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金戒光明寺
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金戒光明寺
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概略
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町にある黒谷浄土宗?の寺院。山号は紫雲山、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?。知恩院・清浄華院?・百万遍知恩寺?とともに浄土宗?大本山のひとつとして高い格式を誇り、「黒谷(くろだに)さん」の俗称でも知られる。幕末には会津藩主松平容保が京都守護職の本陣を置いて家臣と共に駐屯した。
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町にある黒谷浄土宗?の寺院。山号は紫雲山、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?。知恩院・清浄華院?・百万遍知恩寺?とともに浄土宗?大本山のひとつとして高い格式を誇り、「黒谷(くろだに)さん」の俗称でも知られる。幕末には会津藩主松平容保が京都守護職の本陣を置いて家臣と共に駐屯した。
歴史
寺伝によれば、承安5年(1175)に法然?が比叡山の黒谷を下り、草庵を結んだのがこの寺の始まりであるとされる。草庵の地はもと延暦寺の寺領であり、この地にあった白河禅房を法然?が師より譲りうけて念仏道場とした。なお比叡山の黒谷(元黒谷)に対して新黒谷と呼ばれたが、現在は新黒谷は使われず単に黒谷と呼ばれる。寺号の紫雲山は、法然?がこの地に紫雲光明の発するのを見たことに由来するとされる。法然?の没後、弘安9年(1286)頃には仏殿や御影堂などの伽藍が整備されていたようで、8世運空の時、後光厳天皇に円頓戒を授けて金戒の2字を賜り、金戒光明寺と称するようになった。その後、応仁元年(1467)の東岩倉の合戦によって付近は焼け野原となり、南禅寺などの寺院とともに焼失、一時荒廃する。永正年間(1504~1521)に17世理聖が堂宇の再興勧進を行い、寺観は徐々に復興。慶長10年(1605)に豊臣秀頼が方広寺?大仏殿建立の際の余材で阿弥陀堂を再建し(一説には慶長17年とも)、慶長18年(1613)には前年に焼失した御影堂も再建する。安永5年(1776)には御影堂・大方丈などの堂舎・庫裏・僧坊が焼失したが、寛政年間(1789~1801)に再興され、万延元年(1860)には山門が落成している。文久2年(1862)より京都守護職の本陣となり、会津藩主松平容保の宿舎となった。翌年には浪士組として入洛した近藤勇らが容保に拝謁、新選組が結成されることとなる。このころ中間(武家奉公人)として出入りしていた侠客が「会津の小鉄」と呼ばれた上坂仙吉で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の死体を荼毘に付し、境内の会津藩殉難者墓地に葬ったという。
寺伝によれば、承安5年(1175)に法然?が比叡山の黒谷を下り、草庵を結んだのがこの寺の始まりであるとされる。草庵の地はもと延暦寺の寺領であり、この地にあった白河禅房を法然?が師より譲りうけて念仏道場とした。なお比叡山の黒谷(元黒谷)に対して新黒谷と呼ばれたが、現在は新黒谷は使われず単に黒谷と呼ばれる。寺号の紫雲山は、法然?がこの地に紫雲光明の発するのを見たことに由来するとされる。法然?の没後、弘安9年(1286)頃には仏殿や御影堂などの伽藍が整備されていたようで、8世運空の時、後光厳天皇に円頓戒を授けて金戒の2字を賜り、金戒光明寺と称するようになった。その後、応仁元年(1467)の東岩倉の合戦によって付近は焼け野原となり、南禅寺などの寺院とともに焼失、一時荒廃する。永正年間(1504~1521)に17世理聖が堂宇の再興勧進を行い、寺観は徐々に復興。慶長10年(1605)に豊臣秀頼が方広寺?大仏殿建立の際の余材で阿弥陀堂を再建し(一説には慶長17年とも)、慶長18年(1613)には前年に焼失した御影堂も再建する。安永5年(1776)には御影堂・大方丈などの堂舎・庫裏・僧坊が焼失したが、寛政年間(1789~1801)に再興され、万延元年(1860)には山門が落成している。文久2年(1862)より京都守護職の本陣となり、会津藩主松平容保の宿舎となった。翌年には浪士組として入洛した近藤勇らが容保に拝謁、新選組が結成されることとなる。このころ中間(武家奉公人)として出入りしていた侠客が「会津の小鉄」と呼ばれた上坂仙吉で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の死体を荼毘に付し、境内の会津藩殉難者墓地に葬ったという。
伽藍
徳川家康の庇護のもと、浄土宗?発祥の地として発展。山門や御影堂付近は時代劇の撮影によく使われている。境内の東側は小高い丘になっており、洛中の眺望が良い。頂上には三重塔(文殊塔)が建ち、周辺は墓地となっている。
徳川家康の庇護のもと、浄土宗?発祥の地として発展。山門や御影堂付近は時代劇の撮影によく使われている。境内の東側は小高い丘になっており、洛中の眺望が良い。頂上には三重塔(文殊塔)が建ち、周辺は墓地となっている。
山門
入母屋造、本瓦葺の二重門で、万延元年(1860)の再建。桁行14.7m、梁間8.4mの大きさを誇り、京都浄土宗?では知恩院三門につぐ規模をもつ。正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある。楼上内部には釈迦三尊像や十六羅漢像を安置し、天井には蟠龍が描かれている。
御影堂(大殿)
正面7間、側面67間の威風堂々たる建築で、入母屋造、本瓦葺。昭和19年(1944)の再建。堂内には法然?75歳時の御影(坐像)のほか、「吉備観音」と呼ばれる藤原時代の木造[[千手観音?
