(投稿者:ししゃも)
冷たい風が、肌を貫く。
アサガワは数年ぶりの故郷を見ながら、白い息を吐いていた。眼前に広がる光景は、何も変わっておらず、時が止まっているかのように思えた。アサガワたちを乗せた船は補給を済ませ、汽笛を鳴らしながら船着場から離れる。
人気が少ない船着場。漁の時期は終わっており、閑散としていた。
アサガワはその場所で、ただ独りでに立ち尽くしていた。
パラドックスと
ジョーヌは、ただ見ることしかできなかった。実家と絶縁したアサガワが、自ら帰郷を望んだ今回の旅。何か感慨に耽っているのかと、ジョーヌは思ってしまう。
パラドックスはリュックサックを、舗装がされていない地面に置きながら、ずっと空を眺めていた。
「アサガワ教官、ずっとあの調子ですわ」
ジョーヌは首の骨を鳴らしながら、欠伸をすると話を振られたパラドックスは「変ですね。本当なら、私たちを急かすように物事を進めるのに」と、棒読みで応える。如何にも「お喋りする余裕はないです」といった感じだった。
「せっかく、ここまで着いたのにですよ。貴女も教官も、どうかしてますわ」
さすがのジョーヌも彼女の対応に癪が触ったのか、顔こそ笑えど口調は怒りを隠しきれない様子だった。ぼんやりと、灰色に染まった空を眺めるパラドックスの頬を、ジョーヌは人差し指で突き始めた。
「落ち着きが無い人ですね」
眉をひそめながら、頬に伝わる指の感触にパラドックスは口をへの字に曲げた。
そのときだった。アサガワの背中越しに、一人の女性がこちらに向けて歩いている。
楼蘭皇国独特の和服を着こなした、妙齢の女性だった。その顔つきは年を食ったような面影だったが、老いを感じさせない、不思議な雰囲気を発している。
その女性はアサガワの目の前で立ち止まると、アサガワは軽くお辞儀をした。
「お久しぶりです、母上」
アサガワの一言は、ジョーヌとパラドックスの耳に届いていた。そして、二人は声の大きさは違うものの、驚きを隠しきれない声を上げる。「アサガワの母親」はこちらに気がついたのか、パラドックスたちに向けて軽い会釈をしたのだった。
「何も変わってない」
生まれ育った町並みを、アサガワは歩きながら見ていた。その隣を、母親が付き添うように歩いている。彼女から少し離れたところを、パラドックスとジョーヌが後を追っていた。アサガワの母――留美子と、パラドックスに名乗った。アサガワと留美子の会話は小声で行われており、その声を聞き取ることはできなかった。
「時間はゆっくりと過ぎ、物事は着実に変わっている。こうして真美が戻ってきたようにね」
実家へと続く道を歩きながら、留美子はアサガワに語りかける。
「あなたが戻ってきたのは分かっている」
横目に後ろで歩くMAID二人に悟られないように、小さく透き通った声で留美子は娘について話し出した。千早についてパラドックスが知っている以上、彼女について迂闊なことは口にしたくない。アサガワは「二人のうち一人は、千早について知っています」と一言断ると、そのまま二人は黙ったままだった。
そうこうしているうちに四人は町から離れ、山の麓まで行ったところに大きな屋敷がパラドックスとジョーヌを迎えた。緑の竹薮に囲まれ、雀のさえずりが聞こえる自然に囲まれた屋敷。近代化が進む
エントリヒ帝国では決して見られない情景に、二人は足を止めて見入ってしまった。
「どうした、ジョーヌ。早く羽休めしたいんじゃなかったのか」
屋敷の門を潜ろうとしているアサガワは後ろを振り返ると、唖然としているジョーヌに声をかける。それに我を返った二人は、早足で門を潜ろうとしたのだった。
「それにしても、落ち着きますわね」
屋敷の客室に案内されたパラドックスとジョーヌは、慣れない畳の匂いと感触に戸惑いながら、自然の空気を存分に味わっていた。屋敷に着いてから早三十分。アサガワは留美子と話があるといい、どこかへ出かけてしまった。アサガワはその際に「夕飯までには帰ってくる」と言った。
二人は夕飯まで何をしようか話し合ったが、アサガワの屋敷で何をしたら分からなかった。ジョーヌが疲れてしまったのかうたた寝をすると、パラドックスも釣られてしまい、二人は肩を並べて寝てしまったのだった。
アサガワと留美子は竹薮の隙間に造られた、石畳の道を歩いていた。冷たい風が吹くたびに、竹が揺られる音が合唱を奏でる。アサガワは千早が生きていること。そして、彼女が
