができない)」から引用された。大典の書き遺した記録によると、若冲という人物は、絵を描くこと以外、世間の雑事には... -
大日如来
大日如来 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、佐和隆研著『仏像図典(増補版)』(吉川弘文館・1990) 概略 大日如来(だいにちにょらい)は両界曼荼羅の本尊で大乗仏教?における如来のひとつ。空海の開いた真言宗?において最高絶対的存在で、大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)の教主、毘盧遮那如来でもある。不動明王は大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであるとみなされている。 名称 サンスクリット語のマハー・ヴァイローチャナ(Maha Vairocana)の音訳のまま摩訶毘盧遮那となった。その光明が遍く照らすところから遍照如来とも呼ばれ、その智慧の光は日神(ひのかみ)の威力をはるかに上まわるところから、その意をとって大日如来と呼ばれるのが一般的。「大日」という漢訳は、インドの密教僧の善無畏とその弟子の一行の案出。な... -
阿弥陀如来
阿弥陀如来 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 阿弥陀如来(あみだにょらい)は、浄土教の中心をなす仏で、大乗仏教?における最も重要な仏のひとつ。西方極楽浄土の教主として最も人気があり、浄土思想?の発達とともに中国および日本で隆盛した。密教では五仏(五智如来)の一如来である。 名称 サンスクリット語ではAmitabha(無限の光明をもつもの、無量光)、Amitayus(無限の寿命をもつもの、無量寿)のふたつの名があり、音写によって「阿弥陀仏」「阿弥陀」と呼び、略して「弥陀」ともいう。中国では、阿弥陀と相並んで無量寿という意訳語がよく用いられたので、阿弥陀如来のことを無量寿如来とも呼ぶ。 像容 中国では4世紀にはすでに造像があったと伝えられ、6世紀以降から7世紀後半を頂点として彫像や阿弥陀浄土変相が盛んに制作された... -
毘沙門堂
出雲寺(毘沙門堂) 出典 村山修一著『比叡山史』(東京美術・1994)、『京都市の文化財 -建造物・文化財環境保全地区-』(京都市文化観光局・1992)ほか 概略 出雲寺(いずもじ)は、京都市山科区安朱稲荷山町にある天台宗?延暦寺派の寺院で天台五門跡?のひとつ。毘沙門天を本尊とすることから毘沙門堂(びしゃもんどう)という通称で親しまれている。山号は護法山、開基と開山は行基と伝わる。宸殿前にある樹齢百数十年のしだれ桜は特に有名。 歴史 文武天皇の御願による大宝3年(703)の創建と伝え、はじめ出雲路の地にあったとするが同時代史料にみえず、詳細は不明。一時廃絶し、建久6年(1195)に平親範が太秦にあった平等寺、五辻にあった尊重寺、伏見にあった護法寺の三ヵ寺を統合して平安京外東北の出雲路に寺院を建立したという。この三ヵ寺はいずれも桓武平氏ゆかりの寺院で、出雲路... -
金閣寺
鹿苑寺(金閣寺) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 鹿苑寺(ろくおんじ)は、京都市北区にある臨済宗?相国寺派の寺院で相国寺の境外塔頭。通称金閣寺、山号は北山(ほくざん)。名は足利義満の法名にちなむ。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 鎌倉時代に藤原公経?(西園寺公経?)が西園寺と邸宅を造って住んでいたという。この西園寺?家の所有地を応永4年(1397)に、足利義満が河内国の領地と交換に譲り受け、改築と新築によって一新した。この邸宅は「北山第」、また「北山殿」とも呼ばれた。邸宅とは言え、その規模は京都御所?に匹敵し、政治中枢の全てが集約され、ここで一切の政務を行った。義満はこの地を政治・外交の中心とするとともに、中国(明)との貿易によって最新の文化を取り入れ、公家文化と武家文化、仏教文化が調和し... -
永観堂
禅林寺(永観堂) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗?西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都(しんじょうそうず)。古くより「秋はもみじの永観堂」と謳われた紅葉の名所である。 歴史 空海の高弟である真紹僧都が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源とされる。真紹は仁寿3年(853)、歌人・文人であった故・藤原関雄?の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。10年後の貞観5年(863)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となっ... -
青蓮院
青蓮院 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 青蓮院(しょうれんいん)は、京都市東山区粟田口三条坊町にある天台宗?の寺院。開基(創立者)は最澄、本尊は熾盛光如来(しじょうこうにょらい)。三千院、妙法院?とともに天台宗?の三門跡?寺院とされ、青蓮院門跡とも称する。日本三不動のひとつ「青不動」のある寺としても知られる。 歴史 三千院、妙法院?などとともに、青蓮院も比叡山上にあった房がその起源とされている。比叡山東塔の南谷にあった青蓮坊が、平安末期の行玄大僧正の時に山の下に移転し、久安6年(1150)、鳥羽上皇の后である美福門院によって祈願所とされた。嘉応元年(1169)には上皇の第七皇子覚快法親王が行玄の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める門跡?寺院となった。移転した当初は三条白川(現在地のやや北西)にあっ... -
知恩院
知恩院 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 知恩院(ちおんいん)は、京都市東山区にある浄土宗?総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?。浄土宗?の宗祖・法然?が後半生を過ごし、没した地に建てられた。東山三十六峰のひとつ、華頂山の麓の約7万3000坪におよぶ広大な寺域に、13ヵ寺の塔頭寺院を含めて大小100棟以上の堂宇が建ち並ぶ大寺院である。 歴史 知恩院は、浄土宗?の宗祖・法然房源空?が結んだ草庵をその起源とする。法然?は比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空?と改名した。承安5年(1175)、43歳の時、唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗?の開宗を決意して山を下り、現在の知恩院勢至堂付近に草庵を... -
