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大覚寺
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大覚寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、大覚寺史資料編纂室『大覚寺文書』上・下(大覚寺・1980)、中村直勝監修『大覚寺』(主婦の友社・1975)、『日本古寺美術全集』14(集英社・1982)、『日本美術絵画全集』12(集英社・1981)ほか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、大覚寺史資料編纂室『大覚寺文書』上・下(大覚寺・1980)、中村直勝監修『大覚寺』(主婦の友社・1975)、『日本古寺美術全集』14(集英社・1982)、『日本美術絵画全集』12(集英社・1981)ほか



概略
大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗?大覚寺派の大本山の寺院。山号は嵯峨山、本尊は不動明王を中心とした五大明王、開基(創立者)は嵯峨天皇、開山(初代住職)は淳和天皇の第2皇子恒寂入道親王である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの門跡?寺院で、後宇多法皇が院政を行ったため嵯峨御所とも称された。嵯峨天皇に始まるという華道の嵯峨御流を今に伝える。
大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗?大覚寺派の大本山の寺院。山号は嵯峨山、本尊は不動明王を中心とした五大明王、開基(創立者)は嵯峨天皇、開山(初代住職)は淳和天皇の第2皇子恒寂入道親王である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの門跡?寺院で、後宇多法皇が院政を行ったため嵯峨御所とも称された。嵯峨天皇に始まるという華道の嵯峨御流を今に伝える。
歴史
空海、橘逸勢と並んで三筆に数えられた嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院に、嵯峨天皇の信任を得ていた空海が五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が死去してから30数年後の貞観18年(876年)に、嵯峨天皇の皇女である淳和天皇皇后正子内親王が寺院とした。前身である嵯峨院の創立時期は不詳であるが、嵯峨天皇の皇子時代の山荘として造営され、即位後は離宮として利用されたという。承和元年(834)には嵯峨院内に新造御所を設けて、8月9日に正式に遷居。同年10月7日には寝殿も新造されている。以後、皇后嘉智子(檀林皇后)とともに、承和9年(842)に没するまでこの院に過ごした。この間の承和3年(836)頃には、皇后も同じ嵯峨の地に檀林寺?を営み、嵯峨院の別院的役割を果している。徳治3年(1308)には後宇多天皇が大覚寺に入り、院政を行ったため嵯峨御所の名でも呼ばれた。後宇多院は伽藍僧坊の造営にも尽力し、大覚寺中興ともいわれる。のちに建武3年(1336)の火災で伽藍は灰燼に帰したが、後宇多院第4皇子第24世性円法親王によって再建。建武中興が破れて吉野に落ちて(南朝=大覚寺統)以後は、足利氏の擁立する北朝(持明院統)と対立したが、明徳3年(1392)の南北朝統一の際、大覚寺で北朝の後小松天皇に神器を譲った南朝の後亀山天皇は当寺に隠棲した。御宇多院以降、しばらく皇族による門主が続いたが、応永26年(1419)、足利義満の子の義昭(ぎしょう)が武家の門主となった。しかし門主義昭は6代将軍足利義教に対抗して挙兵するも討たれたため、これ以降は五摂家?から門主を迎えることになる。応仁2年(1468)の応仁の乱によって伽藍が焼失、享禄元年(1528)にも兵によって破却され、同3年(1530)には第33世門主性守が盗賊に殺されることなどもあり、一時荒廃する。天正3年(1575)に織田信長より寺領が寄されたのをきっかけに、慶長16年(1611)に徳川家康によって1,016石が安堵されるなど、徐々に復興。江戸中期以降は門主は近衛家?より迎えることが多く、宮門跡?は天保8年(1837)に門主となった慈性法親王で最後となった。明治維新の折は一時無住となったが、明治9年(1876)に宮中の援助によって復旧に努め、明治33年(1900)に古義真言大覚寺派として独立する。