軍事正常化委員会の傭兵として活動していたことを留美子に告げた。
「千早が、生きていたのね」
留美子はあっけからんとしていた。MAIDになったとは言え、実の娘が生きていることに感動を表さず、さらに間違った道に踏み外していることすら咎めなかった。アサガワは、母が何を考えているのかよく分からない。だがそれは無責任な考え方ではなく、何かを見通しての表情ぐらいしか分からなかった。
「千早は元気そうにしていたのかしら」
「私は入院したので分かりませんが。パラドックス――長髪のMAIDが言うには、元気そうに刀を振り回していたと」
「あははっはははは。千早、昔は病弱でよく真美に泣きついていたのに逞しくなって」
山びこのように反復して聞こえてしまいそうに、留美子は豪快に笑った。アサガワはMAIDになってしまった千早を笑うことはできず、仏頂面で前を向いていた。
「千早がMAIDになってしまったのを知るのは、私と真美だけか」
石畳の道の終着地点は、朝川家の先祖が眠る墓だった。風化しかけの墓石から、最近新しく建てたれたものが横一列に並んでおり、アサガワと留美子はまず、一番古びた墓石へ足を運んだ。そこから順にアサガワと留美子は手を合わせていった。
最後に残った墓石の前で、留美子はそっと白い肌をした手で触れた。「朝川名代」と墓石には彫られており、それはアサガワの父の名前だった。
「千早は生きていましたよ」
屍となった夫に、留美子は千早が生きていたことを告げた。アサガワは、名代の顔をあまり覚えていなかった。アサガワが生まれたとき、名代は楼蘭皇国陸軍中佐で、当時はあまり家に帰らなかった。しかしアサガワが十歳になったとき、
グレートウォール戦線で戦死した。実質、アサガワは名代という父の顔を見たことが無く、せいぜい写真ぐらいだった。どんな声をしていたのか。どんな性格をしていたのか。それは留美子を通じて話を効くしかなかった。
留美子の話を聞くことで、アサガワは軍人を志した。留美子に反対されるかと思いきや、彼女は「自分の行きたい道を進むといい」と言った。千早を追いかけ、エントリヒ帝国に行くときもそうだった。無愛想で無責任な母に苛立つアサガワは、実家との縁を切った。
若気の至り、とアサガワはつくづく思う。
「真美。私に話したいことは、もう一つあるんじゃない」
帰り道の途中、留美子は話を切り出した。アサガワは足を止めると、留美子もそれにならった。
「朝川家を継いで、あの刀を譲り受けたいのです」
突風が竹薮を揺さぶり、留美子の真っ黒に染まった長髪とアサガワの金髪が舞った。
朝川家に伝わる伝家の宝刀、「神速」。朝川家当主がその名を受け継ぐときに授かる刀。岩を容易く切り裂くことも、鬼や妖怪さえもこの刀から発せられる力によって、退散したと言われてきた。
近代科学が発展する中、千早の一件で
EARTHや楼蘭皇国のMAID技術部か来た際に、神速からエターナルコアの反応があった。朝川家の書物を漁っても、不思議なことに神速がどのように作られたのか、まったく記述されていない。アサガワにとって、胡散臭い神速が作り出した伝説が淡々と書き連ねていただけだった。
その後の調査で、神速にはMAIDのようにエターナルコアのエネルギーを連動して恩恵を授かる「MAID専用」ではなく、人間でもエタナールコアの力を行使できる刀だった。
つまり、神速さえあればMAIDと化した千早に太刀打ちできる。アサガワはそれを求めて、実家に帰ってきたのだった。
「何もかも捨てて、ここに戻ってきたのね」
留美子の問いかけに、神速を求めたアサガワは無言で頷く。しかし留美子は無表情のまま、独りでに歩き出した。
「無理だ」
冷たく、あしらうように留美子は言うと、アサガワは右手を握り締めた。
「なぜです、母上。私は、千早を救いたい一心で戻りました。それなのに、なぜ」
留美子は振り返らず、屋敷に向かって歩き出す。アサガワは冷酷な母の後姿を、ただ見ることしかできなかった。
「おいしいですわね」
陽が沈みかけた中、朝川家の実家でジョーヌは舌鼓を打っていた。細長いテーブルの中央に留美子。左側にパラドックスとジョーヌ。右側の、留美子に近いところにアサガワがそれぞれ行儀よく正座しながら、並べられた料理に箸をつけていた。
「そう言ってもらえると嬉しいです」