萬福寺
萬福寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 萬福寺(まんぷくじ)は、京都府宇治市にある黄檗宗?大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦(いんげんりゅうき)、本尊は釈迦如来。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、黄檗宗?の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物、仏像、儀式作法から精進料理に至るまですべて中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは全く異なった雰囲気を持ち、普茶料理、煎茶道、唐様書道など、隠元のもたらした中国文化は日本の文化全体に大きな影響を与えた。なお「万福寺」と表記されることもあるが、宗教法人としての名称は「萬福寺」である。 歴史 隠元隆琦は中国明時代の万暦20年(1592)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元が招か... -
高台寺
高台寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『高台寺の名宝』(鷲峰山高台寺朝日新聞社・1995)ほか 概略 高台寺(こうだいじ)は京都市東山区下河原町にある臨済宗?建仁寺派の寺院で、正しくは高台寿聖禅寺と称する。山号は鷲峰山(じゅぶざん)、本尊は釈迦如来。豊臣秀吉の正妻である妻北政所(出家して高台院)が、夫の菩提を弔うために開創した。禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。 歴史 高台寺は康徳寺を前身とする。その間の事情は明らかでない。両者は創建年代等を異にするが、康徳寺は天正より慶長にかけて北政所が生母のために建立した曹洞宗の寺院であったらしい。寺町にあった康徳寺が東山に移転したのは慶長10年(1605)で、この日に北政所も康徳寺に移った。時の権力者、徳川家康は北政所を手厚く扱い、配下の武士... -
相国寺
相国寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 相国寺(しょうこくじ)は、京都市上京区にある臨済宗?相国寺派大本山の寺院。山号は万年山、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家ゆかりの禅寺であり、京都五山?の第二位に列せられている。五山文学の中心地でもあり、画僧周文や雪舟を輩出した。また、境内には13の塔頭寺院があり、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は相国寺の境外塔頭である。 歴史 室町幕府3代将軍足利義満は、いわゆる「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを永徳2年(1382)に発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392)であった。寺名の相国は「国を相(たす)ける人」から来ており、中国では宰相、日本では太政大臣の意味になり、太政大臣にまで登りつめた義満によって建て... -
大覚寺
大覚寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、大覚寺史資料編纂室『大覚寺文書』上・下(大覚寺・1980)、中村直勝監修『大覚寺』(主婦の友社・1975)、『日本古寺美術全集』14(集英社・1982)、『日本美術絵画全集』12(集英社・1981)ほか 概略 大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗?大覚寺派の大本山の寺院。山号は嵯峨山、本尊は不動明王を中心とした五大明王、開基(創立者)は嵯峨天皇、開山(初代住職)は淳和天皇の第2皇子恒寂入道親王である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの門跡?寺院で、後宇多法皇が院政を行ったため嵯峨御所とも称された。嵯峨天皇に始まるという華道の嵯峨御流を今に伝える。 歴史 空海、橘逸勢と並んで三筆に数えられた嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院に、嵯峨天皇の信任を得ていた空海が五大明王を安... -
建仁寺
建仁寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 建仁寺(けんにんじ)は、京都市東山区にある臨済宗?建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。日本最古の禅寺であり、京都五山?の第三位に列せられている。特に漢詩の素養の高い禅僧を輩出したことから「建仁寺の学問づら」とも呼ばれた。 歴史 建仁寺は日本に臨済宗?を正式に伝えた栄西が建仁2年(1202)に鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、京都における臨済宗?の拠点として建立した。寺名は当時の年号を朝廷から贈られている。伽藍は宋の百丈山に模して造営され、工事にあたっては有力御家人の佐々木定綱や畠山重忠らが協力したという。創建当時の建仁寺は天台?、真言?、禅の三宗並立であったが、これは当時の京都では真言?、天台?の既存... -
南禅寺
南禅寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 南禅寺(なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗?南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は正式に「太平興国南禅禅寺」と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門?(大明国師?)である。皇室の発願になる禅寺としては日本最初のもので、京都五山?の上位(第一位の天龍寺よりさらに上に位置する)の別格扱いの寺院として、最も高い格式を誇る。 歴史 正応4年(1291)、亀山法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門?を開山として「龍安山禅林禅寺」と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇を悩ましたが、無関普門?が弟子を引き連れて入り、座禅をしただけで妖怪は退散したので、法皇は無関?を開山に請じたという... -
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