]]像を安置する。御影堂の東側にある松は「鎧かけの松」と呼ばれ、一ノ谷の合戦で平氏方の若武者平敦盛を討ち取った熊谷直実が、法然?の弟子となってこの寺で出家した際に脱いだ鎧を掛けたという伝承がある。
]]像を安置する。御影堂の東側にある松は「鎧かけの松」と呼ばれ、一ノ谷の合戦で平氏方の若武者平敦盛を討ち取った熊谷直実が、法然?の弟子となってこの寺で出家した際に脱いだ鎧を掛けたという伝承がある。
阿弥陀堂
慶長10年(1605)に豊臣秀頼によって再建されたとされる寺内最古の建物。本尊の阿弥陀如来像は恵心僧都作の伝承を持ち、胎内に彫刻道具が収められていたことから「ノミ納め如来」とも呼ばれる。堂内は通常非公開。
三重塔(文殊塔)
境内の東側の石段を登りきったところにある本瓦葺の塔。寛永10年(1633)に徳川秀忠の菩提を弔うために建立。本尊の文殊菩薩像は、もと岡崎の宝幢寺村にあったもので、塔建立に際して遷された日本三文殊のひとつ(現在は御影堂に安置されている)。脇侍とともに運慶作とされるが詳細は不明。
大方丈・紫雲の庭
昭和19年(1944)の再建。松平容保が寄宿した場所とされ、内部には謁見の間が再現されている。平成18年(2006)には、大方丈東側に面した庭園が新たに整備され、法然?の誕生から開宗までの足跡と、金戒光明寺の発展を表現した枯山水庭園が造られた。師匠の叡空や弟子の源智と信空、熊谷直実など縁の深い人物も表現されている。
惣門
切妻造、本瓦葺の高麗門で19世紀中頃の建築。境内の西の端にある。
主な塔頭
明治4年(1871)の上知令で、約21,000坪の寺地が没収されたものの、今なお広大な寺域と18もの塔頭寺院を抱える。
明治4年(1871)の上知令で、約21,000坪の寺地が没収されたものの、今なお広大な寺域と18もの塔頭寺院を抱える。
西翁院
天正4年(1576)に、藤村源兵衛が光誉清玄を開山として創建した。本堂は桃山期以前の建物を天正12年(1573)に移築したと伝わる。本堂の西北隅に位置するのが「淀看(澱看)の茶席」とも呼ばれる茶室「反古庵」で、江戸前期の茶人で源兵衛の孫の藤村庸軒によって建立された。茶室南面に作られた窓より遠く淀川が眺められたことから淀看の名が付いたという。三畳向切、室床、客座との間に道安囲を設けている。通常非公開。
栄摂院
御影堂の西北に位置し、天正17年(1589)に木俣守勝が松誉琴察を開山として建立した。本堂は入母屋造、桟瓦葺で建立は建築様式から17世紀中頃と考えられているが、杉戸は円山応挙筆という寺伝があることから、時代が下る可能性がある。通常非公開。
長安院
鐘楼の西北に位置する塔頭で、天正18年(1590)に道残が創建した。本堂は入母屋造、桟瓦葺で、建築様式から寛永年間(1624~1643)のものと考えられている。表門は切妻造、本瓦葺の薬医門。軸部に朱などで彩色されており、本堂と同時代の建立と思われる。通常非公開。
永運院
御影堂の西側にある塔頭。もともとは山門付近にあったが、幕末の山門建立に伴って現在地に移り、同じく立ち退いた浄専院と合併して現在の永運院が成立した。堂宇は、もとは妙蓮院のもので江戸時代初期の建築。浄土宗?寺院の古い様式を本堂(方丈)や玄関、表門に残す。通常非公開。
西雲院
法然?上人が腰かけて念仏を唱えたという紫雲石を護るため、宗厳を開山として創建されたと伝えられている。会津藩士たちの墓地があることでも有名。牡丹や蓮、紅葉が美しい花の寺でもある。通常非公開。
蓮池院
山門の東側に建つ。熊谷直実の住坊跡と伝わり、熊谷堂とも呼ばれる。通常非公開。
文化財
国宝
なし
重要文化財(建造物)
三重塔 西翁院茶室
重要文化財(美術工芸品)
拝観情報
住所 京都市左京区黒谷町121
電話番号 075-771-2204
拝観時間 9:00~16:00
拝観料 境内自由
アクセス 市バス「岡崎道」下車徒歩8分
駐車場 駐車場あり(800円)
住所 京都市左京区黒谷町121
電話番号 075-771-2204
拝観時間 9:00~16:00
拝観料 境内自由
アクセス 市バス「岡崎道」下車徒歩8分
駐車場 駐車場あり(800円)
主な行事
その他
京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「京都守護職であった松平容保率いる会津藩は( )を本陣とした。」
「京都守護職であった松平容保率いる会津藩は( )を本陣とした。」