空海、橘逸勢と並んで三筆に数えられた嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院に、嵯峨天皇の信任を得ていた空海が五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が死去してから30数年後の貞観18年(876年)に、嵯峨天皇の皇女である淳和天皇皇后正子内親王が寺院とした。前身である嵯峨院の創立時期は不詳であるが、嵯峨天皇の皇子時代の山荘として造営され、即位後は離宮として利用されたという。承和元年(834)には嵯峨院内に新造御所を設けて、8月9日に正式に遷居。同年10月7日には寝殿も新造されている。以後、皇后嘉智子(檀林皇后)とともに、承和9年(842)に没するまでこの院に過ごした。この間の承和3年(836)頃には、皇后も同じ嵯峨の地に檀林寺?を営み、嵯峨院の別院的役割を果している。徳治3年(1308)には後宇多天皇が大覚寺に入り、院政を行ったため嵯峨御所の名でも呼ばれた。後宇多院は伽藍僧坊の造営にも尽力し、大覚寺中興ともいわれる。のちに建武3年(1336)の火災で伽藍は灰燼に帰したが、後宇多院第4皇子第24世性円法親王によって再建。建武中興が破れて吉野に落ちて(南朝=大覚寺統)以後は、足利氏の擁立する北朝(持明院統)と対立したが、明徳3年(1392)の南北朝統一の際、大覚寺で北朝の後小松天皇に神器を譲った南朝の後亀山天皇は当寺に隠棲した。御宇多院以降、しばらく皇族による門主が続いたが、応永26年(1419)、足利義満の子の義昭(ぎしょう)が武家の門主となった。しかし門主義昭は6代将軍足利義教に対抗して挙兵するも討たれたため、これ以降は五摂家?から門主を迎えることになる。応仁2年(1468)の応仁の乱によって伽藍が焼失、享禄元年(1528)にも兵によって破却され、同3年(1530)には第33世門主性守が盗賊に殺されることなどもあり、一時荒廃する。天正3年(1575)に織田信長より寺領が寄されたのをきっかけに、慶長16年(1611)に徳川家康によって1,016石が安堵されるなど、徐々に復興。江戸中期以降は門主は近衛家?より迎えることが多く、宮門跡?は天保8年(1837)に門主となった慈性法親王で最後となった。明治維新の折は一時無住となったが、明治9年(1876)に宮中の援助によって復旧に努め、明治33年(1900)に古義真言大覚寺派として独立する。
伽藍
皇室ゆかりの寺院であり、宮廷風の建築や皇室ゆかりの建物を移築したものが多い。伽藍の中心部に位置しているのは、本堂にあたる五大堂ではなく、嵯峨天皇ほかの歴代天皇が書写した般若心経を収める心経殿である。
皇室ゆかりの寺院であり、宮廷風の建築や皇室ゆかりの建物を移築したものが多い。伽藍の中心部に位置しているのは、本堂にあたる五大堂ではなく、嵯峨天皇ほかの歴代天皇が書写した般若心経を収める心経殿である。
心経殿
鉄筋コンクリートの八角堂で、大正13年(1924)に着工、翌14年(1925)4月に完成した。法隆寺夢殿の形を模したもので、内部には嵯峨天皇の紺紙金泥の般若心経をはじめとして、後光厳・後花園・後奈良・正親町・光格天皇の宸筆の般若心経が納められており、本尊薬師如来像を安置する。壁面は校倉造風である。内部は非公開で、開扉は60年に一度とされている。
御影堂(心経前殿)
北側に建つ心経殿の拝殿のような役割をしている建物で、入母屋造、桟瓦葺。大正天皇の即位式に使用された饗応殿を下賜されたもので、大正14年(1925)の後宇多法皇600回忌を機に移築されたものである。堂内左右には壇を設けて嵯峨天皇像・弘法大師像・後宇多天皇の牌・恒寂入道親王の像を安置する。
宸殿
東福門院の旧殿を移築したものと伝わる。蔀戸を用いた寝殿造風の建物で、入母屋造、檜皮葺。内部は大きく4室に分かれ、中でも南側の「牡丹の間」の牡丹図と北側の「紅梅の間」の紅梅図の襖絵(ともに狩野山楽筆)は名高い。一面に白砂が敷き詰められた前庭には右近の橘と左近の梅(桜ではない)があり、御所風の雰囲気がある。
五大堂
境内東側に位置する大覚寺の本堂で、入母屋造、桟瓦葺。寺伝では天明年間(1781~1789)の再建とする。もとは御影堂付近に旧御影堂としてあり、大正14年(1925)に御影堂が移築された際に現在の位置に移動して五大堂とされた。中央正面に壇を設けて厨子とし、本尊の五大明王像を安置するが、鎌倉時代作の五大明王像は収蔵庫に移され、現在は仏師松久朋琳・松久宗琳が昭和50年(1975)に完成させた像を安置している。堂内は写経道場としても用いられ、堂の東側の縁「観月台」からは大沢池を望むことができる。
小寝殿(客殿)
客殿や対面所、書院とも称される建物で、入母屋造、檜皮葺。宸殿の北側に中庭を隔てて位置する。狩野山楽と渡辺始興による襖がめぐらされ、各部屋は画題によって「剣璽(けんじ)の間」「御冠(おかんむり)の間」「紅葉の間」「竹の間」「雪の間」「鷹の間」「山水の間」「聖人の間」と名付けられている。「御冠の間」は後宇多法皇が院政を行った所と伝え、現在の建物には玉座が再現されている。建立年の詳細は不明であるが、様式から桃山時代に建立されて、寛永年間(1624~1643)に改造されたと見られている。
表門(大門・玄関門)
江戸時代初期の建てられた四脚門で、切妻造、本瓦葺。屋根には鬼瓦を配する。時代劇のロケに多用される。
