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二条城
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二条城(二条離宮)
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概略
二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区にある城。豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と徳川家康が建てた慶長年間の建築、徳川家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合された、いわゆる桃山時代様式の建造物が現存する。明治17年(1884)に宮内省の所管となり二条離宮(にじょうりきゅう)と改称。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。
二条城(にじょうじょう)は、京都市中京区にある城。豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と徳川家康が建てた慶長年間の建築、徳川家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合された、いわゆる桃山時代様式の建造物が現存する。明治17年(1884)に宮内省の所管となり二条離宮(にじょうりきゅう)と改称。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。
※日本の歴史において「二条城」と呼ばれるものは複数ある。
(1)室町幕府第13代将軍足利義輝の居城
(2)織田信長によって、室町幕府第15代将軍足利義昭の居城として作られた城
(3)織田信長が、京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸
(4)徳川家康が、京に滞在中の宿所として作った城
現存する二条城は(4)の城である。
(1)と(2)は、同じ場所に作られたが連続性がない。(2)と(3)は同じものと見る説もあるが、『信長公記』その他の史料を根拠として別のものとする説が通説となっている。
(1)(2)(3)について「二条城」と呼ぶのは、(4)が完成した江戸時代以降のことであり、(4)と区別する趣旨で「旧二条城」「二条古城」などと呼ばれることもある。
歴史
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、上洛時の宿所として二条城の築城を決め、慶長7年(1602)に、御殿・天守の造営に着工、翌年3月に落成する。ただし天守のみ遅れて慶長11年(1606)に完成。家康は、慶長8年(1603)2月に伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月に竣工間もない二条城に入城した。元和2年(1616)に家康が没した後、元和5年(1619)から2代将軍秀忠は、娘和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。このときの縄張は、秀忠自らが藤堂高虎と共に行った。翌元和6年(1620)6月18日、和子は、二条城から行列を作り京都御所?へ入った。家光が3代将軍となった寛永元年(1624)から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるための大改築が始まった。作事奉行には小堀遠州、五味豊直が任じられる。行幸は、寛永3年(1626)9月6日から5日間に渡っておこなわれ、その間、舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。その後、暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750)には落雷により天守が炎上、焼失。さらに、京の町を焼き払った天明8年(1788)の大火の際には、飛び火が原因で、本丸御殿、隅櫓などが焼失した。文久2年(1862)から家光より229年ぶりとなった14代将軍家茂の上洛を迎えるため、荒れ果てていた二条城の改修が行われた。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。慶応3年(1867)10月、将軍徳川慶喜が諸大名を集め、大政奉還を発表した。大正4年(1915)には、大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い、南門や二の丸御殿の附属建物が増築された。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、上洛時の宿所として二条城の築城を決め、慶長7年(1602)に、御殿・天守の造営に着工、翌年3月に落成する。ただし天守のみ遅れて慶長11年(1606)に完成。