(投稿者:神父)
われ鉱物に死して、植物として生ぜり
われ植物に死して、動物として起れり
われ動物に死して、人間として立てり
何故にわれ恐るべきや、死して劣る時ありや
されど今一度われ人間として死なん
祝福され、天使と共に高く舞い上がるため
かくてわが天使の魂を贄に捧げる時
いかなる心にも思い描けぬものにならん
───ワラド・シャムス=ディーン・アナドーリー、十二世紀バイザントの神秘主義詩人
「ほうれ、そろそろ起きんさい。……アタシが機嫌よく起こしてやってる間にね」
「ん」
肩をさりげなく叩く感触に意識を引き戻され、褐色肌のMAIDは突っ伏したカウンターから身を起こした。
眼前には氷の融けたグラスが一つ、そして横を見ると肩を叩いた老婆の他、数人の姿がある。
「
ババヤガー、どうした。酒場で潰れた奴は財布を抜いて路地へ放り出した方がいいんじゃないか」
「
レイチェル、アンタねえ、あんまり捻くれてばかりだと友達なくすよ」
「元よりいない」
「アタシゃそこが捻くれてるって言ってるんだよ、まったくこの子はねえ。……ほれ、
ケイト、何か伝言があるんだろう?」
老婆……ババヤガーが背後に向かって手招きをすると、落ち着かない様子で足を踏み替えていた少女がおずおずと前に出た。
ブルジョア階級のハイスクール制服のような格好に、恐ろしく不釣合いで不吉な大鎌を携えている。
「は、はい、あの、レイチェルさん、その、命令書が、来てしまって……」
「命令書?」
寝起きの気だるさが顔を正対させる事すら面倒だと主張し、レイチェルは横目だけでケイトを見た。その途端、ケイトがびくりと身を引いた。
睨みつけられたと勘違いしたのだろう。が、レイチェルはそんな些細な事は気にも留めなかった。
「そ……そうです、はい」
「内容は」
「えと、それが、あの……」
「現物があれば出してくれ。口頭より早い」
「あ、す、すみません!」
ケイトが大慌てでポケットを叩き、わずかに折れ目のついた命令書を不安げに取り出す。
レイチェルが無造作に手を突き出すと、ケイトはそろりと命令書を手渡し、まるで熱いものにでも触れたかのように手を引っ込めた。
折れ目も直さず粗雑に開き、ざっと斜め読みしつつページを繰っていく。
一通り目を通すと、レイチェルは命令書を半分に折ってケイトへ放った。
「ひゃ!」
「把握した。今すぐ行けという事か?」
「はあ……多分、そういう事になると思います、けど」
「多分?」
「いっ、いえっ! す、すぐに行くようにという事だと思います!」
何故か直立不動の姿勢で答えるケイトを見て、レイチェルはわずかに怪訝そうな顔をした。
もっとも表情に乏しいおかげで、その事に気付いたのはババヤガーくらいのものだったが。
「この子らは本当に噛み合いが悪いんだからねえ。……
コシチェイ、アンタはニタニタすんのをやめな」
「うひっ!」
後ろでは先ほどから骸骨じみた男が涎を垂らさんばかりの笑みを浮かべていたが、ババヤガーの一言でもごもごと口を噛み合わせて表情を繕った。
他にも注意する機会のあった者は何人かいたが、いずれも彼を遠巻きにするばかりで、直接声をかける気にはなれなかったらしい。
「ともかく、行くか」
すっかり薄まったウイスキーをあおり、顔をしかめてからマスターに合図する。
このバーはイェルマイトに複数存在する黒旗の小規模拠点のひとつだ。現金のやり取りは不要だが、何をどれだけ飲食したか記録する必要がある。
二言三言で手続きを済ませると、レイチェルはトレンチコートを引っ掛けて立ち上がり───ふと見下ろしたカウンターに何かを見つけた。
「?」
一塊の傷……と思いきや、木の表面に刻み付けられたある種の文章らしい。
興味を引かれ、レイチェルは目をすがめた。それは一連の詩文だった。
怒り、望み、自惚れを捨て
飢えと激情から解き放たれ
安堵の溜息を漏らして祈りを捧げる
日々の暮らしを終わらせてくれる事を
死者が決して蘇る事なく
泡で濁った激流が、永遠の海の淵に
いつの日か必ず流れ込む事を
秘かに感謝して
「死者が決して蘇る事なく」……恐らく、この詩はG出現以前、このMAID時代より先に刻まれたものなのだろう。
皮肉なものだとレイチェルは
心の内で呟いた。この詩の主は今頃どうしているのだろうか。
「……あの、レイチェルさん?」
「ん」
「どうしたんですか、立ったまま……」
「ああ」
彼女は目をしばたき、周囲をぐるりと見回した。自分で思っていた以上に長時間突っ立っていたらしい。
「気にするな。何でもない」
「ええと、そうですか……そ、それじゃあ、あの、行きますか?」
「ああ」
無意識のうちにショルダーホルスターへ手をやって銃と弾薬の所在を確かめると、レイチェルはそれ以上の挨拶もなしにバーの扉をくぐった。
ケイトも慌ててその後を追ったが、彼女は扉の前で一旦振り返り、会釈をしてから出て行った。
またコシチェイはにやついているのだろう───とババヤガーが振り向くと、彼は案に相違して不安げな表情をしていた。
もっとも、このMALEの表情を読み取るのはレイチェル以上に至難であり、人によっては基本的な喜怒哀楽すら読み違える。
「おや、アンタらしくもないねえ、コシチェイ。何が不安さね」
「……変な感じがするんだよネ。なんでMons'のケイトちゃんとPins'のレイチェルが一緒の作戦に行くんだか」
「ううん? 確かにそうだねえ……アンタ、ケイトの事となると本当に変なとこまで気がつくねえ」
「そりゃそうだヨ。ボクも行きたかったんだけど、命令がネ……」
襲撃任務なんてどうでもいい、などと呟きつつ嘆息する。しかしコシチェイの場合、溜息と言うよりは食い縛った歯の隙間から唸っているように聞こえる。
周囲の人々がじりじりと後ずさる中、ババヤガーは彼のこめかみを小突いて注意した。
「溜息なんかついたって何にもなりゃしないよ。もっとも、アンタに他にできる事があるとしたら、待つくらいのもんだけどねえ。
いいかい、アタシらはとんでもなくちっぽけな存在でね、運命って奴はそれはそれは馬鹿でかい代物なのさ」
コシチェイは納得できないと言わんばかりに首を振ったが、それ以上反論はしなかった。
次の出撃ではさぞかし荒れる事だろう。
最終更新:2009年11月21日 21:21