霊明殿
総理大臣を務めた斎藤実が昭和3年(1928)に東京の沼袋(現中野区)に建てた日仏寺の本堂を、昭和33年(1958)に移築。縁板まで含め総朱塗りとした建物で、本尊阿弥陀如来像を安置する。
明智門・庫裏(明智陣屋)
共に明智光秀が築いた亀山城の一部と伝わるが、建築年代は光秀生存まで遡ることはない。明智門は切妻造、白壁の門で、腰の部分には敷瓦を塗り込めて生子(なまこ)壁とする。庫裏は切妻造、本瓦葺で江戸時代初期の建築。正面に唐破風造の差掛屋根がつき、西屋根には煙出しが設けられている。表門同様、時代劇のロケに多用される。
御霊殿(安井堂)
江戸時代中期の建築で、入母屋造、本瓦葺。御影堂の東側に西面して建つ。安井門跡?蓮華光院の御影堂であったものを明治4年(1871)に移築したもの。堂内に後水尾天皇の尊像が安置されている。
唐門(勅使門)
正面・背面に軒唐破風が付く四脚門で、切妻造、銅瓦葺。寺伝では嘉永年間(1848~1854)再建という。
庭湖館・宮御殿(秩父御殿)
庭湖館は江戸中期に、大沢池畔に建てられた休憩所を明治元年(1868)に移築したもの。宮御殿は秩父宮の御殿として大正12年(1923)に東宮仮御所の霞ヶ関離宮(現国会前庭)に建立されたものが、昭和46年(1971)に移築された。共に通常非公開。
大沢池
中国の洞庭湖を模して嵯峨天皇が築造したものといわれ、日本最古の庭池とされている。池中には北に天神島、その東に菊之島があり、その間に庭湖石を配す。池畔には西側に五社明神、北に名古曽滝(名古曾滝)跡と伝える石組や心経殿跡などがあり、天神島に渡る傍らの護摩堂近くには鎌倉時代前期の大沢池石仏群(近世移坐)がある。桜や紅葉、観月の名所として知られ、国の名勝に指定されている。
文化財
国宝
後宇多天皇宸翰御手印遺告 後宇多天皇宸翰弘法大師伝
重要文化財(建造物)
宸殿 客殿
重要文化財(美術工芸品)
絹本著色五大虚空蔵?像 紙本著色後宇多天皇宸影 絹本著色後宇多天皇宸影 紙本著色後宇多天皇宸影 障壁画(116面、松山鳥図・牡丹図・紅梅図・竹雀図・柳燕図・柳桜図・松鶴図・松鷹図・楓桃竹図・槇譲葉図・山水図ほか) 木造五大明王像 木造軍荼利明王立像 木造大威徳明王立像 太刀 後深草天皇宸翰御消息 紙本墨書花園天皇宸翰御消息 紙本墨書高雄曼荼羅御修覆記 紙本墨書後宇多天皇宸翰灌頂私注 紙本墨書後宇多天皇宸翰灌頂印明 紙本墨書後宇多天皇宸翰宝珠抄 紙本墨書後宇多天皇宸翰護摩口決 紙本墨書後宇多天皇宸翰奥砂子平口決 紙本墨書後宇多天皇宸翰悉曇印信口決・悉曇印信文 紙本墨書後宇多天皇宸翰伝法灌頂作法 紙本墨書後宇多天皇宸翰伝流抄目録並禅助消息三通 紙本墨書後宇多天皇宸翰伝法灌頂初後夜供養法次第 紙本墨書金剛界伝法潅頂作法 紙本墨書袈裟印 紙本墨書秘鈔 紙本墨書孔雀経音義
名勝
大沢池・名古曽滝跡
史跡
大覚寺御所跡
拝観情報
住所 京都市右京区嵯峨大沢町4
電話番号 075-871-0071
拝観時間 9:00~16:30
拝観料 500円
アクセス 市バス「大覚寺」下車すぐ
駐車場 駐車場あり(120分500円)
住所 京都市右京区嵯峨大沢町4
電話番号 075-871-0071
拝観時間 9:00~16:30
拝観料 500円
アクセス 市バス「大覚寺」下車すぐ
駐車場 駐車場あり(120分500円)
主な行事
1月1日~2日 修正会
1月5日 拝賀式
2月節分 節分会・星供祈祷
4月中旬 嵯峨天皇奉納華道祭
6月15日 弘法大師降誕会・青葉祭
7月25日 後宇多法皇御国忌
8月20日 宵弘法
9月中秋の日 観月の夕べ
11月 嵯峨菊展
1月1日~2日 修正会
1月5日 拝賀式
2月節分 節分会・星供祈祷
4月中旬 嵯峨天皇奉納華道祭
6月15日 弘法大師降誕会・青葉祭
7月25日 後宇多法皇御国忌
8月20日 宵弘法
9月中秋の日 観月の夕べ
11月 嵯峨菊展
毎月1日・11日・21日 写経会
その他
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「平安時代に造られた嵯峨天皇の離宮、嵯峨院の遺構として、大覚寺の大沢池のほとりに残っているのは何か。」
「平安時代に造られた嵯峨天皇の離宮、嵯峨院の遺構として、大覚寺の大沢池のほとりに残っているのは何か。」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「大覚寺は嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を寺に改めたことに始まる。境内には中国の洞庭湖を模して造られた( )があり、月の名所として有名である。」
「大覚寺は嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院を寺に改めたことに始まる。境内には中国の洞庭湖を模して造られた( )があり、月の名所として有名である。」