家康は、慶長8年(1603)2月に伏見城において征夷大将軍補任の宣旨を受け、3月に竣工間もない二条城に入城した。元和2年(1616)に家康が没した後、元和5年(1619)から2代将軍秀忠は、娘和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城の改修を行う。このときの縄張は、秀忠自らが藤堂高虎と共に行った。翌元和6年(1620)6月18日、和子は、二条城から行列を作り京都御所?へ入った。家光が3代将軍となった寛永元年(1624)から、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるための大改築が始まった。作事奉行には小堀遠州、五味豊直が任じられる。行幸は、寛永3年(1626)9月6日から5日間に渡っておこなわれ、その間、舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会が催された。その後、暴風雨や地震、落雷で徐々に建物は破損し、老朽化する。寛延3年(1750)には落雷により天守が炎上、焼失。さらに、京の町を焼き払った天明8年(1788)の大火の際には、飛び火が原因で、本丸御殿、隅櫓などが焼失した。文久2年(1862)から家光より229年ぶりとなった14代将軍家茂の上洛を迎えるため、荒れ果てていた二条城の改修が行われた。二の丸御殿は全面的に修復し、本丸には仮御殿が建てられた。慶応3年(1867)10月、将軍徳川慶喜が諸大名を集め、大政奉還を発表した。大正4年(1915)には、大正天皇即位の儀式である大典の饗宴場として二条城二の丸が使用され、それに伴い、南門や二の丸御殿の附属建物が増築された。
建造物
二条城は、かつて平安京?の大内裏であった場所の南東端と、その南にあった禁園である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500m、南北約400m、ほぼ長方形だが、厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が、徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分のみであった。また二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して、約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた磁石を普請の際に用いたためである。
二条城は、かつて平安京?の大内裏であった場所の南東端と、その南にあった禁園である「神泉苑」跡とにまたがる地にある。東西約500m、南北約400m、ほぼ長方形だが、厳密には東側から見て凸型となっている。南北の幅が狭くなっている西側部分が、徳川家光の時代に行われた寛永の大改修によって拡張された部分で、家康による創建時は現在の東側半分のみであった。また二条城の敷地は、現在の京都市街にもほぼ受け継がれている平安京の町割りに対して、約3度の傾きがある。これは、宣教師によって日本にもたらされた磁石を普請の際に用いたためである。
本丸御殿
京都御所?の北にあった旧桂宮邸を明治26年(1893)から翌年にかけて移築したもの。明治29年(1896)には御殿の南側に芝生と植樹を中心とした洋風庭園が作られた。通常は非公開で、春と秋に期間限定で公開されている。
二の丸御殿
二の丸の中心的建造物で、内部には手前から順に「遠侍(とおざむらい)」、「式台」、「大広間」、「蘇鉄の間」、「黒書院」、「白書院」と呼ばれる6つの建物が雁行に並ぶ。部屋数は33、畳は800畳あまりが敷かれている。二の丸御殿の全室に描かれた障壁画は3,000面以上。白書院を除いて、すべて金箔と濃い彩色を用いた華麗な金碧画である。これらは後水尾天皇の行幸に先駆け、弱冠25歳の狩野探幽率いる狩野派一門によって描かれた。現在、劣化の激しい障壁画を保存するため、模写と嵌め替え作業が進められている。
遠侍は一の間~三の間・若松の間・勅使の間などに分かれていて、城へ参上した大名の控えの間として使われた。
式台は参上した大名が老中職とあいさつを交わした場所で、「式台の間」とその奥の老中の執務室「老中の間」に分かれている。
大広間は一の間~四の間、帳台の間に分かれる。一の間は広さ48畳、二の間は44畳で将軍が諸大名と対面するときに使われた部屋。徳川慶喜による大政奉還はここで行われた。
黒書院は将軍と親藩・譜代大名との対面場所。大広間と同様に金碧画で囲まれているが、モチーフが主に四季の花でくつろいだ雰囲気がある。狩野探幽の弟、尚信の筆による。
白書院は将軍の居間・寝室だったところで、内部の装飾も大広間や黒書院とは趣向が異なる。絵画は狩野興以または長信の作と伝わり、落ち着いた雰囲気の水墨山水画となっている。
遠侍の北側、白書院の東側には、「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物があるが、普段は公開されていない。平成15年(2003)には築城400年記念コンサートが台所で行われた。