留美子が食べた料理を片付けに来た女中が、照れくさそうに笑う。ジョーヌはご機嫌なのか、普段の毒舌を吐かずに「やっぱ楼蘭料理ってこのヘルシーさがいいですわ」と言っていた。それを見て、留美子は静かに笑う。しかし、アサガワとパラドックスは決して笑わなかった。パラドックスはともかく、アサガワは黙々と料理を食べている。
「ごちそうさま」
アサガワはそう言うと、そそくさと居間から立ち去ろうと、障子を開けて姿を消した。ジョーヌとパラドックスは、実家なのに他人行儀な彼女の行動に疑問を抱いた。留美子は何も言わず、お猪口に入った日本酒を煽っていた。
夕食を終えたアサガワは、数年ぶりとなる自室で留美子に言われた言葉を何度も何度も繰り返す。やがて考えるのは無駄だと投げ捨てると、綺麗に掃除された部屋を見渡した。
子どものころから、ずっとこの部屋で千早と遊んでいたのを思い出した。姉妹が一緒に寝ていた部屋で、それぞれに机だとか専用のおもちゃ箱がまだ残っている。棚には日本人形やアサガワの子どものころの写真が飾られているが、千早に関するものは一つもなかった。まるで、「この部屋にはアサガワともう一人の女の子が居た」と言わんばかりに。
仕方がなかった。千早がMAIDとなった以上、その事実を世間やMAIDに知られてはいけない。真実を知る留美子は未だ、EARTHや楼蘭皇国の特務機関に監視されている。
真実を知れたからこそ、アサガワがマイスターシャーレに行けたのは紛れもない事実だった。
「真美」
襖が開けられる音と留美子の声が同時に聞こえた。幼少時代の自分がよく読んでいた本が納められている棚を見ていたアサガワは、後ろへ振り返る。
「何の用ですか」と冷たく言いそうになったアサガワだったが、それを堪えることにした。
「風呂でも入らないか」
留美子はそう言うと、アサガワはきょとんとしていた。
朝川家の長州風呂は広い。普通の長州風呂は二人までが限度だが、地元の製鉄工の職人に頼んでもらって四五人は余裕に浸かれる大きな釜となっている。二人なら、お互いに足を伸ばせるほどだ。しかし、大量の薪を必要とするため、この長州風呂は来客や知人を呼んだとき専用で、一人二人用の小さな長州風呂も置かれている。
「傷ばっかだ」
留美子は苦笑いしながらそう言うと、樽に溜まったお湯をアサガワの背中に流す。義肢を外したアサガワは左手と右腕がなくなっており、人の手を借りないと満足に生活できない身体になっていた。
「身体が資本だからね」
「ただの訓練だろう。どうしてこんな傷がつくのか、不思議に思うわ」
手ぬぐいでアサガワの背中を擦る留美子は、傷だらけの娘の身体を見て、難色を示した。
「右腕、義肢したのか。Gなのか」
「千早の仲間であるMAIDに、肩を刺されて。後遺症が残るため、右腕を義肢化しました」
そうか、と留美子は言うとアサガワの背中を拭いていた手ぬぐいを首にかけた。アサガワは両手がないため、留美子に介護してもらう形で釜へと入った。
二人が入ったことで、釜に入っていた湯が一気に外部へ溢れ出す。久しぶりに入るお風呂に、アサガワはうっとりとした表情でお湯に浸かっていた。
「怒っているのか」
留美子はそう言うと、アサガワは渋々といった感じで頷いた。そんな娘の姿を見て、留美子は天井を見上げた。
「真美、あなたは神速を持って何をするんだ。千早を殺すことによって、本当の意味で彼女を助けようとしているのか」
鋭い眼光をこちらに向ける留美子に、アサガワは何も言えなかった。留美子が言うとおり、彼女は千早を殺そうとしていた。MAIDとなって、その強大な力を人間に向ける千早。MAIDが再び人間に戻れない以上、アサガワは千早を殺すことによって、彼女を人間にしようとしていた。
「そこまでして神速が欲しいなら、明々後日の夜に真剣勝負をしよう。神速を真美が持つに相応しいか、そこで決める」
留美子の言葉を、アサガワは冷静に受け止める。強情な母から神速を譲るには、彼女に勝てないといけない。そうでなくて――千早を生かす場合も、留美子は真剣勝負を引き出していただろう。今までの母の言動を見る限りでは、それが一番妥当だったからだ。
「堅い話はこれまでにして。本当に良い湯だな、真美」
今までの表情とは打って変わって、のほほんとした留美子はアサガワにそう話しかけた。
アサガワは姿勢を低くし、鼻までお湯が浸かると、ぶくぶくと泡をお湯の中に飛ばしていた。
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最終更新:2010年11月03日 01:35