京都観光データベース@ wiki内検索 / 「雪舟」で検索した結果
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雪舟
雪舟 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 雪舟(せっしゅう)は室町時代に活躍した水墨画家・禅僧で、画聖ともたたえられる。諱(いみな)は等楊、若くは拙宗(せっしゅう)を称した。後世に大きな影響を及ぼした画家のひとり。応永27年~文亀2年/永正3年(1420~1502/1506) 人物史 備中(現岡山県)生まれ。生家は小田氏という武家であるとされる。幼い頃近くの宝福寺に入り、10歳頃に相国寺に移り、春林周藤に師事。禅の修行をする傍ら、足利将軍家の御用絵師であった周文に師事して画を学んだ。享徳3年(1454)ごろ周防国に移り、守護大名大内氏の庇護を受けて画室雲谷庵を構える。寛正6年(1465)ごろ、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、龍崗真圭に字説を請う。以後、雪舟を名乗ったものと思われる。これ以前は拙宗等楊と名... -
せ
...名・園池 人物 雪舟(せっしゅう) 千家?(せんけ) 仏像 千手観音(せんじゅかんのん) 語句 石庭(せきてい)→枯山水庭園(かれさんすいていえん) -
長谷川等伯
...野派に対抗し、自ら「雪舟五代」を名乗り、一代で長谷川派という地位を築き上げた。天文8年~慶長15年(1539~1610) 人物史 能登国(現石川県)七尾生まれ。能登国の戦国大名畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として生まれ、幼い頃に染物業を営む奥村文次という人物を通して、同じく染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられたという。現存する作品では26歳筆の落款があるものが最も古く、これらには「信春」印が捺されており、若年期には信春(長谷川信春)の名で活躍していたと考えられている。特に奥村家の菩提寺である本延寺など日蓮宗寺院に多くの作品が残るが、等伯自身が熱心な法華信者だったためという。33歳で養父母を相次いで亡くし、それを機に妻子を連れて上洛したのではないかと思われ、上洛後は本延寺の本山である本法寺?の塔頭教行院に住し、制作活動を行う。本法寺?には当時の住職日堯上人の肖像画が現... -
吉山明兆
...ており、如拙、周文、雪舟らとともに日本の水墨画の成立と発展を担った。正平7年/文和元年~永享3年(1352~1431) 人物史 淡路国(現兵庫県)生まれ。幼少時に淡路安国寺の僧、大道一以(だいどういちい)の弟子となり、一以が東福寺28世となったのに従い東福寺に入る。下位の僧にもかかわらず、画才が認められて専門の画僧となった。東福寺の殿司(建物の管理をする役職)を終生務めたため、兆殿司とも呼ばれる。水墨画は宋時代以降、中国の文化人や禅僧の間でもてはやされ、鎌倉中期の禅宗の移入に伴って中国の水墨画が渡来し、禅僧の修行の一環として描かれるようになった。梅、竹、道釈人物など簡単なモチーフが多く技法も拙稚だったが、次第に本格的な山水や花鳥が描かれるようになり、模倣から日本独自の水墨画が生まれた。題材と技法が成熟するにつれ、水墨画は禅僧の余技にとどまらず、専門の画僧が現れるようになった... -
東福寺
...。 芬陀院(雪舟寺) 「茶関白」とも呼ばれた一条経通?が、父の菩提を弔うために定山祖禅を開山に元亨年間(1321~1324)ごろ創建した一条家?の菩提寺。18世紀に焼失し、現在の建物は桃園天皇女御恭礼門院の旧殿を移築し、明治32年(1899)に改築したもの。書院前庭は優美な苔庭で雪舟作と伝わる。書院の背後にある茶室、図南亭(となんてい)は一条昭良(恵観)?好みといわれる躙口のないもので、昭和44年(1969)に復元された。扁額は石川丈山?の筆。東庭は重森三玲?が作庭した。 霊雲院 東福寺第80世住持となった岐陽方秀が山内に営んだ隠居所「不二庵」を後に改名したもの。書院前庭は「九山八海の庭(霊の庭)」という枯山水庭園で、重森三玲?の修復。中央には熊本藩主細川忠利・光尚父子から寄進された名石「細川候遺愛石」が配されている。書院西側には赤い鞍馬砂の雲紋がモダンな「臥雲の... -
狩野派
...信の高弟として牧溪や雪舟らの水墨画の古典的画法を研究し、人物や山水、草花等をよくした。紀州徳川家に仕え、探幽、尚信、安信の後見として、江戸狩野の成立と様式に影響を与えた功績を以て、狩野姓を名乗ることを許された。 二条城白書院障壁画 二条城所蔵 重要文化財 狩野内膳(かのうないぜん) 元亀元年~元和2年(1570~1616) 戦国武将、荒木村重の家臣の家に生まれたが、のちに松栄に入門。狩野姓を名乗ることを許された。名は重郷(しげさと)。豊臣秀吉・秀頼の御用絵師として活躍したが、同家が滅亡した翌年、後を追うように死去。 豊国祭礼図屏風 豊国神社所蔵 重要文化財 狩野探幽(かのうたんゆう) 慶長7年~延宝2年(1602~1674) 孝信の長男で名は守信(もりのぶ)。祖父永徳の再来と言われた巨匠。江戸狩野の確立者とされる。後に僧籍に入り探幽と称した。政権の... -
相国寺
...でもあり、画僧周文や雪舟を輩出した。また、境内には13の塔頭寺院があり、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は相国寺の境外塔頭である。 歴史 室町幕府3代将軍足利義満は、いわゆる「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを永徳2年(1382)に発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392)であった。寺名の相国は「国を相(たす)ける人」から来ており、中国では宰相、日本では太政大臣の意味になり、太政大臣にまで登りつめた義満によって建てられたことが所以という。義満は禅の師であった天龍寺の春屋妙葩に開山となることを要請したが、春屋はこれを固辞。師である夢窓疎石を開山とし、自らは第二世住職になる、という条件でようやく引き受けた。義満が伽藍建立を発願する30年以上前に死去している夢窓疎石が開山とされているのは、このような事情による。春屋妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(13... - @wiki全体から「雪舟」で調べる