遠侍は一の間~三の間・若松の間・勅使の間などに分かれていて、城へ参上した大名の控えの間として使われた。
式台は参上した大名が老中職とあいさつを交わした場所で、「式台の間」とその奥の老中の執務室「老中の間」に分かれている。
大広間は一の間~四の間、帳台の間に分かれる。一の間は広さ48畳、二の間は44畳で将軍が諸大名と対面するときに使われた部屋。徳川慶喜による大政奉還はここで行われた。
黒書院は将軍と親藩・譜代大名との対面場所。大広間と同様に金碧画で囲まれているが、モチーフが主に四季の花でくつろいだ雰囲気がある。狩野探幽の弟、尚信の筆による。
白書院は将軍の居間・寝室だったところで、内部の装飾も大広間や黒書院とは趣向が異なる。絵画は狩野興以または長信の作と伝わり、落ち着いた雰囲気の水墨山水画となっている。
遠侍の北側、白書院の東側には、「台所」と配膳をするための「御清所」と呼ばれる建物があるが、普段は公開されていない。平成15年(2003)には築城400年記念コンサートが台所で行われた。
二の丸庭園
池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した池泉回遊式庭園で、二の丸御殿大広間(東側)と二の丸御殿黒書院(北側)、池の南側に建てられた行幸御殿(現存せず)の3方向から鑑賞できるように設計されている。二条城が造営されたときに小堀遠州らによって作庭されたものを、御水尾天皇行幸の際に一部改修を加えられたと伝わる。別名「八陣の庭」。国の特別名勝に指定されている。
唐門
寛永元年~3年(1624~1626)ごろに建てられた二の丸御殿の正門。正面と背面に唐破風を持つ四脚門で、極彩色の彫刻や、金箔押しの飾り金具で装飾されている。
東大手門
二条城の創建時に建てられた櫓門で、現在は入城門となっている。本瓦葺で屋根には鯱を飾る。二条城には出入り口としての城門が東西南北にひとつずつあるが、南門と西門は外堀を渡る橋が撤去されており使用されていない。北大手門も普段は閉鎖されている。
天守
創建時の天守は、『洛中洛外図屏風』に城の北西部分(現在の清流園の辺り)に五重の天守として描かれている。家光の代に行われた寛永の大改修において、この天守は淀城に移築。これに代わり、新たに作られた本丸の南西隅には、前年に廃城となった伏見城の天守が移築された。寛延3年(1750)に焼失して以来、再建されなかった。現在は、天守台のみが残る。
清流園
二の丸の北大手門付近に、昭和40年(1965)に作られた和洋折衷庭園。河原町二条にあった角倉了以の旧屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、全国から集めた銘石などを用いて作られた。当時の京都市長高山義三によって「清流園」と命名される。東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は二棟の建物を含めた池泉回遊式?の和風庭園。七代目小川治兵衛?(植治)による作庭で、 園内には角倉了以邸から移築された茶室「香雲亭」や、秀吉が聚楽第に築いた茶室を模して造られた「和楽庵」がある。
文化財
国宝
二の丸御殿
重要文化財(建造物)
本丸御殿 本丸櫓門 唐門 東大手門 北大手門 西門 東南隅櫓 二の丸御殿築地 台所 御清所ほか多数
重要文化財(美術工芸品)
二の丸御殿障壁画(全954点)
特別名勝
二条城二の丸庭園
史跡
二条城(旧二条離宮)
拝観情報
住所 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
電話番号 075-841-0096
拝観時間 8:45~16:00(閉城17:00)、12/26~1/4と1・7・8・12月の毎週火曜日(休日の場合その翌日)は定休日
入城料 600円
アクセス 市バス「二条城前」下車すぐ
駐車場 駐車場あり(2時間600円)
住所 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
電話番号 075-841-0096
拝観時間 8:45~16:00(閉城17:00)、12/26~1/4と1・7・8・12月の毎週火曜日(休日の場合その翌日)は定休日
入城料 600円
アクセス 市バス「二条城前」下車すぐ
駐車場 駐車場あり(2時間600円)
主な行事
その他
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「慶応3年(1867)、徳川慶喜は( )で大政奉還を行った。」
「二条城二の丸御殿に残る絢爛豪華な障壁画は何派の作品か。」
「慶応3年(1867)、徳川慶喜は( )で大政奉還を行った。」
「二条城二の丸御殿に残る絢爛豪華な障壁画は何派の作品か。」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「二条城は将軍上洛の際の居館として築かれたが、徳川家光の次に、久方ぶりに上洛した将軍はだれか。」
「二条城は将軍上洛の際の居館として築かれたが、徳川家光の次に、久方ぶりに上洛した将軍はだれか。」